メニュー22 : 波動原理・ゼロ点効果の纏めサイト - 放射能除去法纏めサイト

波動原理・ゼロ点効果の纏めサイト - 放射能除去法纏めサイト
無数の除去事例や超常的現象、量子の共鳴効果による意識・社会・環境の改善
万物における波動情報の原理・作用・効果・影響・意味合いと形成・発展・永続化

量子(電子・陽子・中性子・光子・ニュートリノ)=波動(気)・ゼロ点(Zero Point Field)・電磁波・プラズマ・幾何学的形態・物質(珪素・量子水・酵素)・微生物・コイル・波動器具・波動農法や意識・言葉・パワースポットなど、波動原理の各種効果(超科学・超能力・元素変換・健康・意識覚醒・自然環境の浄化・森羅万象の好転)

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項目6⑯:波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い
森羅万象の形成・発展・永続化、意識・社会・環境の浄化・改善

芸術・文化と非本質性・反知性・社会的断絶
無思考・無感性と非調和へと誘導する社会的要因・集団的圧力
非調和・非統合と、世の中の事象の断片化・虚無化
経済・資本主義・貨幣社会の問題点
共存型社会=理想社会の前提


芸術・文化と非本質性・反知性・社会的断絶
  「個がない社会」に「文化・芸術の健全な土壌と発展」は存在しません。「自由な思考・感性と発露」が封じられる社会では、「感性・情動の表現」たる「文化・芸術」の分野全体が、それに準拠して縮小します。

そういう社会では「社会上層部や上位ヒエラルキーに提示された事象を、そのまま受け入れる思考法」が蔓延しています。「有名人(文化人・芸術家)」は、その構造に入っていって、気に入られないと、露出させてもらえなくて、売れません。拠って「有名人(文化人・芸術家)」「文化的な物・芸術的な物」は、「ムラの眼鏡に適った人・物」が多数が占めるようになります。現在のメディア・芸能界には、この構図が広く見られます。報道する事象としない事象、事務所の力、各種の横車、その他界隈の各種用語、それらはこういった構図の物です。

これは「日本と先進諸国の文化・芸術(近代的な)、メディア・テレビ、ニュース・芸能」などの差を見ると、凄まじいほどに顕著です。先進諸国では「近代芸術」についての場が構築されていて、その上で、テレビなどとの関係があります。テレビなどメディアは、日本ほどに消費主義・物質主義的で無いので、文化・芸術への配慮もあります。このような構造は日本では脆弱で、殆ど消費主義的・物質主義的なメディアに組み込まれていて、名義的に存在するといった感じです。

芸術・文化は「ムラの利益に最も適った宣伝広告物」に取って代わられて、それが常にメディア界の主役であり続けます。文化・芸術は、散在的に存在したり、メディア・テレビ界の有志・良心による幾らかの数の存在、といっただけになっていきます。これでは「しっかりとした文化・芸術の構造・環境・位置付け」は存在できません。その代わりに、利害関係と共にする「ムラ」が幅を利かせます。

先述の「ニュース・報道・サイトなどの傾向の差」は、「日本と先進諸国のメディアの差」その物を映しています。当然「文化・芸術」に対しても「メディアの存在形態を鏡写しにする力学」が働いています。メディア、特にテレビは、その国の様相(特に消費主義・物質主義の部分)が顕著に現れます。そして「日本のテレビニュースの特長」には、「時間の割りに情報量・報じた項目が少ない」「スポーツニュース・芸能ニュースの割合が多い」「バラエティー番組化(民放)・過剰な形式主義(NHK)、という両極端(何れにしても中身より、形式・カネを優先する思考)」という点があります。

現代日本の社会力学や大衆文化は、非常に「消費主義的・物質主義的」であり、これは先進諸国よりも、その度合いは有意に高いです。そのヒエラルキーの頂点に位置するのはテレビです。そしてテレビは上記のように、非常に「ムラ的」で、打算に満ちた「芸能ムラ的」な物に満ち溢れています。言ってみれば、現代日本を支配する最大の空気とは、この「芸能ムラ的な物」です。

現在の主要メディアの様相は「対象を低質化させていく装置」と化しています。「ムラ:閉じた枠の中で、空気の読み合う」「芸能:消費主義・物質主義・空虚」が合わさったこの空気によって、「文化・芸術」は強く浸透されていて、社会広範の一般的認識の深くまで浸透しています。

  「文化・芸術」はまた、「普遍性・本質性」「消費性」の2種類に大別できるでしょう。完全な「使い捨て的な文化・作品」を除いて、当然1作品には「2要素が複雑に内在している」ので、「どちらかの要素が100%」というのはありません。ただ、明確な傾向が存在する文化・作品は多数あります。

日本では、音楽楽曲の視聴について「流行っているから・みんな聞いているから」という理由が非常に多いです。これは「自己の内面性が無くて、外部基準を判断基準とする」という戦後に多く見られた観念の現れで、芸術とは本質的に「内的世界・世界観の自己表現」であり、その観念が一般的な世の中というのは「芸術性・感性とは対極の空気が強い社会」です。

日本の「ファッション・服装文化」は流行り廃りが早く、非常に消費主義的で、外面性が非常に重視されています。企業社会でも日常生活でも、その服装スタイルの選択理由は「流行っているから」「周りの目の評価の為」「決まっているから」という物が多く、何かしらの外部基準に最大の価値が置かれます。逆に「組織社会」では「みんな同じ背広・制服」で、これは「ドレスコード(服装規定)」で、自由主義諸国では最も「個人選択の服装」がし難い国の1つでしょう。結局「ファッションも制服も、他人と同様な事をするのを、社会的に要求されている」という事でしょう。勿論外面性も、周りからの情報・評価も大事な訳で、制服が必要な業界も多数存在しますが、そればかりです。これら様相は、要するに「中身・本質が無い」「外形的・外部基準依存的」です。

今日的意味の「芸能」について、所謂「芸能人・タレント(的な人)」などのカテゴリーに類する分野と看做す事が出来ます。芸能界は、メディア・芸能ムラ・事務所・スポンサーほか関係者が渾然一体となって、功利的な打算が蠢く界隈を形成しています。そして現代日本の「文化」の中心は、この「芸能界」です。「芸能界的」な物が多く露出・宣伝され、売られていて、「消費主義・物質主義的ヒエラルキーの頂点」にいます。

この「今日の芸能界的な性質」と「芸術・芸術性」とは、「本来的に全く方向性が異なる物」であり、「精神・内的世界・宇宙の具現化・表現」と「物質主義偏重」では水と油の物です。

また、日本国の最高の賞である国民栄誉賞は、事実上「芸能スポーツ賞」となっています。ネットの閲覧数ランキングは、上位が芸能ニュースばかり占めていて、その中でも、「文化・芸術的要素が高い事象のニュース」ではなく「芸能界のニュース」ばかりが多いです。総じて、現代の日本は軽い話題ばかりが、興味関心の的になっています。

こういった現象は「社会において、社会的・政治的問題の議論がされない、そういう土壌がない」「教育制度における問題点」という事の延長線上にあり、「物質主義・視野狭窄・皮相の焼け野原」「無思考・無感覚への社会的誘導」の光景が延々と広がっています(項目6⑪)。

  「音楽」を始め「一部の主流文化における最大の問題点の1つ」というのは、「文化・芸術(文化性・芸術性)と芸能界的構造が、全て一緒くたになっている事」です。勿論、本来ならばテレビ・メディアと芸術の良い関係・相互利益も普通に図れる筈で、そしてこれはバランス問題であり、文化・芸術も物質・カネも、上手い事バランスがとれるような構造を作り出し、それを「文化(音楽文化など)」とすべき事です。然しながら、従来はそういう物の割合は少数で、総じて「従来の一般的状況は、物質主義に偏重した芸能界的構造が、多くの文化・芸術の分野を覆っていた」という状況でした。

非常に多くの「音楽番組・文化芸術的な番組」「スポーツ番組」で、何故か芸能人がメーンに起用され、他にも専門範囲外の各方面で多数見られます。別に素養がある訳でも、知識造詣がある訳でもなく無く、更に「その分野の文化的奥行き・世界観とは全く異質」であるにも拘らず、方々にキャスティングされます。こういった構造もまた、先進諸国には見られなく、幾らかの番組等でみられるといった感じで、その程度なら適正範囲内でしょう。このことの意味は、「日本には文化的な土壌が少ない」「文化性・芸術性が少ない」「ムラ・消費主義・非文化性・低質性などが渾然一体とした現象」「そういうのを許す土壌がある」という事でしょう。

「文化・芸術・音楽」と「芸能的要素」を一体化させて、それを売り出していくという、日本の芸能界の基本構造の為に、「芸術性・芸能的要素」は常に軽視されてきました。それは、他の多くの分野についても同じです。「垂れ流して、無思考・無感覚にさせ、物を売る」という基本構図の下、セレブ・カリスマなどと空虚な記号が日々飛び交っていて、「現代社会は言葉が軽い」という状況を成しています。

この方式では、全ては「歯車・部品・駒・消耗財」と化します。その物や本質性・芸術性に価値が置かれている訳ではないので、「何にでも替えが利く駒」でしかなく、ムラにその選択権があり、界隈の手法・商法に沿った駒が選択され、時期が来れば交換されていきます。その有名人も周辺関係者も、そういう構造が分かっているので、その役割モデルを踏襲して、ムラの利害関係や権力関係を損なわないように気をつけます。

この構造においては、「芸術家・歌手」も、誰も彼もが、「御用学者」「ムラ御用達のお抱え人」です。閉鎖的に囲っていき、邪魔な存在は排除するので、ムラに都合の良い構造・人材だけが純化して残っていき、ムラ構造のイエスマン・従属者しかいません。これによって上記のような行為の数々を行えるとなり、それしか放送していないので、視聴者も慣れていき・麻痺していき、どんどんこの構造が広がりました。

この「閉鎖的に囲っていく」という点と、更には「これが行えてしまう」という点に、メディアだけでなく、日本全体の深刻な病巣が存在しています。これは「まともな意見が、徐々に封殺されていく」という「締め付け」による現象が前提として存在していて、この「締め付け」の前提には、「抑制された個による過剰同質性」があります。結局、教育などを始めとした日本の各構造は、その産物はこのような「空虚性」「皆で麻痺しながら低質化する現象」などです。そして、その問題の根源はあまり見ないので、酷い惨状が広がる現象面だけ見て、深刻な危惧を感じるか、まだそれなら良い方で、麻痺して何も感じないという光景も広がっています。

そして「芸術家・アーティスト」「歌手・ミュージシャン」「文化人」は「歯車・部品・駒・消耗財」となりました。「様々な文化・芸術・事象」は「無意味化・軽薄化・虚無化して、その物の価値が滅していった」となりました。この「強力な低波動化の力」の為に、朱に交われば赤くなるが如くに、「社会の各種構造が、自己崩壊していった」という様相が延々と続いてきました。

資本主義が行き着いて、消費主義と物質主義が支配する現代においては、主流文化は「消費性」の性質を持つ物が多数です。こういう情報は「その時代の情報だから意味がある」という物だけで、「数ヶ月経つと全く意味が無くなるような物」ばかりで、「数十年後にその情報に重大な関心を持つ人など、誰もいない」です。現代のメディアから流れてくる情報とは、殆どがそういう性質の物でしょう。

  ここから見えてくるのは、「その情報の価値は、時代性・流行性のみで、その情報の本質では無い」という事です。この種のファーストフード的な、垂れ流される情報の氾濫原が延々と続き、その中に本質的・普遍的情報が幾らか入り混じっている、というのが現代社会の基本的構図でしょう。その中で人々の耳目に入ってくるのは「"今"を消費し続ける生活様式の提案」ばかりです。

これでは、特に「自己の判断力や世界が確立されていない、子供・幼少期・若年層」には、普遍性・本質性という観点からすると、非常に厳しい世の中です。然し消費主義・物質性という観点からすると、非常に好ましい世の中でしょう。

曲が流行った時代のずっと後代に、当時の世代の人が再び好きになったり、若年層が好きになるという事柄について、そのような楽曲は殆どが「消費性の強い曲」でなくて、「普遍性・本質性のある曲」です。何故ならば「普遍性・本質性」は時代を超越する物で(Timeless)、音楽・芸術の本質を望むならば、どの時代の物だろうとアンテナに引っ掛かるからです。

逆に「過去の物という理由だけで、全て受け付けない」というような観念も強くあります。これは文化・物事に「流行性・消費性・表層性」を求める思考と、相反するからです。日本では「過去の曲=古臭い曲」との観念が強い物があります。そして「消費性・流行性」ばかり重視されるので、主流の音楽界・音楽シーンでは、何時まで経っても、まともに音楽文化が構築されません。この様相は、戦後日本の歩んできた方向を、非常に顕著に反映しています。

例えば、バブル時代に欧米絵画が買い漁られましたが、これは「最上位と位置づけられ、権威を持つ欧米文化」を至上とする観念で、ブランド品などと共に、言わば「威信財」「コミュニケーションツール」です。「最上位構造の欧米文化」「下位概念の流行性・消費性・表層性を持った文化」の2つを相伴う観念は一般的で、これらは全て「外部的な権威・価値基準で、自己の存在を社会的に位置づけたり、周りに認知してもらう事」という感覚による物です。これらの全ては「社会的位置付けを確保する為の道具」であって、「利用目的は、その本質自体には無い物」です。

日本には「伝統に連なる各種文化」「近年に日本で発展した文化」も多数あります。これらは正に「文化・芸術」と呼べる物で、奥深いような物から娯楽的な物まで、その中身は多種多様です。現代日本には、このような社会・文化の様相と、上記のような社会・文化の様相が、その「2種類が大きく断絶するように存在」しています。これは他国でも見られる現象でしょうが、上記のような社会における諸現象・側面を鑑みて、明らかに日本に顕著な現象です。

  では「何故、社会的断絶とも言える状況が存在するのか」という事になります。これこそが、先述からの「往古から積み重ねられてきた地霊」と「明治維新後・戦後以来の負の方向性」と「その二つの方向性の影響における、社会の一側面」です。

日本では明治維新後・戦後、この「2つの真っ向から反する社会的方向性」が常にせめぎあってきました。しかし近年は「地霊」が弱体化して「明治維新後・戦後以来の負の方向性の悪影響」が顕在化しています。「日本の近代や、社会の諸状況は、大きくこの"2つの方向性と影響"で説明される物」です。しかし表層の様相と異なる、水面下の基層(虚空間)の様相なので、殆どの人に気付かれぬままに進行してきました。そして現在はこの悪影響が最も顕在化している時代です。

そしてそもそもが、現代日本では「文化性」「芸術性」など自体が、かなり御座なりで、軽視されているでしょう。上記の点以外にも、色んな意味での「町並みの風景」にしても、「個の生活を無視する」と言う観念に基づく「長時間労働」にしても、戦後社会の力学は「文化性・芸術性」の方向とは大きく掛け離れていました。「自然発生的な内的規範に基づく公の意識」が妨げられ、「統制型・空気強制型の秩序規範」がジワジワ浸透して、そして「即物的な観念」が蔓延っている間に、何時の間にかこんなようになってしまいました。

地霊とは「精神性に連なる物」で、「普遍性・本質性の方向に存在する物」です。「明治維新後・戦後以来の負の方向性の悪影響」とは既述の通り、縛り尽くして、カネ・物など目の前しか見ないことで、精神性・意識・社会・意識を破壊し、全てを無意味に・虚無化していき、未来世代に不幸を齎す装置と化しています。


無思考・無感性と非調和へと誘導する社会的要因・集団的圧力
  近年の社会では「不文律・暗黙の掟・お約束」などの、「空気が認めたところの社会合意」が、「やっていい事・悪い事」「見逃される事・見逃されない事」を左右する基準となっています。この「お約束」には「非合理的な内容」を持った物も多いですが、それ自体が何らかの力学・権威と一体的なので、奇妙だ・異常だという感覚もよく持たれつつも、やはりそれが「お約束」として持続し続けます。

「漫画・アニメ」は近年の日本で発達した文化です。この背景には「他の各種の近年の文化(非伝統的文化)」に比べても、「(コアなタブー以外は)割と何をやっても良い」という「お約束」が、より濃く存在したからというのが挙げられます。「漫画・アニメ」は「海外作品」に比しても、「日本の他の各種の近年の文化(非伝統的文化)」と比しても、良くも悪くもかなり「自由度」が高いですが、この「自由度」は「お約束」と両輪として存在しています。近年ファンが増加していて、その理由として「内容・媒体ほかの自由さ」が言われますが。言わば「各種の締め付けへの忌避と、シェルターとしての価値」があったと言えるでしょう。

また「漫画・アニメ」も全部が自由さがある訳でもなく、その細部の構造・状況・場面では、不自由さが多い部分もあり、それは「当該部分には、自由さを許容する社会合意(界隈の合意)が無い」からです。先述の「NHKの化石的状況」「民放の消費主義的・物質主義的状況」「先進諸国のメディアの、この中間的位置」という対極に見られるように、日本では「力学・空気・お約束」が非常に重視されます。

「各種の近年の文化(非伝統的文化)」の多くは、「メディアムラ」における「そういう物・そういう物ではない」という「界隈の空気・常識」に沿って、共同作業したり、報道されたりする中で、そちらへと誘導されます。メディアムラで見られる「芸能界的要素」に纏わり、各所に芸能人がキャスティングされるのも、「そういう物」だからです。

如何に非合理的でも、空虚さに満ちていても、「そういう物」であれば、「日本の主流社会では、それが通るのが常」です。反論すると、面倒臭い奴として、排除されます。この日本に特徴的に見られる循環の中で、様々な分野が「非合理性・非論理性」「閉鎖性」「低質さ」「カネ・モノ・権威」という方向へ流れていきました。

  日本では「枠に嵌った思考」が多いと言われます。NHKも民放もその他各方面も、「自らの存在する社会的な枠」に対して、「その世界こそが世界の全てだ」「世の中とはそういう物なのだ」という観念を絶対視して、その外側を見ようとせず、見ても何の意味だか理解できません。その「社会的な枠と力学・空気の絶対視」によって、上記の各現象が発生します。

これは「論理的・合理的な論拠」よりも「既成観念」「閉鎖的因習」が幅を利かせて、「そういう物なのだ・だから受け入れろ」という「非合理的要求に従う同調圧力」があるからです。この「不文律・暗黙の掟・お約束」「そういう物なのだ・だから受け入れろ」というのは日本各所に見られ、「政界官界財界」「会社社会」「組織・ムラ」「教育」「同質性の高い集団・視野の狭い集団」「ネットのうちの、炎上・サイバーカスケードがよく起きる場」などに多数見られます。

こういった界隈では「内輪のみの定型的・類型的な行動様式・反応形式・作法・隠語・表現」が多く用いられ、「過剰同質性の維持強化」をしています。これは組織面から見ると「擬似的共同体への幻想による繋がり」、個人面から見ると「居場所確保・社会からの承認の為に見出した場での役割演技」とも捉えられます。何れにしろ「閉じた空間での、本来の自己と異なる行動様式」です。「何らかの意味を求めて、その場にいる」訳ですが、逆に「非本質的な無意味さ」があります。そして「麻痺しつつ空気に染まって、居場所を見出す」「そこから離脱する」という選択肢と、「社会的圧力・締め付けの状況」の中で、前者が選ばれていきます。

  そしてこれは「思考停止・麻痺」「無思考・無感覚」「従属」の成せる社会状況です。この環境では「議論場」「多様・自由な意見表明」に繋がるような物より、「如何に空気に染まるか」が重視されます。あまりに高い圧力と空気の前に萎縮して、その対処もあって思考と感受性を放棄、その社会構造の成員として従属して、今度は歯車として、その構造の拡大化に寄与するようになります。社会の上部構造では、この「負の循環」に多数が従属していて、麻痺してその問題性自体も分からなくなっています。そしてその状況は「行政・メディア・企業社会」などを通じて、一般社会に撒き散らされていて、このサイクルに従属する限りは、蟻地獄のような状況から抜け出す事はありません。

「思考停止」には「能動的な思考停止(自ら思考を止める)」「他律的な思考停止(思考停止を強要される)」「ある一定の範囲内の思考範囲しかない事(バカの壁)」「外部性による思考停止(驚いて真っ白になるなど)」があるでしょう。

現代日本の主流社会では、4番目以外は、それがより多く醸成・促進されるような環境にあるでしょう。何故ならば、この「高度に非合理的で、矛盾に満ちた構造」にとっては、こういういう「成員の感覚麻痺」がないと、彼らに疑問を感じさせずに従属させるのは不可能だからです。この社会k的構造は「大衆の感覚麻痺を起こさせる装置」があって、始めて存在し得ます。それらは総称して「空気」と呼びますが、より具体的には「メディアの洪水的・消費主義的・無意味な情報」「教育システム」「企業社会風土」等等です。

「誤った論証の形式」として「権威に訴える論証」「伝統に訴える論証」「新しさに訴える論証」があり、これはもう近年の「議論場の状況」「流行の成因」そのままです。「消費主義・物質主義」は「新しさに訴える論証」と同じ心象に発していて、「権威主義・全体主義」は「権威に訴える論証」「伝統に訴える論証」と同じ心象に発していて、これが合わさって「これらを抱合した、即物的で序列重視の思考様式」が形成されると考えられます。

「習慣」について、Wikipediaには以下のようにある
・個人的な習慣と異なり、共同体的な慣習は集団内部の方向性と均質性を保つため、
 成員に対し慣習の遵守を求めるとともに、
 違反者に対し一種の制裁(嘲笑・非難など)が加えられることもある。
・エミール・デュルケームによれば、習慣はそれが通用している間は、反省されることがない。
 習慣が廃れて初めて、反省されることになる。
・子供は習慣に固執し、暗示によって容易に他の習慣に乗り換えることから、
 子供のこの性質を道徳教育に応用できるとも考えた。
・一般的に、成人後、高齢になればなるほど習慣で行動する傾向が強くなり、その矯正も難しくなってくる。
・習慣を変えるのは一般的に困難なことだとされるが、ロバート・マウラーによれば、
 小さな控えめな一歩を継続することで習慣を変えたり、新しい習慣を身につけることが可能だと言う。

  ある場所・界隈・業界・空間において「キツイ・冷酷・封殺的」の言葉が多ければ、そこは何かしらの病巣を抱えています。またそういう言葉が無くても、「何となく雰囲気が悪い」という事は多いです。何故そうなってしまうのか、その非常に大きな要因として、「物事を認識する際に、先ず否定から入る事が多い」という事が挙げられます。「ある界隈で見られる、否定と肯定の表現の割合」は「その界隈の意識の性質」を明確に現します。

実際に現在の世の中には「否定的現象」が多いので、これを「否定的」に捉えるのは当然で、そのありのままの視点から、次の「疑問・改善案」が生じて、実際の「改善」に繋がっていきます。しかし「肯定的現象」「中立的現象」を「否定的に捉える割合が多い」のは、これは「意識の穢れ」「破壊性を帯びた波動」による物です。それらは明確に「社会・大衆意識の波動低下」による物です。

そしてこのような「否定が多い状況」は「幾つかの類型的な社会状況」を生んでいます。その1つは「息苦しさ・空気の締め付け感」です。日本社会と言っても、一億ニ千万人もいれば全体は多様ですが、個別場面は「規則・決まり事・合理性にかける慣習」が多く、例えば企業社会は正にそういう感じです。

元々は「寛容度」は割と高めの国であった筈ですが、明治維新・戦後以来の流れによって、幾らかの社会的場面では「寛容度の低さ」も目立つようになりました。また「経済的成功」は、「自国のやり方・慣習」について、「非合理的な部分がある場合」でも、無理に正当化するような意見も生みました。「自己責任論」もそれらの1つでしょう。

現在はネットに「否定的な言葉」が飛び交っていて、別に「中立的・肯定的現象」だろうと思う物にまで、鬱憤晴らしでそのような言葉が投げ掛けられています。またそういった言葉は「作法」としても発せられていて、これは「閉鎖的意識に伴うミーム」による物です。この「閉鎖的意識に伴うミーム」は、現在の日本のネットに非常に特徴的な現象で、他国よりもその傾向は高いです。これにより「内容ベースの議論場の形成」が成されずに、「無条件に全肯定・全否定する脊髄反射的な応答」「否定・肯定の為の定型的用語の羅列」「"論理を記載せず""レッテルを貼って、はい、終了"という思考停止ワードの頻用」「思考停止ワードを書く=相手への勝ち・論破・優位・叩き落し・敵認定、というような短絡的思考法」「論拠や内容が薄い論・応酬」が延々と、それこそ焼け野原のように続いています。これは正しく「戦後日本の議論場が育たなかった状況」の完全コピーの丸写しです。これにより「ネット界隈」もかなりの息苦しさが存在しています。

  更に、このような状況が先鋭的・純化的になると、「様々な調和的な概念」に向けても攻撃をし始めます。

「自然環境・大地・空気・生物・地球」などは「全人類・全生物・地球上全ての物の共有物(かそれに類する)」と言えます。また「相互尊重・互助・愛情」などの概念も同様です。これらは「世界的・地球的な共有地・共有財」であり、「共有領域・共有域」と呼べます。この「共有領域」こそが「人間や社会として最も大事な部分」「高度に維持・保護・改善・守って・大切にして・尊重していかなくてはならない部分」です。そして「人類社会の精神性・意識レベルをそのまま映す部分」でもあります。また「共有地の悲劇(コモンズの悲劇)」という経済学用語・法則があり、「多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって資源の枯渇を招く」という現象を指します。

しかし現代社会では、こういった「共有領域・共有域」は非常に「蔑ろ」にされています。これは「個利個略を選択するのが当たり前になってしまっている」「非調和的意識・破壊性」によって、「最も上位の公に属する概念・事象」よりも、より「中毒的な攻撃的意識」をくすぐらされる「序列的・上下関係的な概念が発生する事象」を、常日頃から優先的に希求する心理が高くなっているからです。「カネ・物質や、上位の序列を得るには、共有領域を破壊してでも、個人的利益を得る」という風潮が、世界中に蔓延し続けてきたからです。

特に「先鋭的なネット界隈」においては、これら「共有領域・共有域」「その状態への改善行為」に対して、「否定する・叩く」「完全にどうでもいい物とする・非常に冷笑的な表現を用いる」という言動が溢れ返っています。これらは先鋭的ではありますが、広く見られる現象です。これらは「共有領域・共有域」は、彼らが志向する「権威主義・全体主義」にはそぐわないからで、「最も上位の公に属する概念・事象」よりも「序列的・上下関係的な概念が発生する事象」を徹底的に優先させています。これは「意識面・精神面での、共有地の悲劇(コモンズの悲劇)」と言えるでしょう。

これは「社会全体が・世界全体が、自然環境や地球という物が、存在し得る背景となる社会的基盤自体を破壊する思考法」です。これは完全に「意識の劣化現象」「粗暴な利己主義」です。「丸でゴミ捨て場や掃き溜めのように扱うような言動様式」であり、これはその「対象物」ではなくて「発している意識自体」が穢れその物です。これは現代社会の深刻な病巣を端的に表している現象で、そのような社会がまともに存在できる筈はありません。当たり前のように「低意識だらけの状態(=低波動・破壊的波動)」になる筈で、実際に現在はそういうのが広がりつつあったり、野放しになっています。

そういった主張が通るのも、その根本的背景には「断片的な事象群や個別論理への拘り・重視」「最上位の根源的な普遍性・本質性を見ていない事」が挙げられるでしょう。「細かい部分への社会的要求度が不合理的に高い状況」だと、「思考・感覚の狭窄化」へと向かわせて、「断片的な認識・感覚」が主流となり、「普遍性・本質性への視点欠如」「無機的な感覚・状況」を齎すようになります。

  「日本の社会構造・教育制度」の特徴は、「非自発的・受動的」「自発性欠如・能動性欠如・主体性欠如」という点にあります。「受動的」だけならば、それは単に特性で、「謙虚」にも部分的に繋がり、問題はあまりないでしょう。

しかしこの背景には、先ず「非自発性・非主体性・受動性である事の社会的要求」という「根源的な問題部分」が存在しています。これが「同調圧力」を生んで、「締め付け・縛り・抑制」「非開放的・不自由」という空気になっている事が問題です。

日本には昔から「謙虚」という美徳がありましたが、これは「近年の欺瞞性・空虚さ・二重基準」などによって、「その心」が失われて、「形骸化したルール・作法としての謙虚さ」だけとなっていきました。

例えば日本のサービス業は「労働強度が高い」と言われ、そういった「大変な仕事状況」状況の中で、更に上乗せ的に「過剰サービス」が、各企業・社会風土により強制されています。一つ一つ見れば「素晴らしいサービス」と見えるかもしれませんが、そういった行為を行うのも大変です。

それらはまた、「貨幣経済が無くなったら、必要でなくなる仕事」です。こういった物の中には、「おもてなし」的な「心の篭ったという側面が多いもの」も多数ありますが、現代社会の消費主義的で歯車的社会においては、「同調圧力による義務的な、心の無い過剰サービス、不要な仕事」というのが特徴的に多いでしょう。ロボットが全部やってくれて、そこまでのサービスがついてくるなら良い事ですが、全ては「労働時間・生産性・総合的な幸福度(余暇等も含めた)」などとの引き換えに成立している物です。そしてこれらサービスは、本質的な意味は、あまり効果を成していません。「一つ一つの仕事」でなくて「そう仕向ける傾向」という観点においては、「合成の誤謬的に、労働強度の高さを醸成する物」です。

街ではやたらと宣伝の為の声や音楽が聞こえ、看板は野放図にどこにでも存在します。日本の街並みは汚いと、昔から言われてきました。これらは「より多く売る為の行為」ですが、これらが無くても、消費者はどこかで買います。「無駄な資源消費(輸入)・労働増加と余暇産業縮小」を考えると、「その程度の物での経済効果」は、在るか無いかも分かりません。でも確実に上記の点と「環境と街の非"美化"」「美観意識の低下(文化意識や芸術意識の低下)」「消費主義化・物質主義化」「風景の美観がある国との比較での、自国への否定意識」は齎されます。

他の各種状況を見れば、結局上記の「過剰サービス」も、要は「経済第一主義の延長」に過ぎないでしょう。これは「形骸化したルール・作法としての謙虚さ」で、「実質的な心」がないので、「自己中毒的な、要求基準が高過ぎで、大変過ぎて、息苦しい社会」と成らしめています。

  「非自発的・非主体的・受動的であるように求める社会的要求」はこれらの各状況で、「問題点への疑義を感じる背景となる自由意志の喪失」「疑義を言った時のムラからの不利益」などを招いています。そして、どこかで「何か変だ」と思いながらも、同時にそれ以上には進まずに「こんなもんか・仕方ない」と思って、そのまま受容・麻痺していきます。

例えば子供世代が「形骸化した過剰サービスの日常的光景」を見て、どのように育っていくか、これはとても肯定的影響があるとは思えません。「真の部分の規範・秩序の減少と、お仕着せ的な規範・秩序への囚われと、不合理さの受容と、思考・感覚の放棄」が続いていくでしょう。「当たり前のように、意味が薄くて、でも義務である行為が多く存在し、それが改まらない」という状況は、先進諸国ならあまり無いでしょうし、そんな義務は放棄されて、廃止されているでしょう。でも日本では「疑義は封印」されて、「そう決まっている」ので、延々と無駄な事を繰り返して、社会が疲弊していっています。「各種アンケートでの、幸福度が低いとの結果」というのは、こういう小さな点の、一つ一つの積み重ねであり、日本人はそういう事に「麻痺し過ぎ・慣れ過ぎ」であり、「自主的な判断力の喪失」をしています。

更に、このようにして「嘗ての日本の地霊・美徳」は「その真の心を失った事で、その多くが形骸化した、空虚さや欺瞞性を感じるような社会的作法に変化した物となった」という状況になりました。江戸時代は、街に笑顔が多かった時代と言い、そういった記述は多数あります。「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)」は、帰化した時に友人に「外国人たちはどうして、にこりともしないのでしょう」という質問を受けたといいます。江戸時代は現在よりも悪い点は沢山ありますが、同時代的には「世界的比較で素晴らしい点が多い」「幸福度は恐らく世界一」だったでしょう。それは「ごく普通に当たり前の事をしていて、それでいて幸せという社会」です。

現在の日本は、あまり笑顔がないと言われます。海外に中長期にわたり滞在すると、日本に無い自由さを感じると言い、街で笑顔で接してくるのがいいなという印象を持つ人も多いです。何時の頃からか、日本はそういう社会になり、海外の幾らかの国は、またそういう社会になりました。

  これは社会の空気による物で、それは「何となくの息苦しさ」でしょう。そしてその背景としては、長年の「非自発性・非主体性・受動性である事の社会的要求」という点以外には、何かの特段の可能性というのが見当たりません。やはり、これも結局は「個の抑制」「集団第一主義・全体主義的傾向」に行き着きます。

他の多くの事例においてもそうですが、「あまり他に特段の可能性というのが見当たらない」訳で、そしてその事例は1つ2つで無く、現在の日本の状況を映すように無数にあります。これは、、どう考えても「個の抑制や、集団第一主義・全体主義的傾向は、日本の長年の諸悪の根源」だとしか考えられません。これだけ答えは明白な訳ですが、然し長年の社会の状況や、社会上層部を始めとした根本的な思考法・やり方からして、非常に強固なまでにこうなってしまっている訳で、この徹底した自縄自縛といえる状況を、未だに抜け出せないのが現状です。

日本の近年の「社会の主流力学」「社会の中心で見られる様相」においては、「心」を失って、「カネ・モノ・力」が蔓延していったという状況が見て取れます。現代の日本は「おかしな事を、当たり前の事・決まり事として受容する」「当たり前の事を、決まっていない事として軽視する」という、あべこべな社会となっています。あまりに「主体的思考・内的判断基準」を失っていて、「非本質的な外部的要求・表層性」に囚われ過ぎです。

例えば家庭からのリサイクルに見られるように、現在も日本人は「個人」としては真面目な人が多くて、これは美徳でしょう。ただ「社会・集団・組織」となると、近年は既述の通りの状況で、色々な事にあまりにも思考停止してしまっています。現在はこの側面の方が、社会を動かす力学としては遥かに強く、早く修正しないと、更におかしくなって、完全に破綻してしまうでしょう。日本は嘗てのように「緩い社会」になって、「心の回復」が成されないと、絶対に幸福になれません。


非調和・非統合と、世の中の事象の断片化・虚無化
  波動は「高波動だと統合化」「低波動だと分断化」の性質を帯びます。また「高波動:低エントロピー:秩序維持・再構築」「低波動:高エントロピー:秩序崩壊」という性質があります。

人間は「物事の認識・勉強・記憶」などに際して「各事象を体系的に捉える」という作業を行います。「断片化された事象群」では「何の事・どういう意味合い」だか分かりません。そこで「先ず俯瞰して、潮流・物語性を読み取って、共通した性質を探る(論理)」となり、更に「意味付けをする(理論)」「それらの統合化(理論体系)」という行為が行われます。これを見ると「分断性→統合性という一貫した流れ」があり、そうやって大人も子供も、あらゆることに対して「認識が明確化」「事象・概念・観念を理解」していきます。

日本の戦後教育は「断片的な知識詰め込み教育」と言われ、これは非常に問題だと言われてきました。先進諸国では、概して日本よりは「考える力・応用的を養う教育」です。日本では「知識偏重・暗記重視」、これは「無機的・無味乾燥」で、「その事柄の意味合いや、勉強する意味が分からない」という感覚を生んでいます。先進諸国でも、どの国でも教育・社会に問題はありますが、「考える力・応用的を養う教育」という方向性自体は、「学習・物事に対する興味・関心を育てる物」です。根本的に「教育思想」と、「教育制度の存在体系」が異なり、更には「物事の捉え方」自体が異なっています。

ではどちらがより理に適っているか、上記「人間が物事の認識・勉強・記憶するに際しての、分断性→統合性への一貫した流れ」がある訳で、それは先進諸国の教育思想です。そしてこれは「個の抑制」とも表裏一体に存在しています。

日本の教育制度には「教育課程での規則の多さ・受験システム・学歴・就職予備校・社畜化」などに見られるように、「決まり事だから、そういう物・制度だから、それに従って行う」という様相が特徴的に見られます。これは「社会各種の硬直した構造に対しての、心理的な順化・麻痺・慣れを涵養する過程」と言え、「枠に嵌めた規格品の大量生産工場的」「無思考・無感覚のロボット的」と言えます。

この過程においては「分断化された社会の諸状況・事柄をマニュアル的に習得する」というのが主眼に置かれています。逆に、「人生・物事・存在の意味」「自己・個人・社会が成すべき事」のような大きな物を考え始めたら、こういう構造とは整合的に存在できないので、そういう「根源的・本質的・普遍的な事柄」を考えさせないように、「巨視的・俯瞰的・水平思考的な視点」を持たせないようにと、これは明確にそういう意図がなくても、何とはなしに・知らず知らずにそういう方向に向くように、大構造の大まかな制度設計はされています。

  日本には社会各所に「分断化された事象・概念」というのが存在します。「流行・時流が重視される事」「一過性・短期的流行の多さ」「メディアの報じ方(流行報道・事故報道・即時性への偏重)」「場の空気・組織理論が重視される事」がそうですし、これは「政界官界」「企業社会・組織社会(ムラに尽くす)」「圧力団体的な各種組織(影響力が強い)」「教育制度」において、先進諸国の様相よりもかなり濃く存在しています。

逆に「統合性に類する事象・概念」「普遍性・本質性」はあまり尊重されていません。上記以外に、「議論の土壌に欠ける事」「文化性・芸術性の低さ(近年のメインカルチャーにおける)」「主体性の無さ」などがあります。これは戦後、特に高度成長期終了ごろから明確化してきた傾向です。勿論それ以前からの流れが蓄積されて、その頃に顕在化した訳で、これは戦後日本のやり方その物に大きな原因があります。

例えば、その最も明確な例が「教育制度」であったりする訳です。これは「物事への分断的な認識論を育てる装置」として存在していて、「社会での分断的な認識論・状況・概念の蔓延」を招いた最大の存在となってきました。こういった社会・状況・認識論では「考える力・応用力の低下」「論理性・体系的な理解力の低下」「興味・関心・好奇心の低下」「視野狭窄・思考や感覚の範囲の縮小化」「無思考化・無感覚化」「主体性低下」「議論の質の低下」が進行します。

更に、社会において「意味合い・物語性」のような物が失われていき、「各種様相の無機化・無味乾燥化」が進行します。世の中は「無意味化・虚無化」して、秩序は「アノミー(社会規範の低下)」が進みます。この「物事への分断的な認識論を育てる社会状況」というのは、現代日本の最も根源的な問題点で、「こういう傾向を招く各事象」について、その在り方を徹底的に見つめて、直さないとなりません。

  日本は世界的に見て「医薬品・ワクチンの使用量が多い」「医療機械の数がずば抜けて多い」「認可された化学物質・遺伝子組み換え作物の数が多い」「世界一の遺伝子組み換え作物の輸入大国」です。「体に害を成す物の割合」「寿命・健康に寄与しない物」が多く、また添加物は無毒な物も多いですが、有害な物も驚くほど多数あり、広く使われていて、「人体に入る総量が多ければ、害が多い」です。

このような状況は「利益・利権優先」「常識・権威への隷属」「戦後の無思考化」が原因で、更に「近代的・科学的・物質的な物への妄信」があるでしょう。日本では「見栄え」「均質性」が重視されるので、添加物を大量に混ぜて大量生産された、長持ちする食品が沢山あります。食品は長持ちですが、自らの寿命は短くなります。

日本食・和食は体に良い物が多く、日本人は歴史的に菜食が多かったので、現在でも「菜食・海草」が適していて、これらを食べると波動が高くなります。肉食は「動物の負の想念」「各種有害物」が多く、日本人は欧米人とは胃腸の形状・形質が異なるので、波動的に適していないです。

現在の世界各国では有害物が、当たり前のように口にする物でも、体の中に入っていく物でも、環境に広く拡散する物でも、膨大に使われています。中には「明白な危険物」「効果が不明」「使用する経済的効果は無い・薄い」にも拘らず、認可されて、広く使われ、体内に蓄積している物もあります。現在は正しい事より、利益が優先される事例が多く、個々人がそういった被害に遭わないように気をつける必要があります。

現代科学に準拠するように、現代社会も現代医学も狭い部分を見て、対症療法的で、本質的ではありません。また現代科学に対応する社会事象は、その殆どが経済の歯車と化していて、更に意識の問題も相まって、過度に金銭的・権威的な性質を帯びるようになってしまっています。

逆に波動的な物は、本質的な物であり、本来誰でも有するありふれた物なので、手軽にできて、本質的な改善効果を得られます。金銭や権威を伴う物でなく、個人的意識に伴う物なので、何時でも出来るという点も相まって、気楽に行えます。

更に、無機的・分断的・断片的に存在する従来科学と異なり、波動原理は有機的・統合的に存在するので、他のあらゆる本質的・普遍的な、または深くて面白い事象と、或いは内面世界・宇宙と、無限に連鎖・共鳴していきます。結局この世は、このような方向性と、そうでない方向性の、2方向に大別されます。そしてそれは詰まる所、「意識の持ち様」によって決定されます。どうせなら有意義で、建設的である方が、低意識と関らないで済む方が良いと思います。

元々「健康・寿命は波動と一体的な物」「その殆どは、波動で左右される物」であり、上記事項は即ち「健康・寿命問題」ですが、健康・寿命を考えるなら波動を上昇させる事を考えるべきです。これは安価で、副作用がなく、目的以外のあらゆる効果も得られ、意識や各種能力も上昇、周りにも効果が波及します。そして心配したり、後ろ暗い点がない分、素晴らしい物であるでしょう。

  現代社会には「女性への排除の圧力」というのが厳然として存在していて、日本はこの観念が非常に強い国です。これは「権威主義や破壊性」に連なる「男性優位社会」が作り出したものです。硬直的思考法が生み出す「確証バイアス」により、実態に欠ける固定観念・定冠詞が与えられ、それを以って「ガラスの天井」を構成さしめています。

日本は社会上層部の女性人口や、女性の議員数が非常に低く、「国・社会の意思決定・統治」に関る部分に、事実上参画していません。居ても、大概はただお飾りとして配されるだけで、システムにとっての意味は体の良い「御用学者」と同じです。女性大臣は、毎度1人か2人、「目玉人事・清新さ」などという「日本社会に特徴的な意味を成さない欺瞞的表現」と共に、「軽量級とされる省庁の大臣」に就任します。そして上記にように、回転寿司人事で定期的な内閣改造でお払い箱、次の部品に機械的に交換されます。これが「公僕・選良」を自称する物の、基本的構造です。

「公器」を自称するテレビ局には、上層部に女性が殆ど居なく、ここにも体の良い「女子アナ」という歯車が存在しています。テレビ局的なシステムにおいては、これは「きちんと女性を重要な役に就任させている」というポーズたる意味を持っていて、しかし最重要の「意思決定プロセス」に関る部分には女性は存在しません。そしてこのような性質を有する機関が、日々日本中に情報を垂れ流して、「報道」という「大所からの伝令」を行っています。

社会上層部から排除されるという事は「お前らは価値の無い」と烙印を押されたという事です。そういう集団はどうなるか、努力をしても無駄なので低きへ流れる、これは古今東西の何処にでも見られる現象です。若し若年層女性が低きへ流れれば、若年層男性も、その行動原理から低きへ流れるのは、過去の世の中を見れば、世の常だと分かります。資本主義を極めた物質主義・消費主義が横行する日本では、相互悪循環で、こういった方向へ向かっていて、非常に空虚な感覚・情報が蔓延しています。こういう事をやっていると経年的に、結局は両性とも低きで合一する訳で、日本では若年層に対するそういう圧力があり、「これは日本社会が作り出した流れ」です。これらのやり方は、日本の長年の「従属させる社会構造」「愚民主義」と密接に纏わります。

この思想の根幹は「男性の権威は必要」「社会にはそういう権威秩序が必要」「これを否定するのは秩序崩壊で社会秩序を目指す思想だ」という論法です。しかしそもそも、その「秩序・権威秩序」というのが論拠を欠く物で、「権威に拠らない、しっかりとした社会秩序」が存在している社会・集団も多数あります。実際「日本の中心的な基層」である縄文社会もそうで、権威による格差も、争いも無い社会で、秩序は保たれていました。

  更に「低意識」とは、科学的に「秩序を崩壊させる最悪の根源」です。低意識は「低波動」であり、低波動は「エントロピーが高い状態」で、即ち「秩序の崩壊状態」です。低波動の下では「物質が崩壊する・花が枯れる・生命寿命が短くなる・カビなど害のある生物が増える・毒性の悪性度が増す」となります。論拠に欠ける秩序だと何だと言いながら、「実際にはこのような結末しか起こり得ない事」をやっているのです。

どんな事でも、「低意識を招く社会構造」というのは「必ず社会・意識の崩壊化をを招く物」にしかなりません。それを強力に推し進めれば、それで塗り潰されれば、必ずその国・社会は破綻へ向かいます。大体「低意識が高レベル状態を招くなど有り得ない」訳で、これは当たり前過ぎる事です。そしてこれは「科学的」にも明らかです。

現実を見れば、この思考法は上記のように「社会秩序を壊して虚無化させ、精神性に向かう切っ掛けを破壊して、意識と世の中を崩壊させていて、この思考法がこのような結果を齎す物」というのは明白です。そしてそもそもが波動の性質により、「低意識や破壊性を持った思考が、良い社会を作り出す事は有り得ない」ので、この作用・結果と流れは当然です。

そもそも現在の日本社会は「働かせ過ぎ」で、男性会社員の多くは長時間労働をしています。これは、先進諸国なら企業でトップを目指そうと言うエリートが行うレベルで、皆が強制的・自主的にやっているのは異常です。それだけ全てを捧げるが如くに働いて、既述のように、結局は日本は低迷・破壊されているだけです。本来は「男性は大幅に休暇が増やして、人生や家族・友人との時間を楽しんだり、個から発する内面世界の精神性を大切にする」「女性も同様に」というのが良いです。

日本には他にも労働慣習はおかしな点が多く、社会風土も相まって、高度に「組織」に従属的です。こういう物に女性は馴染めず、それを上級職に採用しない理由としますが、そもそもこの日本独自慣習自体が異常なのです。更には「大学生の就職試験では女性が優位に成績が高い」「女性比率が多い企業は、利益率が優位に高い」という点があり、これら客観的事実や、「男性も女性も人間であり平等」という点に対して、感情的拒否があるのみです。では何故こういう事が通るのか、それは他の問題点と同じで「個の抑制(意見が言えない)」「権威主義・全体主義(力ある物が優位に立つ)」「閉鎖性(閉鎖的なムラに多い・情報鎖国)」「非論理性(合理的論拠が重視されない)」などが原因です。


経済・資本主義・貨幣社会の問題点
  「経済優先主義」というのは、「均質性を志向」して、「多様性を否定」し、「合理性・効率性という名の、斉一性・全体主義」を齎す物です。その目的の経済的発展に限っても、先述の流れで「社会的活力を徹底的に減退させる」ので、何処かで破綻して、長期低迷に陥って、抜け出せなくなります。経済優先主義は確実に「意識と社会の波動の大幅低下」を齎し、長期低迷も齎すので、目的のカネも得られず、真の豊かさも得られず、「幸福感の感じられない社会」になります。「多様性や非主流的な感性・側面は切り捨て」られるので、「多くの文化や、地方は切り捨て」られて、「中央集権的な、ピラミッド構造的な社会」の構築を目指し続けます。

ここで「経済優先主義と全体主義志向が合一する」のですが、これは「自由社会における最悪の構図の一つ」で、こういう社会になるのは「破綻危機状況の現れ・警告」であり、軌道修正しないと、その国は歯止め無く低落、即ち破綻するでしょう。この「意識・波動の低下を伴う経済優先主義」に、真理も幸福も未来もありません。

貨幣経済という制度下でも、長期的にみれば、もっと上手く経済を回す方法があります。現在の社会は、本来は違法なサービス残業を始め、「不当労働行為、馬車馬のような労働環境、閉鎖的組織論の横行」が当たり前のように罷り通っています。そんな社会に嫌気が指し、少子化は進行し、不信と不安の社会の中で、老後への蓄えばかり増して、巨大な担保があるので、ザルのような財政や外債購入を続けています。既得権益が横行していますが、それは即ち「低質な構造」「不当利益により社会的損害を齎す構造」です。それらが解体され、滑らかに経済が循環されるようになれば、「大多数の既得権益者」も含めて、中期的に明確な経済的恩恵に預かれるでしょう。何故ならば「既得権益者も、他の全ての既得権益により、甚大な経済損失を受けている」からで、現状は自らの尻尾を食い合ってるだけです。

このような状態は、何の為の経済、社会、財政か、金か、その存在自体の意味が不明です。先ず、この労働環境を止め、休日を大幅に増やし、余暇産業・サービス産業を活性化する必要があります。例えば、本当なら数多の環境修復事業が求められていて、それを農林漁業や、余暇増加による観光業活性化などと繋げていくことは、割とすんなり絵が描ける構図です。要は、そういうのは「統制的社会」「カネ第一主義的」の方向で無いから、何となく忌避感があって、何となくやらないとか、その種の政官財の観念が阻んでいるのです。

非常に重要な事として「DNAは日々塗り替えられる」という事があります。これは「感覚・想念・笑い・言葉などが、DNAに記録される」という事で、これはDNAの95%にあたる「ジャンクDNA(実際にはジャンクで無い)」に収納されていきます。そしてそのDNAは子孫に受け継がれ、または周囲の人のDNAを変容させる効果も有します。

このことの意味・効果は非常に多岐に亘りますが、その1つとして、次のことが考えられます。「昔の日本は地霊が高かった」「近年の地霊は急速に下がり、多くの事象が破壊されている」「これは遺伝子にも記録されている」「このままでは意識低下に通じる悪性の遺伝情報が、経年的に増加して、子孫へ受け継がれていく」。原発事故で大地や海を凄まじく汚染して、それを子孫へ継承しようとしているのが現在の日本ですが、同時にその遺伝子や波動も継承されていきます。意識の低下の是認・開き直りというのは、それだけ救いようがありません。そして自らが気付くしか、自らを変える方法は決してありません。

また「経済優先主義」とは、即ち「無限に物を作り出し、売り付け、この循環が拡大していく事」でもあります。「金・経済の比重の低下」とは「精神と物質との均衡状態を生み出す物」、或いは「均衡した意識か、精神優位の意識下で生み出される物」です。そして「"足る・足りた"という時点で、"充分"とする観念」を生み出します。この「充足感」であれば、自然が無制限に破壊される事はなく、修復がされていくでしょう。同じく、意識・社会も破壊される事なく、修復されていくでしょう。

  「日々の悩みの原因」は「お金・経済問題」「健康問題」「人間関係」「その他」に大別されます。波動原理が一般化していくと、「健康問題」は概ね解消されていきます。「波動的に良い状態」である「調和性・融和性」を望むようになるので、「人間関係」も改善していき、また従来と異なる「波動を媒介とした、指向を同じくする人々の集まり(研究分野・趣味など)」が増えて、「多様な社会的受け皿」「属性・指向・趣味の多様性」が発展していく事で、人々の関係性が緩やかになっていくでしょう。社会制度が改善されていき、「社会の状態が齎す人々への様々な影響」も改善されていきます。「お金・経済問題」については、従来のような重視する考えは減少、「お金が少なくても豊かに生活していける」という方法の模索が広がっていくでしょう。

しかし「貨幣経済」という制度を採用している限り、その度合いは減少しても、「お金・経済問題」はついて回ります。「貨幣経済」というのは、単に「最大多数の最大幸福の為に、現在用いている手法」「代用手法があるなら、代用できる物」「従来の常識では、絶対的と思われていた物」であり、「永遠に不変で、代用不可能な絶対的手法」という訳ではありません。しかし実際は「波動原理の齎す効果」である「大幅な意識向上」「因果応報の強い観念」が無ければ、「何らかの手法への代用」は不可能かもしれません。

「大幅な意識向上」「因果応報の強い観念」が主流の世の中になると、「奉仕的な仕事への自主的参加」「仕事を有意義に感じ、働いていても気分が良くなる」「因果応報の観念により、何らかの奉仕や仕事への参加をしない事は、これを忌避するようになる」という状況になると考えられます。勿論これがすぐに起きるとか、10年後とかではありませんが、「長期的にも、こういう社会にならない」という論拠は「社会や認識論の歴史的な激変の変遷」を鑑みれば、存在しないと言えます。

こういう論に対しては、現在は「個人や社会・国などの幾らかは、成果だけ得るズルいやり方ばかりになり、成功しない」「それは理想だけど、人類が遥かに成熟しないと無理、現段階レベルでは無理」などの論が一般的でしょう。ただ認識論と社会状況の激変に加え、「どちらにしろ因果応報になる」「"意識の高低"が最大の価値基準の世の中で、"成果享受だけを目指す思考法"は、"意識が低い、科学的にも程度が低い"と看做される」となります。因果律からいうと、「成果だけ得る」「ご都合主義」「理不尽な言動」「優位思想」も、全ては「自分の為にならない思考法」です。

社会的に意識向上が続いていった場合、ある時期を過ぎると、そこから成長した子供達は「成果だけ得る」「ご都合主義」「理不尽な言動」「優位思想」などを持たなくなるでしょう。社会の激変は、初期はまだ従来の感覚も大きく残るので、社会制度の基盤には従来システムが必要です。しかし「個人的利益にしても波動向上が必要(健康医療・美容・対人関係ほか)」という上に、従来の社会の異様さ・キツさに気付き始めれば、そこに依って立つ人は急激に減少します。何故ならその社会構造を支えていた常識が崩壊するからです。後は泥舟からどんどん人々が逃げ出して、何れそういった過去の遺物は歴史上の物となるだけです。

  実際「波動原理の齎す認識論の変化」は「想像を超えるほど巨大で、全てが変わる物」です。「大幅な意識向上」「因果応報の強い観念」は必然的に発生し、これが「社会の在り方を規定」します。波動原理というのは、「人間・社会が本来どうあるべき」かというのを、考えさせたり、気付かせたりする物です。そして「皆が本当は知ってたけど、無視したり、忘れたり、出来ない物だと思い込むようにしてた」というのを、呼び覚ます物です。老子は「大道廃れて仁義あり」と説いていて、「人の道理が自然に行われていた昔は、仁義という人為的な道徳は必要なかった。世の道理が失われたから、仁義をことさらに唱える必要が生じたのである」という意味だそうです。「反権威主義的な業績を残した」「道教の祖で、仙人にも例えられる」そうですが、大哲学者の言葉は、物事の真髄を捉えています。「大道に回帰すれば、自然と成すべき事を成す」でしょう。拠って何れは、超長期的には、「貨幣経済に拠らない社会」「奉仕的労働を以って成立する社会」が実現するでしょう。

「貨幣経済が無い場合、世の中に存在しないだろう事物」というのは無数に存在します。勿論これは「今後、高度の意識下で達成されたら」の思考実験で、過去の貨幣経済の無い社会は、参考程度にしかなりません。「必要な物だけ必要なだけ作り、皆で分かつ」という社会形態の筈で、恐らくは「所有という観念」が無くなっていくでしょう。そうすると「物を大事にする」ようになると思われます。衣食が保障されているので、芸術的な物も含めて、「従来には無かった物・あまり造れなかった物」も多数作られるでしょうし、大勢が参加するでしょう。そういうのも広義の意味で「社会に必要な物」です。ただこの社会は、過去のご都合主義で、唯物思想に偏重していた共産主義と違って、「独裁性・特権性・頑迷さ・粗暴性・ムラ的部分・排他性が無いもの」「精神性(霊性・神性)・感受性・芸術性・個性・多様性・柔軟性・共存志向を尊ぶもの」であるでしょう。

「現代社会の無数の光景・仕事」について、それを「"若し貨幣経済が無い場合、こういう事は、この仕事は存在しているのだろうか"という視点」で眺めると、正に全く違った光景が現れると思います。更に「波動原理の下では、もっと高度に、簡単に行える事物・仕事」というのも無数に存在します。

人類の「集合知」のような「高い意識の上辺が自然に積み上がっていく構造」と、「必然的に大規模な無駄・非生産的事象を発生させる事のない社会構造」があれば、社会はもっと高度でありつつ、もっと楽で、もっと持続可能だったでしょう。従来~現代の社会は、壮大な無駄を生じさせ続けていていますが、それが資本主義・貨幣経済の名の下に、当然視・正当化され、そうあるべきだとさえされています。これは目的と手段を取り違えていて、カネ・経済が絶対的な価値観と成っています。そしてこの構造では、明るい未来という物が見えないのは、過去の経験から明らかです。心も環境も次々と破壊され、疲弊して磨り減って摩滅していって、何の為に社会が存在しているのか分かりません。

人間は「経験則・慣れの中で生きている」ので気付き難いですが、「本来は、世の中というのはもっと楽に、簡単に、高度に作り上げることが出来るもの」だと思われます。

「貨幣経済に拠らない社会」「奉仕的労働を以って成立する社会」においては、現代社会と比べ、次のような相違点が生じるでしょう)
・「貧困」「経済的不安」と、「これらが及ぼす、諸々の負の影響」が無くなる。
・金銭の為に割かれる「思考・時間・資源・仕事ほかあらゆる事象」が無くなる。
・金銭の為の意識低下・犯罪が無くなる。
・学歴システムが崩壊して、「新たな教育制度・学習環境」が造られる。
・組織や学校でなど、「理不尽な縛り」に囚われる事がほぼ無くなる。
・組織内などでの「負の関係性」が減少する。
・「労働力の最適配分」が起きる。
・「金銭・経済の為の自然破壊」が無くなり、ほぼ「自然破壊」の全てが無くなる。
・金銭・物質の保持量の大小による序列が無くなる。
・「所有」の意味が非常に低下、「共有」が一般的・大多数になる。
・知的所有権などによる囲い込みが無くなり、
 「集合知」が全人類や地球の為に、最大限に活かされるようになる。
 (これは非常に重要、従来の社会構造は集合知が活きる物ではなかった)
・「固有性」で物事が判断され、「精神性」が重視され、「本質性・普遍性」が社会の基軸に置かれる。
・「物質主義偏重」や、「過剰な破壊性」が無くなっていく。
・「自由意志による意識・思考・感受性の形成と行動決定」が成される。
・「調和性と共存意識」の下に、「相互扶助」が成される。

  「日本の文化・技術・開発品など」には、「国内で発生した物」「輸入物」「輸入物をアレンジした物」が多数あります。「波動関係の事物」についても、各種の伝統的手法や神道関連の物など「日本在来の様々な事物」が存在して、その上に多くの「在野研究者」「好奇心」「学級的性質」「オタク的性質」を持つ人が多数いるので、「様々な波動原理の技術・アイデア・製品」が存在しています。この「地霊」たる部分は、世界的にかなり高レベルです。

しかし逆に「世界でも稀なほど、様々に縛りつけ続けている」ので、この国の主流で見られる現象・事物は、現在の通りの惨状です。この天地のギャップは、世界中でずば抜けて随一でしょうし、また「元々の地霊の高さを過信し、自らは地霊と真逆の方向を見続けているという、世間広範に見られる潜在的心象」「更にそれが引き起こす、強い白け・諦念・空虚感」によって、日本は際限なく低落し続け、自らを破壊し続けています。

「日本の本来的な良さ(地霊)」とは、「統制主義的な思考法」「それに従属する物質主義的な、虚無的な観念」とは真逆の方向に存在しています。「現在の社会の方向」と「日本の本来的な良さ」というのは「完全に逆の物」という事です。長年かけて「本質性・普遍性」を蔑ろにし続けたことで、全く意味不明で、非常に視野の狭い「空気」「短期的なカネと保身」「空虚感」が、日本を覆い尽くすようになってしまいました。

広く知られるように、元々日本文化は自然への観念・感性が高い文化でした。しかしこの伝統的観念と逆に、近年は不要な公共事業でコンクリート漬けにするような開発が続いています。311後の原発推進は、環境の汚染を軽視する思考と一体的に存在する物です。多くの海外諸国では、他国の事故なのに原発廃止の世論が非常に高まりましたが、当事国の世論は現状レベルで、これは如何に自然と乖離し、物質主義に囚われたかの証左です。

これを変えるにはどうしたら良いのか、それは端的に「本質性・普遍性」「日本の本来的な良さ(地霊)」に立ち返る事です。それは「和・大地など、原初の本来的な場所への回帰」であり、「魂・精神性への回帰」です。このような方向は「開放的な社会・感覚」に近い物で、また、凡そ「良い物」というのは「開放的な社会・感覚から、多く生まれる物」です。そしてこれは、「日本の始原は、開放的な社会・感覚にあった」という事を示しています。現在の日本に必要なのは、他の何物でもなく、こういう部分です。


共存型社会=理想社会の前提
  「理想的社会とは、どのような状況であるか」について考えると、幾つかの想定状況がある
・持続可能な社会形態の、共存型社会
・精神性、調和的意識、普遍性、本質性を重視する。
・争いがなくて、平和。
・互いに相互尊重して、平等であり、上下関係は実質的には存在しない。
・自然が豊かで、環境汚染というものが無い。
・他の生物・自然も含めた、万物とも調和的である。
・意味の無い事に左右されない、関心が無い。
・カネ・物質・欲に、殆ど(全く)左右されない。
・必要な物を必要な数だけ作るので、資源も時間も効率的である。
・社会に有益な事や、他人の手助けを、奉仕的に行う。
・暮らしの中に楽しさ、喜び、幸福が多数ある。
・芸術性も重視される。
・縛りは少なくて、長所が伸ばされる社会。
・現代社会に存在する、様々な事物・観念の多くが存在しない。

  誰もが「理想的社会」を考えて、その実現にはどうしたらよいのか、というのを考えてきたと思います。ただ従来は恐らく、その考えのうちでは、おぼろげながらも、理想的社会を「与えられる物」と理解していたことが多かったと思います。なので「そんな物は、何処にも存在しないじゃないか」「やはり有り得ない」「意味の無いお花畑的発想」という感覚が大勢を占めるようになったのでしょう。

そうではなくて理想的社会は「意識を向上させて、築き上げる物」です。そして、それには「小さな事から、身近な事から始まって、遠い場所の事や大きな事まで、高い意識の下で、全てを透徹して思考して・感じて・判断して、そして改善していく」という作業の繰り返しが必要で、これを飽くなきまでに繰り返した末に、ようやく「理想的社会」が現し始めます。

考えてみたら、別に当たり前の事で、やる気になれば、割と簡単な事でしょう。今までは、この当たり前の事を、あまりの視野狭窄の前に、見失ってきました。気付けば、もうその時点で、壁は非常に低くなっていて、乗り越えられる物になっています。言ってみれば「幽霊の正体見たり枯れ尾花.」で、実体はそう大した物で無いのに、空気や雰囲気に流されてしまって、やたら巨大視・絶対視していたという所でしょう。過去の亡霊には、高波動は所在してないですし、魂や転生に資する事は何もなく、ただ高度な社会が達成される前段階に存在する仇花に過ぎません。それよりも、魂・転生や意識・波動向上や未来を見るなら、真理を見据えた方が良いでし、そこには永久的に不変不偏の本質性・普遍性があります。

何故、人は「勧善懲悪」の結末(物語・劇)を志向するのか、それは当然「善因善果」「悪因悪果」を望むからでしょう。実際誰もが、その初期はそう望んでいるでしょうが、大人になる過程で「実際世の中はそうじゃないじゃないか」という思考訓練が繰り返され、「すれる(擦れる)」という現象が発生、これで「利己的になる」「シニカルになる」「何事にも否定的になる」などとなっていくのでしょう。「善因善果」「悪因悪果」を望んでいない訳でなくて、元は誰もが望んでいるが、それは無理だと考えている訳です。

よく「人類は地球の癌だ」という自嘲的な言説もあります。これは「本当は地球と共に共生しつつ、人類も自分も豊かで幸福で居たいが、そうでない行為を人類は行っていて、(自らも流されてるが)時折心底嫌気がさす」といったような観念による物でしょう。人間誰しも「人類全体と地球・自然を含めた、総合的で高度な豊かさ・幸福」のような物を、元々(幼少期)は望んでいたと思います。

でもこれは、今は無理でも、ずっと無理だとする論拠は何処にもありません。現在が駄目なら、良い未来を作れば良いだけの話で、至極簡単な話です。「そんな簡単な話じゃない」というのは、数ヶ月・1年などの単位の話で、別に10年・100年経てば、近年の世界中の例を見れば、社会など幾らでも、それこそ全てが変わっていきますし、変わらない訳がありません。そもそも現代の社会状況を、100年前に想像できた人などいない筈です。だから、老後の為にでも、子孫の為にでも、そういう社会にすれば問題はないです。多数の人がそう思えば、そう思うような人が増えていけば、何時の間にか、全部変わっているでしょう。世の中の仕組みは、人々の意識通りに出来ています。多くの人の意識が高ければ、大体何事もどうにかなる物です。そうなれば、今現在の有象無象の煩わしい事も、一切おさらばとなります。

  「波動原理から見た、物事の基本的なあり方」について、次のように言える
・「波動原理」は、「森羅万象の発生・作用・効果・影響・意味合いに対しての、
 骨格のような基本的体系として存在」していて、「これに沿って全ては発現」していく。
・「波動原理に沿った事象」は、「生物や物質の寿命を永らえさせる」という性質を有している。
・「それら事象・概念・在り方」は、「調和性・融和性などの性質と一致」する。
・拠って、「寿命の長期化」と「調和性・融和性などの性質」は、「方向性として一体的に存在」する。
・「生物・物質の寿命を永らえさせる・長く保つ」と言うのは、
 「生物・物質の最も基本的な要求事項」である。
・「人や社会の意識・認識」も、その基本部分としては、
 この「調和性・融和性という骨格に沿った物」が、「妥当な位置であり、陰陽の中心的な位置」である。

個人レベルでは、他人に迷惑が掛からない限り、ちょっとばかし基本を外れるのも一興で、それが人生に多様性を与えると言えるでしょう。しかし「社会・国・世界」という「大きな存在・レベル」となると、全く違う意味合いがあり、「大きな存在・レベルという物は、個人の思考・感覚・言動・判断基準を、否応無しに規定・処断する」ので、「社会・国・世界が、骨格的な基本状態からズレているのは、誤っている事」です。「社会・国の様相は、多様性があって然るべき物であり、同時にあまりに外れ過ぎずに、ある程度の範囲内に収まるべき物」でしょう。

「社会の問題点の根源」とは「意識の高低」に帰結します。「量子=情報=意識的な物」なので、結果として「意識の低さ」=「波動の低さ」となります。そして「低意識の傾向」は、次のように類型的に別けられます
・物質主義偏重、金銭至上主義、欲望の過多・押し付け。
・攻撃性、破壊的傾向、非共存的思考。
・無関心、自分には関係ないという感覚。
・硬直性、非柔軟性、視野の狭さ。
・権威主義と隷属志向、序列・上下関係を重視する。

「意識の高低」は、社会を次のように導きます
・「高い意識」は「高波動」を帯び、「低エントロピー」「秩序維持・再構築を促す」という性質がある。
 「高い意識」を持つ社会では、変遷を経ながらも、中長期的に確実に良い社会が実現されていく。
・「低意識」は「低波動」を帯び、
 「高エントロピー」「秩序崩壊・物質崩壊・寿命短縮を促す」という性質がある。
・「低意識」においては、「全体を真の意味で良くする・幸福にする」という観念に欠ける。
・「外形的な基準・序列」において、上位であろうする事に、重要な価値を置く。
・「序列が近い人・集団との序列争い」に執心する。
・「真の意味の幸福・良い社会を齎す諸概念」は、往々にして「外形的基準」とはそぐわない物である。
 拠って前者による社会形成を阻害する。
 また、この2つは両立も可能だが、例えば「短期的経済成長の重視」は否定される。
・「低意識」に沿った手法で、社会を統治しようとすると、社会全体が悪化・不幸になる。

  「意識」は「波動」を伴い、「言葉」は「言霊」を伴い、「悪い言葉」は「悪い波動」を伴います。「言葉の波動」は、「歴史的に積み重ねられて形成される」ので、「過去の用いられ方」に左右されます。例えば「否定的含意を持つ言葉で、用法の多くが、根拠に欠けるレッテルだった物」は、それは「使用した人」「使用頻度が多い集団」に、そのような波動の因果が返ってきます。波動原理が一般化すれば「善因善果」「悪因悪果」は厳然化します。でもその言葉が「事実そのままで、且つ、言及する必要がある場合」は、「悪因」ではないので、「悪果」も無いでしょう。「上品な言葉だけ使ってれば、波動が上がる」という訳ではなく、「面倒を他人に押し付ける」のは低意識なので、強い低波動を伴います。

「因果」というのは「社会を形作る要素」であり、人間の「(新たな)意識」も同じく要素の1つです。状況・未来というのは「因果+新しい意識+α」で形作られるとも言え、なので「可塑性」のある物です。あまり「因果が無い」関係にあっても、出来事(良い事も悪い事も)も自分に降りかかることがあります。それは、例えば「人間というのは、意図により諸行為を行える」からです。「因果律」においては、「自分が行った事」は「因果」となり、日々刻々と新しい因果が生まれています。因果は「人間同士の物」「事象同士の物」「人間と事象の間の物」があります。例えば悪い行いをすれば、悪い意識と因果が生じ、何れ自分に帰ってきます。こうして「善因善果」「悪因悪果」の「因果応報」がなされます。「情けは人の為ならず」のように、良い行いは、何れかは己に良い結果として返ってきます。

「意識の穢れ」とは「理不尽さ」「破壊性」「欲望重視の思考」であり、「自分側に都合が良いならば、何をしても・やっても良い」とする「利己的に偏重した意識」です。「穢れとは低意識で、科学的に存在する物」であり、これは「全体を不幸にさせる物」「自他とも、超長期的に不幸な方向へ追いやる物」です。良いも悪いも全て「量子・DNA・アカシックレコード」に記録されて、その因果で「善因善果」「悪因悪果」が齎されます。この原理は「宇宙とはそういう物」「始原時からそうなっていた物」であり、今更どうこう言っても変わる物でもありません。言ってみれば「天上界の法則」であり、悪果を忌避するならば、そういう行為を止める以外に方法はありません。

「己がそのような意識を持った」のは、他の誰かの責任など絶対にできなく、他ならぬ「自分自身が選択した物」です。全ては「意識」で、「気付き」から始まりますが、誰かが意識を変えてくれる訳でもなく、誰かのせいにできる訳でもなく、全ては己自身の全責任で、己自身で気付いて変えるしかありません。そして、意識というのはその人固有の物なので、誰でもやろうと思えば意識変革は出来ます。

「過去の社会の行いを無かった事」にしようとしても、何事も量子・波動・アカシックレコードに記録されるので、それは決して達成されません。恐らく、高次元の意識体は「仕方なかったかどうか」「欺瞞的に否定したか」なども含め、その意味する所を全て把握しているのでしょう。結局の所「否認すれば、隠せば、全て無かった事になるという、従来科学上の認識は誤り」「上塗りの行為も記録されている」という事です。

  波動原理が一般化すると、「集団ごとの過去の行為言動」は「反作用を以って現れる」ようになり、「反面教師的に、天に唾した行為が自らに全て降りかかってくる」ようになります。「従来社会の論理」である「やったもの勝ち」「低意識の循環」は終了するので、もうそのような行為は意味を成さなくなります。現代社会を見ても分かるように「集団意識の統制力は強い」ですが、「悪い意味の常識・空気が無くなり、低意識の循環を齎す構造が消える」ので、益々「低意識に基づく行為」がし難くなり、減少します。全ての言動の報いは、魂が存在する限り永久についてまわり、拠って、過去にも現在にも未来にも、事実と向き合うしかないでしょう。

「森羅万象の根源的原理に沿った、全ての事物の存在形態」というのは、「全ては統合的に繋がって存在していて、且つ対等に存在している」「全ては上も下も無く、ただ対等に存在している」という物です。拠って「対等性が無い概念・思考法」は真理に反しています。「他を押し退けて、無理に上位に立とうとする(才能などによる評価でなく)」「従属させる」「従属する」のは、全て真理に反しています。こういった性質を含む思想は、どの国・社会・集団の物であっても誤りです。

  「地球」というのは地球が主体で、「ありとあらゆる生物」が、その中の一隅を分け合って暮らしています。地球は「全ての生物・森羅万象」にとってかけがえの無い、唯一ここしかない場所です。人類というのは「地球の軒先を借りて生きている」のですが、しかし我が物顔で傲岸不遜に振舞っていて、「自然破壊」と「環境汚染」を繰り返しています。「地球・大地・海・自然環境・他の生物」に対して無視して、敬意を払わず、共存しようとせず、視野に入ってさえいません。人類は、単に1生物種というだけです。なのに何故そこまでしようとするのか、「万物との調和」「足るを知る」ということを忘れて、「利益と序列」だけに固執して、「地球や他の生物や森羅万象」に迷惑をかけ続けています。

「自然・自然破壊に関心を寄せない思考」は「人間以外を、あまり価値無い物とする思考」に基づいています。又は「他の存在(人・モノ・コト)を、関係ない物とする思考」でしょう。「非調和性」「破壊性」の方向であり、即ち「低意識」「低波動」となります。「物質主義」「利己主義(他を毀損しても、己を利する)」と親和性があり、「開発優先主義」とはこういう方向の物です。勿論、開発は必要であり、何事も適度なバランスが肝要になります。「自然や他の生物や万物との調和」の方向でない社会においては、決して波動が高くなることは無いので、開発の最終意図の「物質・健康・災厄減少などを含めた総合的幸福」には、永遠に辿り着きません。

「高い意識・高波動状態における意識」の傾向に「調和性・共存志向・融和的感覚」「自他の区別が少ない思考法」があります。これは物質では「融合性・界面活性力低下・親和性」などとなって現れます。この状態では「普遍性・本質性・客観性」が基軸にあり、「自分側・持論側の事であっても、他人側・対論側の事であっても、同一基準を以って物事を判断する」となります。それでもやはり、よほど仙人レベルまで達していない限り、誰でも自分側の肩を持ってしいますが、「類似の基準で判断する人は、客観的で、意識が高い」「全く異なる基準で判断する人は、非客観的で、意識が低く、理不尽である」と言えます。全体主義をはじめ、幾らかの思想には、後者の「自他を全く異なる基準で判断し、非客観的で理不尽」との傾向が明確であり、これはその思想が「非普遍的の物」「高い意識・高波動の社会では、ほぼ存在しない物」だと示しています。

「産霊・魂振り」「生命力向上」も「高い意識・高波動状態」「調和性・共存志向・融和的感覚」で現れます。こういった状態で始めて、「霊・魂」「感性」「健康度・能力」は活性化して、多くの人が幸福になり、「秩序維持・再構築」「技術進展」「問題減少」により、社会も活性化・改善されます。また、なんにしろ「あの世」には「カネもモノも権威も、絶対に持っていけない」「高波動と低波動は持っていける」「有象無象は無用」です。

  今後どのような経路を辿るにしろ、結局は「波動原理の一般化は、人々が内心・心底では思っている所の、低い意識と、それに基づく行為を無くしていく」「高い意識と、それに基づく行為が、循環的に続いてゆく」のは間違いありません。実際の所、これこそが「波動原理と、その一般化が齎す、最大の現象」でしょう。ともあれ「終わり良ければすべて良し」であり、そうなっていくでしょうし、未来も子孫達の暮らす世の中も明るいです。

「神・霊・神性・超越性」などは、一見「物凄く遠くの高みに在る物」に感じますが、実際は「皆の中に存在する物」です。そして「森羅万象に存在する物」「物凄く神聖な物で、同時に、ごく平凡でありふれた物」「全ての物と一体的に存在する物」です。それらは「意識・精神性・内面性・内的世界」とも称されます。そして全ての物には深遠なる世界が広がっていて、宇宙と繋がっています。多分「人・社会・星の発展段階」は「こういうことに気付く前と後で全然違う」「気付くと飛躍的に進歩する」のだと思いますが、「quantum leap(非線形の発展)」とはこういう事なのだと思います。言ってみれば「簡単なこと」ですが、だからこそ「皆の中に存在する物」なのでしょう。


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最終更新:2014年06月13日 07:02
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