メニュー19 : 波動原理・ゼロ点効果の纏めサイト - 放射能除去法纏めサイト

波動原理・ゼロ点効果の纏めサイト - 放射能除去法纏めサイト
無数の除去事例や超常的現象、量子の共鳴効果による意識・社会・環境の改善
万物における波動情報の原理・作用・効果・影響・意味合いと形成・発展・永続化

量子(電子・陽子・中性子・光子・ニュートリノ)=波動(気)・ゼロ点(Zero Point Field)・電磁波・プラズマ・幾何学的形態・物質(珪素・量子水・酵素)・微生物・コイル・波動器具・波動農法や意識・言葉・パワースポットなど、波動原理の各種効果(超科学・超能力・元素変換・健康・意識覚醒・自然環境の浄化・森羅万象の好転)

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項目6⑬:波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い
森羅万象の形成・発展・永続化、意識・社会・環境の浄化・改善

科学界による波動原理の否定と、社会的問題の共通点
  世の中の全ての事物・現象は科学原理に沿って存在、「その物だけが単独で存在する」のは決して存在せず、「ある現象が観測され、それが事実である」→「その現象を起こす科学原理が存在、同原理による現象は普遍的に全宇宙で現れている」「地球上全ての場所で、同原理に基く現象を今も起こしている"という事実も同時に存在する」となります。拠って不思議な現象・記事も「ふ~ん、そんな事もあるのか」という程度の物でなく、「各々が余りに重要な事柄を示し、宇宙の真理を示す物」「現象と宇宙の真理は一体的に存在する」と言えます。

世界各地に古来伝わる「気・プラーナ等の理論」は、「東洋医学など多くの伝統的手法の作用や効果を説明できる」「陰陽など多くの伝統的哲学・概念と同根」「伝承地域が離れているが、理論内容は近い」という共通点があり、「伝統的理論と"量子=情報の解釈論"は、理論的に符合する」と言えます。波動理論は「エーテル的解釈論・ホログラフィック理論」にも近く、近年~最新科学の観測結果には「"量子=情報"と示唆する・そう解釈すると説明し得る」物が多数存在します。この種の仮説は年々増加、その幾つかは「現代科学では説明不可能な古今東西の事象の発生原理の基本部分」を概ね説明できます。

「従来科学+α=科学原理の全て」とする「現代科学絶対論」は「過去~現在の数多の事象が全て存在しない」との前提上にしか成立しませんが、この仮定は根拠が無く、存在の全否定は無理があります。現代科学は無謬の如く言われるも、トンネル効果など「解釈論の時点・付け焼刃的な物」が多々あり、科学界最大のテーマの「超大統一理論」について、「超ひも理論も多くの事象を説明不能」「現代科学周辺にクオリアを説明できる物が見つかる気配がない」という状況にあります。ニュートリノは「他の物質・事象に影響を与えない」「宇宙の質量計算など、超巨視レベルでのみ意味を有する」とされますが、同時に潜在的な科学認識論に「科学・宇宙は、本来的には無駄無くできている」「全く無意味な物・事象が、超多量に存在・発生する訳は無い」という物もあり、拠って「宇宙の質量の大多数を占める基本要素・物質・事象が、全く無意味なのはおかしい」という感覚が起き、これは先述の「DNA中の9割以上の部位をジャンクDNA・無意味とする認識論、それへの違和感」と同様です。また「宇宙は本来的には無駄無く・高度にできている」ならば、「汚れた物質・状態があっても、それを正常化・浄化できるメカニズムも備わっている」と考えられます。

今後も「諸々の現象・手法・除染法の知見」「常温核融合など世界各地の新技術研究」は蓄積し、また「現代科学で説明できない事象が存在する場合」は「現代科学は多くの事象を説明できず不完全」「現代科学と別の普遍的科学原理の存在を強く示唆」となります。しかし現代科学絶対論は「これら全てを科学的に有り得ないという理由のみで否定」「だが古今の現象の説明理論の提示は避ける」「現実の現象を見ようとせずに完全否定する」という「非常に強引で教条主義的な机上論に終始」しています。

現在は「現象の説明理論は、多数の独自論が存在」しますが、科学の最上位原理は「森羅万象に関わり、全てを繋いでいる」「下位原理が複数あっても、それらはバラバラの存在ではなく、全原理が一体的に存在し、全てを包括する統一的原理がある」はずで、従前から言われるように「最上位の原理の基本構造は簡潔・明快・美しい・分かり易い」と考えられます。拠って個別ケースだけに適用される理論は超大統一理論足り得ず、「多くのケースで現象が発現する合理的理論」「全てを纏めて説明できる理論」が必要です。即ち波動理論は「世界各地の古来の理論や、支持する科学者が増加中の最先端理論と符合」「現代科学で説明不能な事も概ね説明可能」「理論と現象に一貫性がある」となります。科学では「分野の本格的な研究初期段階は、観測結果のバラつきや理論の試行錯誤が多い」のが常であり、「波動的解釈+科学理論(科学式等)」の本格化は最近なので現状は不完全ですが、今後「各論を統一的に議論する場の形成」「検討・検証されながら理論の発展的統合」「波動理論が体系化・高度化」していくでしょう。

気・波動の効果・現象は、量子の「見えない・認識し難い」「機械計測・観測が困難」「物質を透過し易い」「普遍的に大量生滅」「量子同士の感応で増加・減少・変質する」「人間の意識や外部環境に強く左右される」「遅効性」との性質ゆえに「定量化や完全な因果関係証明が困難」です。しかし「社会・学問・国・世界が普遍的真理に沿うべき」と考えるならば、先ずは多方面が共同検証しあい、判明した事を踏まえ物事を認識する以外にありません。

日本ではツボ・鍼灸は一般的で、これは経験的に効果を認識しているからです。欧米では長く非科学的だとされ、最近は代替療法として受容され、しかし現代科学では何故効くか説明できません。アグニホートラは「古来アーユルベーダでの体系化の歴史」「ペルー政府系の農学技師達の効果報告(項目2)」、アグニホートラ・バイオダイナミック農法は「数十年前に比べ世界的に実施者が増加」「高品質が必須なワイン・コーヒー農家・高付加価値作物の栽培農場で増加(作物や農場が高評価・取引価格が高い)」との状況にあり、アーユルベーダ・中医学全般は一般化しています。また世界各地の名水は「効果は微量成分による」と説明されますが、現代科学上では「その種の水に含まれる成分量では効果はない」はずで、「効果・普及度と従来科学上の認識の差」は顕著です。

  しかし「多数の事象・観測結果・論者の無考慮・門前払い・全否定」「客観的計測や共同実験・議論・検証等の建設的行為をしない」など原理主義・権威主義は強固で、存在を認めた事象へも無視か原理考察の否定が通例です。そもそも「科学思考不足云々」との言質は「現代科学は万能・概ねを把握」「数万年後の科学体系も大体同じ」との認識でなければ出ない筈ですが、その認識には何の根拠も無く、違う認識なら言動が根本矛盾しています。「科学的に有り得ない・物理原理に反する」との批判も、単に彼らの知識に反するだけで、何ら物理・科学・真理に反していません。「科学的におかしい」のでなく、「科学常識から見ておかしい」だけで、常識=絶対的真理との根拠もなく、ならば「更なる実験・考証で確かめるべき」です。

量子水・還元水素水・活性水素水を「科学用語でない・効かない・似非云々」と否定しますが、「酸化還元電位が非常に低い・酸化は悪く還元は良い」のは明白で、何が根拠の断言なのでしょう。「量子水・還元水素水・ゼロ磁場の水・水素カプセルの効果」「酸水素ガスの低温燃焼(項目6④)」はすぐ判明でき、「微生物の生態元素変換の閉鎖系実験」も短期で簡易に検証でき、「近年の炭素14など放射性核種の半減期縮小現象」が事実ならば放射能・量子力学の理論体系は根本的に覆され、最新技術でも運搬不可能な「バールベックの巨石」は他の技術体系の存在を強く示唆します。これら容易に指摘可能な点を自己認識・机上論のみで排し、類例調査・検証実験・実質的考察を全くせず、にも拘らず他の科学原理・技術を端から全否定するのは、完全に結論ありきです。大手検査機関の測定結果の否定は「宇宙の原理を遍く知り、機械測定値をも否定できる」との認識によるのでしょうか。機械測定値を否定するなら、仮に事実の場合でも、しかし事実は届かず、ではどうすれば物事を検証できるのか、そんなやり方では検証法など存在し得ません。これで何を以って思考・研究・学問と言うのか「検証法が限られた中世より遥かに酷い人為的状況」です。

「科学=真理の追究」「科学的思考=前提を廃した視点が不可欠」ですが、にも拘らず「科学的と自認する人達の思考様式は、自らの要求基準の遥か以下」「科学的思考・知識・リテラシー云々と声高に主張する人ほど、この傾向が高い」という異様な状況が存在します。科学を錦の御旗に境界論も含め扱き下ろすのに、何故逆の立場では非科学思考を押し通すのでしょう。気・波動の否定は多くの古来の主要理論の否定と同義ですが、では伝統的手法の原理をどう説明するのでしょう。「そんな物は知らない・無い・嘘」「我々の認識通りに起きる、だから実際の現象はどうでもいい」とでも思っているのでしょうか。たった今の認識論と沿わないから全否定とは何なのでしょう。その強硬論者の深層は「科学=絶対的な最高基準・真理・不変普遍」「同化=優越感・万能感」「これに近い・踏まえた自分らは無謬、そうでない者・思考は下等で問答無用に唾棄すべき」という「ある種現代的な強権志向・権威擦り寄り・特権意識・縦社会論理」でしょうが、初期感覚・研究心が変質してしまっています。

  これら事柄を「事実上主管する立ち位置の科学界界隈(内部・上層部・一般科学通の同調者)」には、「一線を越えると取り返しがつかなく大災害に脆弱との指摘を散々受けていたのに、独善的論理・権力構造を盾に無視・排除・叩き・ごり押しを押し通し、自己修正機能が無く、共同基盤構築による改善を否定し、自らの認識論・り方を絶対視して、最低限必要な善後策・検証さえせずに暴走して破局に至った原子力ムラ」と同じ力学が存在します。両者の"欠如モデル"の観念は「自己の無謬性と対論側の程度の低さが前提」「自分側の認知バイアス・誤っているという可能性への視点が欠如」「権威主義・全体主義と親和性」「国・社会の上部構造の典型的傾向と同じ」です。原発・核は「様々な意味で力の先鋭的存在」「父権主義の一部分の象徴」です。日本は「社会上層部の女性比率が異常に低い」「強固なガラスの天井という封建制・前時代性の残滓により国内が未だ分断」「女性の反原発派は男性よりかなり多い」ですが、事故後に米国務長官・仏アレバ社長の2女史が来日、日本側は男性のみという光景は象徴的でした。男性過多社会は不安定化し易いと言われ(戦争も起き易い)、原発には軍事という裏の意図が存在、常に利権・強権・暴力・閉鎖性・捏造・欺瞞など後ろ暗さが付き纏います。要するに原発は「極度の偏り・問題性に依拠した存在」「長年の日本の悪化要因群の中枢や硬直性と同一線上の物」です。

  原子力・原発の推進・温存は、以下の著しい不正義・非合理性と共にある
・何れ世界から原発は消え、日本には国土汚染が残る。
・罪なき子供・赤ちゃん・子々孫々が、悲しみと共に暮らす。
・先祖~子孫へ継承される国土環境護持の責任放棄、先祖・子孫への申し訳無さの無視、今さえ自分さえ良ければとの身勝手さ。
・生物・環境など人間以外が蒙った被害の無視。人間に被害が出る量以下の汚染でも、多くの生物には被害が出る(既に福島では生物種・個体数の減少や、個体の大きさの縮小が顕著)。人間や自然界の動植物の生存環境と地球環境は、出来る限り清浄であるべきで、大規模汚染・環境破壊の防止義務がある。
・物理的汚染度・被害の軽視、精神的被害の無視、中部以西も酷く汚染された事実は変わりない。
・平常時でも著しい環境破壊がされている。特に原発稼動時の周辺海域では、動植物の生態系の崩壊と、動物の異常死・異常行動が日常的に起きている。
・事故の死者ゼロ人というが、集計法が不確か。健康悪化・死亡の複合要因に含まれる可能性は充分ある(既にのう胞等が増加)。「福一周辺に取り残された人・避難者""社会不安・精神被害と目的喪失・経済悪化」等の間接被害の無視。
・「汚染・汚染された大地・そこに住む哀しみなどの感覚、以前の環境との対比感覚」等を、被害度の考慮要素に入れる事の否定。
・そもそも「事故後の健康レベル」は「事故後に行われたあらゆる対策(公的・私的の物全て・健康法を含む)の合算後の数値レベル」であり、即ち「事故の汚染度が齎す、健康への影響度」は、この数値レベルより遥かに高い。
・道端で山野草を採って食べるなど、もう全く有り得ない。現在の健康度は様々な行為・行為規制の結果である。
・ごく当たり前の日常的行為さえ出来なくなった精神的被害は限りなく甚大で、推進の論法は、このような全事象を無視している。
・経済やカネで換算できない、全ての被害を無視している。精神面・心の側面を完全に無視している。
・地域で昔から息づいてきた、伝統・文化・地域生活・助け合いなどの、その地域の全てを破壊して無き物にする。原子力とは、精神や伝統・文化や地域を破壊する物である。
・311後の事故・被害・原子力についての勉強量の多くは、その多くが不要・過剰な物であった。この時間・労力・心労などは、本来なら他の仕事・有意義・余暇な度に宛てられるべき物である。事故・被害・原子力が存在したがために、それだけの理由で、過去・現在・未来において不要な、そして経済には反映されない、数多の被害が発生した。
・事故・汚染による消して消えない強い社会不安。
・安心感・日本人である事の肯定感への決定的打撃(にも拘らず反原発を反日とする主張)。
・若し他国、特に関係が悪い国で起きていたら、その事故・被害度を洗いざらい指摘、様々な烙印を押す。然し自国で起きたら全くしない、それどころか問題は全く無いとする。このような徹底的な二重基準と、嘘・詭弁・意識の低さ。
・不安抑制の為に教育で事実を教えない(仕方ないが)、海外事故なら教える筈、この種の要素による客観性低下、バイアスの圧力蔓延。
・放射能や汚染・汚染地・汚染物への意見が事故前と現在で全く違う、国際的な平均感覚とも全く違う。事故前は安全性や品質を世界一気に掛ける国で、国産は安全の代名詞だったが、現在は以前と全く違う基準に対し、大丈夫だ安全だと連呼している(事実・通常感覚からの逃避・強弁・欺瞞)。
・マスコミの原子力関連の報道体制の低さ、ムラ・周辺構造の支配下にある、ジャーナリズム欠如と多大な悪影響。大規模デモを殆ど報じない偏向さ、そもそももんじゅ・常陽・六ヶ所の危険性は殆ど報道しない。
・温暖化防止効果の虚構。非効率さから温排水が大量発生、周辺海域の水温を非常に上げている。また温暖化・氷河期の循環は、南極氷床が原因と解明されている。
・既に起きた超過酷事故の無視、起こしても存在できる不正義、利権構造によるモラル低下。
・小規模事故は非常に頻繁に発生、ハインリッヒの法則の無視。
・過去何度も起きた「想定耐震基準以上の地震加速度・強度不足判明・違反行為」の無視・隠蔽。
・常にあらゆる危険性・悪状況を過小評価する(活断層を地滑りとするなど・何れにしろ超軟弱地盤)。そして安全安心と連呼する。
・他国とは全く異なる突出した立地の危険度(世界の地震の2割が発生・津波が国際語)。世界で最も危険な原発を多数抱え、頻繁に原発付近に活断層を発見、世界中で最悪の不適地。
・火山噴火・隕石落下・巨大フレア爆発(近い将来起きるとも言う)や歴史上の大災害など、様々な危険の無視・隠蔽。
・自然災害の危険性・破壊度と、人災の危険性・被害度を、推進派が完全に一緒くたにして語ること。同じく危険性・被害であり、同じ観点で語ることも必要だが、全く異なる観点や区分けして語ることも必要。
・海外なら絶対許されない立地でも、停止・廃止を認めない思考(浜岡等)、日本に存在する極端な非客観性を明示する。
・海外の全ての国は、高速増殖炉を、その超危険性の為に導入しなかった。しかし世界で唯一日本は、二箇所も稼動させ、廃止しない(もんじゅ・常陽)。これは他国と異なる、極端に歪んだ思考法・社会構造(特に政官財・学会の社会上層部)を示す。日本には原子力施設を運栄する資格は、全く存在しない。
・電力が途切れると安定化方法が無い、他の物と全く異質の極度の危険性。
・未知の危険性の無視、無数にある事は歴史が証明。
・高度な専門家が育ち難い(原発内の高放射線・忌避される業界・ムラの閉鎖性による人材難。素人作業員が多いのは常識)。
・日本での原子力発電稼動以来数十年で、柏崎刈羽原発・東海村JCO臨界事故など大規模事故寸前の事案が何度も発生。
・原発だけでも異常に危険だが、もんじゅ・常陽・六ヶ所再処理工場という、爆発したら世界が破局する物が存在する。
・事故防止・汚染防止・事故収束の技術が全く未成熟なのに超破壊的な危険性を持つ、もんじゅ・常陽は停止・廃炉方法が現在無い。
・福島第一原発の収束さえ出来なく、未だに非常に危機的。
・安全対策レベルが低い、免震重要棟など未整備な物が多い、多重防御化がされてない(再稼動した大飯にも免震棟・ベント施設はない)。
・技術者レベル・上層部のレベルと決定内容・伝達能力・個人意識・行動実行への圧力・震災等での被災レベルなど、事故被害度を決する決定要素中における、偶然性・不確定性の要素が大き過ぎる。原子力は事故後短時間で近付けなくなり、一つの決定的被害が大事故に繋がり易いが、机上では一定以上の安全網残存が前提で、だが事故時にそうなる根拠は無い。「福一4号炉の奇跡的な水流入」「免震重要棟の存在と放射能遮蔽ドアの破壊度」「複数原発が重大事故寸前」「道路状態と資材や要員確保」「事故時に爆発寸前の炉で天井に穴を開けるなどの作業要綱」などが示している。
・交通網の途絶問題。大規模な地震・津波・噴火では、広域・大規模・長期間にわたり寸断される。事故発生後の短時間で暴発する性質と、この問題点は決して両立し得ず、「現場の孤立の問題」は解決不能である。台風でも途絶は起きる、もんじゅも台風で孤立し、通信機能が途絶した。
・事故は起きないから対策無用という感覚。完全に思考停止した脳味噌で、危機対策など出来る訳がない。
・原発運営の資質が無い体制。東電は津波でタービン等が全滅する事を知ってたが、危険性認定になるので対策しなかった。所管官庁も同類で、危険性最小化・徹底改善の組織的意思自体が無く、犯罪・過失・資質等の次元では全く無い。界隈の建前と本音の間の欺瞞・無責任さが著しい。
・原子力ムラと周辺の癒着、利権・こね・しがらみで結び付き、客観性不在。
・事故の責任所在の放置、責任を殆ど認めてない。
・これだけの事をしてきた電力会社存続の為の運転継続論。資本主義で重大過誤を犯した物の退出は必定。技術流出を招くというが、余剰人員分に大した技術は無く、業界の構造改革・コスト削減は進む。企業のリストラ・外資売却は茶飯事で、より国に資するこれらを守らずに、低質構造の企業を守る合理的理由はない。債権・株式の無価値化も同様、過去の銀行破綻のように政府がある程度処置する必要があるだけで、時間と共に市場で消化、後々の国家経済に影響しない。存続は高コスト・非合理的構造の放置と同義、日本の典型的悪弊が現れで、その程度の組織が国の長期利益に資する事は無い。
・電力価格は世界最高水準、倒産・合理化・自由化の方が価格低下で国・経済に資する。
・実際に既存電力会社から乗換えて、大幅に料金低下した事例が続出。
・軍事的意図・事実やイデオロギーの存在・隠蔽、プルトニウム保持の隠蔽。
・「原発自体が軍事的脆弱さその物である」のを完全無視、無視するが軍事で推進する思考の支離滅裂さ。
・最終処理場など下流施設の不存在。継続使用すると使用済み燃料棒が累積、中間貯蔵施設・各原発のプールの余裕は僅か、更に危険性が増す。新設は莫大な時間・費用・労力と社会合意が必要で不可能。貯蔵施設がないのに推進する極端な無責任さ。
・原子力施設から出る、環境への日常的な放射性物質放出の徹底的な軽視・無視。人工放射性物質と波動が、近年の世界的な様々な病気・症状(少子化なども含め)の激増の大要因である可能性は非常に高い。放射性希ガスのヨウ素・キセノン・アルゴン・クリプトン85などは、通常運転においてどんなフィルターでも除去不可能、水の一種のトリチウムの除去は巨額が掛かるのでやらず、膨大な量の放射性物質が垂れ流され、環境に蓄積し続けている(更に、六ヶ所村・核燃料サイクル施設が稼動すると、日本中の原子力施設から出る年間放出量を一日で排出)。
・原子力施設以外にも約200箇所で劣化ウラン等の放射性物質を管理、火災・事故が頻発している。
・東電・中電が「自動回転し続けるモーター」の現物を目にしたのに、全く研究せずに開発者に突き返して非公開のままにした事から、仮に現物を突きつけられても、業界はフリーエネルギー・オーバーユニティーを完全に無視する事が分かる。「原発・既存枠組み・組織論」に固執、フリーエネルギー研究など、真にエネルギーの事を考えてはいない(項目2・項目6④)。
・事故以前から電力需要は先細るとされていた、余剰発電所の不要化。
・小規模発電・自然エネルギーの割合が年々増加する。
・何れ世界的に全廃される過渡的発電法、将来性がない湯沸し機に過ぎない。
・発電コスト計算法の大嘘、数々の要素を除外、現実と全く乖離した物でしかない。再処理・処分・高速増殖炉の費用除外。電源三法交付金・各種団体・諸々の研費用や社会的費用・人材が割かれる事など、隠れコストは膨大。事故被害額も含めた総計は、他と比較にならぬほど高い。原子力施設・研究が存在しない場合との比較計算はなく、運転継続は多重防御化など更に経費が必要。世界最高の電力価格は原子力を始め、無駄なコストの肥大化による。
・巨大利権構造の存在、最悪の構造の金のばら撒き・無駄な公共事業。
・「審査・検査・意見聴取・合意形成・利権・経費支出その他」、あらゆる部分に欺瞞・不正・粗暴さが蔓延する異常さ。「危険性に支障が無い部分は、出来る限り透明化・事実開示する」との観念はない。
・電力不足は欺瞞。"例年なら足りるが、夏の数日の昼間、僅かに部分停電か電圧低下する地域が出るかもしれない"程度の需要ピーク問題で、前もって当該時期だけピークシフトで対応すればよい。節電は燃料節約効果もあり、ピークにやや不足・切迫する先進国・工業国は多数あるが、国レベルの経済損失は無く、金額補償という手段もある。危険性と代替の一時的節電さえ否定するほど怠惰で、意識が金銭だけ。ドイツは閉店法で夜間休日は店が閉まる。最も厳しいとされる関電は2012年に大飯原発再稼動・火力8基停止をしたが、酷暑でも電力使用率は9割以下で他社からの融通も受けてない。
・社会全体の節電・埋蔵電力・ピークシフトの余力は非常に大きく、努力・呼掛け・インセンティブ・公的意思が全く不十分。
・早期竣工可能なガスタービンなど代替は多数あり、仮に再稼動しても来年以降は廃止できる。拠って翌年以降も電力不足するとの論は虚構、年内限定の問題で、意思・経済性等の問題である。
・実際に全原発停止しても、社会は通常機能している。
・経済面を語る時の「そもそも原発が既に超巨大損害を齎した事」「日本・日本産=安全・安心・高品質とのイメージの凋落」の無視。
・経済利益の論拠の薄さ。燃料費が年間1兆円増加と見られるが、GDPや外債保有残高等に比して僅かである(これには継続に伴う支出増加要因は未算入)。中長期的には経済損失効果が高まる(出産率や出産・結婚への動機の減少、国外逃避等も含む)。事故損害額/年割発生確率という計算式の無視、安全対策費激増など余り考慮してない要素が多い」
・片や経済的不利益を言い、原子力の無駄削減・リストラをせず、競争力が高くて円高で困ると言い、外債購入で競争力を補正し、だが減税しない、等々のマクロ視点での体制側の一貫性の無さと無定見(統合視野・国家インテリジェンスの不在)。
・経済・金は幾らでも取り戻せ、原発の経済効果分はたった今の僅かな差に過ぎない(我欲の分)。世界中の国家破綻懸念などバブル的・不確実・皮相的な物で、EU・米国・日本等の累積赤字は永続不可能、近い将来の何れかが破綻・連鎖し、世界的デフォルト・高インフレ・経済縮小・貿易縮小が起きる可能性が高い。そうなると原発の泡沫経済効果分どころではないが、こういった「強く想定される事象を完全無視する視点の異様さ・偏向・程度の低さ」
・経済面と異なり、超大規模汚染はたった一度でに不可逆で、子孫に過酷極まる禍根を残す(未除染の場合)。
・原発事故の唯一無二の人災規模。破滅的火山噴火でも無い限り、どんな人災天災も「国破れて山河あり」以下にならない、唯一原発だけは「国破れて山河無し」になる。
・日本人は一般的に、文化・言語・地位により自国しか住む場所が無い。
・これ以上の汚染地域拡大は国家国民の滅亡危機と同義。
・科学を理由にした推進論の、まやかし。科学分野は数多あり、原子力などそのほんの一部に過ぎず、国家的事業や巨額支出はされてなく、研究が行われてない分野が殆どである(科学以外の分野も含め)。何故原子力だけがそれを行う必要が、原子力=科学全体その物、原子力無しに科学は成立しない、とでも?
・文明を理由にした推進論の、まやかし。真の文明とは、精神面・心を大事にして、破壊性を帯びない物だといえる。原発推進を内包・称揚する文明とは、心・体・生物・環境を壊しても、カネ・権威・攻撃性を突き詰めていっても、問題ないとするような思考に直結する。それは在るべき文明とはいえない。原発廃止を内包する文明、この方がよっぽど文明的で、人間的である。
・原子力が存在する限り、上記の被害・可能性・懸念と共存しなくてはならない。原子力が存在しなければ、被害・可能性・懸念はなくなる。
・廃止理由(上記)に対する、存続理由(疑わしい経済利益・軍事・科学・文明)の極端な不合理・理不尽さ(古今東西最悪の不合理さ)。

  「原子力」という物について、先ず前提として「原子力施設やその事故というのは、他の全ての事象と全く異なる被害度を起こす危険性を持つ」「一箇所でも敷地に人が近付けないほどの過酷事故が起きた場合、極端な放射能汚染が広域に広がり、全ての原発が連鎖的に爆発する」「そもそも波動的には原子力エネルギーは、あらゆる状態を悪化させるという性質を持つ」という点があります。

そもそも「想定不可能と認定=思考範囲外」「だが思考に基く、事故の人為的封殺は可能」という「逆行の二律」は国語的に両立せず、「矛盾の語義・語源その物を体現した事象」であり、「この語義的な破綻論を主張するならば、対論側の論拠の弱さを幾ら指摘しても、それ以前に持論はその遥か以下」です。

「原子力施設が存在する限り、破局的災害の可能性は付き纏う」「原子力施設や核爆弾を除けば、人災の破局的の可能性は非常に少ない(人工地震などもあるが、原子力事故ほど破局的ではない)」と言えます。「大き目の地震や噴火などが起きるたび、毎回即座に○○地方の原発・原子力施設は大丈夫かなどと火即懸念する」などというのは、現代人は感性が鈍り過ぎているから軽視していますが、これは「極端に異常極まる社会的状態」なのです。原子力を止めるだけで、こんな事態にはならないのであり、こんな事は「人間の愚かさの現れ」以外の何物でもありません。

「全国18箇所の原発のうち4箇所で5回にわたり、想定地震動を超える地震が平成十七年(2005)以後に起きている」のですが、「この程度の精度の見解しか持ち得ないという事実は完全に無視して、然しながら"それが科学的見解だ"という錦の御旗を掲げて押し通す」「それ以上の地震・震動・被害は起きないとする」「それを高度に安全な原発と主張する」という姿勢は、理解しがたい物があります。「現在の科学的レベルはこの程度であるという客観的視点を持たない」という意味で、これは科学的思考でもなんでもないですし、それ以前に「事故時の影響度と、未熟な科学レベルを比した時の、それを推進する事の根拠なき傲慢)」は常軌を逸しています。そもそもこれらの「想定地震動の数値は、近年の地震から計算した物」であり、「地球の歴史上における巨大地震と被害という視点は皆無」です。

日本各地に「火山噴火に伴う被災が予想される原発」がありますが、「噴火や地盤隆起・沈降は、原発の審査に関して、殆ど考慮されていない」のが現状です。「地震被害については10万年単位で考慮する」という暗黙の基準があり、しかしこれは骨抜きにされていて、更に「火山噴火については数万年単位でも考慮されない」という、完全な矛盾が存在します。「火山噴火や地震の活動期は、数千年休んで、噴火後地震後に数百年間活発化する」という例が多く、「噴火予知連」などトップ火山学者の大多数は、「大規模な火山噴火の中長期的予測は不可能」としています。しかし原子力規制委員会は「大規模な予兆が起きるので、それにあわせて原発を止めれば良い」としています。これに対して火山学者は「予兆はあっても観測は不可能」としています。しかし専門家でもない規制委は「火山学者の通説と反対の意見を採用と、噴火被災の危険地域での原発の運転許可」を出しました。また「非常用のディーゼル発電機は、火山灰で吸気口のフィルターが目詰まりして 動かなくなる」など、火山噴火の影響は他の緊急事態と全く異なる物が多いですが、こういった事も完全に無視されています。こんな物は「科学的知見に基づく規制・議論」の訳がなく、単に推進の為のゴリ押しです。

「姶良カルデラ(あいらカルデラ)」は、鹿児島椀や桜島を囲むカルデラで、29000~26000年前に破局的噴火を起こしました。「鬼界カルデラ」は、鹿児島県南方の薩南諸島のカルデラで7300年前に破局的噴火、九州南部などの縄文文化が壊滅しました。しかしこれらの破局的噴火の後も、被災地域以外では人々は生き続けて、縄文文化は発展し続けました。2014年6月現在、最も早く再稼動するとも言われる「川内原発(鹿児島県薩摩川内市)」は、破局的噴火が起きたら即壊滅で、更に日本中の原発の連鎖的大爆発の危険性が大ですが、「姶良カルデラは資料が少ない」との理由で調査していません。また「そんな噴火が起きたら、どうせその範囲は完全に壊滅するんだから、対策してもしなくても同じ」とする言い分も多く、これは「将来の人の事など知らぬ」「後は野となれ山となれ」「様々な政治的主張をするが、実際には真の意味の"日本の・その土地の伝統の維持"の事など全く考えていない」「リスク評価をする気は無い」という事です。こういった思考法は、まともに論拠が存在しなく、あまりに多くの点が破綻しています。

また2011~2012年頃、世界的に「巨大な太陽フレア爆発」が数年以内に起きる可能性がかなりあるという、危険性の報道がされていました。これは起きると「電気回線などのショート」が発生して、世界的に尋常ならざる被害が発生、現代文明は長期的に持続不可能な状態になると言われています。しかしこの件が「日本の公的な原子力問題に纏わる場」で議論された形跡は皆無です。他の数多の事例を見ても、「原子力問題においては、非常に限られた論点しか議論されていない」という際立った特徴があります。

日本の原子力規制当局は、長らく原子力ムラと昵懇の関係にありました。そして原子力ムラは、多くの政治家や官僚、経済界と密接な関係にありました。このような露骨な構造は、諸先進国には存在しません。この構造の基で、他の全ての問題と同様に、原子力問題でも規制基準が骨抜きにされてきました。例えば「政府ガイドラインの文言に反する人事を行う」という事があったりしますが、若しガイドラインが法律ならば、これは「法に抵触する違法行為」です。このようにして出来た「慎重派を除き、推進派で占拠した原子力規制当局」により原子力問題の規制基準の作成・実施がされる訳ですが、これでまともに運営される訳がありません。これは正に、日本の戦後の政治構造や社会構造の負の全体主義の、典型的な一端を示しています。

原発の過酷事故を防ぐ為の装置に「コアキャッチャー(炉心溶融物保持装置)」があります。これは「炉心溶融事故(メルトダウン)の発生に備えて、原子炉格納容器の下部に設置し、溶融した炉心燃料を閉じ込めて水冷・空冷で冷却する装置」です。コアキャッチャーは、炉の付帯設備に大規模破壊が無いと、放射能の大規模拡散は防がれますが、破損があればある程度漏れ出して、また高熱なので弱い場所から漏れていき、冷却水喪失の恐れもあり、これでも過酷事故の危険性は充分残ります。しかし「事故時に人力がなくても自動的に冷却される」「配管からの水注入より事故に強く、冗長性が高い」「多重防護になる」ことから、「設備していない原子炉よりは、設備した原子炉の方が遥かに安全」です。これは仏アレバ社が特許を保持、欧州の多くの原発に装備され、欧州製原発を用いる中国の原発にもあります。しかし日本の全ての原子炉は、コアキャッチャーを取り付けていなく、規制当局が取り付けを決定する兆しもありません。これは一説に特許料を渡したくないからだとも言い、この場合はこの場合は安全性や責任よりも、カネが大事という感覚の典型です。「誇りが許さない」とも言い、この場合は同じく、非常に狭小な感覚を優先しています。日本の原発ムラは「安全設計思想(フェールセーフ)」が根本的に欠けていますし、「日本の原発規制基準は非常に低い」です。それでいて根拠無き「世界一安全な原発」との強弁を続けるのが、そしてそれを売り文句にして、再稼動しよう・新設しよう・輸出しようというのが、史上最大の事故を起こした当事国の言い分です。

原子力推進派には「軍事目的での利用・核武装論」を唱える人が多数います。しかし「原子力施設自体が、軍事的脆弱性その物である(攻撃に非常に弱い)」という事を完全に無視します。これは全く信じ難い矛盾です。あまつさえ「原発に核攻撃したら全世界から批判を浴びるからやらない」「ミサイルでは当たらない」などと唱えます。そもそも「超非常事態の有事を想定して核武装するのに、窮鼠が猫を噛まないなどと主張する」のは、矛盾の極地で、完全な詭弁です。「軍事を徹底的に最重視して、あらゆる危機事態を想定して、その危険性と軍備を主張する」「これをしない思考法を思考停止とする」のに「その際たる事態である原子力施設の破壊行為に対しては危険性を完全無視する」というのは、「中核的問題を徹底無視して、その周辺事態を徹底重視するという、論理性が存在しない極端な二面的行為」であり、これこそが「思考停止その物」です。「原子力施設にミサイルが当たらない保障」など、どこにもある訳が無く、そもそも当たらなくても「付帯設備の破壊や、作業不可能な状態になり、冷却不可能な状況になれば、原子力施設は爆発する」ので、全く論拠として成立していません。毎度の無責任極まる利己主義的言動であり、このような感覚は原発事故への備えを疎かにする思考と同一の物です。

また「エネルギー危機への備え」の理由にしても、「世界的又は東アジアでのエネルギー危機」が起きている事態というのは、それは即ち「戦争事態に非常に近付いている事態」「世界中が、東アジア全体が極端に緊張している事態」であり、正に「有事」です。この危機において最も危険なのは「原発由来のエネルギー分のエネルギー問題」の訳がなくて、「原子力施設の存在その物」です。この理由の論者は、原子力推進論者であり軍事推進論者である事が多いですが、これも同じく「完全に破綻した論法」です。

次のような思考実験が考えられます。
過去の日本人たちと、未来の日本人たちが、或いは彼らの魂が、現在の日本へ来た。原子力問題は、再び大事故が起きるかもしれないし、起きないかもしれない。彼らも現代人と同様に、結末を知らない。若し事故が起きたら、未来は更に過酷になり、日本で生活できないかもしれない。では過去と未来の日本人たちは、原子力の存続と廃止、どちらを望むだろうか。間違いなく全員が、廃止を望むでしょう。日本を未来を完全破壊する、非常に高い危険性を持った機械を、危険度を既知である装置を、経済などという(それも嘘だが)、たかが現在の僅かな仇花の為に、野放しにするような考えを持つ訳がない。原子力の存続・推進は、現代人だけのエゴだけで、過去と未来の日本人の思考様式と全く異なる物です。過去や未来の日本人は、又はその魂は、日本の自然や文化を大事にして、真に幸福な社会を築く事を望むはずです。そういった事に反する物は、如何なる物でも望む訳がない。原子力は彼らの意識から対極にあり、指弾される物です。要するに原子力とは、過去から連綿と続いてきた、未来へと続いていく人々の想いと、完全に異なる場所にある、非共存的意識の最たる物です。それを日本の為とか、お為ごかしにも程があります。

「子孫達には清浄な環境に生きる権利」「大人には出来得る限り清浄な環境を子孫へ残す義務」があり、「原発の危険性・日本での立地危険度が想像以上に深刻」と判明した以上、推進は「自分達世代さえよければ良い」「後代の事は知らないという保護責任・継承責任の放棄」です。経済論も「国際競争力への打撃との観点が主」「これは低波動社会における競争論偏重・序列重視・劣後への強迫観念の表れ」「理想より現実優先というが、その現実とは上記の不合理・非論理性」です。

政府と経産省は「エネルギー基本計画」において、原案の「基盤となる重要なベース電源」から「重要なベースロード電源」と変更しました。これは「誤魔化しの為に、わざと表現を分かり難くする・曖昧にする」という「毎度毎度で徹底した政界官界の愚民化政策の手法の一端」です。何故このような手法を多用するのか、それは「このような手法が横行させ、大衆に"なんか難しいんだな""お偉いさんがそういう難しい事やってるんだから正しいんだろ""よく分からないから自分には興味が無い""それより趣味の○○はどうなったかな・・・"などと思わせるように誘導する」「これにより特に若年層や政治に興味の薄い人は、更に政治に興味をなくす」「政界官界ほか社会上層部・既得権層が、思うように政治を左右できるようになる」という「愚民化政策」の思惑によります。こんな政官の低質な行動原理が横行しているのに、政治も行政も国も社会も良くなる訳は無いです。そして政官は既得権固執の為に原発に固執しながら、全く無意味な政治用語や美辞麗句で誤魔化しを続けて、成長だの何だのと言いながら、未来世代が生きていく国土を国を社会を滅亡の方向へ進めさせ続けています。

若し「外国との経済比較が無意味な社会(金・貿易等がない)ならば、原発稼動の意味もない」ので、推進は「非本質性・外在的・外部基準による理由・要求」「金銭・経済至上主義の弊害」です。「電力問題は主に需要ピーク問題」「埋蔵電力・節電余力・ピークシフト」「短期で完工する発電所建設」「ピーク時の節電では経済全体に響かない」との論を承知の上で、「反原発は代替電力を言わない癖に、との条件反射的レッテル貼りの繰り返し」「その上で危険性・汚染・運営体制等の議論を無視」「経済利益を前提上で主張しつつ、具体比較の議論は避ける」との傾向があります。「自動車・飛行機事故と変わらない」「(長期停止=危険性低下は当然だが)運転してもしなくても危険性は同じ」との論もよく見られます。「特定勢力・海外勢力・反日が云々」との典型主張もあり、これは「自分らが問答無用で正義で、対象を敵認定して封殺」「議論自体はどうでもいい」との粗暴な感覚です。上記傾向は詭弁・脆弱論拠その物で、「頭ごなし且つシニカルに言い、論理的に強度・世間的常識・現実思考と振舞う常套手段」「実際の主張の中身は非常に薄く、社会的議論を嫌う」「幸福・真の豊かさ・在るべき社会より、力・威光・金・国内外への見せびらかしの優先も明白」です。

「Environmental Racism(エンバイロメンタル・レイシズム=環境を通じた人種差別)」「Nuclear Racism(ニュークリア・レイシズム=核を通じた人種差別)」という言葉があります。「資源・核原料の採取・精製・廃棄による環境汚染が、先住民族の居住地域で行われることが非常に多く、世界の人種差別構造の典型例である」ことに対して、この事実の周知と改善の為に作られた造語です。それらの地域での汚染は、先住民族の問題なので、主流メディアはあまり報じません。そして少数民族には金も権力も票も無いので、圧力団体足り得なく、ロビー活動も大して出来ません。「核実験場」は「アメリカ:ビキニ環礁(太平洋諸島)・ネバダ核実験場」「ソ連:セミパラチンスク(カザフスタン)」「イギリス:オーストラリアやクリスマス島(太平洋諸島)」「フランス:アルジェリア」「中国:ロプノール(ウイグル)」など、少数民族居住地が集中的に標的になっています。大国における「核物質の鉱山・廃棄所」も、「アメリカ:ユッカマウンテン(ネバダ州)・チャーチロック(ニューメキシコ州)・アコマ(ニューメキシコ州)ほか」「カナダ:アサバスカ(サスカチュワン州)ほか」「オーストラリア:オリンピックダム・ジャビルカ鉱山ほか」「中国:チベット・甘肅省チベット族自治州ほか」など、少数民族居住地が集中的に標的にされています。

「世界で嘗て行われた核実験は、全てが先住民族の地域で行われた」とも言われ、これが事実でなかったとしても、大多数が先住民族の地域で行われたことは間違いありません。世界各国の体制側の構成集団は、不当にも先住民族の地域に自分達の罪科の尻拭いをさせて、それでいてのうのうとしています。「日本に輸入された核原料の原産地」も、多くは先住民族の地域であり、これにより「カナダのイヌイット」「オーストラリアのアボリジニ」などの「先祖伝来の土地が過酷に汚染された」のであり、飲食物も汚染されてしまっています。日本はこの共同正犯であるのであり、汚染者責任を負っています。

「日本の組織が製造した原子炉」が海外で重大事故を起こしたら、その組織は巨額賠償を払う必要があり、日本国・政府も「廃炉」「除染」「賠償」「その他被害修復の対応」をする必要が出て来ます。しかし「海外組織が製造した原子炉」が日本で重大事故を起こしても、事実上その国は責任を負わないと考えられます。実際に「福島第一原発事故」でも「米GE社とアメリカ政府・アメリカ国家」は、何らの「廃炉・除染・賠償・その他被害修復の対応の責任」を負わず、「多くの責任はアメリカ側にあるという議論」「アメリカへの批判の世論」は国内外ともに殆ど無く、謝罪もありませんでした。しかし若し逆の事態が発生したならば、「日本国・日本社会・日本人」はその責任を負わされて、在米日本人の生活は非難と不安により成り立たなくなり、多くの日本企業は事業縮小・撤退が相次ぎ、日本への超猛烈な非難がアメリカで起き、他の諸国にも波及していただろう事は容易に想像がつきます。何故こうであるのか、これは「日本人の無思考・過度な諦観・権威への隷属」「日本はアメリカの完全な従属国である」「アメリカなどに反抗したら、国が立ち行かなくなる」「日本は何事も不利なのだ」「この世界とは所詮そういう物だ」という意識によるもので、決して「その認識と行動が真に妥当・正当である」という意識に基づいたものではありません。原子力には、存在の前提としての「原子力事故発生時の責任体制の、国内外の・多国間の格差構造」が存在、それは「世界構造の犯罪的格差」の上にあり、形容不可能な重大な問題と犯罪性を持っています。

このように「原子力・核というのは、存在自体が人類の数多の甚大な罪科と共にある」のです。また原発その物より、「人間社会が作り出した原発に纏わる状況が、非調和・全体主義・権威主義・抑圧・独善性・欺瞞性・空疎さの最たる権化」であり、これは311事故後に、より明確化しています。"原子力は最悪のエネルギー""国・社会・賛成論者自体・子孫にカルマを生む"と認知されれば存続不可能で、社会の劇的変容の契機になるでしょう。

  「ネットの強硬な似非科学批判論者の殆どは原発賛成」という相関性もあります。傾向は科学界にもありますが、特にネットで顕著です。似非科学批判論者・原発賛成論者は、人工放射性物質の危険性・汚染被害度を軽視するという傾向も明確です(人体への危険度は未解明なので、認識が別れるのは当然ですが)。これらは「権威体制の防御」「正常化バイアス」「"科学は機械的・数学的な物、心は関係しない・余計"との認識による感情の機械化・無機化」「冷徹・無感情=理想→"冷酷・シニカル・ニヒルで行こう"という観念」「"脳内マチズモ(タフに見られたい・弱みを見せたくない・弱さへの侮蔑)"とでも形容できる感覚」「純化主義を招き易いネットの特性」等が理由でしょう。

「従来科学と異なる手法による効果的な放射能除染の、公的部門への提案」について、「公的部門による複数の追試と、検査機関の数値測定により、有意に除染されたとの結果が示された物」は多数あります。しかしその全ては、公的部門での採用に至っていません。これは途中で阻害されるからですが、往々にして「原子力機関」「原子力とつながりのある学者・教授」が関わっています。

 原子力は世界的な共同撤退が最善です。最悪の波動は「人間の健康・精神・思考・集合意識への悪影響」「環境・生物・物質への悪影響」「災害増加・深刻化」「悪性波動の累積効果」を齎し、事故の想定要因は既知の物だけであり、全ての未知のリスクを度外視しています。大地震が有史以来皆無でも撤退したドイツの判断は非常に理性的です(隣国から電力購入できる点を考慮しても)。翻って日本は「様々な象徴と化している」「硬直性・視野狭窄」以外にも、技術力など多くの点への自信過剰が判断要因となっています。しかし日本の"地霊(後述)"たる良い部分は、「長年の改善遅延・硬直性・偏り・不作為」の為に非常に脆弱化しています。そもそも「優秀だから問題など無い、何か起きても対処できる」などの闇雲な思い上がりは「優秀さ・地霊と真逆の物」で、この潜在観念が強い以上、大災害が集中する国で扱う資格はありません。脱原発など各種デモに対し、ドイツ規制当局は親和的、ドイツにおけるデモ・各種社会運動の状況と、公的権力の対処の仕方は、これだけでこの国は、かなりの部分において高度な国であると認識するに充分な物です。翻って日本当局は非常に封殺的、日本におけるデモ・各種社会運動の状況や、公的権力の対処の仕方は、これが先進国かと思うような次元の低い物です。ドイツはこれらの面で世界的に最も進んだ国でしょうが、日本は未だに全体主義に偏向し過ぎで、もっと「個・普遍性・未来世代」を大切にすべきです。人間は最初から全て分かっている訳でなく、経験から物事を学び、社会は改善していきますが、これだけの史上最悪の人災を起こしても未だに何も学ばないのは非常に非理性的です。

両者は「政官マスコミ論壇その他の周辺構造が持つべきフェールセーフ機能の低さ」「外部構造のオンブズマン的機能が働いていない」点も共通しています。これらの志向は「草の根的概念・民主主義的概念と対極の一方的関係性」で、「対話・相互構築・共同感覚・対等性の欠如、市民参加型の否定、非権威側の意見の蔑ろ(多数派でも)、強引・ご都合主義な解釈・手法、改善より持論強行を志向、御用学者の重用」が起き易く、「置き去りにされた人々の白け・アノミー(更にマスコミ等を通じた無能化)」を長期的に齎します。また「感覚・気持ち・環境・共存社会の軽視」「権威・物質面・経済的価値・競争論・力の重視」という明確な傾向もあり、然しながら「自己修正機能・統合的視点」が欠如、「経済性・合理性でも、特に長期的な潜在成長率の大幅低下要因」です。

例えば、以下の点が招く、直接的・間接的の負の経済効果
・長時間労働是認による、人々や社会の疲弊、出生率低下、
 レジャーやエンタメ等の余暇需要効果の消滅、趣味や学習や自由時間の減少。
・原発の非経済性を無視。
・電力会社等の給与水準と電力価格と不正義
・体制側が常に優位な社会におけるモラル・民度低下
・閉鎖・コネ社会の既得権や、非公正・非合理的な慣習の固執。
・不公平な徴税・税金支出。
・「女性社員比率が高いほど利益率が高い」「女性の就職試験の成績は高い」との有意の傾向と、
 社員率・上級職比率・給与水準が低い社会状況。
・外債保有残高の問題には「権威・支配構造への服従」
 「富裕国への税金贈答(国際機関への拠出金/存在力も含む}」という観点が付随する。
 これと逆に、国内には「高税率・長時間労働」の問題があり、その金をこちらに回せる筈である、
 「外債保有残高」と「高税率・長時間労働」は、政策として完全に矛盾している。

間違えは常に繰り返してしまう物ですが、「振り返り・俯瞰・対論への壁を設けない視点・漸次修正の社会的内包」がないと「過去前例・組織論踏襲への偏り」「適正状態から乖離」が必然的に起き、故に社会・国中の各分野が機能不全した現状に陥っているのではないでしょうか。勿論、"非権威側の人達"の方法論・説明にも問題・不十分な点は多々あったでしょうし、何事も批判・考証の俎上に上るのは当然ですが、バランス問題・全体論としてそう言えるでしょう。通論の信用には「社会・学問の各部分(機能・集団・クラスター)にチェック機能がある」→「故に正しい」という前提がありますが、実際は多くの分野で「思考や属性など多くの要素の偏り・前提ありきの結論・水平思考の欠如」→「チェック機能無効化」→「通論の誤り」→「妄信・原理主義・排他性」となっていす。個人個人は常識的でも「全体の同調圧力の強さとミクロ・マクロの両面を欠く単眼の視野による合成の誤謬」→「自家中毒的な純化主義」となるのでしょう。

  そしてこれは「論の正誤などの結果論」でなく、「基本的在り方・対峙の仕方の時点の根本部分の問題」です。日本では「非主流の社会的・政治的意見を述べるな・活動するな」「有名人・芸術家全般・芸能人はするな、歌だけ歌っとけ」という暗黙の圧力や「叩き・不利益・物言えば唇寒し・出る杭は打たれる」という閉塞状況があり、実際に社会的言動・活動をする一般人・有名人も少ないです。しかし人間誰しも意見・意識があり、それが人を人、知的生物を知的生物たらしめ、これを抑圧する合理的理由などありません。「行為・言動・芸術は思考感覚・心象・世界観の具現・体現」「芸術家とは表現者であり、表現は自己表現・訴求が第一義」「歌・舞台・言論など表現手法は当人が適した物を選んだというだけの二義的事項に過ぎない」であり、これを限定・規定をされる謂れはありません。この感覚上では「権威=追従すべき物・世界を規定する物」なので、国内のみならず「海外・世界体制の強者・ブランド・価値観・上部構造・支配構造への追従」も当然視、「ヒエラルキーの下位構造の中でのコップの争い」に固執します。これは公的権威のみならず「民間・在野・ネットでの地位獲得の為の争い」も同様です。また世の中から「社会的な活動・言動・思想」が減れば、「個と社会・環境・森羅万象の繋がりが切断」→「権威による正当化・抑圧・閉鎖思考だけ残る」→「必然的な社会的無関心・諦観・厭世や狭量・利己的感覚や皮肉的・皮相的風潮の蔓延」が起きます。自由闊達な思考感覚・意見・議論を封じ、一体何を求めてるのでしょう。「全員が同じ方向を向く統制社会・圧制・無個性化・ロボット化」が理想社会でしょうか、そのようなやり方で世の中が改善するのでしょうか。

全体主義的な人は古今東西・左右双方共に「対等な議論では劣位と知るので、粗暴な言動や権威・扇情への訴求を好む」「対象を問答無用に敵認定する為の大仰な用語の多用」「同類志向の人の暴論・威圧行為を称揚し、対論側には厳しい際立った二重基準(対論側の暴論・示威など以ての外で徹底弾劾、揚げ足取り的言動も多い)」という特徴があり、「平和・調和(和の概念)」「平等性」「民主主義的概念」を嫌います。全体主義的でない人は「主張の論点に沿う内容」が多く、「全体主義者は粗暴に論を繰り広げ、話し合いが通じない、議論しても無駄」と思っていて、ここに両者の傾向差が明確に現れます。これは戦争の解説でよく用いられる「非対称性」その物で、「低意識集団は、そうでない集団に比べ、非対称的に、低質言動を繰り返す」のは日常茶飯事です。そして世間もこの傾向は内心分かっていて、「全体主義者にどのような主張・行動をしても良いと勘違いさせる、問題発言・行動に対し世間が仕方ないと思ってしまう、世間的問題になり難い、不利益や粗暴な言動を忌避して議論・反論を止める」風潮を世界的に生み出し、この潜在的社会認識は「全体主義的集団の独善的なごり押し、これを利用する利益集団等の働き掛け、政官財の癒着・一体化」が放置される原因となっています。

近代日本は「個・自由思考の抑制」「集団思考・斉一性の重視」という国家的方針に強く統制されてきました。また「協調性を強く求め、美徳とする」としますが、これは飽くまでも「空気・組織・権威等への過剰同調・翼賛を求める」「協調との言葉の語感が持つ肯定的感覚でない」物で、社会上層部における「過剰同一性(思考・形式の金太郎飴のような同質性)」「非多様性(強度の男女格差・属性の多様性の欠如)」「因習的・ムラ的な組織論・思考法・行動原理」に端的に現れているように、「上層部・組織の力学」は「水平思考」「建設的思考・改善志向」「格差障壁の低さ」「森羅万象の調和」とは逆方向の物でした。そして「個と自由思考の抑制」は「自律的思考・改善志向・多様な感覚」を無くさせるので、「おかしな構造・状況への疑義・活動」「善性に基く改善論」の封殺に対し「決定的且つ最大の役割」を果たしてきました。

この為「個人的な意見表明活動をし難い」「常に個より、組織論による集団利益の方が勝る」「多様な意見・属性が封殺、典型的・類型思考が増え、視野が狭くなる」「広範な社会的議論や、これに基づく前進が起き難く、現状維持圧力・同調圧力が強い」「個が何をしても無駄だと思い口を塞ぐ、考えない方が・活動しない方が良いとする」「自主規制、出る杭は打たれる、周囲にあわせるという感覚が蔓延する」「何らかの権威に隷属する事で安住しようとする」「既存権威や既得権益の統制力が強い」「全体利益・在るべき状態・真実に反した組織論が押し広げられ易い」「社会が、各々の組織論で覆われる」「自己拡大と利益共同体の組織力学の下で、経済利益・消費主義に基づく物が喧伝され、金銭・利益と無関係の物が軽視され易い」「意見表明・議論・改革に、多くの運命共同体的な既存組織群から横槍が入る」「社会において、個・多様性より、既存の一部集団・特定意見の方が強い立場」との状況が永らく続いています。

また「権威主義」とは「上下関係重視・上か下かの思考」「強い位置に立とうとする思考」「強きに従う思考」「相手側の服従を要求する思考」なので、「論理・合理性」「感覚・精神」「建設的思考・改善思考」「非物質的側面」「非暴力性」「善性」とは水と油で、「非論理性・組織論・組織力学」「非精神性」「金と力」「示威的な事物・論理・行動」「力の見せびらかせ」と親和性があります。拠って「議論を建設的に行わない」「非合理的・一方的主張を繰り返す」「著しい非相互性(例えば対論側の過失は徹底唾棄、自分側の過失は無視、指摘されると怒る)」という特徴があり、「敵の敵は味方のような思考法」「ごり押しで押し通せばよい」「正しいか良いかは関係ない、兎に角自分らのやり方に従わせる」との感覚を持っています。

この状況で「社会上層部を始め、方々でのムラ社会形成・拡大化」→「如何に不合理・理不尽・無意味で、悪影響を招こうとも、ムラの因習に固執する・従わせる、従わないと排除するとの不文律の浸透」→「ムラ社会が既得権力化」→「個と自由思考の抑制」「意識・行動・改善論への重し化」という悪循環を蔓延させ続けてきました。結局「この力学・構造・循環」は、「社会改善」「人間同士や人間と人間以外など全ての調和」「あらゆる属性の尊重と格差撤廃」「持続的発展可能な社会の形成」などの「善性が発揮される社会」「在るべき社会・目的とすべき方向」の実現に何の役も果たさず、その阻止だけしてきました。

  先進諸国では様々な形での意見表明が「日常社会・街頭デモ・言論・市民活動・ネット、有名人や賞(例えば環境破壊大賞)等のアピール」を通じて頻繁に行われ、人々は意見は其々あれど「表明や活動を自由に行える社会自体」を是認、「社会はそのような物があってこそ良くなる、内包するのが必要だ」と考えています。それは広範なムーブメントを起こし、次代へのダイナミックな変革を促します。日本ではデモ自体の封殺や揶揄の声も多いですが、一般人は意見を不特定多数に呼び掛ける機会は無く、市街地の特定域でたまに程度で迷惑も限られています。しかし政治・選挙は街宣カーが喧しく、常時そこら中に貼られたポスターは美観を損ね、これは「名前を覚えさせるだけの目的」「全党が放棄すれば他の実質手段に変わる」「労力の義務的浪費」であり、しかしお上の慣習なので放置され、ここでも実質を欠き、主従逆転したあべこべの状況があります。そして日本では、昔は街頭インタビューでも持論がしっかりある人が多かったですが、近年は「ボヤけていて何も思考という物が無いような受け答え」が多く、これは「負の圧力と自主改革せずにきた事による経年劣化」が作り出した「内面と社会の空洞化状況」で、「形ばかりの民主主義体制・封建思考の残渣と全体主義傾向・社会広範での民主主義的概念の実践の否定」「個と自由思考の抑制・斉一性重視」という悪弊は「大衆の諦念・虚無感・関心範囲縮小による観客民主主義化や迎合主義」を齎しています。

 - (例えば「嘗ては出来ていた・許された・やる人がいた・やれる場があったが、近年存在できなくなっている事柄(岡本太郎・TIMERS(忌野清志郎)のような存在の出現、認められる事など)」は多く、「社会の在り方による、自らを小粒化・矮小化させる状況の創出」「状況・思考法の固定化・停滞化」が目立ちます。また「若年層は嘗ての音楽を全然知らない」のが一般的ですが、「昔の=古臭い=聞かない・興味ない」という思考形式が昔から強く、これは「芸術の本質性より消費財としての面の重視」「内的世界観による嗜好でなく空気への同化の道具、自己表現でなく非主体性の現れ」「流行だから・宣伝してるから・皆が聞いてるから、など表面的情報による判断」「分野・属性毎に蛸壺化と同時に全体主義的でもあり、全体主義的なのに伝統・文化が尊重されない」という風潮を示しています。この認識では全音楽は時代が経てば古臭い物にしかならなく、新しいアーティスト・楽曲も「直に古臭くなる物」という認識の下にあり、「邦楽文化は薄っぺらい物」「非普遍的で中身がない」「流行・時代性の価値だけ」との潜在的認識の下で、邦楽全体を低く見るという力学が強烈に働きます。この状態では音楽文化はまともに形成されず、「文化・認識の蓄積による温故知新の前進」「音楽家による邦楽聴取での題材探し」も行われず、いつまでも海外・洋楽の下位概念で在り続けます(分野の高度確立以前の物は技術や手法の蓄積度が低く、古臭いという観念自体はごく普通の物で、実際古臭い物は無数にあるでしょうが、あまりに古い⇔新しいという観点を絶対視し過ぎていて、型に嵌った固定観念に支配されている)。これを「本義を欠いたマスコミ・産業界・業界の在り様」「文化的側面・全体利益よりも、消耗品・短期利益・業界や企業の利益を優先する矮小化した感覚」が強く助長していて、「新しい物・新奇性・時代性・話題性・露出宣伝してる物・人工的な物・金をかけた物、だけが価値があるのだ」という如くの思考を植え付け、更にこのような楽曲は時代が経つと「時代性・新規性の消滅と本質性・普遍性の無さ」により無価値になるので、益々邦楽全体が陳腐化して低く見られていき、いつの時代にも「悪化が良貨を駆逐する」現象が強度に蔓延する状況を齎し続けます。先進諸国ではここまでの明確な傾向は無く、若年層が知っている嘗ての音楽は多く(TIMELESS・汎時代性という概念、アルバムのカタログの販売比率も多い)、古今の多様性から来る新機軸開拓・ジャンルのリバイバル・カバーも多く、芸術文化としての評価・研究・蓄積の体制があり、カレッジラジオ・ネットラジオなど、上意下達的でない草の根からの流行化という様式も確立しています。これにより「嘗ての邦楽は古臭い・懐メロと言われ、同時期の洋楽はさほど言われない(例えば90's邦楽へもそのような意見が言われ、90'洋楽への同意見は国内外とも少数)」「古い曲だけど云々という若年層のコメントがネット上で散見される」という奇妙な事態を生んでいます) -

 - (「動画サイトで、日本の著作権物の削除・視聴不可の処置が非常に多い」「(恐らく)世界で最も高頻度の削除」「邦楽・海外楽曲とも、日本は視聴不可・海外諸国は可能な事が多い」という状況があります。ストリーミング(音楽ネットラジオの事実上禁止)や二次的使用の禁止など、日本の著作権管理は突出しています。TV番組の中でも、例えば音楽番組など今後の収益(DVD販売など)にならないだろう物は多いですが、それでもわざわざ要員(=コスト)を配置して削除に精を出します。そして局に死蔵され、事実上日の目を見る事はありません。結局の所こういうのは、「権利があるから、行使しないと損した気になるから、行使する」「そういう物だから行使する」「空気・慣習に逆らっても特にならないから、別に関係ないから従う」と言ったぐらいの物でしかなく、収益にさえ逆効果であって、「何か建設的・発展的な意識の基に考えた結果」「真に意味合い・影響を考えた結果」などという様式は存在しません。

「メディアミックス的な各種サービス提供」により「ファンになる切っ掛けの場の創出」「熱さ・熱気を感じさせる」「関心・興味を増させる」「ファンとの相乗効果」を狙うのは、各分野で長年行われてきました。潜在ファン・大衆にも「入り口の場」「簡単に"その物"を知る事ができる場」「興味・関心を増させる・持続する場」は必要です。また波動原理上では「そのような場(動画サイトの高視聴数のページ等)」は、その存在だけで「ファン・熱気・関心・注目度増加」「肯定的な発展進化を起こさせる」「アーティスト・制作陣自身への好影響」を波動的に起こすという性質があります。「ネット・動画サイト時代以降」は従来と概念・認識・方法論が変わり、「興味・関心にネット・動画等の存在は必須」になりました。しかし業界は「最も自分達に都合の良い手法に固執」「自らそういう場を次々と潰す、そこからの発展性・進展・応用進化が起きない状況を創出」という思考に、丸で党是のように依拠しています 。このようにして日本では、大状況が常に後ろ向きに、芽を摘み続けるように、そして色々な事を諦めさせていくように進展していきます) -

 - (「動画サイト」「Google Earth」には、個々の問題は幾つもありながらも、大きくみて社会の役に立っているでしょう。これらサイト(業態)は、現行世界秩序の中で「他国に先駆けて行う事が許されている国」「許されていない国」があり、日本は後者で、これは如何に現代世界秩序が理不尽かを示します。また同時に、何でも雁字搦めの日本では、このような案が出てもすぐに潰されたでしょうし、実際「検索エンジン」の出始めの頃にそうでした。ただ「動画削除問題」は「本質的である社会や音楽・文化にとり、どうなのか」という観点で見る事が重要です。「音楽・文化・社会の全体の、ある程度の未来像・理想像」のような物があって、その全体像に対して、「二次的三時的概念の著作権をどう当て嵌めるか」という問題です。しかし現在の「組織力学第一主義による上下逆転の論説」が蔓延る日本では、下位構造を優先する「先ず組織」「先ず著作権」というムラ思考が横行しています。

「著作権は保有権利」「動画による売上げ減少効果」もありますが、現代は物事は大概「好影響悪影響ない交ぜで存在」し、権利固執より開放した方が「接触機会・応用進化の可能性」が残存します。そして結局は、何事も状況改善には「良い効果を齎す物・状況を進化させる物」を積み重ねるしかありません。業界は「(波動上も含め)こういう意味合いの事物」を全て削除、「そこから何かが始まっていく可能性・切っ掛け・端緒」を潰しているのです) -

 - (界隈は「草の根活動・創意工夫・新展開・新形態・新概念の創出への制限・敵対意識」「従来の思考法・業界の慣習への固執」が著しく、「諸外国に比した時の縮小化・後退化・ムラ化・低次元化を感じさせる状況」を自ら創出して、「新規ファン獲得」「古今の多様な音楽への興味関心」「音楽文化・多様な認識の蓄積」を無視しています。近年の状況の原因は各種ありますが、界隈の「文化創造」「自由な発想と障壁の低さによる各種挑戦と発展・応用進化」等の観点の著しい低さと、「類型化・ムラ化・業界力学の横行」「マスコミ・芸能等も含めた利権化・ムラ化・低次元の権力争い化」「視野閉塞・諦め・硬直化」が最大要因です。「過剰な物質的視点」「金・業界論優先思考」は「消耗品量産的な手法」「芸能界的手法の横行・芸能界化・低質化」を招きました。音楽界による「文化的視点(精神的側面)」「成熟文化創造(アーカイブ化等)」「多様な切り口・方法論の積み重ね」「ファンへの切っ掛けの場(作曲にように、Hook・サビを作る)」等の思考の欠如は、「奥行きのある文化度」「音楽その物の芸術性・文化性・楽しさ」「多様性・障壁の低さが齎す、手法・認識論・興味・関心の発展・進化・広がり」へと、系統樹的に進展する機会を自ら潰してきました) -

 - (「文化・芸術分野に関連する概念・力学」は、「文化・芸術:精神性・自己表現・世界観・尖った表現(キュビズムの様な"一部性質の極大化・表象化")・個・没入」⇔「非文化・非芸術的傾向:消耗品化・大量生産品・類型的な思考と手法・物質主義・芸能界化(所謂)・金や権威志向・ムラやコネ」という関係性にあるでしょう(左記物質主義は"物質性の表現性・独自表現度・表象化が高い物(=芸術・文化性)"は除く)。しかし界隈は「後者ばかりに傾いている(非文化的・非芸術的志向)」にも拘らず、「文化発展の為と謳っていた著作権という概念を主張(下段)」「自らの義務を果たさず、存在意義を考えず、権利・利益・組織論追求ばかり」というやり方に固執、その空気に支配されてきました。これら「文化性・芸術性・本義に則っていない在り方・空気・力学」に加えて「内面・社会の空洞化・類型化・硬直化」もあいまって「発展性・改善の無さ」を感じさせる状況となり、「全体の硬直化・悪化」「進展・改善事項の無さ」「存在基盤・文化的基盤の劣化・形骸化」「後退感」「忌避・白け」「ムラ的印象(音楽ムラ・芸能ムラ)・蛸壺感)」「非本質的な物・非普遍的な物・無意味な物との印象」「空虚感・陳腐感」を招きました。これらは上述・後述の「日本社会の問題点と全く同じ構造」「全く同じ悪影響」です) -

 - (「福一三号機爆発の音声付き動画を、著作権を理由に削除」「当該動画は少数の放送局のみ撮影」「その局は動画を放送しない」との状況があります。著作権とは「近年一般化した概念で、原初から存在した物でない(二次的概念)」「導入・説明に際し、公共の利益・健全発展を謳っていた」「社会合意に基き施行されるべき物」であり、拠って「公共・大目的・最大利益とは正反対の方向のやり方」は「導入の前提の社会合意や、本来的目的・在り方に著しく反する」「乱用・独善主義・最大利益の認識という広い視野に著しく欠ける」物でしかありません。「公が知るべき世界史上最悪事故の映像・情報を公開拒否する理由は存在しない(公的要素がこれ以上高い事柄は無い)」「利益や権利の相反が起きた場合、大衆・公共の利益・権利を優先すべき」であり、「"公共の最大利益の下位概念である著作権"を乱用する権利」はどこにもありません。また「公器との理由で、電波料等の莫大な各種利便を供与されている」のに、「公的事象⇔私的権利」との関係性において「私的権利優先を非論理的に主張」するのは全くの理不尽で、「自ら公器でないと表明・公的性質を放棄」したのと同じです) -

 - (これらは「権益強化が招く社会損害(が招く自己損害)」⇔「権益柔軟化が招く社会利益(が招く自己利益)」という利益損害バランスで、「両者の利益損害レベルが短期・中期的に同等と考えられる場合に、「前者の権益強化ばかりを選択する」という思考による物です。「後者の方が明確に優位の場合」は、即ち「前者の優位性を世間へ説明する論拠が少ない」ので「ムラも仕方なく後者に同意(前者ごり押しも多いが)」しますが、「一応短期的に社会利益が同等と説明し得る場合」は、後者の選択を「各方面へ徹底的に根回し(ごり押し)」します。これは古今東西行われてきましたが、問題は「日本上層部が永らく方向付けてきた・志向してきた"個の抑制・隷属化"」であり、これが「問題への疑義」「より良い方法を探る建設的思考・議論」を徹底的に封じさせてきました。「前者を社会・多数が選択し続ける」と「社会・思考のな硬直化・後退・退行」「社会構造悪化」を引き起こし、(先述・後述のように)これが日本を悪化させ続けてきましたが、「個の尊重や自由・建設的志向の方向性を否定し続ける」という「強固な組織論・ムラ・隷属思考の力学」は、「封殺された状況が当たり前・問題ない」と社会広範に思い込ませ、「諦める・仕方がない」と思わせ、それを常識化させ、「疑義を感じる心理・思考や各種改善活動を封じる」という強固な空気を戦後日本に一貫して作り上げてきました) -

 - (この感覚に染まれば「各種権益強化の自己目的化」「組織論に反する疑義は村八分」「思考・組織の硬直化・悪しき純化」「隷属化・ロボット化」「権威への同化・権威や斉一性拡大への能動的活動」が必然的に起こり、これが永らく日本を腐敗させてきた「空気支配という力学」です。そしてこれら傾向は「柔軟性の無さ・原理主義・過剰同質性」「ムラの空気の絶対化・事勿れ・横並び志向」「「非論理と非感覚の悪い所取り」「"何が善か・何を成すべきか・最大の利益や目的とは・使命とは"などを考えない・議論しない・無視」「個・水平思考の無さ」「世間・常識・組織・権威など"立場保障や意味付けしてくれる他律的基準"への過剰依存」という「日本における集団化した時の悪しき傾向」に直結しています。またこれらは「建設性・発展性・水平感覚の無さ」を強く感じさせ、「閉塞感・無気力・諦念・白けの蔓延」を招くので、「社会・国のどん詰まりへの転落」へと追い込んでいます。この感覚・力学は社会上層部・大組織に強固に蔓延しているので、これに染まってない「壁の少ない・個の尊重・調和的・建設的発展」を志向する集団は、今は草の根的にしか存在しません) -

 - (欧米という権威や消費主義の信仰であるブランド信仰は、人間も社会も大概模倣・比較から始まるので、キャッチアップの時代ではある意味当然の現象としても、それにしても余りに過度でした(国産ファッションの高度化・世界各国の文化流入・無国籍化などで近年薄れているが)。「画一的教育システムの産物の学歴信仰(これも近年低下)」「"一流大企業は格が高く偉くて云々"という企業格付け・序列」など、「分野内に多くの物が存在する以上、一つの物差しとしての序列化は現代社会では必然」ですが、「格の存在・格の参考・格の絶対化は其々別個の問題」で、ステイタスで判断する価値観は昔から根強い物があります。また「"OOの年齢層・世代は、こういう情報・行動・考え方をすべき""若いから・年齢を経たから、OOをしない・聞かない"というような型に嵌った類型的思考法」も強固で、「企業社会的思考による"仕事・企業論理のみで来て、退職後は全て喪失、役職で呼ばれない事に違和感がある"という話」も生んでいます。これら各所・数多の状況は、如何に日本に「固定観念・硬直的思考」「偏った集団思考」「形式主義」「権威・外部価値観への隷属」「評価基準の他者依存とアイデンティティー不在」「非普遍性」が酷く蔓延してきたか示しています) -

  日本の政治・マスコミ等は低質と言われ、「政治家の日常活動・権力闘争・利益配分(政策研究・実施と無関係の活動の多さ)」「官僚主義・官僚答弁(理想論や国民の不在、無謬性信仰)」「ニュース報道(形式主義・非具体性・タブー・その他様々な理由により、長時間の割りに内容が薄く、毎度同じ内容・トーク・感想・一般論の紋切り型。女子アナ=頷き役、偉い人=御意見番など、属性毎の役割固定化。各国のニュース・報道番組を比較しても明白)」等に如実に現れています。これは「権威・縛り・立場や左右・イデオロギー」を抜きに「水平思考・視野の広さ・論や人の関係性の対等性・論拠提示の双務的義務・言論や表現の自由を念頭に置きつつ、事実関係を基準に透徹して思考・議論・報道する」という「本質的土壌が欠如した日本の悪弊」により当該状況に至った物で、議論時において「具体性を伴う論拠・論点、広い視野・俯瞰」の両観点を欠く為に、「左右思想・政党・論壇」など各方面で「有意義な建設的議論と、発展的昇華による認識進展」が起きてこなかった日本の永らくの不毛な状況を齎しました。「まともな議論の場・垣根が低い広範な論壇」の不在と「意見表明を憚らせたり封じる圧力」の存在は、政治・マスコミその他「社会の上部構造」において「タブー、マスコミが事実をそのまま報じない領域の広さ、社会的議論で取り上げられない領域の広さ、一般に知らされない領域の広さ、自主規制蔓延、議論・報道・批判内容の偏り、何をしても・言っても無罪放免な分野・思想」を生み出していますが、ここまで現象は先進各国では見られなく(概ね壁が低く、封じたり自主規制させる空気が余りなく、取り上げない領域は狭い。問題発言・行動が多ければ、どの分野でも同様に報道・批判される)、如何に日本の抑圧性・閉鎖性・自己規制や偏りが歪かを示しています。更にこれらの空気を「本音と建前・二重基準・詭弁と無責任さのの横行・非本質的議論」という政官等の傾向が助長し、「思想・分野・属性間の相互性を欠く硬直的・分断的・非建設的状況」「多様な意見・議論を許容する社会的包容力の低さ」「一部論点を過大視して他の論点を無視する狭隘な議論、煽情的主張に終始する粗暴な議論手法、広範な個別論点・論拠と全体を俯瞰的視野で繋ぐ思考の欠如」「マスコミの形式的中立性と公器としての空洞化(官僚主義化・利益や自己論理の優先・社員であってジャーナリストでない・非報道領域・公式発表や一般論のみを流す姿勢)」「社会包容力の低さとマスコミの状況による、事実と公式論の間の二重性の著しい乖離。それがネット社会の状況(他の先進諸国よりネットで無いと知り得ない情報が多い)や、二重性の間に巣食う利権等の存在を生む」という社会的状況を齎し、社会広範で「無力感・皮相的冷笑的な態度・形式主義・どうせ考えても言っても何しても無駄という感覚」を生み出しています。

この傾向は経済面では「合理性・統合的視野・目的論の欠如」「瑣末な内輪論理の横行」「協調性・忠誠心・斉一性の強要」により、「業界内慣習・ムラ内部の評価基準・時間を食う無意味な義務」「過剰サービス」「残業・サビ残・長時間労働等の労働強化と非人間的労働環境の蔓延」「労働生産性の先進国最下位への落ち込み」「余暇需要減退」など「自ら招いた無駄働きの状況」、「高ストレス社会」「社会・個人の疲弊による様々な慢性的な負の経済効果」を招いていて、俯瞰的視野で国情を見た時に「原発稼動で経済効果を言うのに、自らの在り方が作り出した状況はこの惨状」という奇怪な様相を呈させるに至っています。

この疲弊・空洞化は個人に対し、公的な物については「仕方が無い・しょうがない・どうでもいい」「無関心な方が正常・格好いい・無難」「考えても・何やっても無駄」「各種活動・思想・政治など、社会的方向への忌避・無関心」という感覚を蔓延させ、「周りの顔色伺い・面倒だ・関係ない」との心象により「意見を持たない・言わない・考えない」事を良しとさせ、「半径数メートル以内のような矮小化した私的関心範囲」に終始する層や、「自己隷属化・思考停止・無能化・空疎化」「無関心や空気が正義」「少数派である事を常に忌避する」という状況を作り出しています。本来素晴らしい物である「自主的な共感能力」は、「出る杭が打たれないように空気を読み、社会・集団内で同じ事をするように枠を嵌める」という「暗黙の強制の同調圧力」へと変性して、「奴隷化や社会の駒・歯車へと化させる」状況を生んでいます。また「内面や思考が空洞状態だと、無定見に空気を受容する」傾向があり、拠って「統制的な手法・論調が罷り通る・・・等の現在の世情では、これに付和雷同しやすい」ので、益々社会から多様性が失われ、視野狭窄や固定観念が進行する要因となっています。そして多数の人がこれらの循環にうんざりして、どうしたら良いか分からないまま、疲弊感・馬鹿馬鹿しさ・空虚さを感じ、投げやり・厭世的になったり皮相化しています。

社会全般で以前より改善した事柄は多いですが、それ以上に「システムが出来上がり、その後変わらなくなった」分野が目立ち、これが「硬直性・慣例踏襲思考」を醸成、同時に「年々新たな問題が表出」「伝統的な良い部分が経年的に弱体化」して、また日本に特徴的な「分野毎の蛸壺化・階層化」「社会的固定観念の妄信」も進行、総合的に見ると「改善より停滞が目立つ」「思ったより改善していない」という状況が近年顕在化しています。

  日本は長年「論理的思考・ディベート力が弱い」「斬新な理論・概念・製品が少ない」「従来と大きく異なる考え方が少ない」「画一的」と言われ、これは「個・自由思考よりも、権威・常識などの枠組みの重視」による結果で、「論理の対義的概念の感覚・感性」も縛りつけ、「論理性も感性も無しに、ただ只管に上意下達や右に倣えを強要してきた濃厚な空気支配」が生み出した非常に異様な状況です。賛成でも否定でも物事には「論拠・独善的でない判断基準・対論への持論考察時に近い一定の対等性保持」が重要ですが、この思考は飽くまでも「持論・好き嫌い・エゴの押し通しが目的」なので、客観性・公平性は端から眼中にありません。このような観念は殊更「日本の称揚、更に称揚の強要」「自己を国の主体の同一視」「対象の国家貢献度・反国家性向を判断する主体とする」「それによる一方的断罪」との傾向を持ちますが、片や「拝金・利権」「利己主義・公の軽視(お上や空気でない真の"公・公徳心・道義"の軽視)」と非常に親和性があります。国という権威の絶対視をするも、その中身はどうでも良く、それより金・我欲が上に来るので、浮世絵に見られる美しい光景は無秩序な街並みに変わり、山河・海岸など方々での乱開発横行など、先達や万物が営々と築いてきた物の自己破壊を繰り返しています。そして原発に対しては「力・権威・ムラ社会・金・イデオロギーの象徴」と化させ、「経済合理性・軍事・その他での論拠に乏しい主張」を「振り返りの視点を持たずに、論拠欠如を半ば承知しながらも、原理主義的にごり押しする空気の精神的支柱」と成らせしめています。更にこのような思考は「往々にして個々の観点でも論拠に乏しい」「全体論になると、メリット/デメリットの全体比では著しく非合理的・非理性的」「その上で、議論・対等性・客観性・道義を無視、弾圧・抑圧・封じ込めを励行」という物で、これら理不尽さの強行により社会を歪にさせます。また「社会構造が常に体制側が有利になる・責任が問われない仕組み」なので、「問題の隠蔽・先送り・責任回避・無理強いがされ続ける」「改善されるべき状況が固定化・悪化」「分野自体・大衆と上部構造・産業界の利益相反が起きた時に、後者の利益・権利を優先する傾向」「建設的・発展的・最も合理的な方法論を選択しない傾向」が明確化しています。

近年の政治・社会は「権力基盤や支配秩序が崩れる・責任を取りたくない・面倒に関わりたくない・慣習や雰囲気がそうだから」として「何も決めず・実行せず・先送りする傾向」が顕著で、「権益固執で互恵的に共存する組織群の統制力」の為に改革が実行されません。この状況は「改善されるか不確定で、悪い結果になるかもとの理由で、あまり改革しない」「政界官界では改革否定の論拠で拙速との常套句を頻用するが、これは日本に特徴的な用語で、何故拙速か不明瞭、どこまで議論しても拙速で、だが具体論は出さず、改革実行は骨抜きになる」「しかし体制に不都合な"悪い結果を生む可能性がある物"については、議論・開示を徹底して封じる」「他より比較不能なほどの酷い結果を生む危険性を持つ原発は、ムラ・周辺構造が完全に野放しで、危険性議論を拙速に封殺」という二重基準のご都合主義を横行しています。政官は「伝統的に言ってる事が意味不明瞭」で、霞ヶ関文学という言葉があり、海外からも「何を言ってるのか分からない」とよく言われますが、要するに「真摯さが無く、常に組織論・秩序・前例・利益構造・権力構造・・・が優先する社会」で、「張り巡らした組織網と誤魔化しの言質で、改革機運を常に封殺」してきました。「政治・選挙は街宣カーが喧しい」「常時そこら中に貼られたポスターは美観を損ねる」「選挙目的の義務的労力浪費が多い」「挨拶回り・業界団体対応・朝立ち演説を始め、諸先進国に比して政治本来の活動は少ない」「公費視察・議員特権など公私混同が多く、利益配分に関わる話が多い(利益配分も政治本来の活動に含まれるが、利益に無関係な活動は少ない)」等がよく言われます。日本では「政治を筆頭に論壇の場が欠如」「官僚体質が強い」という特徴があり、しかし「議員・官僚は国内外の比較で非常に高報酬(諸先進国では公務員は大概民間以下、地方議員はボランティアに近いが、仕事ぶりは日本以下という事は無い)」「女性比率が低い偏った封建的社会」「独特な不合理性が強いムラ社会」「多様性と風通しが決定的に不足」しています。政官は社会改善の為に存在する物ですが、「広範な人々の社会的議論・改善活動には否定的」であり、「由らしむべし知らしむべからず(論語)の、"民は従わせるだけでよい、知らせる必要はない"という曲解」「お上が・我々が決めるから、大衆は関係ない」という悪しき空気が存在しています。非常に馬鹿げた「ネット選挙禁止」は、単にこの一端です。これら傾向は「初期目的喪失と組織・権益維持の自己目的化が顕著」「この国の最上部構造は本義を欠いた物」でしか在りません。

教育は「画一的教育システムと学歴信仰によるピラミッド化が顕著」「巨視・複眼・能動・建設・柔軟・水平思考に欠け、周囲・世間・お上・与件・前例・圧力・因習・空気・・・・・に従うよう訓練された画一的ロボットの量産」「同調圧力に対して従順・迎合的で、固定観念や界隈の認識論を絶対視して、視野が狭い」という状況を生み出しています。どの国も「近代化=画一化」「近代義務教育=軍隊化」との傾向はありますが、現代の日本の学校は先進諸国に比して明確に「画一的・暗記重視」であり、要するに「日本の教育・社会は、過去の遺物構造を強く引き摺ったまま」「この弊害が社会各所に強烈に顕在化している」と言えます。

この構造は「政官の在り方と親和的」「境界外科学の研究意識の乏しさと、欧米学会が認めた論の丸写しの思考様式という科学界の風潮を生む」など、「自主的思考・主体性の欠如という日本の悪弊の重大要因」となっています。また「政官財などの組織を始め、集団時に非論理的な同調圧力が強くなる傾向」は、大衆に「深層心理での非論理的な事柄への忌避」「どうせまともに議論されない・聞いてもらえない」「馬鹿馬鹿しい」との感覚を招き、「非常に強い思考放棄作用」を生じさせています。

  「島国・独自言語・独自文化」等は本来は良い面が多々ありますが、上記各問題点が強固なので、「諸外国との正常な対比が起きない、海外の各種改革改善・ムーブメント・良い状況が肌感覚で伝わらない、国際的に一般化しつつある概念・社会様式が伝わらない、海外への情報送信が限られ国際的関心が持たれない、国際的連帯が起きない」ままで、一国だけ世界の進展と切り離された鎖国的状況が維持され続けています。更に一部の人は、非論理の優位思想が思想的基盤なので(論拠による考証でなく)、諸外国と比較時の負の状況さえも「それでも俺達は優れている、これで良い」として、社会に対して認識論共有や現状肯定を強要させ続ける原動力となっています。要するに日本では「国・世間はお上」なので「"内的な他者"たる"客観的・対等性を持つ思考・場・存在"」が欠落、「独自の言語と文化・非欧米なので国際的地位が低い・近代の成功の副作用」という前提状況に加え、「国際社会・欧米は遠くの他者・別個の存在・上位概念」なので「正常な国際比較という客観性」に晒されず、これにより「国内でも国外でも日本は別だからとの結論に収斂し易く、国・民族に関係ない普遍的な本質性を無視した議論になり易い」「前時代的思考が根強く残り、議論や改善の空気が強く阻害する」との状況が作り出されています。

明治維新・戦後改革は弊害も大きく、後に修正されなかった点が多く存在します。維新ではいつ植民地化されるかという国際情勢に対し、体制転換や統制主義化で国を纏めて対応しましたが、全体・権威主義や欧米従属に傾き過ぎ、その弊害が残り続け、多くの点が悪化しました。暦は「社会や概念の基盤に存在する」物で、文化的インフラと言えますが、維新後に日本に何も関係ない新暦に変わり、日常生活ではない「神道・仏教・伝統行事等でさえも新暦への準拠が多数」です。アジア諸国は「祝祭日や年中行事は旧暦で祝うのが普通」で、特に旧正月は盛大に祝いますが、日本では旧正月は概ね成人式がある程度です。「伝統とはその国・社会の文化その物」ですが、これは「それより欧米迎合を優先する思考」による物で、最上位の権威の前に「日本の伝統・歴史・文化や、日本という存在自体が完全に空洞化」しています。名前とはその人その物で、人は「貴方は誰・何者?」と聞かれた時に名前を答えますが、維新後に英表記では「姓名の順を名姓とする」と決め、しかし外国人の名を日本語で「姓名の順」で呼ぶ事はありません。近年アジア諸国では姓名の順での英表記が通例になりつつあり、日本でも少しずつ広まっていますが、そもそも欧米人は名前を姓名の順で言おうなどとは思わないでしょうし、自国の暦を変える事もないでしょうし、況してや伝統行事を無関係の暦で行うなど想像もできないでしょうが、この自ら作り出した観念や格差は天地の差です。ローマ字では「東京はTokyo=トキョ・トーキョー」「九州はKyusyu=キュシュ・キューシュー」になり、世界中の人に対して正確な読みがされず、日本が正確に認識されず、欧米的解釈を通じた認識しかされません。これを「英語ではToukyou, Kyuusyuuという表記をしないからだ」との説明がありますが、ローマ字は言語の英語とは異なる「日本語のアルファベットへの変換が目的の、日本で人工的にラテン語を基に作られた表記法」であって、「本来的に表記法は、音を完全に表記する為に存在する」物であり、発音記号と同様に「Toukyouをトウキョウ, Kyuusyuuをキュウシュウと読む」とすれば良いだけで、「発音記号を世界中の人が読めるのだから、多くの人もこのように読めるようになる」でしょう。また戦後では、国際社会・世界との名があれば絶対的権威になるので、内容如何に関わらず「上部構造・従うべき物」となり、「国際的地位・発言権・存在感は無く、内容監査・改善提案も少なく、本部等も存在しないのに、国際機関や対外への拠出額はやたら多い」「非常に都合の良いATM」と化させ、この影響で「日本の主体性の無さと、あやふやな世界的常識という名」の下に「日本に勝手な事を押し付ける幾つかの国の状況」も生んでいます。例えば、山田太郎さんは本来的に「山田太郎さんであり、決して太郎山田さんではない」ですが、これは丸で「自分という物が存在しないかの様な透明人間的状況」であり、そして「日本という物も存在しないかの様な状況」でもあり、こういう事が常識である社会には主体性という物が存在しなく、「自国と他国・他地域との対等・並列的な関係性」という認識も育ちません。ただ「真実や在るべき状態より、他に迎合したり従ったりするだけ」「自分の頭で考えるより、何処かのお上が下した物を丸写しする」「本来的意義という中身が無く、皮相的・形式的な外装がある」という社会的な重力に隷属しています。これらは全て「自国その物や、自国の伝統・文化・歴史より、欧米・最上位の権威を上位の物とした」「論点が幾つかある場合に、欧米迎合・国際的序列・外国の対日的思惑への迎合ばかりを選択した」「それを当然の事として、疑問にさえ思わなかった」という社会認識により起きた物であり、同時にその存在自体が「日本や内面や思考の空洞化と主体性喪失」「欧米の権威化」「国際的地位の序列と一方的関係性」「隷属思考・権威主義」を固定化・絶対化・再生産し続ける物です。しかも加えて「全体主義傾向があるにも拘らず」という状況も存在していて、通常は全体主義は排外に結びつき易いですが、日本では排外と同時に異様な対外従属にも変容していて、この「対外従属と全体主義の捩れと、両方に共通する権威迎合」は甚大な禍根を生じ続けています。徐々に変更されてる物もありますが、「一般的に疑問に思われない・あまり議題にならない程度」で、これらは如何に日本に「権威従属意識が当然のように空気のように蔓延してきた」「その中だけの視野・認識論に埋没してきた」「高度に模倣する事で認めてもらい、安心感や自己肯定を得ようとした」「それらに疑念さえ起きなかった・疑念より従属意識の方が勝った」「主体性・対等性・真の思考・内面たる物が存在してこなかった」かを表しています。「伝統は固有文化その物で、どの国の文化も対等に存在」していて、である以上、合理的な必要性が無い場合は、「社会制度は他国文化より自国文化に沿うのは当然」です。その上で「文化制度は普遍的な物」であり、「どの国・社会に存在する物だろうと、良いと思う物は取り入れれば良い」話で、そこには「権威・従属・流されるなどは無関係であるべき」ですが、「主体的・自律的思考や統合的視野が無い」ので「すべき事をしない・すべきでない事をする」という「無定見で空虚な状況」になっています。

「体制は、片方で近代合理主義を謳いながらも非論理的で、もう片方では"日本型伝統による統治"を謳いながらも、その伝統とは概ね"権威・全体主義・ムラ社会・利益分配機能温存・旧弊固執"の糊塗だった」「明治以来・戦後永らく"近代的な個・自我の確立"が抑制され、"真の公たる上部構造・社会的機能"は弱く、"真の伝統的社会の持つ機能"も年々弱体化した。個人は"個も公も弱く、社会と切り離されて"次第に宙ぶらんになり、そこに空気が圧し掛かり、個人も排除されたくないので迎合した」「空気という擬似伝統は強いが、真の伝統文化は過去の物となり(世界的傾向)、硬直化と"地霊(日本の本来的な良い部分が持つ影響力)の弱体化"と物質主義(世界的傾向)を生んだ」「本質論・具体論・巨視的思考・主体性の欠如と、客観的存在(多様な意見やオンブズマン的機能や海外の視点など)の不在は、形式論・既存論踏襲・恣意的判断を呼び、議論の場が欠如し、修正機能が働かず、多くの分野での構造改善が遅れた」「この呪縛の循環で、多くの分野で流動性が低下して、状態・思考の固定化・硬直化が進み、改善が進まなくなり、社会疲弊に陥った」「問題の根本を見ていないので、原因が認識できず迷走した」いう流れできたのが近代日本です。そしてこれらの究極的悪影響が「"権威・一部科学の独善的暴走と修正機能欠如の不均衡"が引き起こした福一事故とその後の世紀末的状況」と言えるでしょう。この方向では「権威主義・全体主義・抑圧・息苦しさ・自己隷属化・閉塞化・白痴化・空洞化・形式主義化・停滞・縮小均衡」など悪い物を招くだけで、改善の可能性を自ら潰し回り、先天的な良い事物をあらかた破壊しながら、社会は行き詰まって破綻します。日本・日本社会・日本人には良い部分も多いですし、国際的評価もありますが、何時の時代からか幾つかの根本部分が大きく捩れ曲がってしまい、それが修正されずに硬直性も進行し、「私的・小集団な良い部分と、公的・公的思考・集団になった時の駄目な部分の差」「両者間に存在する、自由思考と主体性の欠如と慣例踏襲」が著しく、それが社会を疲弊させる癌となっています。「波動論や社会の諸々の状況」を重ね写して問題の共通要因を探ると、日本では「自由思考や主体性の欠如と慣例踏襲」→「自縄自縛化・硬直化・経年劣化・隷属化」が際立ち、日本に特長的な社会的要因はこの辺りに行き着くと思います。

 - (日本の全体主義傾向には特徴があり、「建前と本音が別れる」「表では非常に自由に見え、内実は全体主義傾向が多くの分野にある」「自家中毒的(非合理的な自主規制等)」「諸先進国以上に実社会とネットの格差が明確((政治マスコミの問題もあるが、それ以前に未だ前近代性が強い。先述の"島国・独自言語・独自文化"により、海外に伝わらない・外国人が読めないので何を書いてもいいとの身勝手な心情も醸成している)」です。そして「国内へは抑圧的」「国外へは非自律性・自主的思考の欠如・卑屈的(平和的を通り越し)」という奇妙な二面性があります。これは「第二次世界大戦・近代において、大きな対外的な過誤・犯罪行為を犯した」「同時に、事実より非常に悪玉にされているので立場が弱い(近代・戦前の対外的行為には、良い事・悪い事は共に多数あるが、どの勢力もご都合主義の解釈、現代社会の欺瞞性を表している)」「欧米支配体制への最大脅威なので、歴史的に封じ込められ続けてきた」「何かと封殺・攻撃し易い対象」「歴史的な平和・受身志向」「近代の成功で底力に自信があり鷹揚になった(自信過剰も招いた)」「八方美人的な振る舞い」「権威隷属志向」「古来からの歴史により"言外の意思疎通や空気を読む能力"が高いので、内部へ論理によらない同意を求める事が多い」等が理由に挙げられます。人間も社会も外的要因に左右されるので、周辺国・東アジアの状況を見ると全体主義傾向もある程度仕方ないですが、それにしても高過ぎです。近代日本は非欧米世界の先頭で、良くも悪くも一般的評価以上に、国際情勢や多くの国に多大な影響を与えましたが、これら状況や、内面の空洞化や、欧米従属一辺倒や自己が皆無な「戦後の透明人間的状況」は(欧米と周辺国の戦略だが、結局は自己選択)、世界に非常に悪影響を齎し続けてきました) -

 - ("カワイイ文化"は日本文化の特徴が現れています。これは可愛い物が持つ「非攻撃性」への親和感で、「大和」の国号にも通じ、近年確立されましたが、元々は平和な縄文時代・縄文以前からの感性の基層に基づく物でしょう。他にも顔文字文化を始め「非攻撃性・摩擦低下・親和性・配慮等や細やかさ」を示す物が多数存在します。西欧の社会・文化・学問・哲学は論理を軸に発展し、論理とは線形だと言え、建物を始め(更に人の動き方まで)直線的な印象があり、(波動効果が高くなる)黄金比などきっちりした方法論を透徹させています。そして東洋文化は感覚を軸に発達し、循環的だとも言われますが、感覚とは非線形で円形だと言えるでしょう。日本の建築物は"白銀比(大和比)"を多用していますが、これは黄金比より円に近い比率です。可愛いという言葉は丸い物に対してよく使われ、ダンス・スポーツ等で現れる動き方の特徴や、顔の縦横比や骨格も円に近い物があります。「木を見る西洋人、森を見る東洋人」という比較文化論でも差は指摘され、これは同時に「長らくの伝統がDNAに刻み込んだ遺伝的な物」でもあり、特に日本では日本語の曖昧さや擬声語の多さにも感覚志向が現れているでしょう(母音が限られる特性にもよる)。そして感覚と論理の両方が無いと社会は正常に発展しなく、「感覚も論理も両方しっかりある上で、どちらが優位か」というバランスが重要です。近代日本の「日本の基層の良い部分を封じ、だが非論理的という悪い所取り」が、「これだけ懸命に頑張り、色々な良い物・特性があるのに、その割りに上手くいかない」という事の根本原因であり、全体主義・根性主義・右に倣えでやろうとしても、所詮根本がおかしいのだから意味が無く、社会全体に単一思考を敷衍させて成功させようという浅薄な思考が上手くいく筈が無く、「感覚も論理も無いグニャっとしてるのに硬直した鵺のような存在」となるばかりです。社会構築に不可欠な基礎が余りにずれてしまった為に、頑張りは悪い方向や異様な斉一性に向かうように方向付けられてしまい、そうした中で疲れ果てたり馬鹿馬鹿しくなったり等等で、"日本の地霊"が国情を支え切れなくなったのが近年の状況です。これら志向は日本を長年に亘り劣化させ、多くの問題が改善しない状況に追い込みました。結局社会は「個人が感覚と論理を重視するよう社会が支援」「その個人個人が連帯していく循環」でしか改善し得ません) -

  科学での「査読」は、従来科学と大きく異なる物は殆ど無碍に却下され、地位・評判・空気を気にして撥ねる圧力が強く、仮に通過しても店晒しで学会内で考慮される事は無く(考慮すると排除の圧力がかかる)、全く制度が機能していません。波動的手法の現場研究者など非権威側にも「真理追究・科学や技術の発展・社会貢献の意識が概ね高い」「賞・有力誌・地位等を重視しない」「(徒労に終わる)努力より研究を優先」などの点はありながらも、全体的に努力・工夫不足などの問題点は否めないでしょう。しかし実験・検証拒否を見ても分かるように、権威側は徹底して頑なで、従来は努力を実らせるのは不可能でした。

科学界でも「欧米⇔非欧米の格差」は絶対的で、国内では「固定的思考法や従属思考」がこれに拍車をかけ、更に欧米域内でも序列が厳しく、「波動原理・境界科学・未科学」で高度集積があるロシアの知見は、科学界に大して反映されていません(これと別に隠された事実は多数存在・項目6④)。中でも「欧米学会・権威ある専門誌・ノーベル賞等の格は高い」「ここが認めないと科学的に意味を成さない」「日本の学会は下部構造でしかない」等のヒエラルキーは界隈の絶対的観念です。日本ではこの固定観念の下で「境界外科学の研究意識は乏しい」「欧米学会が認めた論の丸写しの思考様式に、疑問の欠片さえ無い人が多数」「だが欧米・諸外国は日本より自由なので、境界外科学を研究する有力・公的な機関・大学等が、日本より遥かに多い」という奇怪な状況が存在します。「ノーベル賞もの」との表現は「311後の元素変換の否定論」にも「そんな発見がされたらノーベル賞ものだ」という物がよくあり、しかし事実ならば「日本の破局危機を救い得る」「現代科学を完全に覆す」「比較対象が無いほどのパラダイムシフトの可能性」「応用範囲が無限だろう物」であり、それを「ノーベル賞=究極価値と捉える矮小思考」には唖然です。「科学全般で滅多に無いほどの発見・解明」にも使われますが、そもそも「そのような物は、賞という次元を遥か超えている」のであり、定型化した狭い視野・枠に嵌り過ぎています。科学が存在する以上「学界・場・ある程度秩序化された概念は必要」「現在代わる物は無く、権威化は必然」ですが、「それが存在する事・参考にする事・絶対視する事は、其々意味が全く違う」のです。これら権威・見解は「必ずしも全面的に妥当という物では無い」「歴史的に何度も科学常識は変わった」「"時代毎の境界外科学の中で事実の部分=科学界に認められていない"という現象が必ず発生」という物で、「現代科学界の認識論・存在形態」にしか過ぎません。結局「真の科学的思考を行わないと・真摯に考えないと道を誤るとの不確実性は全てに存在」「権威・認識論とは人為的構造に過ぎない」ので、常に真理と一体な訳でもありません。それよりも「現象・観測結果の方が比較不能なほど上位の存在」で、そこに沿って始めて真理と一体的である可能性が生じます。

往古より人々は観察を通じてモデリングを行い、その幾つかは通説となりました。しかし「既定事項・権威・場の論理や空気なりを絶対視し、現象自体から目を背ける逆転現象」が覆ってしまっています。別に「理論Aがあるから確定的結果Bが起きる」訳でなく、逆の「主の"自然の真理が起こす事象群"から、従の"とある理論"を導き出した」だけの話で、「人類史と共に連綿と続いてきた通論の変遷史を忘却」しています。若し通説と異なる事象があれば「それを更に研究したいと思うのが科学的探究心・科学者の本分」でしょう。しかし「それを須らく無視・否定するのが今の常識論という物」「途中の必須条件の論理・思考が無く、結論だけが存在」なので、何処まで行っても「権威に訴える論証・衆人に訴える論証」「科学的に有り得ない・前提がこうと決まってるからそれは間違い・確かめる必要などない」「世間が偉い人が言ってるから・我々がそう考えるから・当たり前だからそれは嘘だ」という思考法しか存在しません。

これにより除染に纏わる会話は「放射能が下がった」→「嘘・トンデモ」→「検査機関・ガイガーカウンターで測定した」→「捏造・測定ミス」→「では信頼性のある計測法とは」→「計測以前に、科学的に有り得ないから信じる訳ない」→「科学は実証により変遷を繰り返してきた」→「そんな現象を認めた有力論文は無い」→「査読は機能してなく、その種の物は無いが、現代科学と異なる現象の論文や専門誌掲載は多い」→「信頼性が無い」→「現状では万一の可能性を探す必要がある」→「非科学的な事をしても無駄」→「合同検証すれば良い」→「科学者にそんな暇は無い(だが批判・形式的思考にかける時間量は多いのでこれは詭弁、そもそも科学界には検証義務があり、膨大な科学者がいても存在意義を全うしてない)」→「では検証する事は無いのか」→「ある訳ない」→「そんな姿勢では、若し事実でも認識できず嘘とされる」→「嘘だから関係ないだろ、よく信じられるな」というような「無謬性と優位性の妄信と無思考」が続いています。

例えばピラミッドパワーと聞いて最初は胡散臭いと思っても、どこかに「真剣に考慮・考えを保留」する部分がなくては、それは「自称科学的でありながら、科学思考でない物」です。同様に何かについて非科学的と思っても「そういう事があるのかもしれない」「まだ科学の全てが分かっている訳でない」「実証的に確かめていかないと」という留保余地を残さなければ、それは単に「硬直した原理主義的思考」「科学的思考足り得ない物」です。これらは「現実社会で上手く振舞う為の都合よい思考法」「真摯・仔細な検討より一纏めの否定・揶揄の方が楽、対論を排除し易いという観念」「建設論・理に適った考えよりドグマ・空気の優先」という深層心理の為で、悪貨が良貨(真摯さ)を駆逐しています。「除染可能との論が多数ある」「実験検証無しに事実は分かりようがない」「真偽確認の簡易実験が多数ある」「肯定論否定論は認識論に過ぎず、その統一場が実験検証で、すれば概ね分かり、どんな結果でも考察を次へ進められる(真理>現象・事実>認識論)」「万が一の可能性がある」「全可能性を探し続ける義務がある」「否定でも、実験結果に基づかない否定より基づく否定の方が論拠が高い」「超非常事態」、これらは各々否定しようも無いですが、当然過ぎる正論が無視されるのが今の世です。

そして「この程度の初歩的道理も通じない」なら、「支配的観念が世情を決する」ことから「世の中で道理が通らない・理不尽な社会」なのも当然でしょう(多数の人の観念で無く、支配力・統制力を持つ観念で、多数が従属している)。大体「多くの事象・論の無考慮と共に形成されてきた従来科学」は「全体の一面に過ぎない」ですが、にも拘らず「全体の真理・自明の理」と言っているだけで、「多くの事象・手法・作用・論を端から否定できる論拠・絶対性・正当性」は存在しません。不変普遍な数学は「厳密に論理的で常に定理足り得る物」ですが、科学は「その時々の認識論や意図・不実が入り込む要素がある」「歴史がこの繰り返し」でした。実際否定論の言い分は「実質的考慮や検証をした事が無い物」「する気もなく、だが嘘・トンデモ認定でお終い」だけです。

これを纏めると「従来科学は数多の事象・手法の作用原理・観測結果を説明できず、無視して形成された」「世界各地の古来の理論を否定」「近年増加した波動的解釈を否定」「時代毎の認識論や意図・不実が入り込み続けてきた」「(現象自体・機械測定値の無視)(理論・無謬性の絶対視)(現在の認識論を未来も不変とする)(従来科学と異なる現象・理論を門前払いして排斥)(説明可能な論の自主的構築・検証・議論に対する意識の欠落など)強硬論者の非客観性・教条主義・原理主義・権威主義・独善的・非建設的傾向」「界隈の高い同質性」「低い多様性・水平思考・自己修正機能」となりますが、そもそも論で「子供に諭すような初歩的思考法を、政官財・マスコミその他社会中がしてない」時点で「論の正誤という結果論と別に、それ以前の問題で、根本的に間違っている」のは明白です。

勿論、今日も明日も明後日も、波動原理は公式には否定されたままでしょう。然しながら「何も見えない昼の空の向こう側にも、常に星々が存在する」のと同様に、「誰が否定しようとも、今日も明日も明後日も永遠に、量子的性質も波動も波動原理も、それらによる数多の事象も存在する」のであって、この事実は不変です。「森羅万象の前提には科学原理がある」のであって、それが「たかが現代人が決めた常識」の訳が無く、結局は「真の科学原理という不変不偏の機軸」が顕現するこの社会において、現代人はその遠方を右往左往を繰り返して、そして次第に「中心にある何か=真実・真理」に気付くのでしょう。

云わばこれらは「膨大な根本的欠陥や他原理の可能性の無視という前提上に成立していた裸の王様」「長年世界中を巻き込み途方も無い被害を与えてきた史上最大のバベルの塔」です。認知化の機会は長年潰されてきましたが「普及していたら社会・技術の劇的改善・進化は必至」で、「本来的な社会からすると近年の科学進歩も無かったのかもしれない」「自然・伝統・心の破壊という退行や、低波動の暴走を招いた、真理から隔絶された共同幻想」と言えるでしょう。現に「誰が行おうとも水素カプセルの簡易除染実験は、従来科学体系の大前提を即時に完全否定」「どう考慮しても現象を否定不可能(量子水の項)」「超非常時だが科学界・政官公など代表的主体・権威が何もかも認めない」という究極に滅茶苦茶極まる状況にあり、しかしこんなやり方はもう存続不可能で、矛盾だらけの状況・理論をまともに繕いようもなく、幾ら強弁・ご都合主義・茶番を繰り返しても、直に各所で崩壊が始まっていくでしょう。

これらは万事の中軸の筈の「在り方、客観性・対等性、哲学・道義」の軽視と、「そんな物現実社会の仕組みと違うし、何の役に立たない、処世・常識・パワーゲーム・駆け引きの方が必要で実際的」「建前より空気・事勿れ・序列安泰」という風潮の方が上に来る悪循環、突き詰めれば「本来的な上位概念より下位概念を重視する主客逆転の悪循環」による物で、「現実社会の支配構造の絶対化に、意識進化が追い付かなかった状況」の中で起きた物です。「破壊的な方向性」「上下・序列関係」「競争・他より上回る事・劣後への強い観念」「帰属集団の優位思想」「強権的思考」「固定観念・属性の類型的観念への従属思考」から社会が離脱しなければ何も変わらないでしょう。

  「心と科学が分離した現代科学上」では、「科学こそが最高の真理だが、科学・真理に精神・心・感覚は影響しない」という観念が「科学は精神と無関係の無機的な物」「物事は心と無関係に存在する・事象は心と無関係に決まる」「感覚は無価値・無意味、形而上・形骸的な物に過ぎない」=「唯物論の一部弊害が招いた物質主義的観念・力学」へと拡大化して、「金・モノなど数値化できる物」「目に見える物」「権威や力」が大手を振るい、「心・感覚・数値化や金銭化できない物」「非権威」が封殺されがちです。「心は下位概念」なので「相互の建設的議論・検証など馬鹿馬鹿しい」という「非妥協的態度を招きがち」で、しかし権威は上位概念なので、どうしても「社会での力関係に従属」「対論・各論の妥当性見極めを止める」「改善論より現状維持圧力」「論拠より問答無用な威光」「論より粗暴さ」に引き摺られる傾向がありました。しかし超巨大パラダイムシフトにより「心と科学の一元化」「心も物質も全ては波動、意識であり、共鳴しあっている」との認識になれば、この「汎世界的な問題要因(物質や力の優位・精神や善性の劣位)」も修正されていくでしょう。

真の科学・真理は、予断でなく、ありのままの現象に沿わなければ認識し得ない筈です。しかしそもそもその気がないならば、沿う以前に、反対方向を向いている可能性も充分あるでしょう。近現代は「波動以外の科学への認識は高度化」するも、真の科学に沿う認識論は「全てを一体的に認識した往古の方が高度だった」と言えます。霊長類の最高峰と言うも「霊性・精神性の軽視」「自然のあり方を軽んじる根拠無き全能感・傲慢さ」「未来を如何様にも変えれる創造性は発揮しない」「守るべきを守らず、変えるべきを変えず、後ろ向きな固定観念、今と目の前ばかりの近視眼、物質的側面が幅を利かせた」から、「大事な物が壊れてしまい、問題が溢れ返り、社会が良くならず、事故が起き、除染できず、方法も知らず、見ようとせず、地獄を見ている」のでしょう。「目に見えぬ物の重視」「体主霊従でない霊主体従」「感受性や共感や共認を大事にする」「古から現代までに人類が知り得た英知に沿う」「従たる有象無象より主たる自然を中心に、森羅万象と共存」しなければ、健康も除染も真理追求も社会改善も成し得ません。


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