メニュー14 : 波動原理・ゼロ点効果の纏めサイト - 放射能除去法纏めサイト

波動原理・ゼロ点効果の纏めサイト - 放射能除去法纏めサイト
無数の除去事例や超常的現象、量子の共鳴効果による意識・社会・環境の改善
万物における波動情報の原理・作用・効果・影響・意味合いと形成・発展・永続化

量子(電子・陽子・中性子・光子・ニュートリノ)=波動(気)・ゼロ点(Zero Point Field)・電磁波・プラズマ・幾何学的形態・物質(珪素・量子水・酵素)・微生物・コイル・波動器具・波動農法や意識・言葉・パワースポットなど、波動原理の各種効果(超科学・超能力・元素変換・健康・意識覚醒・自然環境の浄化・森羅万象の好転)

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項目6⑧:波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い
森羅万象の形成・発展・永続化、意識・社会・環境の浄化・改善

【霊魂の所作と活性化、日本の基層と神事、精神性・芸術性の淵源】

アイヌと沖縄について
  • アイヌ・ニブフ・ウィルタ民族の概略
  • アイヌ民族の文化と信仰
  • 蝦夷の歴史
  • 日本の体制がアイヌ民族に強いた不当な境遇
  • ソ連と国際的体制がアイヌ・ニブフ・ウィルタ民族に強いた理不尽な追放・放置
  • 日本におけるアイヌ問題の認識状況
  • 沖縄・琉球の歴史
  • 琉球神道について
  • 南西諸島の伝統歌謡に見える古層とヤマトとの交流
  • 南洋産貝製品の古代社会における重要性
  • 沖縄的事物と女性祭祀と海人族が示唆する、古代社会の在り方と平和の希求と大規模な変化
  • 日本の辺縁部に残る古代の日本語と祭祀形態
  • 沖縄・琉球の位置付けについて
  • 辺野古と大浦湾の類稀な環境・霊場・遺跡と、日米による破壊の危機
  • 沖縄に対する国内外からの歴史的な抑圧
  • 沖縄問題への誤った対処
  • アイヌ・沖縄問題に見える国内外の自己優位思想と従属思考
  • ヤマト・アイヌ・沖縄などの和合


  • 南西諸島の伝統歌謡に見える古層とヤマトとの交流
  琉球諸島には「神歌(かみうた)」という「神祀りの古謡」が残されています。これは「古くから村々の祭祀で、ノロが連綿と歌い継いできた口承歌謡」であり、何時間も歌い続けたりもします。地域ごとに名称や傾向が異なり、同じような歌でも地域によって内容がやや異なっていて、総数は膨大な数があります。特に沖縄本島北部の「ヤンバル(山原)」地方や「半島部の沿岸の村落」では、色濃く残っています。

「神歌」は総称で、沖縄諸島では「ミセセル(神の託宣を意味する)」「オタカベ(神を崇べて降雨などの願いごとを述べる)」「ティルクグチ(もとは託宣から出て現在は神に豊作などの祈願を捧げる形になった)」「クェーナやウムイ(同じく神に自分たちの願意を長々と訴える)」などがあります。

宮古諸島と八重山列島では、「神歌以外の歌謡」を「アーグ」「アヤゴ(宮古島の古語)」と言い、アーグは「沖縄芝居でできた群舞名」も指します。内容は「現世的英雄をたたえる史歌的性格の強いもの」「作物の豊穣祈願と予祝(後述)」「航海安全祈願」「機織等民衆生活の場をうたったもの」が多いと言います。

《宮古列島のアヤゴ(アヤグ)》
・宮古諸島の古謡の総称。宮古方言で謡われる。
ニイリ、ニーリ、ニイラアグ
・「ニイラアグ」は「根の国(にいら・死者の居る国)のアヤグ」の意。
・内容は祖先に関する謡で、代表的なものに「狩俣祖神(うやがむ)のニイリ」がある。
・「フサ」「タービ」「ピャーシ」の神歌の要素を取りながら、祖先神の偉業などを壮大に叙述する。
アヤグ
・15世紀末から16世紀初頭にかけて作られた叙事的歌謡。
・英雄の勲功を称えたものなどが多く、代表的なものに「仲宗根豊見親八重山入の時のアヤグ」がある。
長アヤゴ
・叙情的、民謡的なものが多い。
・「トウガニ」「正月のアヤグ」「石嶺のあこうぎ」「旅栄」「多良間シユンガニ」など。
フサ
・神々の降臨・誕生から村落の創成などを述べたてて神を賛嘆する。
タービ
・神々を崇べる。
ピャーシ
・(同じく)神々を賛美する。

八重山諸島では「アヨー」「ジラバ」「ユンタ」「ユングトゥ」があります。

奄美諸島では「ナガレ歌」「八月踊歌」「ユングトゥ」があります。

  「おもろさうし(おもろそうし)」は、「琉球王国第四代尚清王代の嘉靖十年(1531)から尚豊王代の天啓三年(1623年)にかけて、首里王府によって編纂された歌謡集」「ほぼ12世紀ころから17世紀初頭にわたってうたわれた、沖縄と奄美の島々村々の"うむい"を首里王府で採録した」「全二十二巻・歌謡一五五四編・実数一二四八編」です。沖縄の文化を語る時に、古の沖縄の様相の考証に、欠かす事のできない文化遺産です。

「おもろ」とは、古来より受け継がれてきた「叙事的な神歌」です。「おもろ」の語源は「うむい(思い)」であり、これらの神歌も「祝詞)(うむい」と呼びます。「そうし」は、大和の「草紙(物語・日記・歌書など和文で記された書物)」に倣った名称とされます。「おもろさうし」には、和歌を改編した歌謡も多く載っていて、そこでは和歌で見られる表現の一部が、用いられています。

その起源は「祝詞(のりと)」だったと考えられています。祝詞は「神道において神徳を称え、崇敬の意を表する内容を神に奏上しもって 加護や利益を得んとする文章」「神社・祭祀などで神職・崇敬者が奏上する物」であり、古来より奏上されてきました。本土における「祝詞(のりと)」は、沖縄では「神歌(かみうた)」や「祝詞(うむい)」などと呼ばれ、またそういった様相・形式として発展しました。「祝詞(うむい)」には、今では使われていない「琉球古語」が多く含まれていて、後述の伝統歌謡「琉歌(りゅうか)」の源流と考えられています。

おもろそうしには「勝連のアマワリ(地方豪族)を称える歌」として「勝連わ、何(なお)にぎや、たとゑる、大和の、鎌倉に、たとゑる(勝連を何に例えようか、大和の鎌倉に例えよう)」という歌詞が見られ、「鎌倉時代に沖縄人が鎌倉を見てきた」「沖縄では鎌倉が知られていた」とも考えられます。

「クェーナ」は「神に自分たちの願意を長々と訴える」もので、対語・対句形式をとり、内容は「雨乞い・五穀豊穣・航海安全等の予祝」が多いです。語源は「クイナという鳥の鳴き声」「はやしことばであるコイナ」という二説があります。変遷は「クェーナ」→「祝詞(うむい)」→「オモロ」→「琉歌(りゅうか)」と想定されています。

沖縄の神歌の概念とは異なりますが、本土の「神歌」は一般的には「神に関する歌謡の総称、神詠」「神をたたえ、神力の発揚を期してうたう歌」「神の詠歌も含むが、神楽・神遊びなど神事に用いる歌謡をさすことが多い」「神祇(じんぎ)に関する内容を、今様歌謡の曲節によって謡ったもの」と説明されています。

「予祝(よしゅく)」とは「豊作・繁栄などをあらかじめ祝う」行為で、「言霊信仰」によります。例えば「毎年春、農耕開始に先立つ時期に、演劇的・舞踊的な所作を伴ってうたわれた伝承歌」を、村落の共同体で行います。「万葉集」を始め、古代の歌には予祝の歌が多いです。

  沖縄本島周辺の神歌には、その歌詞の多くに「ヤマト(大和)という言葉や、ヤマトの事物が出てくる」「弥生時代・古墳時代前期の、日本本土と琉球の社会・祭祀・文化などの関係性が題材となっているとみられる」いう際立った特徴があります。例えば、沖縄本島北部に伝わる「マガ玉をかいに大和へ」には「ヤヲの港」という歌詞があり、「大阪府八尾市」とも考えられます。
(「やお」地名は「奈良県磯城郡田原本町八尾」も)

多くの歌に「神々は北風に乗って飛来する」という旨が見られます。古代の本土‐沖縄間の交易は「季節風に乗って船が往来した」「北風に乗って沖縄に行き、南風に乗って南九州に帰った」とされます。南西諸島の祭祀について、「請島と与路島の神迎えは二月」「奄美の神送りは四月」「沖縄の神迎えは五月」「沖縄の海神祭が五月または七月」「奄美では神々を開聞岳(薩摩半島南部)へ見送る」という様相があります。これは「古代の琉球諸島の神々」とは「ヤマトで奉じられていた神々、又はヤマトの人達」だという事を示唆します。

そして、それらの中枢的な意味合いを持った歌詞として、「ヤマトから下たる赤椀の世直し(ゆのーし)」という歌詞が多くの神歌にあり、ノロたちによって歌われています。同義と思われる歌詞として、宮古島の神歌には「ユバナオレ(世は直れ)」とあります。これは何らかの歴史的史実を示している訳であり、この意味する所は、途方もなく深いでしょう。

沖縄の神歌には「日本中の他の多くの古くからの口承歌謡や祝詞などの類型パターンと、明白に異なっている題材が歌中に存在している」のですが、こういった内容の口承歌謡や口伝は、他の地域には無いでしょう。そして「神歌には、古代の日本本土と琉球の歴史の謎を解く鍵の幾つかが残されている」という可能性を見て取れます。

神歌は研究者により収集・採録されていますが、歌詞の意味する所の仔細な研究は進んでいな、言及する論説は少数です。しかし近年「神歌など各種の資料から、沖縄を通して日本史全体を再定義する論説」が提示されています。兎にも角にも「沖縄の神歌は日本中でも屈指の重要な歴史資料」であることは間違いありません。

  「歌垣(うたがき)」は「特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗」です。現代では主に「中国南部からインドシナ半島北部の山岳地帯」に分布、「フィリピン・インドネシア」などでも類似の風習が見られ、典型的なリズムや旋律に、掛け合いの言葉が乗ります。

「古代日本における歌垣は、特定の日時と場所に老若男女が集会し、共同飲食しながら歌を掛け合う呪的信仰・予祝・感謝の行事」「古代の言霊信仰の観点からは、ことばうたを掛け合うことにより、呪的言霊の強い側が歌い勝って相手を支配し、歌い負けた側は相手に服従したのだ、と説かれる」とされ、記紀・風土記・万葉集などに見え、後の「歌合」「連歌」に影響を与えました。歌垣が行われた場所は各地にありますが、霊峰「筑波山(茨城県つくば市)」の歌垣は万葉集や常陸国風土記に見え、また「日本武尊(やまとたけるのみこと)」による「連歌発祥の地」でもあり、頂上の巨石群の中に「連歌岳」があります。

歌垣の一種と見られる風習として、沖縄の「毛遊び(もうあしび)」、福島県会津地方の「ウタゲイ」、秋田県仙北地方の「掛唄」があります。「毛(もう)」とは「原野」を意味し、集落によっては「アジマーアシビ(辻遊び)」「ユーアシビ(夜遊び)」とも呼ばれました。毛遊びは「主に夕刻から深夜にかけて、若い男女が野原や海辺に集って飲食を共にし、歌舞を中心として交流した集会」「単に男女の出会いの場としてのみならず、民謡や楽器演奏技術、舞踊、民話などといった固有文化の伝承の場として重要な機能を果たしていた」「嘗ての沖縄出身の多くの音楽家は、毛遊びで競い合うことによって音楽的素養を磨き、即興や掛け合いの中から新しい民謡を次々に生み出していった」とされ、かつて沖縄で広く行われていた慣習でした。

この歌垣の風習は南方系文化で、「焼畑耕作民にも水稲耕作民にも見られるが、特に山岳焼畑地帯で顕著であり、もとは山岳地帯の焼畑耕作民の文化だったと考えられている」とされます。ここから「東南アジアから中国南部・ヒマラヤ(日本南西部から台湾・華南・ブータン)にかけての一体の文化圏」の「照葉樹林文化論」と結び付けられて語られます。「照葉樹林文化圏」は「森林」「山岳」と結びついた要素が多く、の特徴として「根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業、陸稲の栽培、モチ食、麹酒、納豆など発酵食品の利用、鵜飼い、漆器製作、歌垣、お歯黒、入れ墨、家屋の構造、服飾」などが挙げられます。「稲作文化」「畑作文化」も考証され、発展段階は「プレ農耕段階」「雑穀を主とした焼畑段階」「稲作ドミナントな段階」と辿るとされます。「東日本のナラ林文化」も提唱され、「中国東北部や朝鮮半島に広がるモンゴリナラやブナ林の分布する地域にみられる文化要素」との関連も示唆されています。

  「琉歌(りゅうか)」は「奄美群島・沖縄諸島・宮古諸島・八重山諸島に伝承される叙情短詩形の歌謡」「沖縄の和歌(短歌・長歌)」「詠むための歌であると同時に謳うための歌でもある」です。和歌と同様に「ウタ」とも言われ、「おもろ」「うむい」から変遷したもので、17世紀に盛んになりました。和歌は「五七調」ですが、琉歌は「八音を中心に、五音・六音・七音を標準とする」「サンパチロクといわれ、八・八・八・六が基本形」です。琉歌は「三線(さんしん)」などの楽器に伴奏されて歌われました。

琉球王国時代には「和歌」も盛んに詠まれ、琉歌の歌人は和歌にも精通していました。また、和歌を改作した「改作琉歌」も多数見られます。「改作琉歌」では、特定の言葉・表現法が多用されていて、これは当時の知識層の流行だったと思われます。

奄美諸島には「島唄(しまうた)」があり、歌手を「唄者」と呼びます。伝統的な唄者は声が良く、歌い方が上手いだけでなく、歌詞を多く知っていて、即興で唄を歌い合う「唄遊び(うたあしび)」の名手であることも条件です。「奄美方言(シマグチ・シマユムタ・シマユミタ・シマムニ・シマフトバ)」では「シマは自らの郷里を指し、シマ唄とは郷里の民謡を意味する」とされます。島唄には「グイン」と呼ばれる、非常に特徴的な瞬間的な裏声(ファルセット)の歌唱法があり、裏声を用いる歌唱法は世界でも島唄とヨーデルだけとされます。また「音域が非常に広い」のも特徴です。奄美大島の高齢者は、出身集落以外の歌は「シマウタ」とは呼ばないとの報告もあり、これは「奄美群島や沖縄県では、集落ごとに独自の民謡を持っていることが多く、多くの市町村に広まっている歌も、集落ごとに異なった歌詞のバリエーションを持っている」ことによると言います。島唄は「日本民謡の南限」「沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限」という側面も持っています。

《島唄について、達人の朝崎郁恵は次のように語っている》
・私の歌っているのは神唄。
・神唄は本来カミニンジョウといわれる神降ろしをして唄う人によってのみ唄われていた。
・秋の収穫の際に村中の家から一合づつお米を集め、
 トネヤといわれるご神事を行う祭事場でお神酒をつくる。
・神迎えの唄を唄い、お神酒ができたら神送りの唄を唄い、できあがったお神酒を各家にふるまう。
・今はカミニンジョウと呼ばれる人はおらず、神唄を唄える人もいなくなってしまったけれど、
 祭事場のすぐ傍に家があった朝崎はいつも、神唄をまねて口ずさみながら妹とままごとをしていた。

  南西諸島のうち、特に琉球諸島と奄美諸島では、「共通する古典芸能・伝統音楽・歌謡文化」が存在します。しかし諸島や島ごとに、独特の形態が存在しています。音楽においては、「カチャーシー」など、体の動きが伴う事が多いです。「琉球舞踏」は「三線(さんしん)」「箏(こと)」「笛」「太鼓」「胡弓(こきゅう)」により構成されます。

「琉球音階」は「ド・ミ・ファ・ソ・シ・ド」で構成され、「沖縄県全域と奄美群島の沖永良部島・与論島」に分布、沖永良部島と与論島は「北山王国」の領域内だったからと見られ、奄美群島の徳之島以北は、本土と同じ「ヨナ抜き音階」です。これらにより「琉球民謡」には、特徴的な様式・メロディーがあり、今日の「沖縄音楽」も色濃い地方性が見られます。

「魂振り・魂呼び・殯、神事・芸術の原点」にあるように、「音楽・舞踏・歌」「芸術」は古くは神事であり、主に「巫女」が携わっていて、生体を活性化させる「魂振り」をもたらす物でした。大王の「殯(もがり)」に携わった「遊部(あそびべ)」は「音楽・舞踏」を職掌としていました。南西諸島は「祭祀・神様」の他にも、「歌・伝統歌謡・古典歌謡」が比較的身近にあります。これらも「南西諸島には古代日本の姿が色濃く残っている」のが理由でしょう。更には、南西諸島では「シャーマニックな歌手」が多いように思われ、これもこういった土地柄によるのだと考えられます。

  • 南洋産貝製品の古代社会における重要性
  「沖縄・南西諸島の祭祀具の文化」は、古来より「沖縄独自の文化」「日本本土由来の文化」「南方系民族・南洋諸島由来の文化(台湾・フィリピンなど)」「中国由来の文化」が存在しました。

「沖縄における独自の祭祀文化・用具の文化」を物語る遺物の発掘例は、旧石器時代に遡ります。沖縄の旧石器時代には「骨角器文化」があったとされます。縄文時代晩期には、複雑で特徴的な幾何学的造形をした「蝶形骨器」が、主にジュゴンの骨などで作られています。

  古代の沖縄を特徴付けるのは、特に「貝塚時代(BC5000〜AC1000年)」を彩る「貝製品文化」と言えます。

縄文時代の貝類の採集
・縄文人が貝類を食糧資源・装飾品の原料として採取するようになったのは縄文早期前半で、
 代表的な遺跡として「夏島貝塚(神奈川県横須賀市)」が挙げられる。
・縄文早期の半ばには、瀬戸内海沿岸や東北地方でも貝塚が形成されるようになる。
・採取対象は当初は「ヤマトシジミ」であったが、やがて「カキ」や「ハイガイ」などにその中心は移る。
・「腕輪やペンダントの原材料」として採取された貝類もある。
 特に目立つのが「オオツタノハガイ」の利用である。
・「オオツタノハ」は、二枚貝である。
 主に「屋久島」「トカラ列島」「竹島・硫黄島・黒島」の物が利用された。
 縄文期には、特に縄文後期・晩期を中心に、
 「関東地方全域」から、北は「有珠10遺跡(北海道伊達市噴火湾の小島)」でも出土している。
・これについて、原材料となったオオツタノハガイは南九州から運ばれたという説と、
 三宅島以南の伊豆諸島にも生息域があったのではないかとの説が対立している。
・他には「ハチジョウタカラガイ」も広く利用された。

「貝製品」は「縄文時代・弥生時代・古墳時代の重要な祭祀具・装身具・装飾具」として、沖縄から北海道まで全域で数多く用いられてきました。貝製品は種類が多数あり、時代と共に変遷、「古代日本に特徴的な文化」「古神道の祭祀具・装身具」と言えます。「南方産貝製品」は「縄文時代・弥生時代・古墳時代の重要な交易品」でした。また後代では、貝製品は主に「装身具・装飾具」として利用されています。種類は「貝輪」「貝製足輪」「貝玉」「貝符」「垂飾」「耳飾り」・・・など多種多様です。複数の南洋産貝製品が北海道でも出土、また勾玉と同様に、「朝鮮半島」でも日本産貝製品が出土しています。巻貝を威信財に用いる文化は、中国では五千年前の黄河上流青海省の「馬家窯文化(まかよう)」に始まり、秦王朝(BC200)まで続きました。

  「貝輪(かいわ)」は「貝殻で作られた腕輪」、貝の多くは「奄美群島以南」に産するもので、「九州」との間で盛んに取引されました。縄文時代は「サルボウなど大型二枚貝に、穴を開けたもの」が広く見つかっています。弥生時代、九州北部などで「巻貝類のカサガイ・オオツタノハなどに穴を開けたもの」「巻貝類のイモガイ・ゴホウラ・スイジガイなどを切ったもの」で作った貝輪が盛行し、支配階級を表す「威信財」となっていました。他には「ベンケイガイ」「マクラガイ」「ホタルガイ」なども用いられています。

縄文時代では、貝輪を装着した人骨は成人女性が殆どで、女性が着装する物だったとみられます。縄文早期から晩期の「山鹿貝塚(福岡県芦屋町)」では、3500年前(縄文後期)の人骨18体が発掘されました。そのうち呪術者と見られる女性人骨(2号人骨)は、「20才前後・推定身長150.3センチ」「右腕5個・左腕14個のベンケイ製貝輪をつけている」「胸に軟玉か蛇紋岩の、穴を開けた首飾りがあり、長さ75ミリ・幅31ミリ・厚さ14ミリ、常に着装していた」「鹿角2本(25センチ)を、穴を開けて胸にぶらさげている」「二本のサメの歯で作ったイアリングをつけている」「額に輪をはめていた圧迫痕がある」「彼女の上半身の周りだけは砂が赤く染まっていて、朱を撒いたか、赤い服を着ていた」「腕に生まれたばかりの赤ん坊(4号人骨)を抱いている」「左側に寄り添うように女性(3号人骨)がいて、30才前後で推定身長147.1センチ、ベンケイ製貝輪を右腕に11個・左腕に15個、鹿骨製かんざし2本つけている」という状態で発見されました。

  弥生時代と古墳時代前期、特に「ゴホウラ製貝輪」「イモガイ製貝輪」「スイジガイ性貝輪」と、そこから派生した事物が重要視されました。こういった南方産の貝

「ゴホウラ(護法螺貝)」は、多くは見られない大型巻貝で、「成貝の殻は著しく重厚堅固で、高さ18cm・太さ12cmになる」「楕円形で背腹に扁平、螺塔の高さは中庸」「殻表は滑らかで乳白色の強い光沢がある」「奄美大島以南の熱帯太平洋に分布」「珊瑚礁の水深10mほどの深い砂場に生息」です。

ゴホウラ製貝輪は、弥生時代前期に「北部九州」で出現しました。中期後半の「北部九州」には「ゴホウラ製立岩型貝輪」「甕棺墓」「砂丘遺跡」という様式がよく見られます。そして「島根県(出雲)」「香川県(讃岐)」「愛媛県(伊予)」「岡山県(吉備)」「兵庫県(のうちの播磨)」などに普及しました。

ゴホウラ製貝輪
・ゴホウラ製貝輪は、形の違いによって「金隈型」「土井ケ浜型」「諸岡型」「立岩型」「広田型」などに分類される。
・初期の「縦切り型のゴホウラ製貝輪」は、貝の螺旋構造を活用し、幅広で厚い。
・しかし、時代が下るとともに腕に数多く装着する「貝輪多連装着」が流行、規格的に厚みも1cm前後に変化した。
・弥生時代後期前半、既存のゴホウラ製貝輪は、「有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)」に変化して姿を消す。
・南九州で新たなゴホウラ製貝輪が出現、ゴホウラの貝塔の(縦方向の)中央付近の横端に「一大結節」を
 意識的に研磨して強調した「鉤状突起(かぎじょうとっき)」が貝輪に形作られた。
・この「鉤状突起と多連装着と薄型を特徴とした定型のゴホウラ製貝輪」と これを祖形に後に現れた
 「鍬形石(くわがたいし)」は、ヤマト王権の象徴となり、「古墳時代前期の大規模古墳」に特徴的に副葬される。
・ゴホウラ製貝輪は、男女共用の「広田型」以外は、殆どが男性が着装している。

「イモガイ(芋貝)」は、イモガイ亜科などの巻貝の総称です。貝製品としては南西諸島産「アンボンクロザメ」などをを使用し、「殻は円錐形で、ほとんどの種で螺塔が低く殻口が狭い」「殻長は最大で23cm程度」「和名は形状がサトイモに似る事から」「潮間帯から深海まで棲息」「日本では主に房総半島以南や能登半島以南に見られ、南西諸島では格段に増加、沖縄県では約110種を数える」という性質があります。

「スイジガイ(水字貝)」は、ゴホウラの近縁種、6本の突起がある特徴的な貝殻を持つ巻貝で、突起先端が円弧を描き、突起六本のうち五本は時計回り・一本は反時計回りです。「成貝は突起を含めて殻長24cm・幅16cmに達する」「貝殻は厚くて硬い」「殻口が大きく開き、螺塔の巻きは小さい」「貝殻の表面は巻きに沿って大小の螺肋があり、黄白色の地に黒褐色の縞模様が走る」「殻口は光沢のあるピンク色」「和名は形状が水の字に似る事から」「日本では紀伊半島以南の沿岸域の、浅海のサンゴ礁や岩礁の砂礫底に生息」「装飾品・貝細工に利用される」「火難除けや魔除けとして家の玄関や家畜小屋に吊す風習があり、民家の玄関に今も時折見られる」「宮古島ではヤドムリャといい、家を守るという意味で、魔除けに用いる」「沖縄県名護市・宮古島市のシンボル(市の貝)」「食用にもなる」という性質があります。「ゴホウラ・イモガイを多く産する産地」は「沖縄本島付近」です。

「ゴホウラ」は、奄美では「テルコニャー(太陽の貝)」と呼ばれ、「テルコ:太陽の古名」「ニャー:貝(ニナ)」であり「太陽の貝」を意味します。「スイジガイ」は、那覇で「ユーナチ・モーモー(世直しの牛貝)」、宮古で「ユーグルー(世直し?)」などと呼ばれます。これらの貝には「太陽」「世直し」という寓意が篭められています。そして「南方産の巻貝は、その多くが太陽を象徴する物、太陽祭祀に纏わる物」とされていて、「太陽を生み出す」と見られていた可能性もあります。

「ゴホウラ製貝輪」は「男性の右腕」に着装、「イモガイ製貝輪」「勾玉」は女性が着装していた、という傾向が見られます。記紀や沖縄などの伝承から、これら巻貝(特に開口部分)の形状には「ホト(女陰)」「子宮」「多産信仰」「邪を食らう」といった呪術的寓意あると言われます。「オオツタノハ製腕輪」は、幼児が着装した例がみられます。

  「ゴホウラ製貝輪の加工途中とみられる物や半製品工房」が「大又遺跡(沖縄県名護市辺野古)」「ナガラ原西貝塚(沖縄県伊江村)」「高橋貝塚(鹿児島県南さつま市)」などで見つかっています。交易の為の「巻貝溜まり(集積遺構)」は多くの場所で発掘されていますが、「南方産貝製品の製造工房跡」は少数しか見つかってない貴重な遺跡で、完成品工場は未発見です。「ナガラ原第三貝塚(沖縄県伊江村)」は、縄文時代・弥生時代の沖縄の最大規模の遺跡で、「弥生時代の物とみられる石棺墓」の内部から「ゴホウラ製貝輪を装着た女性人骨」が出土、これにより「沖縄でも貝輪などを用いる装着・祭祀の文化が、弥生時代・古墳時代にあった」ことが確認されました。

弥生時代中期の「宇堅貝塚(うけん・沖縄県具志川市)」は、金武湾北岸に面した弥生時代中期・後期の遺跡群の一つで、「イモガイ(アンボンクロザメ)の集積遺構」「ゴホウラ」「ヒレジャコ」が出土、「土器一三七一点(弥生土器18%・弥生系土器7%・沖縄後期土器75%)」「貝刃」「ガラス小玉」と、全国的に希少な「板状鉄斧(国内3~4例)」「青銅製後漢鏡」「青銅製漢式三角翼(鏃=やじり=矢先に付ける/国内2例)」が出土しました。

「土井ヶ浜遺跡(山口県下関市)」は、弥生時代前期~中期の300体以上の人骨が出土した墓地遺跡で、響灘近隣の砂丘にあります。埋葬は「砂地を掘り、その中に遺体を安置し、砂で覆う簡単なもの」が大半で、他に「箱式石棺」「石囲い」「四隅や頭辺・足元などに配石した物」などがあり、簡単な墓標を設けているものもあります。弥生時代の多くの埋葬例のように「頭を東に向け、両手を胸で合わせ、足をやや折り曲げて足首を縛った仰臥の姿勢」です。体格は縄文人の形質と明らかに異なりますが、縄文の風習の「抜歯」も多く見られます。「鵜を抱く女」は、胸部に鳥を抱いた壮年女性で、「特別な霊的能力を持った女性シャーマン」とされます。後述のように弥生時代には「鳥信仰」がありました。「戦士の墓」の「英雄」は、弥生前期の体格のいい成人男性で、右腕には「ゴホウラ製貝輪」をしています。78人以上の人々と共に海岸の墓地に眠り、胸から腰に15本の石鏃が打ち込まれていて、「ムラを守った戦士」とされます。

「甕棺墓(かめかんぼ)」は「甕」に遺体を埋葬する風習で、弥生前期~中期の「九州の北西部」で顕著に見られ、被葬者が「ゴホウラ製貝輪」をしている事例が多いです。中国・長江流域から齎された風習と見られ、朝鮮半島南部にも見られます。「箱式石棺」は、縄文~古墳時代に見られます。弥生時代では九州北部・中国西部を中心に前期から出現し、その後近畿を除く西日本に広く分布、「甕棺」など他の埋葬施設と群集して共同墓地を構成します。沖縄にも「箱式石棺」があり、「ゴホウラ製貝輪」「九州北部の土器(特に弥生中期の須玖式土器・後述)」などが共伴します。沖縄で見られる「箱式石棺」「九州北部の土器」は、後述の「貝輪の交易をしていた海人族が齎した文化」とされます。

最近の研究で、歯の形態は「北部九州人:黄河流域や朝鮮のものに類似」「土井ケ浜人:モンゴルやバイカル湖周辺のものに類似」、貝輪の形態は「北部九州人:細い貝輪を重ねてつける(多連装着)」「土井ケ浜人:貝輪を一つ付け、それを大きく見せようとする」と報告されています。「中国山東省の遺跡で発掘された漢代の人骨資料の中に、「土井ヶ浜人」ときわめてよく似た形質をもつ資料が多く見つかっています。また「土井ヶ浜人」は「稲作を齎した人々」という説もあります。
(「初期渡来人とその文化」「稲作」は中国中南部から渡来したとみられるが、稲作が発展した「長江」「淮河」の流域からは人骨の出土が少なく、比較検討が難しい)

噴火湾の小島の「有珠10遺跡(北海道伊達市)は、通称「モシリ」と呼ばれる場所で、縄文時代晩期~続縄文時代(弥生時代)の遺跡です。島の中心は墓域で、周囲は貝塚となっていて、西日本に多い「改葬墓」と「イモガイ製貝輪」「ゴホウラ製垂飾」などが発掘されました。これは弥生時代における、沖縄から北海道に跨る広域の交流を示しています。「スイジガイ製貝輪」は、「松林山古墳(静岡県磐田市)」など、静岡県でも多く出土しています。

  弥生時代後期から「青銅や石(碧玉など)」を用いて「貝輪に似せた意匠の腕輪・装飾品」が作られ始め、弥生時代末期に量が増えていきました。これらは「南方製貝製品」とともに、西日本を中心とした「弥生遺跡」「弥生墳丘墓」の副葬品に用いられています。古墳時代前期には「南方産貝製品から派生したの祭祀具・装身具・意匠」が非常に盛行、これらの「沖縄的事物(南方製貝製品と派生事物)」は「前期古墳(古墳時代前期の古墳)の重要な副葬品」であり、同時代の代表的な祭祀具の一群となっています。またこれらのうち「腕輪類」は、貝輪のように「多連装着」の事例も多いです。

これらの「沖縄的事物」は、弥生時代前期に「北部九州」で出現、中期に「瀬戸内地方」に波及して、後に「畿内」に普及、弥生時代後期~古墳時代前期に各地で盛行しました。「畿内」では弥生時代前記末で終了、中央から離れるほど、より後代まで続いていき、「九州地方」「関東地方」「東北地方南部」では古墳時代後期まで続きました。この「沖縄的事物の九州から畿内・大和地方へという普及」は「神武天皇の東遷伝承」と符合します。そして「沖縄的事物」の分布は、「海洋民・海人族(あまぞく)」の故地において、特によく見られます。

代表的な「南方産貝製品の派生事物」には、次の物があります(碧玉製などとあっても、他の素材もある)。

鍬形石(くわがたいし)
・「ゴホウラ製貝輪」を模した碧玉(青メノウ)製腕飾。
・台形で、上半部に楕円形の穴があり、下半部は扁平な鍬の刃の形。
・ゴホウラの腹面を利用する。
・ゴホウラ製貝輪の輪郭、中央部の穴、鉤状突起の形状が、そのまま模してある。
・ゴホウラ製貝輪から、鉤状突起以外は、左右対称に近い形に変化した。
・畿内の前期の大型後円墳から多く出土する。

車輪石(しゃりんせき)
・「カサガイ」か「オオツタノハ」か「ゴホウラ」を模した碧玉製腕輪。
・外形が楕円形で、輪の部分の表面に放射状の彫刻を配し、扁平な形。
・真ん中に丸い穴が開き、放射状の彫刻を持ち、車輪に似ている事から命名された。
・「ゴホウラの背面貝輪が祖型」とする説がある。

銅釧(かなくしろ)
・「ゴホウラ製貝輪」を模した青銅製腕輪。
・「釧(くしろ)」とは「腕輪」を指し、「石釧」「貝釧(貝輪)」「銅釧」「鈴釧(鈴をつけた銅釧)」などがある。
・銅釧は、南関東一帯で弥生時代後半から古墳時代前期に盛行した。

有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)
・ゴホウラ製貝輪の「鉤状突起」を特に模した物。
・弥生時代中期後半に「北部九州」に始まり、弥生時代後期に盛行、古墳時代前期前半に終焉に向かった。
・全国で約40箇所の遺跡から、100点弱が見つかっている。
・「北部九州」「瀬戸内地方」「大阪湾岸地域」「近畿地方北部」「東海地方」「南関東地方」に多い。
・「伊豆半島の沼津以東」の有鉤銅釧は、「環部の帯状化」「鉤状突起の扁平化指向」の共通性が強い。
・東日本には、女性用「有鉤銅釧」と、男性用「帯状円環型銅釧」があったと見られ、分布域が重なる。

石釧(いしくしろ)
・「イモガイ製貝輪」を模した碧玉製腕輪。
・放射状の彫刻を持ち、今日的な腕輪に近い形状である。
・沖縄的事物の中で、例外的に古墳時代中期以降も用いられた。

巴型銅器(ともえがたどうき)
・「スイジガイ」を模した物。
 円形の胴体からつめのような複数の脚が放射状に伸び、スイジガイの形がそのまま表現されている。
 大型のものは径15cm、通常は5~6cm。
・「木の盾」に装着された形で見つかり、「盾などの飾り」とも言われる。
・巴型銅器の鋳型は「吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町・神埼市)」など九州北部で三つ出土した。
・全国で約40点が出土、出土地は「九州」「広島県」「愛知県」「神奈川県」「朝鮮半島」など。
・弥生時代後期(2世紀)から作られた。
・「巴形石製品」は、国内で6例が出土している。
 最古の物は、纒向遺跡(奈良県桜井市)の古墳時代前期(3世紀後半)の物。
 大王の居館とも推定される、中心部の建物跡付近の穴の中から出土した。
・この項の他の物よりは出土数が少ない。

玉杖(ぎょくじょう)
・持ち手の部分の先端が「スイジガイ」を模した物。
・王権の象徴として前期古墳で重視された。
・東は「千葉県」「埼玉県」、西は「福岡県」から出土した。

琴柱型石製品(ことじがたいしせいひん)
・「玉杖」の先端部分に似る石製品。

合子(ごうす)
・石製の容器。
・「スイジガイ」を模した意匠を持つ。

これら「南方産貝製品」は、基本的に日本で発明された物が多いですが、「玉杖」のように、中国由来で、朝鮮半島でも見られる物もあります。また一般的には、祭祀具においても古代中国の影響は多く見られます。

  「直孤文(ちょっこもん)」は、古墳時代前期に最重要視された意匠であり、「王者の紋様」と言われます。限られた古墳からのみ出土して、「首長級の豪族が使用した紋様」「彩色・紋様などが描かれた装飾古墳の石棺に施された例が多い」です。これは「渦巻き紋様を複雑に幾何学的組み合わせをした意匠」であり、「死と再生・輪廻転生・永続性」という意味を持つ「高度に呪術的な意匠」だと言われます。直孤文の意匠は「ゴホウラ製貝輪(祖形)」又は「スイジガイの形状」→「弧帯文(こたいもん)」→「直弧紋」と変遷しました。

「ヤマト王権」誕生の時期は、古墳時代開始と、古墳時代初期の「箸墓古墳(奈良県桜井市)」など「出現期古墳」の築造と、同時代に設定されています。ヤマト王権の誕生には「吉備(岡山県)」勢力が最重要の役割を果たしました。「楯築遺跡(楯築墳丘墓・たてつき・岡山県倉敷市)」は、弥生時代の吉備地方の最重要遺跡です。「楯築墳丘墓」と、「山陰地方・吉備地方~北陸地方(越国)」に分布した「四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがた)」は、「古墳の祖形」です。吉備の「特殊壺・特殊器台」は「埴輪の祖形」です。「出現期古墳」には「吉備系の副葬品・様式」が多く見られます。

「楯築墳丘墓」は、弥生時代末期(2世紀末葉)の吉備地域の大首長の陵墓で、この地で「首長霊の継承儀礼」を行っていたとされます。通常、古墳に比べると「弥生墳丘墓の規模と副葬品」は非常に劣りますが、楯築の規模は大きく(墳丘長約80m)、副葬品は弥生墳丘墓で最多、「木棺(長さ約2m、前例のない、30㎏強の美しい水銀朱が敷き詰められた物)」から「翡翠製勾玉・瑪瑙製管玉・碧玉27個からなる首飾り」「数百の小さなガラスや管玉製首飾り」「長さ47㎝の鉄剣」が出土しました。楯築には「弧帯文」が施された「施帯文石」が二個あります。一つは嘗て頂上部にあった「亀石」は、亀の形に似た一抱えもある石で、表面全体に「弧帯文」があります。もう一個は、亀石より小振りで墳墓上の円礫堆下部から出土、百個以上の破片に砕かれていました。「施帯文石」は近隣の「鯉喰神社」の物も併せて、計三つが見つかっています。

楯築墳丘墓の墳丘には、吉備国一宮「吉備津神社(きびつ・岡山県岡山市北区)」の境外末社「楯築神社」が鎮座、亀石を御神体としています。「吉備津神社(岡山市)」と、備前国一宮「吉備津彦神社(きびつひこ・岡山県岡山市北区)」と、備後国一宮「吉備津神社(きびつ・広島県福山市)」は、共に「大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと・吉備津彦命)」が御祭神として、そして古代吉備王朝との関係性が語られます。「吉備津神社(岡山市)」「吉備津彦神社」が鎮座する「吉備の中山」は、古くは神体山だったとされ、巨大な「磐座」が多く、「環状列石(ストーンサークル)」があり、命の陵とされる「中山茶臼山古墳」など、多くの古墳があります。

この「施帯文石」は、「ヤマト王権最初の都」「邪馬台国の都」である「纏向遺跡(まきむく・奈良県桜井市)」の「弧文円板」と、葬送儀礼で共通するとされます。遺跡内の「纒向石塚古墳」は全長96メートル、3世紀始め頃の築造で、最古の前方後円墳とも言われます。「くびれ(後の造り出し)」に祭祀跡があり、柱を立てて、その上に「弧紋円盤」を飾っていました。このように瀬戸内地方を代表する勢力であった「吉備勢力」の大首長墓の最上部の大石に刻まれた文様と、初期ヤマト王権の陵の遺物に刻まれた文様が、「弧帯文」「直弧紋」であった事は、この紋様の非常な重要性を示します。

「装飾古墳」には「沖縄的事物の意匠」が多く描かれていて、「海人族」や「縄文系」とされるような意匠・事物も多く描かれています。装飾古墳は「熊本県」「福岡県」に集中的に分布します。「舟」は装飾古墳によく描かれる画題で、「舟形木棺」「舟形石棺」「船形埴輪」「舟形木製品」などと共に、「古事記 仲哀記」に見える「喪船(もふね)」を表すと考えられます。これらは「被葬者の乗り物」であり、出土地は「海人族の分布」と重なるとも言います。そして「舟葬(しゅうそう)」という、「海人族の死者を船で黄泉の国へ送る葬送儀礼」に対応しています。「熊野三山」の「熊野那智大社(くまのなち・和歌山県那智勝浦町)」の絵図には、「船に死者を乗せ、海上を航行している」「船の前後に鳥居が描かれている」という図があります。

「天鳥船(あめのとりふね)」は「日本神話に登場する神」であり、また「神が乗る船の名前」です。鹿島神「建御雷神(たけみかづちのみこと)」が「天鳥船」で、祭祀氏族でもある「物部氏(もののべ)」の祖神「饒速日尊(にぎはやひのみこと)」は「天磐船(あめのいわふね)」で、天より天下っています。装飾古墳には「舟と鳥」という図柄がよく見られます。「天鳥船は舟葬に纏わる神で、海人族の習俗を表す」との説もあります。「舟葬」「鳥と舟」という形態は、古代の東南アジアから東アジアに幾つか見られ、「鳥信仰」は広く東アジア・南シベリアなどに存在していました。弥生~古墳時代には「鳥は神の国と人の世を仲立ちする存在」とされていたと言われ、折口信夫は「古代、鳥、殊に水鳥は、霊魂の具象した姿、又はその運搬者と考えられた。しかも魂の一つの寓(やど)りである」と述べてます。また「鳥」は「稲魂」「穀霊」であるとも言います。

  「翳(刺羽・さしば・さしは)」は「儀式用の調度の一種」「団扇に長柄をつけたもの」「貴人の外出時や、天皇が即位・朝賀などで高御座(たかみくら)に出るとき、従者が差し出して顔を隠すのに用いた」という物です。古代の翳の実物・図柄は少ないですが、「竹原古墳(福岡県宮若市)」の6世紀後半の壁画が知られ、他に「龍」「馬を曳く人」「朱」「小舟」「三角連続文」「波形文」が描かれています。一説に「翳」は「ゴホウラの形状を祖形とする」という説もあります。そして、装飾古墳によく描かれている紋様「蕨手文(わらびてもん)」「双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)」を「翳を模した図柄」とする説もあります。

「前方後円墳」とは、大規模な祭祀が行われた古墳時代において、大規模古墳(全長100m以上)を含めて、非常に多数が造営された古墳の中でも、その頂点に位置付けられた古墳(形状)です。また、世界的にもあまり例のない形状を持った遺構です(マナの壷と類似する)。そして「前方後円墳はゴホウラ製貝輪や鍬形石の形状に酷似する」という点から、「前方古円墳はゴホウラ製貝輪が祖形になった」という説があります。「ゴホウラ製貝輪」は、左右対象に近い「鍬形石」に変化、ここから「前方後円墳」に変化し、「鉤状突起」は後円部と前方部の間の「造り出し(当初は"くびれ"で後に変化、初期は重要な祭祀場)」に変化したとすると、「ゴホウラ製貝輪と鍬形石が首長墓などでの副葬が多い」「形状の類似」「左右を非対称にする造り出しの存在理由」の合理的説明ができます。また一部の主要な「御嶽」も、「前方後円墳やゴホウラ製貝輪の形状との類似がある」と言います。「弥生時代末期~古墳時代初頭の沖縄的事物の位置付け」を鑑みると、「ヤマト王権王権で最重視された大規模施設について、沖縄的事物の中で最重視されたゴホウラ製貝輪の形状を模す」のは当然とも考えられます。

古墳時代には、「滑石」「蠟石」ほか柔らかい石を用いた「石製模造品」や、「埴(はに=粘土・赤土)」を用いた「土製模造品」が大量に作られました。「模造品」は「鏡・玉類・武具・・・」ほか多数を模造した物で、「祭祀具」として祭祀の供物としました。またこれには「翡翠(硬玉)・碧玉」などは加工が困難で、細部の模造をし難いかったからでもあります。「沖縄的事物」の「石製模造品」「土製模造品」もあります。

この他にも幾つかあり、現在判明している物以外にも「沖縄的事物を祖形とした祭祀具・装身具・意匠」だと推察する説がある物があります。詳細はまだ分かってない物が多く、推論の域の物も多いですが、これらの説の幾つかには、妥当な説があると感じられます。

これらの南方産貝製品や派生事物は、他の祭祀具・祭祀文化や各種文化と同じく、地域や氏族ごとに志向が異なっていて、その分布範囲はモノによって別れます。これにより、「この文化はA地域で発祥、B地域を経由して、C地域で完成した」「D地域の氏族が他地域に進出した」「E地域とF地域とG地域の氏族は同族か、近い関係にある」などという推定が出来ます。

また、「沖縄的事物」とは異なりますが、「ヤコウガイ(夜光貝)」も珍重されました。インド太平洋のサンゴ礁域に生息する大型巻貝で、重厚な殻の裏側に真珠層があり、古くから螺鈿細工の材料として利用されました。古代「夜久貝」「夜句貝」「益救貝」「屋久貝」などと称され、これら表記は、交易品としての需要が高まった9世紀以降の資料に多いです。奄美群島では「ヤクゲー」「ヤッコゲ」、沖縄・先島諸島では「ヤクゲー」「ヤクンガイ」と呼びます。分布の北限の「屋久島」と「ヤコウガイ」の呼称は直接結びつきません。ヤコウガイはその美しさゆえ古くから工芸品に使われ、平螺鈿背八角鏡など、「正倉院」の宝物にも螺鈿として用いられています。また奄美大島北部の6~8世紀の遺跡からは、ヤコウガイが大量に出土します。

  「沖縄的事物(南方産貝製品と派生事物)」は「弥生時代後期~古墳時代」を中心に、「弥生時代前期~古墳時代後期」にわたって見られ、「九州地方~東北地方南部」に分布、古墳時代前期のヤマト王権の領域全域に分布しています。このように「沖縄的事物」は「本土の弥生墳丘墓・古墳(前期古墳)の重要な副葬品」となっていて、「弥生時代から古墳時代の日本独自の特徴的な重要文化」「最も重要な威信財・価値財の一つ」「地域の最高権力者たちが多く使用した、特別な象徴的意味を有する希少品」でした。

「沖縄的事物」は「古墳の被葬者の直近で発見される」ことが多いです。特に「ゴホウラ製貝輪」「鍬形石」などは、その副葬のされ方から(被葬者との距離・副葬の丁寧さ)、古墳時代初期を代表し、最も価値があったとも看做されている祭祀具「三角縁神獣鏡(後述)」よりも重視されていたとされています。また「三角縁神獣鏡の副葬が多いと、沖縄的事物の副葬が少ない」「三角縁神獣鏡の副葬が少ないと、沖縄的事物の副葬が多い」という事例が多く、両方の性質は共通していたと見られます。

弥生時代前期末(約2500年前)・古墳時代において、「日本本土(九州)と沖縄諸島・奄美諸島・トカラ列島・大隈諸島の間」には、「貝の道」と呼ばれる「南方産貝製品の海洋交易ルート」が存在していました。沖縄諸島以北の南西諸島では「大量加工の工房跡の遺跡」も発掘されていて、九州由来の「箱式石棺墓」を伴った遺跡など、日本本土との文化交流を物語る遺跡・遺物が多数出土しています。貝製品は一旦備蓄されてから、本土へ運ばれていきますが、「備蓄場所は呪術的な意味合いを持つようになった」という説もあります。貝製品の交易は古代においては、飛鳥時代の7世紀まで続き、後に再び9世紀から少しずつ復活していきます。

もしこれらの論説・見立ての通りだとすれば、特に「前方古円墳はゴホウラ製貝輪が祖形になった」とすれば、また後段の「日の丸の起源」などにも遡及すれば、「古墳時代やヤマト王権のみならず、現在まで連なる国家・社会の制度・構造や祭祀形態の全体像」にまで、その中核には「沖縄的な事物・観念」が存在していた事になります。そしてこの事は事実であるでしょう。

  • 沖縄的事物と女性祭祀と海人族が示唆する、古代社会の在り方と平和の希求と大規模な変化
  ここで「沖縄的事物(南方産の貝・貝製品と派生した祭祀具・装身具・意匠)が重要視された理由」「近海産でなく、南洋産の貝製品が重視された理由」というのが問題となります。「本土では希少品であること」が理由なのは当然ですが、しかしこれだけでは不十分な説明です。

また、日本の歴史学は分野内の細部まで非常に詳細な研究が重ねられているのですが、何故か「弥生時代の墓構と古墳時代の古墳の副葬品・遺物」の「沖縄的事物」だけは「威信財・装飾具として重視された」というだけで片付ける傾向があり、その原因・背景への解明が等閑にされていました。しかし「非常に重視されたという状況になるには、当時の祭祀的・思想的な背景として、何らかの合理的理由が存在していた」はずであり、そもそも「たまたま非常に重視される祭祀具・威信財となった」「たまたま他の地方の事物はそうならなかったが、沖縄的事物だけは重視された」というのは、「古代の祭祀の重要性」「祭政一致体制」「世界的に類を見ない巨大祭祀とその労力」「社会的地位の証明の重要さ」から説得力に欠けます。そして、その解明には「古墳・副葬品・各種遺物の研究」「本土の古典や著名な神話・伝承などの資料研究」「大陸の古典」だけでなく、 更に各種の資料を調査する事が重要だと言えます。

  ここまで「沖縄的事物」が重視されたのは「弥生時代・古墳時代前期の祭祀観と社会の思想的観念」による物であり、それは「南西諸島(沖縄諸島・奄美諸島・トカラ列島・大隈諸島)が、特別な文化的・観念的な位置付けをされていた」という可能性が考えられます。これについて、先述の神歌の研究による論説も含めて、「南洋の島々に対して、ある種の理想郷や聖地的な観念があり、それが同地の産品・製品に投影された」、このような意味合いがあったとする見方もあります。この説は「常世を沖縄に比定する説がある」ことが論拠の一つとなります。上記のように「海の彼方に理想郷がある」という思想は、古来より日本に広く存在、この思想が影響していた事は想像するに難くありません。

「弥生時代・古墳時代の沖縄では、戦争が無かった」とされています。 実際の所は不明ですが、「戦争を想定させる古代の遺構・遺物は発見されていない」「武具も少ない」ので、平和な時代が長く続いたのは確実でしょう。

逆に、弥生時代の日本本土では戦乱が起こっていて、魏志倭人伝には「倭国大乱」と書かれています。社会の大きな階層化も発生、拡大していきました。古墳時代はヤマト王権の域内でこそ、戦争は殆ど無かったものの、その時代を通して言うと、概して社会階層が固定化していき、男女格差も固定化していきました。こういった世の中を沖縄では「戦世(いくさゆ)」と呼び、人々が何時の世にも求めるのは「真の平和」です。

弥生時代に戦乱が起こった大きな要因に、「稲作など農業の発達」により「土地と水を巡る争い」が起きたと言われます。そして「農業に必要な土地・水・太陽のうち、土地と水は有限だが、太陽は誰の頭上にも等しく存在する」ので、この意味においては「太陽:平和の象徴」と成り得ます。

  そして「ヤマトから下たる赤椀の世直し(ゆのーし)」という「神歌の歌詞」は、古代における「平和な世の中の希求」という状況を示しているでしょう。それは古代沖縄の「共有社会」「母系的社会」といった様相で、「平和・幸福・真の豊かさ」に近くて、そして「縄文文化への回帰」であったでしょう。

この神歌が形成された時代は、弥生時代~古墳時代である筈です。江戸時代以降に本土と沖縄の関係は再び深まっていきましたが、この時代に作られた神歌が「世直し」という歌詞を繰り返し歌う訳がありません。それ以前に本土と沖縄が密接であった時期は、弥生時代~古墳時代です。そして神歌を歌うノロの首には、弥生時代の北部九州に発する「丁字型勾玉」が下がっています。

「赤椀」とは、弥生中期(2000年~2400年前)の北部九州の赤い土器で、沖縄各地で出土する「須玖式土器(すぐしきどき)」だと、上記論では説明されています。「須玖岡本遺跡(福岡県春日市)」は須玖式土器の標識遺跡で、豪華な副葬品があり、魏志倭人伝の「奴国」の都はこの付近にあったとされ、九州で最大の規模でした。「斎場御嶽」では「金の勾玉」などが出土しましたが、より下層で「須玖式土器」と「火を炊いて神祀りをしたらしい物証」が出土、往古からの聖地であると立証されました。

「ヤマトから下たる赤椀の世直し(ゆのーし)」と、類似の詞を持つ「神歌・祝詞(のりと)」「古代歌謡」は、「古代日本の多くの土地で歌われていた」のかもしれません。時代背景と遺物の状況を考えれば、平和や世直しの話題が社会の主要関心事の一つであった事は間違いないでしょうし、ならばそれを「神歌・祝詞」「歌謡」などの形で歌っていた筈です。しかし「口承歌謡であるので、文化継承が行われ得ない時代背景があって、後代に継承される事はなかった」という可能性も考えられます。

上記の論では、古墳時代後期後半~古墳時代前期の古代日本において、以下の様相があったと説明されている
・沖縄・南西諸島は、ある種の聖地的な場所であった。
・その理由は沖縄が平和な世が続いていて、女性が尊重された社会だったからである。
・太陽は、その光線の平等性から、平和の象徴とされた。
・そこで太陽を象徴するとされる巻貝などの沖縄的事物に、平和思想が仮託された。
・本土の一部地域で起こった平和への希求と、沖縄の精神的文化が合わさって、世直しの運動となった。
・世直し運動は弥生時代中期の北部九州に発し、瀬戸内地方や中国地方全般へ至った。
・一時期の途絶がありながらも、畿内へ東遷、弥生時代末期にヤマト地方へ至った。
・世直し運動と沖縄的事物は、邪馬台国や初期ヤマト王権の精神的支柱であり、広範な国が参加した連帯運動であった。
・巻貝の形状に意味があり、鏡と須玖式土器(本土では弥生中期のみ)と共に、太陽信仰の象徴だった。
・南方産巻貝を祖形とした、鍬形石・車輪石・直弧文なども、太陽信仰の象徴であった。
・前方後円墳の形状の祖形は鍬形石で、ゴホウラ製貝輪が起源である。
・古墳時代前期末に、ヤマト王権の体制の劇的な変容によって、世直し運動は終焉した。
・沖縄的事物は廃絶されていき、本土と沖縄が離れていった。

「北琉球の土器様式を南九州側が受容した事例」が、近年報告されています。これにより「古代に沖縄文化が日本本土に流入した事例がある」ことが判明、上記論説の当否とは別に、論が成立し得る事は判明しました。土器形式の変遷・影響は判別がしやすい物ですが、他の事物にも「古代に沖縄文化が日本本土に流入した事例」の可能性が、複数の事物について言及されています。

いずれにしても「弥生時代・古墳時代の沖縄と日本の祭祀・文化・社会の状況と、沖縄的事物の神聖視は、直接的に関連する」という可能性はかなり高いでしょう。そしてこういった論説に拠れば、「弥生時代の墓構と古墳時代の古墳の副葬品・遺物」「古代日本で重要視された物に沖縄に関連する事物が多い(クバなど)」「沖縄と本土日本の古層が共通する」「沖縄に日本語の古語が多く残る」「本土日本語と琉球方言の分岐が弥生時代~古墳時代前期とされる」という点を、素直に解釈できます。

  南方産貝製品を交易した集団と、南方産貝製品に深く関わった集団としては、「隼人」と「海洋民・海人族」が挙げられます。先述のように、南九州の「隼人(はやと)」は「文化的・言語・祭祀(呪術)な独自性」「縄文的な様相」を多分に有した集団で、南西諸島への海路への影響力を持っていました。

古代日本の形成過程においては「海洋民・海人族(あまぞく)の文化・祭祀面の影響が強かった」とされ、「阿曇族(あづみ)」「宗像族(むなかた)」「海部氏(あまべ)」「凡海氏(おおあま)」「息長氏(おきなが)」などが知られ、「和珥氏(わに)」「久米氏(くめ)」「忌部氏(いんべ)」なども海人族的な性質が指摘されます。

縄文時代中期の6000年前をピークとした温暖な時期、日本列島の「海岸線」は現在よりも遥かに内陸にあり、そして入り組んでいて、「内海」「湖沼」が多く存在しました。現在のように土砂堆積や埋め立てなどで、乾燥した陸地が広がり、陸上交通が容易になったのは中世~近世以後のことです。近世まであった「香取海(かとりのうみ)」は「霞ヶ浦・北浦・印旛沼・手賀沼・利根川などに跨った広大な内海」であり、「東京湾」の海岸線はもっと内陸にありました。「奈良盆地」の標高45メートル線以下には、奈良時代以前の住居跡や遺物は無く、古くは湖・湿潤地の「大和盆地湖」がありました。「大阪湾・大阪平野」は「茅渟海(ちぬのうみ)」「河内湖(現在の学術的呼称)」「難波八十島」と呼ばれ、東大阪市付近まで入り江があって、「奈良盆地」「京都盆地」「琵琶湖」との舟による交通は、遥かに容易でした。

古代の主要な交通機関は、弥生時代中期以降に用いられた「軽野・枯野(かれの・からぬ)」と呼ばれる「準構造船」で、これは「丸木舟」に波切(なみきり)板や舷側(げんそく)板を備えて強固にした船です。取り分け「海洋民・海人族」は舟の扱いに長けていて、彼らは「国内各地や大陸・朝鮮半島との航海による交易」を握っていて、その動向は古代社会や王権に大きな影響を与えました。その過程で「祭祀形態」でも、海洋民・海人族に由来する事物が普及していき、そて日本各地の特に沿岸部に「文化」「地名」などで痕跡を残しました。しかし海人族の多くの氏族は、謎の多い氏族と言われます。

貝製品を運搬したのは「九州地方西北部(北部)」の集団とされ、ここは「安曇族・宗像族の本貫地」です。彼らは当時において、進んだ先進的集団で、故地は文化的先進地であり、また南方産貝製品が多く出土しています。

古墳時代・飛鳥時代・奈良時代の氏族について、以下の概念が重要です。
・朝廷の氏姓制度・姓(かばね)の制度として、同族のなかの特定のものが、
 「臣(おみ)」「連(むらじ)」「伴造(とものみやつこ)」「国造(くにのみやつこ)」
 「百八十部(ももあまりやそのとも)」などの地位をあたえられ,それに応ずる氏姓を賜った。
・「伴造(とものみやつこ)」とは「部民制の部の人々を率いた人」を指し、氏族集団の中でも中心の氏族が世襲した。
・氏族集団には「血縁の氏族」と「擬制氏族(血縁はないが、地縁ほかの縁故で、一氏族と称した)」がある。

部民制(べみんせい)
・朝廷の仕事を分掌して奉仕・従属した体制
・その種類は極めて多く、「何らかの仕事にかかわる一団」「王宮や豪族に所属する一団」の二つに大別される。
・具体的な職掌名を帯びる「職業部」、技術者集団である「品部(しなべ・ともべ)」、
 王権に服属した地方首長の領有民である「子代(こしろ)」「名代(なしろ)」、
 中央の豪族の領有民である「部曲(かきべ)」、部曲の類似概念で、諸豪族の名を帯びる「豪族部」に分類される。
・職業部
  ・具体的な職掌名を帯びる部のことで、それぞれ伴造に統率され、朝廷に所属する。
  ・「海部(あまべ)」「錦織部(にしごりべ)」「土師部(はじべ)」「須恵部(すえべ)」「弓削部(ゆげべ)」「麻績部(おみべ)」 「渡部(わたりべ)」「犬養部(いぬかいべ)」「馬飼部(うまかいべ)」「鳥飼部(とりかいべ)」「解部(ときべ)」などの例がある。
・子代(こしろ)・御名代(みなしろ)
  ・王(宮)名のついた部。「舎人(とねり)」「靫負(ゆげい)」「膳夫(かしわで)」などとして奉仕する。
  ・「刑部(おさかべ)」「額田部(ぬかたべ)」などの例がある。
  ・御名代には在地の首長の子弟がなる。
  ・子弟たちはある期間、都に出仕して、大王の身の回りの「世話(トネリ)」「護衛(ユゲヒ)」「食膳の用意(カシハデ)」にあたった。
・豪族部
  ・諸豪族の名を帯びる部。
  ・例として畿内の有力豪族「巨勢臣(巨勢氏・こせ)」」の「巨勢部」、「尾張連(尾張氏・おわり)」の「尾張部」、「大伴連(大伴氏・おおとも)」の「大伴部」、「蘇我臣(蘇我氏・そが)」の「蘇我部」などがある。
・多くの氏族集団には「大和地方周辺にいた中央の氏族」「品部としての地方の氏族」「品部の氏族に属する部曲」の三種類がいた。
・5世紀に整備されたと見られ、律令制の実施に伴って廃止されていく。
 律令制の実施後の部称は、たんに父系の血縁を表示するだけの称号であるにすぎず、所属する集団との関係を示すものではない。

  「宗像族(宗像氏・むなかた)」は、「宗像大社(福岡県宗像市)」と「宗像三女神」を奉祀しました。宗像三女神は「田心姫神(たごりひめのかみ)」「湍津姫神(たぎつひめのかみ)」「市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)」の三神、「海の神」「航海の神」「水先案内の神」「先導神」「祓神」「水神」です。日本書紀に「天照大神は、宗像三女神に(中国大陸や朝鮮半島への)道の中にあって天孫を助けよと命じ、三神は道主貴(みちぬしのむち)と命名された」とあり、古代に国家的崇敬を受けた神でした。

宗像大社は「辺津宮(宗像市田島・九州本土)」「中津宮(宗像市大島)」「沖津宮(宗像市沖ノ島)」の三宮からなります。沖津宮が鎮座する「沖ノ島」は玄界灘の孤島で、宗像大社の神領として年一回の祭礼以外は立ち入り禁止です。亜熱帯性植物の北限で「ビロウ(クバの木)」「オオタニワタリ」等が生育、森林域は「タブノキ」「ヤブニッケイ」等を中心とした「沖の島原始林」は国指定天然記念物になっています。そして沖ノ島は「古代(古墳時代・飛鳥時代)に国家的祭祀が行われていた島」であり、各所に古代祭祀の遺物が点在する様は「海の正倉院」と称され、縄文時代前期~弥生時代の物も含めて、嘗て一部を発掘して出土した遺物八万点全てが、国宝に指定されています。

「市杵島姫神」は「神に斎(いつ)く島の女性=身を清めて大切に神を祀る巫女)」の意味、中世に「弁財天(べんざいてん)」と習合(同一視)して、各地の「厳島神社(いつくしま)」に祀られています。宗像三女神を奉じる神社は各地に鎮座、「水辺」「海辺」に多く祀られていて、これは宗像族の各地への進出も大きな要因です。魏志倭人伝には「倭人は黥面文身(入墨)をしている」とあり、これ南方系習俗ですが、一説に「宗像族の名の由来は胸と肩に文身をしていたから」とも言い、古くは「胸肩」「胸形」「胸方」「宗形」とも表記しました。「高市皇子(たけちのみこ)」は、7世紀中頃~後半の第四十代「天武天皇(てんむ)」の皇子で、「壬申の乱」で功績を挙げました。母親は宗像族で、十人の皇子の中では身分は低かったですが、各状況から「天皇だった」との説もあります。
(以下の意味もある 「厳・稜威(いつ) 」:「神聖であること。斎(い)み清められていること」「勢いの激しいこと。威力が強いこと」、
「厳し(いか・し)」:「霊威が盛んである。神秘的な力に満ちている」「たけだけしい。荒々しい」、
「厳(いち・いつ)」→「いちはやぶる」→ 枕詞の「ちはやぶる」)

「息長氏(おきなが)」は、「近江国坂田郡(滋賀県米原市)」を中心に「琵琶湖」東岸を本拠とした有力豪族で、海人族と言われ、「製鉄」氏族とも言われます。「神功皇后(じんぐう)」は別名「息長帯比売命(息長足姫命・おきながたらしひめのみこと)」と言い、第十四代「仲哀天皇(ちゅうあい)」の皇后です。各地の「八幡神社(はちまん)」に祀られる「八幡三神」の一柱で、記紀などに多くの伝承が伝わります。「息長帯比売命は息長氏」とする説は有力です。記紀には息長氏と皇室の関わりを物語る説話が多く載ります。一説に「息長」とは「息が長い」を意味し、「潜水を専門とする海人集団」とする説もあります。近江は弥生時代の一大中心地であり、特に琵琶湖南東部の「野洲市(や守山市)」は、「国内最大の銅鐸(高さ134.7cm・重さ45.47kg)」を含む「日本最大の銅鐸産出地」、「鉄の生産地域」であり、そして「重要遺跡」が点在しています。

第二十六代「継体天皇(けいたい」は、現在の皇統に連なる事が確実な最古の天皇で、自身と父が「近江国高嶋郷三尾野(滋賀県高島市)」出身、「息長氏系」だとも言われます。また「越国(こしのくに)」の系統とする説もあります。皇位に就く前は「越前国(福井県)」にいて、同地方を開拓、「男大迹王(をほどのおおきみ)」と呼ばれていました。皇位に就く為に同地を離れる前に、自らの霊を「足羽山(あすわ・福井県福井市)」の、後の「足羽神社」に鎮めて、娘の「馬来田皇女(うまぐたのひめみこ)」に「斎主」を託しました。継体天皇は現在も足羽神社に祀られていて、足羽山山頂に銅像が建っています。その周辺の「山頂古墳」は4世紀末の築造、「舟形石棺」の周りに「直弧文」「円弧文(同心円文)」が刻まれていて、最古の「装飾古墳」の一つです。

「海部氏(あまべ)」について、「海部・海人部(あまべ)」とは「漁業と航海技術によって朝廷に奉仕した部」であり、、氏族としての「海部氏(あまべ)」は「海部を統括する伴造氏族」です。言わば「海部(あまべ)」は「海人族の職業集団の一般的名称」であり、「海部氏」は「海部を代表する氏族」でした。そして「海部(あまべ・かいふ)」ほか、「海部」に纏わる地名は各地に見られます。

「凡海氏(おおあま)」は、「摂津国(大阪府)」「京都府北部の日本海沿岸」などに居住しました。一時期「海部の伴部」であったとされ、「新撰姓氏録」に「阿曇氏(後述)の同族」とあり、丹後国一宮「籠神社(この・京都府宮津市)」を奉祀しました。「籠神社」は、最も著名な「元伊勢(伊勢神宮が元々祀られていたとの伝承を持つ神社)」であり、二千年以上前の「日本最古の家系図」「世界最古の伝世鏡」が伝わり、「かごめ歌」に関連付けられて語られるなど、多分に神話性と神秘性を秘めています。数キロ離れた「大風呂南遺跡(京都府与謝野町)」では、西暦200年頃(弥生時代末期)の「弥生墳丘墓2基」「鉄剣11本」「ガラス製釧」「銅釧13個」「大量の鉄製品・管玉・朱」など、同時代の最も豪華な副葬品を持つ遺跡の一つで、この地域に強大な首長がいたとされます。周辺には、他にも「元伊勢」の神社が幾つも鎮座、「伊勢神宮外宮」の御祭神「豊受大神(とようけおおかみ)」は、この地域にいたとされ、多くの伝承が伝わります。また周辺には「龍宮伝説」「浦島太郎(浦嶋子)伝説」「天羽衣伝説」「徐福伝説(中国・秦王朝の始皇帝に、神仙境に不老不死の霊薬を取りに行くと具申、多分野の技術者など三千人を従え、五穀の種を持ち、船で東方に渡り王となり、帰らなかった)」なども伝わります。
(「凡海」の表記と読み:「凡海」「大海」「蒭蒲」「おおあま」「おほあま」「おほしあま」「おほさま)」)

籠神社の御祭神は「彦火明命(ひこほあかりのみこと)」、「太陽神」「農業神」「出雲神の系統」です。命の後裔は、尾張(愛知県)の有力氏族「尾張氏(おわり)」などがいて、祭祀氏族でもあった「物部氏(もののべ)」との関係も語られ、また「海部氏と凡海氏と尾張氏は物部氏系氏族(血縁が濃い)」とも言われます。「住吉大社(すみよし・大阪府大阪市住吉区)」の宮司家で、海人族である「津守氏」も、天火明命の後裔です。住吉大社は全国の「住吉神社」の本社、同社に代表される「住吉造」は最古の神社建築様式の一つで、御祭神は「住吉三神」「息長足姫命」、総称して「住吉大神」と称して、海人族に縁が深い神社です。
(「彦火明命」は一般に「天火明命(あめのほあかりのみこと)」と呼ばれる)
(「住吉三神(すみよしさんじん)」とは「底筒男命(そこつつのおのみこと)」「中筒男命(なかつつのおのみこと)」「表筒男命(うわつつのおのみこと)」。住吉三神の別名か、又は後述の「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」を加えて、「住吉大神」と呼ぶ)

第四十代「天武天皇(てんむ)」と第四十一代「持統天皇(じとう)」の治世(7世紀後半・飛鳥時代のうちの白鳳時代)は、「日本の統治機構・宗教・歴史・文化の原型が作られた重要な時代」とされます。「天武天皇」の元の名「大海人皇子(おおあまのおうじ)」は「幼少期に養育を受けた凡海氏に因む」とされ、「壬申の乱(672年)」では凡海氏の助力を受け、海人族の全体的な応援もあったとも言われます。

「久米氏(くめ)」は「軍事氏族」で、海人族でもあったと言われます。久米氏は、南九州の「隼人(はやと・鹿児島県と熊本県)」「肥人(くまひと・熊本県)」と呼ばれた人々と関係が深いとされます。「久米」は、「熊本県」「肥後国(熊本県)」「肥前国(佐賀県・長崎県)」「肥(くま)」「球磨(くま)」に繋がる名称です。古くは、記紀に見える「熊襲(くまそ)」に由来すると言われます。「久米氏」の由来を、魏志倭人伝の「狗奴国(くなこく?)」に求める説があり、「邪馬台国北九州説」では「邪馬台国:九州北部」「狗奴国:肥後国菊池郡・球磨郡を中心とした九州南部」にあったとしています。また「九州南部が朝廷に服従した時期」は、「東北地方中北部」を除くと「本土日本では最も後の時期」です。
(「久米氏」の別表記:「来目氏」)
(弥生時代後期・古墳時代初期の「狗奴国」は、「尾張国(愛知県)」に都があり、「関東地方」まで領域内だったとする説も有力)

「熊襲」は「隼人」の古名だとされ、「狗奴国」→「熊襲」→「隼人」→「久米」と繋がる可能性があります。「隼人:鹿児島県中心:朝廷に臣従」「熊襲:熊本県南部~鹿児島県西北部:朝廷に反抗」というように、やや様相が異なる部分があり、「熊襲が服従後に隼人と呼ばれるようになった」「隼人の服属は7世紀末頃(6世紀末・7世紀初め・5世紀説もある)」とされます。隼人は「薩摩隼人(鹿児島県西部)」「大隅隼人(鹿児島県東部)「多褹隼人(たね・種子島と屋久島)」「甑隼人(こしき・甑島)」「日向隼人(宮崎県)」から成り、「五島列島(長崎県)」にも似た集団がいたと言います。熊襲は「肥後国球磨郡(熊本県人吉市)から大隅国贈於郡(鹿児島県霧島市)」にいました。
(「薩摩隼人」は「阿多隼人(あた)」「吾田隼人(あた)」とも呼ぶ)
(「熊襲」は「熊曾」「球磨囎唹」とも表記される)

隼人は「呪術的要素が濃い」「土着性が強い(他の地域の言語・文化とは異にした)」「縄文的要素が高い」という部族でした。その呪術性により、隼人は「都や殯宮の衛兵として邪を除ける」などの役割を与えられました。山幸彦・海幸彦」の説話では、「隼人」は「海幸彦(うみさちひこ)」=「火照命(ほでりのみこと)」が祖だと記されていて、これは「隼人の朝廷への服従」を物語る説話とされます。「神武天皇東征説話」に見える「来目歌」、「戦闘歌舞の代表」といえる「久米舞」も、久米氏の塗り替えられた由来を伺わせます。また、先述の「装飾古墳」「石人・石馬」は、熊本県の「菊池川」周辺に最も集中、これは「熊襲の居住地の北方」であり、「古代の福岡県~熊本県」には複雑な様相や文化がありました。

久米氏の祖「大久米命(おおくめのみこと)」は「神武天皇の東征」に従った人物で、「黥利目(さけるとめ・入墨をした目)」を持っていました。「阿曇氏(後述)」も「阿曇目(目の縁の入墨)」をしていて、久米氏との関係が語られます。「大伴氏(おおとも)」と「久米氏」は「膳夫(かしわで・宮中で食膳の調理をつかさどった人々)」を務めていて、「古来より神に供される御贄(みにえ)には海産物が主に供えられた為、海人系氏族の役割とされた」という事から、両氏族の海人族的性質が伺えます。「大伴氏」は軍事氏族で、「親衛隊的な大伴氏」「国軍的な物部氏」という違いがあり、「皇宮警察・近衛兵」のような役割をしていました。万葉集の有名な歌人「大伴家持(おおとものやかもち)」の歌に「大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目主と 負い持ちて 仕えし官」「大久米の 丈夫健雄を 先に立て 仕え来る 祖の職と 言立てて」とあります。これらから「久米氏が大伴氏と姓を変えた」とも言われ、これによれば「久米氏の衰退と大伴氏の興隆が同時期(5世紀か)」である事の説明がつきます。そして「黥面文身が大和地方から消え、地方にも波及、後に刑罰となった」という点は、海人族の消長を伺わせます。
(「神饌(しんせん)」「御饌・御食(みけ)」「御贄(みにえ)」とは、神・神社・神棚に供える供物で、米・五穀・御神酒や海産物などの食事が多いが、食事以外もある)

また柳田國男は、本土の海岸地方から沖縄諸島にかけて、「久米(くめ)」=「久米島(沖縄県久米島町)」ほか、「酌(くみ)」「古見(こみ)」という名の米作適地が多く点在するとして、これを「南方系文化・稲作の渡来経路」「久米島は久米氏の故郷」とする論説を掲げました。

「忌部氏(斎部氏・いんべ)」は「最も代表的な祭祀氏族」であり、また海人族的な性質を多分に有しています。忌部氏は、古代の朝廷祭祀を「中臣氏(なかとみ)」と共に担っていました。「忌み(いみ・古代の用法)」「斎み(いみ)」とは「神に対して身を清め穢れを避けて慎む事」を指し、忌部氏は「古来より穢れを忌み、心身を斎み清めて神事・祭祀に奉仕、宮廷祭祀に用いられる各種の神具の製造や、神殿宮殿の造営に関わってきた氏族」です。特に「麻(大麻)」を、また「粟(あわ)」「穀(梶・かじ)」「桑(くわ)」「楮(こうぞ)」を栽培して、「木綿(ゆう)」「御幣(ごへい)」「神服(かんみそ)」ほかの祭祀具などを製造しました。故地にはこれら植物名の付く地名が多いです。非常に重要な氏族ですが、早期に衰退して、謎が多いとされます。
(「忌部氏の表記と読み:「忌部」「斎部(齋部)」「伊部」「員弁」「井辺」「印部」「諱部」「鋳部」「いんべ」「いみべ」「いむべ」「いなべ」「いべ」「きべ」「ものいべ」)

忌部氏祖神「天太玉命(あめのふとだまのみこと)」は「占いの神」「神事の神」であり、「天照大神の岩戸開き」でも活躍しています。「天太玉命」従った神を「忌部五部神」と呼びます。忌部諸氏には以下の氏族がいて、「租庸調(そようちょう)」の「調(みつぎ・みつき)」として、朝廷に祭祀具を献納しました。また、他にも「忌部氏系とされる氏族」「忌部氏が奉じた神という説の神」が多数います。

忌部氏
中央の忌部氏
・奈良県橿原市忌部町(大和国高市郡金橋村忌部)周辺を根拠地とした。
阿波忌部氏(あわ・徳島県)
・祖神:天日鷲命(あめのひわしのみこと) - 紡績業・製紙業の神
・中央の氏族以外では、忌部諸氏の中心の氏族。
・「木綿」「麻」を朝廷に納めた。
・「阿波国」は、古くは北部は「粟国(あわのくに)」、南部は「長国(ながのくに)」と呼んだ。
 阿波国十郡のうち、南部に「那珂郡(なか)」「海部郡」が置かれた。
・「阿波國続風土記」には「阿波國は海國(あまのくに)の意」
 「凡直(おおしのあたい・南海道)、粟凡直(あわのおおしのあたい・阿波国)は海神に縁(えにし)があり」「凡直は尾張連・凡海連・安曇連と同祖」とある。 
讃岐忌部氏(さぬき・香川県)
・祖神:手置帆負命(たおきほおいのみこと) - 木工の祖神
・「矛竿(ほこさお)」「盾」を朝廷へ納めた、「矛竿」とは「竿竹(さおだけ)の幟(のぼり)」の祭祀具。
・「讃岐」の語源は「竿調国(さおつきのくに)」とも言う。
紀伊忌部氏(きい・和歌山県)
・祖神:彦狭知命(ひこさしりのみこと) - 木工の祖神
・「木」を朝廷に納め、「宮殿」を作るなどした。
・「紀伊国」は元は「木国(きのくに)」と言って、良質な木の産地で、「丸木舟」「準構造船」も多く作られた。
出雲忌部氏(いずも・島根県)
・別名:玉作氏(たまつくり)
・祖神:櫛明玉命(くしあかるたまのかみのみこと) - 玉類製造の神
・「玉(ぎょく)」を朝廷に納めた。
筑紫忌部氏(ちくし・福岡県)
・祖神:天目一箇命(あめのまひとつのみこと) - 鍛冶の神
・天目一箇命は「ダイダラボッチ」と関係があり、「ひょっとこ(火男)」の原型とも言う。
・「古語捨遺」に「筑紫・伊勢に天目一箇命を祖とする忌部がいた」「命に刀・斧・鉄鐸・鏡を作らせた」とある。
・「筑紫忌部氏」と「伊勢忌部氏」は「鍛冶として刀・斧を貢納した」とも言う。
伊勢忌部氏(いせ・三重県)
・祖神:天目一箇命(あめのまひとつのみこと) - 鍛冶の神
・「伊勢神宮」に「神衣(かんみそ)」を献納した伊勢の「麻続氏(おえ)」は「天日鷲命」の後裔で、「阿波忌部氏」系とも言う。
安房忌部氏(あわ・千葉県)
・祖神:天富命(あめのとみのみこと)
・「天日鷲命」後裔の「天富命」は、初代「神武天皇」に東国開拓を命じられ、忌部諸氏を率いて(後の)安房国に上陸した。
 後裔は「房総半島」を開拓、「常陸国(ひたち・茨城県)」に進出した。
・「安房」「阿波」の名は「粟」に由来する。
 千葉県の「上総国(かずさ)」「下総国(しもうさ)」の「総(ふさ)」とは「麻」を意味する。
 これらは良質な「粟」「麻」が取れた事に由来する地名という。
・「阿波國続風土記」には「阿波國は海國(あまのくに)の意」とある。
・古代の「安房国」は、海産物を朝廷に献納する「御食国(みけつくに)」の一つであった。

「国生み」神話には、「阿波への道」の意とも取れる「淡路島(兵庫県)=淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)」が最初に、次に「四国島=伊予之二名島(いよのふたなのしま)」が生まれたとあります。また「伊予之二名島」は「胴体が一つで、顔が四つあり、其々名前がある」のですが、「阿波」の名の「大宜都比売(おほげつひめ)」とは「食物神」「五穀と養蚕の起源の神」「豊受大神と同神とする説がある」という神です。また記紀には、「国生み」ほか「阿波」を想定させる記述が多く、「邪馬台国阿波説(四国山上説)」もあります(主流説ではない)。これらは「阿波と忌部氏」の重要性をうかがわせる物です。

「筑前国の北部(福岡県)」「阿波国(徳島県)」「紀伊国の南紀(和歌山県)」「伊勢国と志摩国(しま・和歌山県)」「伊豆国(静岡県)」「安房国(千葉県)」などには、「阿波・安房・粟・淡(あわ)」「那珂・那賀・那加・長(なか・なが)」「勝浦・勝占・桂(かつうら・かつら)」「白浜(しらはま)」ほか、共通する地名が幾つもあります。これら地域は「忌部氏」と「軽野・枯野」「準構造船」という共通性が伺えます。

また、古代の「香取海(かとりのうみ)」は「東国の交通の拠点」で、「香取神宮(千葉県香取市)」は中世まで香取海の船の往来の権益を所管していましたが、「香取」は古くは「楫取」と言い、「船の舵取り」と同じで、これは阿波の「吉野川」を往来する「楫取船(かんどりせん)」や、に由来する名称だともいわれます。「香取神宮」は「物部氏(もののべ)」の神社で、物部氏の祖に「梶取阿刀造等の祖・天津麻良(あまつまら)」がいて、ここから「香取」とは「物部氏」「忌部氏」の両氏族に関する名称とも考えられます。

「和珥氏(わに)」は「5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族」「出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ朝鮮系鍛冶集団とする説がある」「七人の天皇に九人の后妃を出した」「春日氏・小野氏・柿本氏などの十六氏族を輩出した」という氏族で、海人族だったという説があります。「和珥」とは「鰐(わに)」で、古くは「鮫(さめ・鰐鮫)」を意味しました。「山幸彦と海幸彦」の説話において(後述)、「綿津見神は和邇(鮫や魚)を呼び寄せ、一匹の和邇が山幸彦をが地上に送り届けた」「豊玉姫の正体は八尋和邇(やひろのわに/一尋=1.8m))」となっています。
(和珥氏氏族・部の名は「和邇」「和迩」「丸邇(わに)」「丸(わに)」「丸子(わにこ)?」とも表記される)

  「阿曇族(阿曇氏・あづみ)」は「阿曇族」「安曇族」とも表記されます。名称は「海人津見(あまつみ)」の転訛とされ、「津見:住みの古語」と言われ、その説では「海に住む人」を意味します。「日本書紀」に「応神天皇三年(272)、諸国の海人の騒ぎを鎮めた大浜宿禰(おおはまのすくね・阿曇氏祖)を海人の統率者とし,同五年海部を定めた」とあります。律令制の下では、宮内省に属する「内膳司(ないぜんのつかさ・天皇の食事の調理を司る)」の長官を務めていて、先述のように「古来より神に供される御贄(おにえ)には海産物が主に供えられた為、海人系氏族の役割とされた」ことに由来します。

氏神は「志賀海神社(しかうみ・福岡県福岡市)」、博多湾の「志賀島」に鎮座します。志賀島は「漢委奴国王印の金印」の出土地で、「後漢の光武帝が建武中元二年(57)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印」とされ、「鈕(ちゅう・つまみ)」は「南方諸民族に与えられる蛇紐」となっています。阿曇族は古墳時代後期、本拠地を離れて日本の多くの地域に進出していき、その故地には「阿曇」「安曇」「厚見」「厚海」「渥美」「阿積」「泉」「熱海」「飽海」「安津見」などの地名が付いています。志賀島を離れた後の本拠地は、信濃国三宮「穂高神社(ほたか・長野県安曇野市)」、「奥穂高岳(3190m/長野県松本市・岐阜県高山市)」頂上に「嶺宮」が鎮座、内陸にも拘らず、例大祭「御船祭」では船形の山車が巡幸します。阿曇氏が本拠を離れた原因は、継体天皇二十一年(527)の「磐井の乱(いわい)」、天智天皇二年(663)の「白村江の戦い」の敗北での「安曇比羅夫(あづみひらふ)」の戦死にあるとも言われます。

「磐井の乱」で朝廷軍に敗れた「筑紫君磐井(ちくしのきみいわいのきみ)」は、「岩戸山古墳(福岡県八女市)」の被葬者とされ、阿曇氏だとも言われます。「岩戸山古墳」は九州北部最大の古墳(全長170m以上の前方後円墳)で、6世紀前半築造、埴輪の代わりに「人物・動物・器財」を象った「石人・石馬」という独特の副葬品が建っています。「石人・石馬」は「福岡県の八女丘陵と筑後川中流など」「熊本県」「大分県北部」に集中して分布、この地域は「装飾古墳」も多く、また「博多湾沿岸」にも「装飾古墳」が点在します。この分布には「海人族」「在地性・土着性の高い文化」「縄文文化への近さ」という共通した様相が伺えます。

阿曇族の祖神「綿津見神(わだつみのかみ)」は「海の神」「龍宮の神」です。「山幸彦と海幸彦」の説話において、「山幸彦(やまさちひこ)」は、兄の「海幸彦(うみさちひこ)」の釣り針をなくして困っていた所で、潮流の神「塩椎神(しおつちのかみ)」に、竹籠の小舟「無目籠(まなしかたま)」を与えられ、海神「大海津見神(おおわたつみのかみ)」がいる海底の宮殿「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」に行くようにと教えられました。そこで山幸彦は、大綿津見神の娘「豊玉姫(とよたまひめ)」と結婚、後に綿津見神から「潮位を自在に操る宝珠」である「潮満瓊(しおみつたま)」「潮乾珠(しおふるたま)」を授与されました。「山幸彦=火遠理命(ほおりのみこと)」と「豊玉姫命」の孫に、初代天皇「神武天皇(じんむ)」がいます。「海幸山幸」の伝承や、「海幸彦」「山幸彦」「豊玉姫」を祀る神社は「宮崎県」「鹿児島県」に多く、「鹿児島」の由来説に一つに「無目籠が鹿児山で作られた」という説があります。また両県
(「綿津見神」は「底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)」「中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)」「上津綿津見神(そこつわたつみのかみ)」の三神の総称)
(「綿津見神」は「大海津見神(おおわたつみのかみ)」「海神(わたつみ・わたのかみ)」「豊玉彦(とよたまひこ)」「海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)」「少童命(わたつみのみこと)」「志賀神(しかのかみ)」、「山幸彦」は「火遠理命(ほおりのみこと)」、「海幸彦」は「火照命(ほでりのみこと)」、「塩椎神」は「塩土老翁命(しおつちのおじのみこと)」「塩筒老翁」「事勝因勝長狭神(ことかつくにかつなぎさのかみ)」、「無目籠」は「無目籠・無目堅間・无間勝間(まなしかたま・まなしかつま)」、「綿津見神宮」は「綿津見の宮(わたつみのみや)」、「豊玉姫」は「豊玉毘売命」、「潮満瓊」は「潮盈珠(しおみつたま)」「思則潮溢之瓊(おもえばしおみちのたま)」、「潮乾珠」は「潮涸瓊(しおひのたま)」「思則潮涸之瓊(おもえばしおひのたま)」とも呼ばれる)
(「塩土老翁命(しおつちのおじのみこと)」は、陸奥国一宮「鹽竈神社(しおがま・宮城県塩釜市)」の御祭神)

「貝製品と派生事物」は「生命力を与える」、「潮満瓊」は「血潮を満たす」、「豊玉彦」は「魂を殖やす」という共通した意味合いが見受けられます。似た説話の「浦島太郎」の「龍宮城」は、「蓬莱山(ほうらいさん)」にあり、「古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むといわれていた仙境」です。「ニライカナイ・常世・根の国・龍宮・蓬莱山」などには、「海の彼方にある(ともいう)」という点など通底する物があり、これら伝承の背景には海洋民集団があります。そして「海神・龍宮・龍神・浦島太郎」などの伝承は沖縄に色濃く存在します。これらから、こういった神・伝承・説話の起源には沖縄が絡むという可能性を感じ取れます。

「海・海人・海部・海女・海士(あま)」は「天(あま)」と読みが共通して、これは「古代における海人族の存在の重要性」の傍証ともする説もあります。上記のように、古代の社会・祭祀においては、海人族の動向が非常に重要で、「阿曇族」「宗像族」「海部氏」「忌部氏」は共に、祭祀面でも非常に重要視される氏族です。このように重要だった「海・海人・海部・海士(あま)」と、当然ながら重要である「天(あま)」の読みが一致するのは、偶然にしては出来過ぎていて、「両概念の読みの一致の背景には、古代における海人族の重要性が関係する」とも言われます。

また一説に「琉球の創生神・アマミキヨは、海人(アマンチュー)」に由来する神である」「奄美は海人に関係する名称である」とも言われます。これら共通点の背景には、同一の古代の社会的背景が垣間見えます。

他の海人族としては、下記の氏族が挙げられることがあります。

紀氏(き)
・紀州(和歌山県)の古族で、日本最古の氏族の一つであり、「紀伊国」「木国」の国名に纏わる。
・第八代「孝元天皇(こうげん)」の子孫で、「武内宿禰(たけうちすくね)」の子「紀角宿禰(きのつののすくね)」を始祖とする。
・紀氏の流れを汲む「紀伊国造(きいくにのみやつこ)」、初代「神武天皇」の畿内平定の後に国造に封じられ、
 「天道根命(あめのみちねのみこと)」の嫡流であるとされる。
・「紀伊国造家」は「日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)」の宮司家である。
・紀氏と紀伊国造は、木の神「五十猛神(いそたけるのかみ)」と縁が深い。
・「紀伊忌部氏」とも関連性がある。
・「古今和歌集」編者の「紀貫之(くのつらゆき)」「紀友則(きのとものり)」を輩出した。

越智氏(おち)
・伊予国(愛媛県)の豪族
・承平六年(936)の「藤原純友の乱」に「伊予水軍」として 朝廷側として参画している。
・流れを汲む「河野氏(こうの)」は「河野水軍を率いるなどした平安~安土桃山時代の豪族。
・伊予地域を含む瀬戸内地方には、後述の「倭迹迹日百襲媛命」や、父の「孝霊天皇」の伝承が色濃く残る。

  日本に渡来した人々・文化の経路は、縄文時代後期~弥生時代初期は「中国・中南部(長江文明)→東シナ海→九州西部・北部」という経路が多く、後になるほど「中国中北部→朝鮮半島→対馬海峡→九州北部」が増加、総合的には後者が多いです。前者は、初期の渡来人・渡来文化の経路を示します。

  縄文時代以来、日本の海洋文化には「南方系民族・文化」が強く影響、これが「海洋国家としての日本の基層」です。弥生時代以降の日本の文化形成には、南方系民族・文化が大きく寄与した事は知られていて、また、日本は南方系と北方系の各方面からの民族・文化が複合されて、形成していったことも知られています。「日本語の起源」には「オーストロネシア(南島)語の影響が強い」とも言われます。

中国南部の「長江文明」は「南方系文化」を持っていました。縄文時代~弥生時代に流入した南方系文化は、この地方の文化です。この地域の人々は、歴史的に「中国南部の山岳地域(雲南省など)」「東南東南アジア北部」に南下していて、5000年以上前には「台湾」から「太平洋諸島」へ進出しました。浙江省周辺の「越(えつ・紀元前600年頃~紀元前334年)」、江蘇省周辺の「呉(ご・紀元前585年頃~紀元前473年)」など、弥生時代初期前後に滅亡した国家の遺民は、一部が「日本」や「朝鮮半島」に渡り、また周辺に四散したとされます。この「歴史的な南方系の民族・文化の拡散」により「東アジア」「東南アジア」「太平洋諸島」には、海洋民文化と山岳民族文化において、かなりの共通性が見られます。

弥生時代~古墳時代、「倭国」「倭人」の社会の中で、「海人族」的な集団は高い位置を占めていました。彼らや海外の海洋民は「日本本土」「南西諸島」「朝鮮半島」「中国の北部・中部・南部」の間を、海を跨いで船で交易、この「海洋民ネットワーク」は古代社会の中核の一つです。南方産貝製品の重視の理由として、一つにはこういった文化的背景から「南方系の文化的背景を持つ本土日本の海洋民が、遥か遠海の希少な南西諸島産貝製品に、霊性を見出して崇拝した」という可能性が伺えます。

往古、世界の多くの地域は「共有社会」「母系的社会」でしたが、徐々に権威主義的な、階層化が進んだ社会になりました。その中でこの地域の「南方系文化」「海洋民・海人族」に連なる人々の社会においては、割合に「共有社会」「母系的社会」の様相が見られます(北方系民族にも共有思想がよく見られる社会はよくあります) 。これは日本においては「縄文文化」的とも言え、初期渡来人や海人族は、在来の縄文人と融和的だったとも見られます。縄文人は「海洋民的性格」も持ち、「自然崇拝」をしていたので、縄文人と海人族は「照葉樹林文化圏」の文化的背景を共有していたとも考えられます。しかし、海人族はどの氏族も中古以前に衰退し、その独自文化も痕跡が減少していき、この理由は不明です。

  古代日本の統治体制「ヒメヒコ制」は、「弥生時代後期から古墳時代前期(紀元前1世紀から紀元4世紀)にかけて日本各地で成立した男女別集団の共立的統治形態」「農耕的女子集団の長を主にヒメ、軍事的男子集団の長を主にヒコといったことからヒメヒコ制と名づけられた」という制度です。これら「○○ヒメと○○ヒコ」は「名前に国名・地域名を冠しているものが多い」「その地の神社の由来となっていることが多い」ので、「ヒメやヒコを神社名や祭神名にしている地域はかつてヒメヒコ制の統治があったことを物語っている」とされます。

延長五年(927)に完成した『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』には、「ヒメヒコ制」の名残と考えられる、「ヒメとヒコ(ワケ)」が対になって祭られている神社が35地域に知られています。また「地域名をおったヒコあるいはヒメが単独祭られている神社は、片方のヒメあるいはヒコが何かの理由で欠落した可能性が考えられる」とされます。
(「延喜式神名帳」は、律令の「延喜式」に載る「祈年祭奉幣にあずかる神社」「官社」で、二千八百六十一社(天神地祇三千百三十二座)があり、記載された神社を「式内社」と呼ぶ)

記紀や風土記には、「豊国宇佐地方(大分県)」に「宇沙都比古(うさつひこ)と宇沙都比賣(うさつひめ)」、「火国阿蘇地方(熊本県)」に「阿蘇津彦(あそつひこ)と阿蘇津媛(あそつひめ)」、「丹後国加佐地方(京都府)」に「加佐比古(かさひこ)と加佐比売(かさひめ)」、「伊賀国(三重県)」に「大伊賀津彦(おおいがつひこ)と大伊賀津姫(おおいがつひめ)」、「常陸国芸都地方(茨城県)」に「寸津毘古(きつびこ)と寸津毘売(きつびめ)」がいたことを伝えています。『播磨国風土記(はりま・兵庫県)』は、各地で「ヒメ神とヒコ神」が一対で統治したことを伝えています。

「古事記 神武天皇紀」には、大和国(奈良県)の「宇陀地方」に「兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(うかし)」、「磯城地方」に「兄磯城(えしき)と弟磯城(おとしき))」が伝えられています。この内「弟宇迦斯」「弟磯城」は「祭祀的女性」を意味し、それぞれ「菟田県主(うだあがたぬし)」と「磯城県主(しきのあがたぬし)」になり、「軍事的男子首長」を意味したと思われる「兄宇迦斯」「兄磯城」は「神武天皇」に滅ぼされています。「美濃国(岐阜県)」では「兄遠子と弟遠子」「兄夷守と弟夷守」「兄熊と弟熊」の伝承があり、これも「ヒメヒコ制」の反映とされます。

2世紀後半~3世紀後半の「邪馬台国」は「女王国」とも記されていて、女王「卑弥呼」「台与」がいました。魏志倭人伝には「卑弥呼は王に共立され呪術的支配を行った」「男弟有り、佐(たす)けて国を治む(卑弥呼の意思を政治的に執行した)」とあります。

「呪術(祭祀)的首長」を意味する「ミミ」や「タマ」という名前は、倭人伝に見える「投馬国」「不弥国」の長官であり、どちらも女性がその座についていたとされます。邪馬台国に属する「対馬国(長崎県)」「壱岐国(長崎県)」では長官には「ヒコ(卑狗)」がいました。「不弥国」の副官は「軍事的役職」を意味する「ヒナモリ(鄙守り)」と呼ばれる男性が就いていたと考えられます。

この「ヒメヒコ制」を現在に伝える物が、沖縄の「おなり神」の祭祀形態だと考えられます。このような「親族との間の祭政の二頭体制」は「琉球王と聞得大君(きこえのおおきみ・最高の神女)」「天皇と斎王(さいおう)・斎宮(さいぐう)」にも見られます。「斎王」とは、古代から中世までの「伊勢神宮などに仕えた女性」「天皇の内親王(皇女と姉妹)と親王(嫡出子や兄弟などの娘)が就任」「天照大神の御杖代(みつえしろ・神意を受ける依代)」です。

  日本神話では「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」「天照大神(あまてらすおおかみ)」「豊受大神(とようけおおかみ)」を始め、多くの女神が存在します。これは「母系社会」だった縄文時代からの流れと言え、社会の階層化が起きた弥生時代においても、国を統治した祭司女王や、特別な地位にあった女性祭司者が何人もいた事が確認されています。

「魏志倭人伝」に王の存在が記された三カ国のうち、二カ国に女王が存在しました。先ずは「邪馬台国」がそうです。

倭人伝に「世々王有り」とある「伊都国(いとこく)」の都とされる「平原遺跡(ひらばる・福岡県糸島市)」には、弥生時代後期の、非常に多数の鏡・玉類などの副葬品を伴う女王の墓があります。出土した「大型内行花文鏡(太陽鏡)」は「奈良県の一部大古墳」の物と類似、太陽神「天照大神」を祀る「伊勢神宮」にある「三種の神器」の一「八咫鏡(やたのかがみ)」とも同型です。ここから「大型内行花文鏡と八咫鏡は同系の物で、伊都国から齎された」とも言われ、発掘者・原田大六は女王を「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」「大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ・天照大神の別名)」に比定しています。墓東側の「直径約70cmの縦穴」を市報告書は「大柱跡」、原田は「井戸」として、墓から見て東の「日向峠」の方角に位置することから「太陽信仰」に関係し、これら墓を囲む遺構は「殯宮(もがりのみや)」だとも言われます。「平原遺跡」とその文化は、「邪馬台国」「ヤマト王権」「大和朝廷」に密接に連なる物だと看做されています。

弥生時代末期~古墳時代初期の青銅鏡「三角縁神獣鏡」の金属製レプリカを製作したところ、壁に投影した反射光の中に「鏡の背面に刻んだ文様」が浮かび上がる「魔鏡」現象が起き、「太陽光線など平行光で特に顕著」だと判明しました。投影された文様は「太陽」を表していると思われ、特に「太陽の日輪(周縁部)と中央部」の輝度が高いです。これで「背面の中央や三角形の縁部・神獣像などが厚い」「中央の最厚部は約2センチあるのに対し最も薄い部分は約0・8ミリ」「割れる危険性があるのに、何故こんな薄く仕上げたのか」という理由が判明しました。弥生末期~古墳時代前期の東アジアは寒冷化が進み、大雨・洪水など災害が多く、収穫は少なかったとされます。そして太陽は「豊作や生命力の象徴」でした。
(中国・三国時代(3世紀)に由来する銅鏡として、「三角縁神獣鏡」は北方の「魏(魏鏡)」、「画文帯神獣鏡」「線彫式獣帯鏡」などは南方の「呉(呉鏡)」に由来する。「画文帯神獣鏡」は希少で、棺内部にあって、地域の王墓とされる古墳に埋葬され、「呉鏡」は大古墳に多い)

日本神話の「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)」は、第七代「孝霊天皇(こうれい)」の皇女で、巫女的性質を持ちます。第十代「崇神天皇(すじん)」に頼まれた占いで、命に神懸りした「大物主神(おおものぬしのかみ=大国主神)」が「吾を祀れば災厄は収まる」と述べ、「三輪山(みわやま・奈良県桜井市)」山麓の「大神神社(おおみわ)」が創建されました。陵墓の「箸墓古墳(はしはか)」は「最古級の前方後円墳」であり、その築造を以って古墳時代の開始とされます。

「倭迹迹日百襲媛命」は「卑弥呼の同一人物の最有力候補」です。「卑弥呼」は「日巫女(日神子・日御子・日女子)」との意だとされ、太陽祭祀を司っていたシャーマンであり、「太陽の象徴」の一つが「鏡」で、「三角縁神獣鏡」は「卑弥呼の鏡」との説があります。「卑弥呼」と「台与」は、邪馬台国の都であった巻向地方(奈良県桜井市)の「纒向遺跡(まきむく)」に、居館を構えていたとされます。
(箸墓古墳は纒向遺跡にある)

「倭迹迹日百襲媛命」の名の意味は、前段は「倭=ヤマト(大和地方)」です。中段は、「トトヒ(トトビ)=鳥飛び」:「弥生時代の鳥信仰」「霊魂が身体から離脱して空中の鳥のように飛んでゆく離魂型巫女」などの説があります。弥生時代には「鳥装をして、羽をはばたかせたシャーマン(鳥の格好をして羽を腕・頭部などに付ける)」という祭祀形態があり、「高殿(神殿)と鳥装シャーマンと鹿」という構図の絵柄が描かれた土器が、纒向の前の都「唐古・鍵遺跡(からこかぎ・奈良県田原本町)」と周辺や、他の拠点集落で出土しています。「鳥信仰は太陽信仰に関係する」とも言われ、「八咫烏(やたがらす)」は「太陽の化身」、「神武天皇東征説話の金鵄(きんし・金色のトビ)」も太陽に関連します。

後段の「百襲(モモソ)」については、古来沖縄で「百襲・百人(モモソ)」は「国王」「国家統治機構」「狭義は首里城正殿」を意味して、これには「中央・中枢」といった語義が伺えます。「モモソ」は琉球王朝発祥の地「浦添(うらそえ)」の地名にも纏わり、琉球王国では名を冠した重要な儀礼が行われていました。そして日本中には、「百襲媛の意味を、整合性のある解釈が可能な言葉」が他にありません。

以上から「倭迹迹日百襲媛命」=「ヤマトの中央の、鳥信仰(太陽信仰)の、日女巫女(神子・ひめみこ)」=「都(中央)の巻向から邪馬台国を治めた女王・卑弥呼」などと解されます。「卑弥呼」は「南方産貝製品」を着装して、「三角縁神獣鏡」を持ち、「鳥装」をして、「三輪山」「巻向山」から昇った「太陽」を祭祀していたと考えられます。そして寒冷化で困窮した世の中において、この祭祀で「太陽の復活」が成されて救われると、当時の人々は考えたのでしょう。

ここから、「百襲」との言葉が伝わる沖縄の特別の意味が示唆されます。沖縄本島では「女性だけで大和へ行った」という伝承があちこちにあると言い、先の神歌にもそういった歌詞が存在します。また「日本という国号」は「日(太陽)の本」を意味し、「日本国旗」の「日の丸」は「太陽を象徴した図柄」です。これら事象の背景には「弥生時代・古墳時代前期の本土と沖縄を結ぶ祭祀の様相」「女性の祭司者」「海人族」「太陽信仰」「南方産貝製品の崇拝」という共通性が存在します。

  然しながら、古墳時代の何れかの時期に「南西諸島関連の貝製品・祭祀具・装身具・意匠」が、突如として本土の表舞台から消えていきました。この祭祀形態の大きな変化は、ヤマト王権の中で劇的な政治・文化の変化があったからと考えられます。

「特に本土と沖縄に特別な関係性があったのは、弥生時代前期から古墳時代前期(4世紀初め~中頃)まで」とみられます。それは「沖縄的事物(南洋産貝製品と、それを祖形とした祭祀具・装身具・意匠)が、古墳に副葬されていた時期」が、概ね古墳時代前期~前期末の間だけだからで、この古墳時代前期末~中期は、畿内での「古墳の築造・副葬の大幅縮小」「勾玉などの玉類祭祀の終了」の時期と一致します。
(古墳時代の編年は「前期:始まりが3世紀半ば、終了が4世紀初めか中頃」「中期:4世紀末か後半以降」と論が分かれる)

この「体制の劇的転換」の時代状況を物語るのが、葛城地方の「島の山古墳(奈良県川西町)」で、4世紀後半の全長200mの前方後円墳です。古墳の従属部位の「前方部」の石室から「夥しい数の石製腕飾り(鍬形石・車輪石・石釧など百四十点)」が出土しましたが、副葬法は従前と異なり、乱雑で遺棄されたと思えるほどです。その上には三度にわたり「勾玉・臼玉など玉類がばら撒かれていた」という状態でした。「合子三点」「鏡」も出土、「武具類」が少なく、被葬者は「王権中枢に近い呪術性を強く持った女性」とされます。古墳の主体部位の「後円部」には嘗て立派な石室があって、被葬者は「強い勢力を持った男性」と推定されています。当古墳以後は「沖縄的事物」はほぼ消滅、大王墓は奈良盆地から河内平野に移行した時期にあたります。従来ならこういった女性(女性祭司者)が「前方部」に葬られる事はなく、そして「持っている事を憚ったようにさえ見える、沖縄的事物の投機的な副葬」を見ても、「如何に状況が急激に転換したかという事が伺えます。

  何故、それほどの「体制の劇的転換」があったのかですが、これについて「元々は、古神道は巫女が重視された形態を有していて、祭政一致の下、政治・祭祀のマツリゴトや社会全体において、女性の地位が高かった(ある程度だが男女同権に近い)」「しかし古墳時代中期、男性が政治体制の上位を独占するようになった」「南西諸島関連の貝製品・祭祀具・装身具・意匠には、巫女や平和といった事象と親和性があり、その為にそれら祭祀具が除外されていった」という説があります。実際に「古代の国を代表する女性祭司者がいた時代」から、何れかの時点で「社会上層部が男性のみで占められるようになった」のであり、その転換期が古墳時代にあったのは確実で、この論説を補強します。

先述のように、遺跡の遺物や史書の記述から、古墳時代中期(4世紀中頃)~和銅七年(714)ごろの三百年ほどは「本土日本の朝廷と、沖縄の交流は途絶していた」と見られます。ここには、「大和王権の劇的な体制変換」による「沖縄的事物の排除と関係性途絶」と「そこから後に少しずつ関係が改善し、後代にまた途絶した」といった様相が伺えます。
(南九州の「隼人」は6世紀末~7世紀末に朝廷に服従したとされる)

この最初の途絶期間の初期、古墳時代前期末か中期(4世紀中頃か)に、朝廷としては「排除の為の思想的な共通認識」を築く必要があった筈です。体制的には今までの「平和思想や男女同権や沖縄的事物の排除」と、これからの「自らの体制と男性中心主義の正当化」の両面を推し進める「大義名分」を普及が必要であり、これは表裏一体の思想・施策でした。また「平和・連帯思想の復活」にも神経を尖らせたでしょう。

「沖縄的事物が平和・連帯思想による連帯の鍵」であった時代、その「社会的位置付けを最高辺から最底辺への追いやる急速な排斥」には、思想的根拠としての「沖縄自体を否定する共通の認識論」が必須であり、これなくして施策の浸透は有り得ません。また、これが浸透すれば「沖縄的事物の排除は容易で、復活も無い」=「平和思想排除と体制正当化」がされます。中央集権体制であっても、施策には「大義名分」が必要であり、またそれは世界の歴史上の独裁体制の例を見ても「事実だろうが嘘だろうがどちらでも良い」のであって、ただひたすら「これこれこうだから否定・排除する(しろ)」という「絶対的前提とその強制」のみが必要です。

ここから、この「体制の劇的転換」の初期に「沖縄への謂れ無き蔑視・否定論」が「上意下達の官製認識論」として扇動・流布されたと思われます。東北日本の「蝦夷(えぞ)」にも蔑視はありましたが、朝廷の領域と接してるので、お互いに人や事物の交流が普通に行われていて、これは相互理解も促します。しかし「沖縄・南島」は本土日本と遠く離れた地にあって、人や事物の交流が限られたり朝廷が制限できるので、「一旦否定されてしまえば、その回復は成され難い状況にあった」でしょう。更に、たまたま隣り合っていたと言える対蝦夷とは異なり、対沖縄には「体制側にとっての無理矢理にでも否定すべき理由」が存在しました。勿論「平和・連帯思想や沖縄的事物に思いを寄せる人」も多数いたでしょうし、そういった認識論は多数の「暗喩的な神話・伝承」として形成されていったことでしょう。しかし思いを寄せる人自体は、次第に過去の物となりました。

世界の日本の歴史を見ても、どこの社会のいつの時代でも、敵対的関係の社会に対しては、根拠の無い否定論が流布されていて、それは日常的でした。過去の世界においては、ある意味それは仕方ない状況だったとも言えるのでしょう。また特に「よく知らぬ僻地の敵対勢力」に対しては、「又聞きの又聞きの誇張・捏造された伝聞情報」が流される物です。

恐らくは、古墳時代前期末~中期に朝廷による「沖縄の否定の言説と沖縄的事物の排除」が一気に下達され、しばらくは「平和的思想などの復活」を警戒したでしょう。しかし一旦認識論が普及して、沖縄的事物が一層された期間が続けば、また「当時のヤマト王権は弥生時代のクニと異なり、日本の広域を支配、情報浸透度が段違いだった」こともあり、その認識論を新たに普及させる事はなかったとも考えられます。これは「体制再転換の可能性が無くなり、関係性途絶が続き、更に認識論を浸透させる理由が無くなった」からです。そしてその時代には「沖縄に対する、なんとはなしの根拠の無い否定的認識や作り話」が常識化していたでしょうし、これは後々にも少なからぬ影響を与えたことでしょう。勿論、このような情報に流されない人達も多数いたでしょうが、古代社会では「客観情報の入手・客観思考の維持」自体が難しい物があり、惑わされるのも仕方ないです。また、これらが解消されたのは、かなり時代が下った後だったでしょう。ここには「社会における不幸な、故意ではない不理解」といった様相があったとも思われます。

  古代に本土と沖縄の交流が途絶えた時期、本土では古墳時代の祭祀文化が縮小しています。古墳時代の祭祀は、西暦250年頃の古墳時代開始と共に「前方後円墳を頂点とした文化」「様々な祭祀具の製造・副葬」を特徴として、一気にヤマト王権の支配領域や領域外に広がり、古墳時代前期(250年~4世紀後半)に大規模な祭祀文化が展開されました。この時代の祭祀形態は「大規模古墳」「多様な祭祀具」「装身具・服飾・彩色など身体装飾」といった、鮮やかな様相を持っていました。

しかし古墳時代中期(4世紀末~5世紀末)に入ると、一部の大古墳以外で、古墳の規模が縮小、祭祀具の製造・副葬の規模も縮小していきます。そして古墳時代後期(6世紀初頭~7世紀後期)、後期初頭に更に古墳規模が縮小、古墳の築造終了時期は概ね「畿内・西日本:7世紀前半頃」「関東:地方8世紀初め頃」「東北地方:8世紀末頃」です。そしてこれらの時期に「王・首長の男性への固定化」が進んでいったとみられます。

いずれにしても「縄文時代の文化と奈良時代以降の文化の間」には、「基層を受け継いだ部分」と「かなり異なる部分」の、両面があります。差の部分については、「古代日本における社会形態・祭祀形態の変化が与えた影響は非常に大きい」と言えます。そしてその「文化の差を生じさせる事になった切っ掛け」の部分については、「本土と南西諸島・沖縄との関係性低下が、祭祀文化の在り方その物と、ひいては日本全体の社会・文化に大きな影響を与えた」と言えます。

  • 日本の辺縁部に残る古代の日本語と祭祀形態
  南西諸島には「琉球方言は古代に本土の日本語と分岐した」「南西諸島には古代日本語を伝える言葉が多く残っている」「琉球方言を方言とする場合、日本語族に日本語派と琉球語派が属する」という様相があります。また「言語」というのは「文化・民族・国家の共通性・同一性や淵源・変遷を判別するのに、最重要の観点の一つ」と言えます。

言語学に「方言学」「言語地理学(方言地理学)」があります。「方言周圏論(ほうげんしゅうけんろん)」は、「方言の語や音などの要素が文化的中心地から同心円状に分布する場合、外側にあるより古い形から内側にあるより新しい形へ順次変化したと推定するもの」「見方を変えると、一つの形は同心円の中心地から周辺に向かって伝播したとする」「これを周圏分布と呼ぶ」という説で、言語学の基本的な仮説です。提唱した柳田邦夫は「日本では京都を中心として文化が時間をかけて伝播したことになり、つまり各地方には古い京都の文化が残っている」「各地の民俗文化を調査研究することは、古来より受け継がれてきた日本そのものを研究することになる」としています。「等語線」は「言語地理学において、語、発音、語義、アクセントなどの言語の要素を分布図に示したときに現れる境界線」、言語分布には飛び地や湾曲などが多数存在します。

「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」が明らかになると、より詳細な「真の日本史・日本学・祭祀学」と、「日本という物の基層・実相」が明らかになってきます。この解明には様々な学問分野の学際的な研究が必要で、上記分野以外に、「考古学・歴史学・日本史」「民俗学」「歴史地理学」「文化地理学」「文化人類学」「アイヌ学・沖縄学」・・・など、広範な分野に及びます。また江戸時代の「国学」は、こういった分野の先駆けです。

  そして「古語に由来する類似名称」の多い分野の一つとして、特に「古代日本の辺境・周縁部の地域の、祭祀・祭祀場に関連する名称」があります。

「古代・古神道の祭祀場」は、一般的に自然の場所に設けられ、特に「山・丘」「岩・磐座(いわくら)」「森」「泉」「岬」などに多く存在しました。そういう場所に古代人は、超越的な「神聖・霊性」を見出し、「神が隠れ住まう地」である「神奈備(かんなび)」として、「神が降臨する依り代」である「神籬(ひもろぎ)」を立て、「注連縄(しめなわ)」を張って結界としたり、神域として「禁足地」とするなどしました。建築物が建てられるようになったのは後代で、南方系文化由来の「高床式建物」を「神殿」として築造、これは「社・屋代(やしろ)」で、「神社(神社建築)」となっていきました。

「東北地方の多くの地域(特に北部)」「四国地方の一部」「九州地方の一部」「山梨県」には、山名が「○○森」「○○森山(もりやま・むりやま)」となっている「山」が存在します。「森とも山ともつかぬ地方的な聖地」として、「ウタキ(御嶽):沖縄県」「オボツヤマ:奄美諸島」「ガローヤマ:種子島」「根神山など:トカラ列島」「モイドン・モリドン(森殿):薩摩・大隈(鹿児島県)」「荒神森:西石見(島根県西部)」「荒神ブロ:西伯耆(鳥取県西部)・美作(岡山県北部の一部」「天道山:対馬」などがあります。

沖縄の御嶽の別名に「腰当森(くさてむい)」「拝み山」「山」「杜(むる)」があり、その起源と原初の観念を伺わせます。また「嶽(たけ・がく)」とは「ごつごつと高く険しい山」の意。本土には「御獄(おんたけ・みたけ)」という名の山が多数存在しています。「拝所(うがんじゅ・うがん・をがん)」は、語源は「ウガミ(沖縄北部)」「ウガミヤマ(拝み山・奄美)」、民間では「ウガン」「森(ムイ)」「ヤマ」が普通使われます。多くの拝所の起源は「洞窟などに設けられた、神人などの墓地」で、そこが聖地となっていきました。

「山・丘などを意味する言葉」として、アイヌ語では「moi, kimuy(アイヌ語)」「mui, kim, kir・kiri(古アイヌ語)」「ムイ(muy)=モイ=ムリ=モリ:湾・浜、峰・山頂・山並み、森、集める(古アイヌ語)」などの言葉があります。これに由来する山名としては、「藻岩山(北海道札幌市)」「円山(札幌市)」「靄山(もややま・青森県五所川原市)」などがあります。琉球方言では「muy, mor, mur, moy, muy:山」「mui:丘」、八重山方言では「murakku, mur'i, muri, mur'ikko, mur'ikkott'i:丘」などの言葉があります。これらは時に「頭部・頭頂」なども意味する事があり、また、山名に「マル(丸)」が付く山も多いです。

万葉集において「杜」を「やしろ」と詠ませる例は七例あり、うち五例は「神の杜(かみのやしろ)」という表現をしています。「神社」という表記は二例あり、いずれも「もり」と詠ませていて、「杜も神社も同義」であって、「もり」も「やしろ」も両方とも神社を意味しています。「神社の森・杜」の「鎮守の森(社叢林)」は「神域を包括する空間」であって、「自然崇拝の起源と地域の古層」を伝える場所となっています。

「モリ」とは元々「霊魂の活動を示す語」「霊魂の降誕する神聖な場所」を意味し、「林は生やしを語源として、森は盛る・盛り上がると同一起源の言葉」と言われます。また「モリ」の原義は「(霊魂の)守(もり)」だとも言います。「古朝鮮語・満州語・ツングース語諸語」などにも、「森と山などの名称」の類似性が見られるとも言います。一説に「モリはアルタイ諸語・北方系民族由来」「ヤマはオーストロネシア語・南方系民族由来」との説があります。これらの言葉は、「アイヌ語」にも同系の言葉が見られる事から、、日本では「縄文語」まで起源が遡ると考えられます。

また、鹿児島(薩摩・大隈)の聖地「モイドン・モリドン(森殿)」、沖縄の祭祀場の「殿(トゥン)」と、ノロの家系の「ノロ殿地(どぅんち)」にも、「殿」の読み方に近似性があります。九州地方全域(本土・南西諸島・その他島嶼)では、地名・人名における「原」の読みは、多くが「ばる」となっています。

  拝所の主要起源の一つの「洞窟が墓地として使用され、後に拝所になった」という例のように、古代の日本本土も「祖霊信仰」の場として、墓地が聖地となる事例はごく一般的でした。縄文時代の「環状列石(ストーンサークル)」は、墓域である事例が多いです。弥生時代~古墳時代などの上代、首長などの陵「古墳」は祭祀施設であり、「奥津城(おくつき):奥深い所にあって外部から遮られた境域」として神聖視され、後に多くの古墳で後裔集団が「神社」の社殿を建てました。古墳時代、海人族が多く居住し、古墳築造が少なかった地域の中に、「房総半島南部(安房地方・千葉県)」「三浦半島南部(神奈川県)」「伊豆半島南部(静岡県)」など、主に「洞窟(洞窟遺跡)」を陵墓として使用していた地域があり、「舟形石棺」などを用いています。この分布は海人族・祭祀氏族である「忌部氏(いんべ)」の故地と重なり、忌部氏は「軽野(かるの)・枯野(からの)」と呼ばれた準構造船で各地を往来していました。ここから「日本の沿岸部を結んでいた海洋民ネットワーク」の痕跡が伺えます。

「東北地方」の「山岳信仰」に「はやま信仰」があり、「はやま」は「葉山」「端山」「羽山」「麓山」などの表記で、これらの名の「山」「神社」が多数存在します。これは「本山(奥山)」に対する「手前側・端の山」であり、現世と常世の「境」でもありました。東北地方には「死者の霊(祖霊)は里の近くの山に帰り、数十年後に奥山へ、そして常世に帰る」という「山上他界」の信仰が強くありました。山や麓に「葉山神社」「端山神社」「羽山神社「麓山神社」などが鎮座、多くの御祭神は「羽山祇神(はやまつみのかみ)」「少彦名命(すくなびこなのみこと)」です。特徴に「作占における託宣儀礼」があるといい、「農神(農業神)」の神格があります。

東北地方には「お山かけ」と呼ばれる風習があり、「秋田県男鹿半島」の「男鹿三山(真山・本山・寒風山か毛無山)」や、津軽富士と言われる「岩木山(青森県弘前市・鰺ヶ沢町)」を始めとした各地の山で、集落住民が成人儀礼などとして登山をします。このように東北地方では「山岳信仰」の伝統が強く存在します。そしてそこには、祖霊が住むという「山上他界」思想があります。「はやま信仰」「お山かけ」は、屋久島の「岳参り」の風習に類似します。

  御嶽は「自然信仰(森の信仰)」「祖霊信仰」などの様相が濃いですが、古くは「山岳信仰」「磐座信仰」でもあったとも言い、「墓地」だったとの説もあります。御嶽も拝所も、文字通り「嶽・山」や、山の意味でもあった「森・杜」の文字が使われています。御嶽の最も聖域の部分にある石碑「イベ・イビ(威部)」は、周囲が「岩盤」「塚状の場所」となっている場所が多く、これは「磐座信仰」と同じです。丘陵上の「城(グスク)」には、頂上に「御嶽がある場」がかなり多く、多くで「イビ石」が祀られていて、「元々御嶽があった場所にグスクが築かれた」とも言います。

「イビ石の祀られ方や、周辺の構造」は、「富士塚」など、「本土の神社における山岳信仰の石碑・祠」に類似しています。「御嶽山(おんたけさん・長野県木曽町・王滝村・岐阜県下呂市・高山市)」「富士山」「白山(石川県白山市・岐阜県白川村)」「立山(富山県立山町)」や、「月山・羽黒山・湯殿山(古くは葉山)」からなる「出羽三山(山形県)」や、その他多くの「山岳信仰の石碑・祠」が、各地の神社に建っています。山岳信仰と磐座信仰は、両方ともされている聖地は多いです。これらは中世以降に各神社に祀られたものですが、その祀り方の起源は「社殿建立以前の、古神道の山岳信仰・磐座信仰の祭祀場を、神社内に再現した」という事にあったのかもしれません。この項にある「聖地の祭祀形態」は、中世以後に形態・名称が現行の物となった所も多いでしょうが、同時に古代祭祀の様相を留めてもいます。

「福井県大島半島」に「ニソの杜(もり)」という、御嶽に酷似した祭祀場が三十二カ所存在します。「ニンソー」「モリさん」とも呼ばれ、山麓にあって、タブなどの照葉樹林の森に覆われた神域で、多くで祠が祀られています。元は「埋葬地(サンマイ)」と呼ばれる先祖の墓で、同地を開拓した祖霊を祀っているともいい、域内に古墳時代の「積石古墳」が点在している所もあります。「ニソ田」と呼ばれる耕地を持つニソの杜もあり、その収穫で祭祀料をまかない、かつては十一月の祭祀が終了すると当番の家に集まって「ニソ講(モリ講・モリマツリ)」を行っていました。「祭日以外は近寄ってはならない」「1人でお参りしてはならない」「草木を採ってはならない」「穢れを忌む」などの禁忌があります。柳田国男は「ニソの杜は日本の神社の原型である」と言っています。大島半島は山深く、近年まで近辺へ行くにも船を用いていて、また割合温暖な地で、嘗ては海人族が活躍していました。

「モイドン・モリドン(森殿)」は「鹿児島県の薩摩・大隈地方」百箇所以上あり、「薩摩地方」に多く、特に「指宿市」には約四十箇所あるといいます。これは「モイヤマ(森山)の一部を祭祀場とする神」で、殿は神様を意味する敬称です。村近くの森が神域であり、普通は祠も神体もなく、 大木を神の依り代として同族の間で祀り、大木の根元に御幣があったり、お供え物をしたりします。また近くに「山ン神(内神)」「イナイドン(稲荷神)」の祠があったりします。

「対馬」には「太陽信仰」である「天道信仰(てんどう)」の、地方独自の形式が残る
・対馬に「天道山」「天道地」と呼ばれる禁忌の聖地が三十数箇所ある。
・「鬱蒼とした山や森や藪」であり、社殿は無く、自然石を御神体としていて、何も無い所もある。
・禁足地であり、神饌を捧げたりする。
・太陽の光が女性の陰部に差し込んで孕み、子供を産むという太陽感精神話が伝えられ、
 母神と子神として祀るようになった。
・母神を山麓に子神を山上に祀り、天神たる太陽を拝むことが多い。
・子神は天童や天童法師とも言われる。
・「石塔」を作って「山と太陽を拝む」信仰があり、
 対馬の南岸に位置する豆酘の東の浅藻にあるオソロシドコロ、八丁角が名高い。
・「多久魂神社」に奉仕していた供僧も神仏習合によって天道を祀り、赤米の赤に託して豊穣を祈願した。
・北部の佐護湊の「天神多久魂神社」も天道信仰である。
・天道の祭りは、太陽を拝むと共に、山を崇拝し、米や麦の収穫感謝を願った。
・嘗て対馬全島で行われた「ヤクマの祭り」では、石塔を立てて拝む習俗が天道信仰の名残りで、麦の収穫祭でもあった。
 中部の木坂地区と青海地区に現存、海辺の石を積み上げて「ヤクマの塔」を造り、旧暦6月の初午の日に神饌を供える。
 また、この2地区では、埋葬する墓と拝み墓を別に設ける両墓制という独特の葬制があった。
・天道信仰は「母子神」が基盤にあったので、「八幡信仰(はちまん)」と習合した。
・太陽によって孕んだ子供を天神として祀る天道信仰の上に、
 母神「神功皇后」と子神「応神天皇」を祀る八幡信仰が重なった。
・母子神信仰は、日本神話と結び付けられて、「豊玉姫命」と「鵜茅草葺不合命」とも解釈された。
・しかし、母子神信仰の基層には、海神や山神の祭祀があり、太陽を祀る天道信仰が融合していた。
・元々は自然崇拝に発した祭祀が、歴史上の人物に仮託され、社人による神話の再解釈が導入され、
 明治時代以降は国家神道の展開によって、祭神が日本神話の神々に読みかえられ、
 式内社に比定されて祭神も天皇につながる神統譜に再編成された。

九州西部「対馬」「壱岐」「長崎県松浦」「熊本県」「鹿児島県」に、「ヤボサ神」という神を、石祠に祀る信仰が見られます「ヤボサ講」があり、祭礼の日には、神主が来て祀ります。折口信夫は「畑の神」「陰陽師の屋敷跡に多い」「元は古墓である」と述べていて、ヤボサ神の別神格は「大己貴神(おおなむちのかみ)」であることが多いと言います。「対馬」「壱岐」は、記紀の日本神話に現れる地で、古社も多く、そして独特な祭祀場・祭祀形式が多数あります。

「荒神ブロ」は「西伯耆(鳥取県西部)」「美作(岡山県北部)」の聖地で、西伯耆では「荒神」とも呼びます。神の一般的名称「荒神(こうじん)」は「屋敷神(火の神や竈の神)」や「地荒神(山の神・屋敷神・氏神・村落神)」という二つの属性があり、荒神ブロは両方の性質があります。荒神ブロは「荒神の森」の意、三間坂では「村や屋敷内のモリ(フロ)を神聖視して祀る」、西伯耆では「モリや石造物を荒神として祀る」という形です。西石見の「荒神森」は「旧家の裏山などに祖霊を祀る」という形態です。これらの聖地は、後代に「荒神社(あらじんじゃ)」が建てられた場所も多いです。

  これらを見ると「東北地方・北海道や九州地方・南西諸島など、古代日本の辺縁部」に、言語・文化・祭祀がかなり共通している事が一目瞭然です。その多くには「山岳信仰」「森・杜の信仰」「磐座信仰」「他界思想」という共通項があり、祭祀の古層をよく残しています。ここから「古代日本の聖域と、それに纏わる観念」が伺え、「古代において、山(嶽・丘)も森(杜)も、類似した聖域と見做されていた」「他界との境でもあり、神社・御嶽・拝所などの原点であった」「山・森・杜や墓・陵墓や神社・御嶽・拝所は、多くの場合、祭祀的性質が重複していた」という事が分かります。また、こういった神域や禁足地は、例えば「入らずの森」と言われる場所など、近代まで各地域に沢山あったのですが、近年の開発により激減しています。

当然ながら、日本本土と沖縄の類似点は他にも無数にあり、「日本本土と沖縄の類似性から、特に古代日本の辺境地域同士の類似から、古代日本の言語・文化・祭祀の基層の姿が伺える」「古代の言葉・事物が多く残る地域は、古代日本の姿を多く留める地域である」と言えます。

  • 沖縄・琉球の位置付けについて
  日本の歴史の最大の謎は、諸々の要素を鑑みると、「倭国・倭人に纏わる謎」「邪馬台国に纏わる謎」とともに、「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」が挙げられるでしょう。そしてこれらは、本来的に「表裏一体の事象」であり、「倭国・邪馬台国の謎の大きな解明」は「古代沖縄の謎の大きな解明」無しには有り得なく、逆もまた然りです。

「倭国・倭人に纏わる謎」「邪馬台国に纏わる謎」については、歴史的に詳細な研究がされてきています。これらは日本の起源と直接関連する重要な事象であり、故に現在の数多の事象と絡んでいます。これは「波動原理的にもそう言える」のであり、当サイトで「縄文時代~奈良時代ごろの歴史的事象と意味合い」をかなり記述しているのも、「国・地域・社会の基層・古層は、その地域の波動的な特性を大きく決定付ける」「その解明と適切な解釈、良い方向での利用が、日本国土と社会と人々の量子的飛躍にとり重要である」からとの認識によります。しかし同時に、邪馬台国論争は「一つの時代・古代国家の事象」でもあります。

  「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」については、「日本史・考古学・歴史学」「日本文化学」「民俗学・民族学」「地理学・地域学・地政学」「言語学」「神道・祭祀研究」など、広範な学問分野において、「古代の日本本土・ヤマト:北海道・アイヌ:沖縄・琉球の関係性は詳細が不明である」という事が、研究・議論の具体化・進展の障害となっています。言語・文化・祭祀に見られるように「古代の沖縄は本土と共通していた・近かったものがあった」という通念はありますが、それは漠然と認識されているに過ぎません。

この理由には幾つかありますが、「古代も現代も沖縄が辺境の地であるから、それほど重視しない」「どう位置付けたら良いのか分からない」「沖縄側から見ても、自らの立ち位置がよく分からない」という感覚は大きいものがあるでしょう。現代「日本史の最大の謎とされるのは「邪馬台国はどこにあったか」であり、「弥生時代・古墳時代などの、日本が国家樹立した時代における、日本史・考古学や祭祀文化など研究」は、多くの場合「畿内」「九州(北部九州)」「出雲」を中心とした、限られた地域に対象が偏重しています。日本には各分野に優れた研究者・在野研究者がいて、日本史・考古学や祭祀文化も、多くの人が素晴らしい研究・考察を行っていますが、例えば学会においては、どうしても主流の関心点・常識に偏重してしまいがちです。その結果、研究領域の僻地にあるような分野は「盛んな研究議論」→「論点の収斂」→「説の標準説化」という進展が起き難くなります。

この分野には「沖縄・琉球という広大な地域について、未だにさほど解明が成されていない」「古代日本の様相が多く残っているのは漠然と知られている」「歴史的事象だけでなく、現代の沖縄や南西諸島、日本や日本辺縁部に纏わる事象についての、解明・認識の深化に直結する」という状況があります。状況的には前提として「一般認識のボトルネック」が存在していて、ここが突破されると、その先への波及領域は非常に広範な範囲に及びます。

ここから「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」の解明は、「倭国・倭人に纏わる謎」「邪馬台国に纏わる謎」の解明へと導き、そして「古代日本の在り方の解明」「日本の波動的な様相の大規模な解明」へと繋がっていきます。そしてこの一連の流れについて、「古代の沖縄」こそが「日本史の最大のミッシングリンク」と言えるでしょう。
(「世界の超古代文明」は存在しますが、ここでは省きます)

  しかし「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」という観点は、日本史の教科書に殆ど載っていません。これは学会などの統一的な通念が無いからです。関心を持つ識者はかなり多く、「古代に共通文化があった」というのは昔からの通念ですが、しかしそれ以上の物とはなっていなく、何とはなしのボヤッとした通念のままです。日本史の教科書に載ってないから、現状は一般レベルでは「古代の本土と沖縄の関係性」について、何となく「言葉とか文化とかを見ると、あったらしいね」程度の認識しか持たれていません。これは「日本史という学問分野」のみならず、「日本の自国・自分達の文化についての認識」において、非常に重大な問題点です。あまり認識されてないですが、この影響はかなり深刻だと思われます。

「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」の現状と解明すべき事
1:弥生時代・古墳時代という、日本の国家樹立の時代における、
  本土と沖縄の言語・文化の関係性、具体的事象、その影響。
2:祭祀・祭祀具・祭祀場・神道・神話・伝承に纏わる、本土と沖縄の関連性。
3:貝の道に纏わる事象。
  沖縄的事物(南方産貝製品と、派生した事物)が、何故そこまで重視されたのか。
4:沖縄・南西諸島に居住していた集団、本土との間の航海者集団。  
4:沖縄・南西諸島に存在する古代日本の姿、その様相。
5:日本各地に存在する古代日本の姿と、その比較文化。
6:沖縄・南西諸島は、日本・本土・ヤマト文化にとり、どういう存在・位置付けであったのか。
7:これらを基に再構成した、古代日本の在り方と流れ、日本史全体。

若しこれらが解明されて、一般認識となっていけば、「真の日本史」の解明へと導かれ、更には波動的な影響も含め、非常に多くの方面へ波及していくことでしょう。

  先ず「日本語と琉球方言(琉球語)は、日本語を起源とした、同じ語族の言語」「神道と琉球神道は、古神道に淵源がある」「古いタイプの日本人・日本の先住民である縄文人のDNAの型を、アイヌ人・琉球民族は多く残している」という点は、先述の通りです。古代は「祭祀・信仰」が生活の中心にあり、各種文化はそれに伴って起きた物で、「神道と琉球神道は起源が同一」であるので、「日本本土も沖縄も基層文化は同種の物である」と言えます。

「沖縄の歴史」という観点では、「沖縄の独自文化」「日本本土と沖縄の基層文化の同一性」「江戸時代或いは明治時代以後の、日本国の領域としての沖縄」「台湾などの南方系文化の流入」「中国伝来の文化の流入」「日本と清の両属体制」と、これらの観点は其々に、沖縄の歴史の重要な一角を成す物です。

然しながら、こうして見ると「日本本土も沖縄も基層文化は同種の物である」という項目は、事実関係は明白でありながらも、世間の一般観念では、よく知られる常識とはなっていません。やはり先に述べたように、教科書に載っていない事などから「なんかそうらしいね」程度です。

「日本語と琉球方言(琉球語)は、日本語を起源とした、同じ語族の言語」「神道と琉球神道は、古神道に淵源がある」というのは通説ですが、ここから「日本本土も沖縄も基層文化は同種の物」「古代は同じ文化圏だった・古代において同じ国だった」という部分までの間が、通念としては抜け落ちてしまっています。ここまで進めば「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」「真の日本史」の解明がかなり進み、全てが一体的に判明していく事になります。

しかし「沖縄が地理的・歴史的に、日本の辺境・辺縁部にある事」と、潜在的な「ヤマト民族・ヤマト文化の優位思想」「方々に蔓延る沖縄への二級市民扱い」は、これを完全に阻害してしまっています。しかし「辺縁部にあるから、本土に対して下位構造である」というのはおかしな認識論で、そもそも「辺縁部こそが、日本の基層・古層をよく残している」のです。

  古代日本では「縄文時代には日本全国に、広い意味で共通文化があり、これは日本文化の基層である(縄文土器・土偶・祭祀関係・集落構造など)」「弥生時代にクニが各地に生まれた(首長の誕生)」「合従連衡で幾つかの国に収斂された(邪馬台国など)」「古墳時代に統一的な政体を持つヤマト王権が誕生した」「王権は周縁部に領域を拡大していった」という状況がありました。

そしてこれらの問題は、還元すると「古代日本において、沖縄は日本文化の辺縁部にあったのか?周縁部にあったのか?」ということです。「辺縁部」であれば「古代日本の文化の領域内」に、「周縁部」であれば「古代日本の文化の領域外」にあった事になります。これは先述の全ての事項から分かるように、「沖縄は古代日本の文化の領域内にあった」のは明白です。だからこそ「沖縄・南西諸島は日本の基層・古層をよく残している」のです。

しかし、この部分の意味が、いまいち一般的に認知されていない・重視されていない事から問題は発生し、様々な方面へと深刻な悪影響を招いています。そして、この解明と認識の一般化が進めば、様々な方面へ好影響が波及、好循環が生まれてゆくでしょう。様々な学問・界隈が、ここの部分を重々認識して、その意味合いをしっかりと捉えて、そして社会へ訴えていく必要があります。

このような「歴史的事実と認識論」が一般化していけば、「アイデンティティの迷い」が存在する現在の沖縄について、その空白部分を埋める物となり、人々の意識に大きな肯定的影響を与えるでしょう。また「琉球は信仰・神の存在が身近にある」ことは知られていますが、これに加えて「日本の国家樹立の黎明期の姿や、神道や各種文化の原初の姿を、それが色濃く残る琉球を通して見る」という観点が新たに認知されていけば、「自然の綺麗さ・豊かさ」「独自文化」という資源も合わさって、観光産業興隆の非常に大きな呼び水になるでしょう。

更には「日本の歴史に対する、日本人一般の関心興味の興隆」「神道・琉球神道・アイヌ神道や祭祀・信仰」と、他にも様々な事象へ、大きく波及していく事は間違いありません。こういった自然に興った人々肯定的な観念は、特定思想を強制的に植えつける施策よりも、遥かに健全で、多方面への肯定的な影響を与えるでしょう。こうなれば日本全体の経済面や国力にも寄与、これで国力重視の思考からも、メリットは大きい筈です。どのような観点で見ても、この方向はメリットが多大で、デメリットはありません。

  • 辺野古と大浦湾の類稀な環境・霊場・遺跡
  普天間米軍基地の移転候補先の「辺野古(へのこ・沖縄県名護市)」と東方の「大浦湾(おおうらわん)」には、「御嶽・拝所」などの聖域が幾つも分布していて、記録には八十箇所が記されています。そして「辺野古の霊的な重要性」について「辺野古は沖縄三大霊場の一つ」「沖縄島の東海岸には島に寄り添うように巨大な龍がシマを守っている」「辺野古マナル岩(マナヌ岩)は龍の頭、斎場御嶽はヘソ、金武は腹、久高島は尻尾」とされます。「マナル岩(マナヌ岩)」は、辺野古の海の沖合いにある、珊瑚礁の岩礁です。「日本列島は龍体である」と言われ、「琉球」とは「龍のタマ(霊・魂・心/玉・珠・勾玉/松果体)」と解され、「頭」の語源説の一つに「天玉((あまたま)」があり、これらの地の根源的な重要性を示しています。そして、神歌の「赤椀の世直し」という歌詞は、辺野古の神歌にも見られます。
(「あたま」とは、元は「頭頂部中央の骨と骨の間の隙間(小泉門?)」を指した言葉で、後に「頭頂」「頭全体」を指すようになったという)

辺野古漁港の堤防先端に「トングヮ」という小島があり、こんもりとした緑に覆われています。ここには御嶽「竜宮神」が鎮座、石段の途中に鳥居があって、奥に威部(イビ)の石祠があります。その奥に男神「ターリー」が住み、島には「ニライカナイの神が座る神所」があって、対岸の森に女神「アヤー」が住んでいます。ここは如何にも神が住まう地といった感を見受けます。「基地」の有刺鉄線には、多くの旗がはためいてますが、その中に「竜宮神 ジュゴンのすむ辺野古の海は宝の海」と書かれた物もあります。

  辺野古沿岸と大浦湾湾縁には「ユビエダハマサンゴ・アオサンゴ・ハマサンゴ・ミドリイシなど、多くの種類の珊瑚の大群落」があり、特に絶滅危惧種の「世界最大級の青珊瑚群落」は特筆されます。「珊瑚礁」には「海を浄化する事で広域の波動を高める」という特性があり、これは「森林」「湿原植物」と同じであり、「魚が湧き出る海」と言われるほど魚介類の生存に適しています。「イノー」と呼ばれる珊瑚礁内側の磯・干潟は「熱帯魚・甲殻類(エビ・カニなど)・藻類など海生生物の宝庫」で、、大浦湾では魚種は170種が報告されています。

この地域は「国内唯一で世界北限のジュゴン生息域」です。ジュゴンは「哺乳綱カイギュウ目(海牛目)ジュゴン科ジュゴン属の海洋哺乳類」、好奇心旺盛で船や人に近寄って来る事もあります。「人魚」のモデルで、英名は、フィリピン・タガログ語の「海の貴婦人(lady of the sea)」の意味の言葉に由来します。でのと言われます。琉球方言では「ザン」「ザンヌイユー(ザンの魚)」と呼ばれ、「犀魚(ざんのうお)」とも呼ばれます。また「ジュゴンは鮫(サメ)を意味する日本の古語」という説もあります。

ジュゴンは国際的な保護動物で、国内唯一の生息地域の沖縄・南西諸島では、極めて個体数が少なくなっていて、非常に絶滅の危機に瀕しています。「日本哺乳類学会のレッドリスト」では「南西諸島のジュゴン」を「絶滅危惧種」に指定、「水産庁のレッドデータブック」でも「絶滅危惧種」となっています。2000年の「国際自然保護連合(IUCN)」総会で「沖縄のジュゴンとノグチゲラとヤンバルクイナの保護」が決議されました。辺野古沿岸域は「沖縄県の環境保全指針のランク1(自然環境の厳正な保護を図る区域}」に指定されています生物多様性基本法に基づき2013年に策定した「生物多様性おきなわ戦略」で、県は北部圏域の将来像に「ジュゴンとその生息環境が保全され、ジュゴンの泳ぐ姿が見られる」と盛り込みました。

環境省の「南西諸島のジュゴン」の推計は残り3頭、しかし非公式の目撃例が時々報告されていて、ただそれらを合計しても数十頭とされます。ジュゴンの生存環境には、餌の海草が育つ「藻場」の健全さが必須で、辺野古・大浦湾には県内最大級の藻場「ジャングサヌミー(ジュゴン草の海)」があります。辺野古や大浦湾では、ここ数年ジュゴンの藻の食み痕がよく見掛けられ、「数頭のジュゴンが沖縄本島東海岸に住み着くようになり、同海域はその重要な藻場となっている」とも言います。またこの藻場には「海亀」も生息しています。

古くから沖縄では、ジュゴンは「神々の乗り物」と言われてきました。辺野古の伝統行事「六月ウマチー(御祭)」は、五穀豊穣と豊漁を祈る神事で、謡われる神歌の中にジュゴンが出てきます。大浦湾沿岸には「ジュゴンの見える丘」があって、歌手Coccoの歌にも歌われました。

大浦湾は平成二十一年(2009)に「一度に甲殻類の新種39種が発見された場所」であり、これだけの数の新種が一度に確認されるのは、日本周辺では非常に稀な事です。世界で当海域にしかいない「オオウラコユビピンノ」がいて、「甲殻類」「ナマコ類」「貝類」「藻類」など、様々な分類群の未記載種の発見が相次いでいます。国内での絶滅危惧種「褐藻類ウミボッス」など、国内初確認は25種、「シャコ類」では3新種と国内初確認4種が判明しています。この調査では、採集した全甲殻類のうち約13%が新種や日本で初確認の種でした。新種の多くは「干潟の泥の穴にすむ1~2センチほど小さな生物」です。辺野古と大浦湾は「多くの絶滅危惧種の生息地」「未記載種の発見が相次ぐ海域」であるのです。

河川では「リュウキュウアユ」「ボウズハゼ類」などが遡上します。河口には名護市天然記念物の「マングローブ」「干潟」が発達、周囲の山林には「イタジイ・オキナワウラジロガシを主とする深い森林」が存在します。

辺野古と大浦湾は、自然が特異的に豊かで、山林は緑が濃く、海の動植物の生態系は豊かであり、「海から山までの連続的で一体的な生態系」が存在しています。ここは「自然環境と生態系の宝庫」「狭い地域に多様な環境がある場所」であり、これほどの自然豊かな地は滅多に存在しません。そして「紺碧の海と、深緑の山林と、その間を縫うように存在する無数の入り江」は、非常に美しいコントラストを描いていて、正に「美ら海(ちゅらうみ)」と言われるような場所であるのでしょう。

日本は「先進国の中で唯一、自国内にサンゴ礁生態系を持つ国」「豊かな自然環境を持つ国」であり、古くから自然の美しさは「山紫水明」と例えられました。しかし近年、自然の保護・維持をしっかりやっているとは、とても言えない状況となっています。諸先進国の平均的状況からすると、明らかに程度が低く、取り組みは遅れをとっていますし、もし諸先進国にこのような自然環境があれば、間違いなくしっかりと守られる方策はとられているでしょう。辺野古や大浦湾の保護は、日本人の自然環境に対する・意識と民度が、正にそのまま映し出される事象です。

  辺野古沿岸部には、本格調査は未実施の古代遺跡が6箇所あり、付近には他の遺跡の存在も推定されています。これらは全てキャンプシュワブ基地内にあって、地区一帯で最古の「大又遺跡(うふまた)」は2千年以上前の遺跡で、弥生時代~古墳時代前期(邪馬台国の時代前後・沖縄では貝塚時代後期)に相当、「ゴホウラ製貝輪の半製品の製造工房があった」「付近からは弥生土器などが出土している」ということが判明しています。

他には、同じく先史時代の「思原長佐久遺物散布地(うむいばるながさく)」や、「思原石器出土地」「思原遺跡」「ヤニバマ遺物散布地」「美謝川集落関連遺跡群(びじゃがわ)」があります。このうち近世~近現代の「美謝川集落関連遺跡群」は、移設に向けた埋め立て土砂の採取予定地にあり、辺野古ダム周辺の広い範囲にまたがっており、琉球王国時代の「宿道(街道)」の石積みを含む陸上交通遺跡群などが確認されています。他の遺跡は、殆ど内容が分かっていません。

ゴホウラはあまり見られる貝ではなく、ゴホウラ製貝輪の半製品工房は、過去に少数の例しか発見されていません。辺野古にゴホウラが多く生息していた事と、工房跡の存在は、辺野古の波動環境を示していて、「辺野古の海岸沿いに分納する古代遺跡群」は「本土と沖縄が一体だった当時の交流・交易の跡を示す重要な遺跡群」です。

「弥生時代・古墳時代における、貝製品・神歌などが示す沖縄の在り方」を考えると、更にその意味合いは高まります。そして「日本の国家黎明期の最重要の文化の一端を示す貴重な遺跡」であり、「日本・沖縄の歴史と、当時への国家観の通説を、劇的に塗り替える可能性が高い遺跡群・事象の1つ」「日本本土と沖縄の歴史・文化・祭祀・波動の根源に位置」「日本本土と沖縄の歴史的一体性を示す」という可能性を有します。

  「沖縄三大霊場の残り二箇所は斎場御嶽と久高島」であり、これを考えれば「辺野古は沖縄三大霊場の一つという事は、往古から琉球神道の重要な聖地であった事は確実である」のであって、辺野古というのは、真にそのような地であるのです。

そして「辺野古・大浦湾の自然・歴史・遺跡・祭祀・波動環境の豊かさ」は、「辺野古・大浦湾は自然環境・歴史伝統・祭祀の上で非常に重要な地であり、波動的に重要なパワースポット(龍穴・龍脈)である」と示します。霊場にしても、御嶽などにしても、ゴホウラ製貝輪の工房跡など古代遺跡にしても、そして自然の豊かさにしても、このような地は非常に限られていて、波動的に考えればそこには特別な意味があるのであって、全ては波動において繋がっているのは確実であり、辺野古という土地の持つ類稀な重要性を示しています。

  しかしその類稀な聖地である辺野古には、他国・アメリカの軍事基地である「キャンプシュワブ米軍基地」が存在していて、大きな面積を占有しています。

現在、辺野古では「普天間米軍基地」の移設計画が、日本政府とアメリカ政府による「飴と鞭(恣意的な利益配分と権力濫用)」「様々な嘘・詭弁・隠蔽」により、進行され続けています。「導入予定のオスプレイは、未亡人製造機と形容されるほど事故の危険性が高い」にも拘らず、人家の上空を飛んでいます。

「海兵隊の存在は、軍事的には大した意味が無く、金銭的問題による撤退も頻繁に議論されている」「沖縄での訓練は半減できる」とされます。2012年度の米連邦議会の委託調査で、有力研究所が「現在、沖縄に駐留する海兵隊のうちのほとんどをカリフォルニアに移転させたとしても、有事の際のレスポンスタイムに大幅な遅延を来すことはない」と結論づけています。これは「論者により意見が変わるが、然しながら海兵隊は沖縄にいても米国にいても、即応体制に影響ないという意見が出るほどの違いしか、軍事能力差は出ない」という事を示していて、これは「辺野古の基地移設問題」「普天間基地問題」の根本的存在意義を完全否定するもので、「在沖米軍・在日米軍」全体の存在意義にもかかわります。

「日本政府は抑止力の名目で辺野古に海兵隊基地を造ろうとしているが、米国は沖縄は中国のミサイル射程圏で近すぎると考え、海兵隊をオーストラリアやグアムにシフトさせようとしている」「沖縄の米軍基地は有事に使えなく、ローテーション部隊しか残らないだろう」「尖閣などの離島防衛も、日米ガイドラインには"自衛隊が尖閣などの離島防衛を担う"とあり、"辺野古の基地と海兵隊は離島防衛と抑止力維持に必要"という論理は成り立たない」「オスプレイ導入で航続距離が4倍にあり、沖縄の海兵隊の存在意義は更に薄れたが、防衛省は全く見直さない」とも言われます。

しかし「世界中に類例がない、他国への盲目的服従」である「日本の米国追従と資金供給」によって、アメリカ政府と日本政府は辺野古への移転を強行しようとしています。
また「那覇空港の増強計画は早くても2020年の完成だが、嘉手納米軍基地を軍民共用にするのが最も手っ取り早く、また那覇空港の自衛隊を嘉手納に移す手もある」「嘉手納空港の滑走路は空きが充分にあるが、米軍の既得権益を聖域視している日本政府の弱腰がこれを阻んでいる」と言われます。

「辺野古・キャンプシュワブの軍港化」は、長年危惧されてきました。2013年12月、防衛局が県に提出した埋め立て申請書に記された「船が接岸する護岸の長さや弾薬搭載区域の規模」が「それまで県に示していた計画よりも拡大し、軍港並みの機能であるる」「護岸の全長は約200メートルから272メートルへ伸びた、幅30メートルは初めて記された」「オスプレイ12機や強襲揚陸艦の立ち寄りが可能」「揚陸艇の水陸両用訓練が可能となる斜路の存在も新たに図示された」という事が判明しました。これは「都合の悪い大きな事実を最後の段階まで隠してきた」という隠蔽工作です。

昔から大浦湾では、海を爆破するなど、米軍が裏で海軍基地建設を画策していました。沖縄の本土復帰時、防衛庁担当者が大浦湾を海上からの上陸訓練場として使う事を求め、その度に名護市漁業組合長が断ったという経緯があります。日本の体制側というのは、そして特に軍事関係では、大小様々な隠蔽・捏造・詭弁・糊塗に塗れていて、辺野古ではこの類の事象は長年の日常茶飯事です。

  辺野古の古代遺跡群の多くは、キャンプシュワブ基地内と移設候補地内にあります。しかし「非常に多数の場所が調査・アセスメントもないまま掘り返されている」「水陸両用車が轟音と共に海と陸とを行き来、この上陸演習などで海岸が痛めつけられている」「日本・沖縄の成り立ち・原初の基層が眠る非常に重要な遺跡が、他国に軍隊により破壊されている」という状況にあります。

これは「古来より聖地であったろう地の、波動環境・龍脈を大規模に破壊するもの」です。辺野古の「竜宮神」の御嶽は、海の埋め立ての範囲内にあって、シュワブ基地が拡張されれば、この古来より篤く守られてきた神域は、その時限りで完全に異なった場所となってしまいます。

  キャンプシュワブ基地の存在により、既に多くの森林が破壊されてしまっています。現在でも水陸両用戦車などにより、珊瑚などの海域と海岸の自然は日々傷められ続けています。

「辺野古沿岸の造成」は、沖縄各地の深刻な問題である「赤土の海への流出」を深刻化させます。「海の埋め立て」は、「貴重な珊瑚・熱帯魚・甲殻類・藻類やジュゴンなどの生息環境を大規模に破壊する」ものです。現在でも珊瑚礁は痛めつけられていますが、「海域の埋め立てが行われれば、珊瑚礁や藻場を始めとした生態系全体に深刻な被害が出る」のは確実視されています。

基地建設の為の調査船が現れていた期間、大浦湾のジュゴンは姿を消しました。ジュゴンというのはそれほどの繊細な動物で、基地が拡張されれば、この海域から消えて、絶滅へ追いやっていくのは確実です。沖縄防衛局は「移設予定先にジュゴンの餌場や食跡があったのを隠蔽した」という事があり、その後防衛局が県に提出した「環境影響評価(アセスメント)」の評価書では「移設によるジュゴンへの大きな影響はない」と主張、そもそも「隠蔽体質に塗れた移設推進組織が環境影響調査をやる事」自体が噴飯物です。

防衛局が示す「外来種対策」や「環境影響評価書」を受け、沖縄県は「環境保全は不可能」と結論付けました。そして辺野古沖は「県の環境指針で厳正に保護するランク1」に指定されています。然しながら、沖縄県知事は最終的に埋め立て申請を承認、これは完全に非論理的で非科学的です。

基地が拡張されるとと「絶滅危惧種の北限のジュゴンの絶滅」が起きてしまう、非常に高い確率の危険性が存在します。この海域には「青珊瑚」や「新種甲殻類」など、非常に個体数が少ない希少種が多く、これらの種と、その生育環境の存続が、重大な危機に瀕します。そうなったら、誰が責任を取るのでしょうか?日本政府は、アメリカ政府と米軍は、賛同者は、「ジュゴンなどの生物種の絶滅の責任」を取るのでしょうか?そもそも一体どうやったら責任を取れるのでしょう。一回絶滅してしまったら、もう元には戻らないのです。

環境に対しては、埋め立ての直接的被害だけでなく、「大量の海砂の投入による、珊瑚礁生態系の一部の、砂底上の生態系の破壊」「本土の資材搬入による外来種の侵入」「環境を汚染する物質の使用による継続的な大規模汚染(そもそも化学物質は自然界に無い物質ばかりで、環境とは相容れない物が多い)」など、数多の被害が懸念されます。

多くの「海砂の投入」の工事では、その地域の固有の環境を破壊、この工事での投入も、この地域の生態系の独特の「海底・干潟の砂・泥」の環境とは相容れません。「外来種の侵入」は、特に「アリ・菌類」など微小サイズの生物は防ぎようが無くて、海砂を採取予定の地では、外来種のアリが大繁殖していて、この地域とは異なる菌類の生態系が存在します。

本より、「島嶼部の生態系は固有性が大きい」「南西諸島の生態系は固有性が大きい」「辺野古・大浦湾の生態系は非常に独特で、豊富である」という事は最初から分かっていて、「工事はその環境を根本的に破壊する物である」ことも明確です。ほぼ全ての「自然保護団体」が「辺野古への基地移設と陸域と海域の造成・埋め立てに反対」であり、「基地が拡張されれば、豊かな自然環境は重大な損壊を受ける」としています。

「政府機関や御用学者の、自然保護は成されるというお墨付き」は全く無意味で、そんな根拠はどこにも存在しません。そういった人・意見は単に「体制側の方針を追認するロボット・駒」でしかなく、非正義を押し通す事に無感覚になっています。逆に、こういった「自然保護に携わる組織・学者」の方が、遥かに自然環境の在り方を分かっていて、その組織・学者がこぞって反対してるのであって、「このような重大な破壊の到来が、自然保護の観点から見た、現実に起きること」です。

  日本は古来「捕鯨文化」があり、身体部位を余す所無く利用してきました。しかし今後の時代に、こういった事が良いのかは十分な議論が必要です。そもそも「肉食」自体が、動物の命の問題、知的生物の問題、肉食が低波動を招く事から問題です。「希少種以外の鯨・イルカについての捕鯨問題」を語る時、そこには必然的に「肉食問題」が伴います。肉食問題を無視して捕鯨を叩くのは欺瞞ですが、米豪などは肉食大国です。

多くの国が捕鯨に反対していますが、捕鯨問題が国際的大問題になった切欠は「ベトナム戦争泥沼化で窮地の米ニクソン大統領の再選時、環境保護派の対立候補に優位に立つ為、環境に無関心だったが、体の良いバッシング対象として、日本の捕鯨を槍玉に挙げた」「いきなり政府の重要事項になり、当該主張をしていた団体に利便供与した」「複数の国際会議で強硬に主張、流れを反捕鯨で纏め上げた」いう物です。「自然保護の問題全体の大きさに比した、捕鯨問題の割合」「他の捕鯨国との扱いの差」も含め、ここには「自然保護という高邁な理念」と同時に、「様々な負の意識」も強く存在します。

ここで重要な点として、「一般的な鯨・イルカの問題」よりも、「絶滅危惧種の北限のジュゴン」の方が、「自然保護の問題」「生物種の希少性と存続の問題」から見て、遥かに重要な問題であるのは言うまでもありません。更に「知的生物の問題」が発生し、これは「知能や愛嬌などの度合いは、鯨・イルカがジュゴンより、明白に上という事は無い」ですし、ジュゴンの方が上と捉える事もできます。「生物種保護の優先順位の考慮要素」は、こういった「希少性」「知的生物」などの観点に拠るというのは、「全ての自然保護運動・団体の活動理念」に見られるでしょう。

しかし「海洋哺乳類・海獣類の鯨類の生命や、生物としての尊厳の問題」を声を大にして主張するのに、同じ「海洋哺乳類・海獣類」であり、更には「希少種という概念以上の危機に瀕する絶滅危惧種」「公式には3頭しかいない」という特別に重要な要素を持つ、「北限のジュゴンの危機問題」を完全に黙殺するアメリカなどの態度は、「自己の立場・主張ばかりを絶対的とする、完全な二重基準(ダブルスタンダード)・ご都合主義・偽善」であり、「自然保護・生物種保護という概念に対する根源的な欺瞞・裏切りと、環境重視・道義性優位のイメージングを利用した詭弁」に過ぎません。米政府は「捕鯨は非人道的・残酷・自然保護に反する」と言いますが、対極的に、何故「絶滅寸前のジュゴンの生存環境への過酷な破壊行為は問題が無い、無視するべき」なのでしょうか。アメリカはこういった行為を、アメリカ本土やヨーロッパで行うでしょうか。そして「銃所持」「レジャーとしての狩猟文化」を放置・称揚しているのに、殊更「捕鯨」を問題視して、しかし「ジュゴン絶滅は問題しない」のは、其々が極端に矛盾しています。ここに「まともな論理的理由」など存在はせず、米政府は徹底して説明を回避して、無視と詭弁を続けるのみでしょう。

こういった「欺瞞的態度」は方々で見られるものであり、「全ての正誤の基準や、世界中の事象の価値判断は、自分らが定めるという、超大国の典型的な傲慢な姿勢」以外の何物でもないです。「捕鯨問題」は「モラル的に米・欧米は上位で、日本・アジアは下位とする、格差固定の意図」「日本叩きの道具」であり、「ジュゴン問題」は「自己利益にならないから無視」というのが潜在意図にありますが、「日米間の問題で、アメリカは自国が世界中に批判されることは無いと考えている」ので、少々の批判をやり過ごせると考えています。このような「全ての正誤の基準を決める覇者」という立場と、その「基準制定・主張・実施の恣意的運用」を駆使て、特に従属国のような国に対しては、強大な権限を振るい続けています。

「正誤の基準や価値基準の判断」を行い、それを世界中に公然と主張するのであれば、出来得る限り「常に何事でもぶれなく揺るがない、透徹した姿勢を貫くべき」ですが、であれば「その論は正当性を有する」「自らの信ずる論を述べるべき」のです。しかし全くそんな態度は伺えず、単なる「絶対的地位の保全」「自文化中心主義」の言動を繰り返しているのみで、その影で「弱者たるジュゴンが絶滅に瀕するという自然破壊の状況」が進行しています。そして日本を軽視するだけならまだしも、「アメリカ政府には、沖縄のジュゴンを絶滅させる権利はない」「自然保護を語る資格も無い」のであって、自らの道義的問題を深刻に考えるべきです。

  南西諸島には、独特な生態系があり、豊かな自然環境が存在します。日本政府は「奄美・琉球」を「世界自然遺産」に登録しようとしていて、現在暫定リストに登録されています。その範囲は、沖縄本島では北部「やんばる(山原)」地域の「東村」「大宜味村」「国頭村」が決まっています。この地域は本島では残り少なくなってきた、美しい自然がよく残っている地域です。

しかし「やんばるの山と辺野古沿岸域は近距離にあり、同一のエリアといっていい。外来種が侵入すれば、生態系への影響は計り知れない。自然遺産登録の手続きとしてIUCNによる現地調査がある。IUCNは過去にノグチゲラ、ヤンバルクイナと生息地の保全、辺野古のジュゴン保護を求める勧告を出している。基地建設のための公有水面埋め立てを調査団がどう判断するだろうか」「埋め立てて基地を造ることが、公有水面埋立法でいう"国土利用上適切かつ合理的"に当たるのか。大いに疑問だ」「辺野古沖は県の環境指針で厳正に保護する"ランク1"に指定されている」「承認ありきで自ら作った環境指針を否定する。何のための指針か(沖縄タイムス)」という状況があります。

「日本政府や沖縄県知事の言動と施策の差は完全な欺瞞」であり、「世界自然遺産」「公有水面埋立法の国土利用上適切かつ合理的との条項」「県の環境指針で厳正に保護するランク1の指定」などの精神に、完全に逸脱しています。「自然保護が大事で、それをしっかりやっている」などと言ったり、ポーズをしながら、それは常なる所業に反する詭弁にしか過ぎません。「類稀な環境を破壊する暴挙」を犯そうとしながら、もう片方の口で「自然環境をしっかり保護している」と言うのは、あまりに醜過ぎます。

世界遺産「奄美・琉球」に登録申請した各地域には素晴らしい自然がありますが、更に「辺野古・大浦湾」には類稀なる自然環境・生態系があるのであって、「より高度な自然環境・生態系がある地域を何故外すのか、合理的理由が存在しない」「何故この両地域に、登録される地と登録されない地の差が出るのか、論理的説明がない」です。そして客観的に考えれば、他の場所との根拠の比較考量で考えれば、「辺野古と大浦湾は基地問題がなければ世界遺産に登録申請されていたのは間違いない」です。

しかし日本政府の「環境相」は、国会において、「政府が目指す沖縄本島北部を含む"奄美・琉球"の世界自然遺産の登録に名護市辺野古沿岸海域や大浦湾を追加する可能性について」の質問に対して、「ユネスコのルールにのっとって、守るべきものがいないところを政治的な問題として後から加えることは環境省として考えていない」と述べました。「日本の環境保護を統括する立場である環境省の最高責任者」の環境相の発言であり、これは完全な論拠が無い暴言で、「如何に日本政府が自然保護に全く関心が無いか」「自然破壊を繰り返しているか」という事を如実に表しています。

拠って「日本政府は辺野古・大浦湾を、世界遺産"奄美・琉球"の登録地域に申請すべき」「キャンプシュワブ基地を撤廃して、自然に戻すべき」です。若しくは「自分達や支持者は、自然環境の重要性など歯牙にもかけない立場であり、拠って、世界遺産"奄美・琉球"の登録申請を取り下げる」と、開き直って宣言したらよいでしょう。

今後「深刻な環境・霊場・遺跡などの破壊」「軍事基地による犯罪やマイナスイメージ増加と、深刻な低波動の蔓延」「基地撤退後の、破壊のみが残る状況」という愚行を犯すよりも、この「環境・遺産・精神・波動などの共存的・修復的手法」を採る方が、長い目で見た地元利益にも適うのは明白です。

  キャンプシュワブ基地が拡張されれば、これらの環境に更なる破壊と壊滅的打撃を与えるのは必至であり、「世界的にも稀に見るほど豊かな自然環境と、往古よりの聖地であった沖縄三大霊場と、古代日本の鍵を握るゴホウラ貝製品工場が存在する大又遺跡など辺野古の古代遺跡群が、アメリカの軍事基地により破壊される」のです。

辺野古のみならず、他の米軍基地・基地跡についても、若し維持・開発するにしても、「自然環境・遺跡・聖地・文化に重々配慮して出来得る限り保存を図る」「環境の破壊や汚染は行わない」のは当然です。しかしこういった道義上問題は、常に蔑ろにされてきました。

必要だというなら、何故「隠蔽・捏造・詭弁・糊塗や利権配分・汚職など、非道徳的手法を駆使してごり押しする」のでしょう。正々堂々と全ての考慮材料を公開して、議論を尽くして、論を訴えるべきです。そのような事を行うのは、動機にやましい部分・不純な部分があったり、理の部分では劣後していると考えているからでしょう。それは波動原理の上からも、そのように考えられ、これは低波動その物の行動原理です。

  ここ数年のアンケート調査では毎回、沖縄県民と名護市民の過半数が「普天間基地の県内移設反対」の意見を表明しています。反対意見は概ね「3分の2(66%)程度~8割以上」です。「オスプレイの配備」にも、大多数が反対しています。

「アメリカ政府・米軍」と「日本政府」はごり押しをしていますが、殆どの「地元自治体の首長・議会」が反対であり、「沖縄県議会」「名護市長」「名護市議会」ともに反対意見を貫き、「沖縄県知事」だけが「基地建設の埋め立て申請を承認」をしています。移設反対の名護市長が再選された平成二十六年(2014)1月、その直後の沖縄県内全41市町村長へのアンケートでは、34人から回答を得て、「全首長の約6割にあたる24人が名護市の民意を尊重し、辺野古移設計画を断念すべきだと回答」「27人が県外・国外への移設を回答」「3人は回答しないと回答」「4人は出張などで回答不可能」いう結果でした。

このような地元の県・市の住民・自治体の過半数の反対の声を全く無視して、権力と暴力を盾に、強圧的に軍事基地建設を強行する権利が、アメリカと日本国にはあると思っているのでしょうか。それほどまでに、豊かな自然や様々な遺産をぶち壊しても良いほどに、彼らは自分達が偉いとでも考えているのでしょうか。「アメリカという国家と日本政府は、沖縄が反対している沖縄への過酷な破壊を、反対論を徹底無視して、権威主義的に押し切って強行する権利がある」「それほど自分らは偉く、優位であり、相手より遥かに上位に位置している」、彼らがそう考えていないと、こういった行為はできない筈で、故に彼らはこのように考えていると言えます。

「地元の県・市でのアンケート・選挙結果は、常に基地移設反対の声が大多数なのに、日本政府とアメリカ政府はそれを無視して、他国の軍事基地建設をごり押ししている」「常に自分達の利益や、世界的な権力構造での有利になる事しか考えてのであり、こんな事は他の先進国では有り得ず、これら問題には「国内外の格差構造が齎す、極端な不正義・愚行」が集約されています。

  • 沖縄に対する国内外からの歴史的な抑圧
  沖縄は、明治五年(1872)~明治十二年(1879)の「琉球処分」で、近代日本国家の体制化に組み込まれました。明治時代以降、政府は各地の土着の祭祀信仰・文化に対して介入を行い、沖縄では様々な抑圧がされました。一般レベルでは、多くの場合で、琉球民族や文化・祭祀は二級扱いを受けるなどして、弾圧もありました。一説に「沖縄のノロなどが持っていた勾玉は、政府による弾圧により散逸、本土の古物商などに売られるなどした」と言います。

沖縄有数の聖域の「首里城」では、明治維新後に日本の体制側の施策により軍営や学校となってしまいました。戦前に一部修復された物の、第二次世界大戦の「沖縄戦」で大規模に破壊され、残りも米軍に略奪されました。戦後も修復はされず、琉球大学が設置されました。後に徐々に修復がされ始め、かなり修復されてきたのはつい最近の事です。当然首里城だけでなく、沖縄では各所に「明治維新後・戦中・戦後の、日本の体制側と米国・米軍による、聖域への破壊・放置行為」が見られます。

これが「日本本土の有数の聖域」だったらどうでしょうか。それらの地は、明治維新後と戦後、日本の体制側が首里城に行った行為と、同様の行為に遭う事は決してありませんでした。アイヌ民族の項にあるように、「日本本土の聖地たる場所」では「無闇な開発は許されなく、重要な整地とされる多数の場所を開発しようとすれば、徹底的に弾劾・攻撃される」という状況があり、「有名な○○神社・○○陵・著名な霊山・著名な遺跡」などの域内・境内・隣接地が、大規模に破壊される事は決してありません。この著しい差別と不正義は何なのでしょうか。これらは、沖縄とアイヌの地で繰り返されてきた差別と不正義の氷山の一角です。

  「沖縄戦」では、日本軍と米軍との間の「鉄の暴風」と呼ばれた苛烈な戦闘で、沖縄人の4人に1人の18万人が死亡しました。日本政府は沖縄を「捨石」として利用しました。米軍の「焦土作戦」により、多くの地域が破壊され、特に沖縄本島中南部は以前の状態を残した場所が殆どありませんでした。「御嶽・拝所・神社等の聖地」も、多くが戦災に遭いました。

戦後はアメリカが沖縄を占領しました。昭和四七年(1972)の沖縄の本土復帰まで、名目上の「自治」がありましたが、実際はアメリカの意思通りに政策は行われました。知事にあたる行政主席は、米軍の琉球軍司令官が勤める高等弁務官が任命、議会の議決は弁務官の指令書一つで覆されました。ある弁務官は「沖縄に自治があるなんて神話だ」と言いました。沖縄で起こった、米軍などによる暴行・略奪ほかの不正義は、その殆どは本土では報道されませんでした。

米軍は「銃剣とブルドーザーによる土地接収」と呼ばれるやり方で住民を追い出し、特に土地利用のしやすい地域を中心に、多くの土地を軍用地として強制収奪、家屋を次々となぎ倒して基地建設を進めました。その為、現在まで「米軍基地の占有面積/県面積」「米軍人・軍属・家族の人口/自治体の人口」が、世界中でも日本中でも、突出して大きな割合を占めています。「2010年度の米国防総省の発表では、151カ国に米軍が駐留し、このうち118カ国は駐留50人以下」「日本は世界最大の米軍駐留国で、沖縄には日本全体の64%を占める2万6500人が駐留、日本の米軍基地面積は74%が沖縄に集中する」となっています。沖縄ではこの戦争と基地造成の過程で、非常に多くの豊かな自然や神域・遺跡が、破壊されてしまいました。

ここ数年のアンケート結果の一つとして、以下のものが報告されました(複数のアンケートから)。
・アイデンティティーの基本構造について、「自分は沖縄人」は40%、「日本人である」は21%、「沖縄人で日本人」は36%。
・今後の日本における沖縄の立場(状況)について、「現行通り日本の一地域(県)」は61・8%、「特別区(自治州など)」は15・3%、「独立」は4・7%。
・沖縄の米軍基地について、「縮小」「撤去」が65・9%、「現状維持」「増設」は不明。
(独立派の割合がもっと高いアンケートもある)

沖縄では公共事業の乱開発で自然破壊された場所も非常に多く、現在も「泡瀬干潟(沖縄県沖縄市)」など各所で開発は進み、沖縄本島では自然海岸は少なくなっています。

  米軍について、「海外の駐留米兵・軍属の犯罪率は、在日の米兵・軍属・家族が、在他国に比して突出して高い」「中でも・在沖の犯罪率が突出している」「起訴率が非常に低い」「特に起訴率が低い県では、余程の重犯罪でないと起訴されず、殆どが無罪放免される」「軍法会議にかけられる事例は僅か」という状況があります。これは「完全に不平等な国際的地位」「日米間の地位格差」「米側の人種観の現れ」であり、それ以外に全く解釈の仕様がありません。

「米兵の公務外の事件・事故の賠償金は、兵士に支払う義務がある」「賠償能力がない場合、被害者は防衛局を通じて米軍に支払い請求する」「米軍は独自の査定を行い、見舞金という形で払う」「見舞金で払わなかった差額は、日本政府が払う」となっていますが、「公務で無罪になった事例と、公務外だが日本の法務省が裁判権を行使しないとした事例が、非常に多数に上る」という状況があります。「性犯罪の起訴率は軍全体は68%、在日米軍は24%で懲役刑は殆ど無い」「被疑者が無罪や懲役刑となった以外は、加害者に罰金・降格・外出禁止・除隊・文書注意などの処分が下される」という状況です。

更には「裁判権などが不平等」「家族の起こした事件は米側が賠償しない」「賠償自体があまり行われない」「米側が起訴・不起訴対象者の情報を情報を収集していない」などの状況があります。水面下には更に多くの事件・事故がありますが、その多くは隠蔽されています。「米軍関係の飛行機・車両・装備による事故」は、米軍は被害を殆ど認めず、自衛隊も「米軍がそう言ってる」として追従します。「子供の犯罪・軽犯罪は野放しに近い」という状況があり、警察に言っても諦めてくれと言われる事が多いと言われます。

「軍用機の爆音による騒音問題」は、ごく普通の日常の生活さえも阻害しています。「米軍は米本土では低空飛行訓練など、危険な訓練を住宅地上空で行っていない」のですが、日本では各地で行っています。日本上空に「非常に広域の米軍用空域」がありますが、「協定違反の空域での飛行」は茶飯事であり、抗議をしても馬耳東風です。基地の存在は、防災と避難路の確保の上での障害ともなっています。

「米軍基地内外の汚染」は、不平等協定である「日米地位協定」に「汚染の原状回復義務が無い」ので、汚染が発覚しても無視し、日本政府が除染しています。また「環境調査」も許さないので、日本国土にも拘らず、そもそも基地内の汚染状況は不明です。

長年にわたり、各基地では「有害物質の投機」が横行、基地外部での投棄も横行していて、環境基準を大幅に超える猛毒物質で各地が汚染されています。米軍は沖縄の米軍基地外(屋外)において「生物兵器の散布実験」「非核三原則に反する核持ち込みと核被爆事故」「那覇港の海底土砂は、コバルトなどの投棄で日本最悪の汚染度」という環境汚染を起こしました。琉球八社の「普天間宮」のすぐ裏側では、米軍が廃棄したと思われるドラム缶十数本が見つかりましたが、日米地位協定で未調査の状態が続いています。

枯葉剤は「基地内の歩道の雑草が邪魔だから」などという安易な理由で定期的に大量散布され、更に大量投棄により、ダイオキシン類が各地で見つかっていて、米軍基地周辺の珊瑚礁が壊滅的なのはこの影響だとも言います。「枯れ葉剤の主要成分を含む30ガロンのドラム缶が多数発見された」「検出されたダイオキシン類は水質基準値の280倍、土壌基準値の8・4倍」という件で、「ベトナム戦当時に貯蔵していた55ガロン容量とは異なる」との理屈で「枯れ葉剤の可能性は考えにくい」と米軍は説明、しかし米軍兵の行ったという証言があり、被害を受けた米軍兵が各地で当局に賠償を求めています。しかし「アメリカ本国では沖縄戦にしか軍役しなかった人達の枯葉剤の後遺症を保障で認めている」「沖縄には枯葉剤は一切持ち込んでいないとの公式発表をしている」「ベトナム戦争時の物資は全て沖縄経由で持ち込んでいるが、枯葉剤だけは別だったとしている」「日本政府はアメリカの説明に追従するのみで、全く調査しようとしない」という状況があり、米国と日本の隠蔽体質と日本と沖縄への軽視により、これら事実を殆ど認めようとしません。

  世界屈指の亜熱帯林が広がる北部「山原(やんばる)地方」の「高江の森(沖縄県東村)」では、絶滅危惧種が複数見つかっていますが、米軍のヘリパッドが建設されています。こういった「森林や海域の重大な破壊」は、辺野古や高江だけでなく、占領当時から各地で発生していて、そこに更に「汚染物の大量投機」が重なって、被害を深刻化させています。

沖縄の米軍基地では、上述のような環境・遺跡の破壊の事例は、数え切れないほど存在します。「沖縄のロゼッタストーン」は「沖縄本島などで出土した線刻石版」で、年代や製作者集団は不明です。沖縄の歴史を語る上で決して外せなく、その不思議さは、ある種のオーパーツとも思える物があります。しかし北谷地方では、「北谷基地」の建設前は100個以上あったとも言われましたが、建設後は2つしか残っていませんでした。当然、基地内の遺跡探査はできませんし、もう既に破壊された遺構・遺物は多数になるでしょう。同様に、基地建設で既に破壊された事例は非常に多数に上るでしょうし、米軍は遺跡探査などする気もありません。基地内においては、遺跡はただ破壊を免れている事を望むのみです。

地位協定により、日本政府の各種の費用負担と便宜供与を行っていて、それを当たり前の事として利用しています。「夏の外出時は、クーラーを付けっ放しにしていく」「日本の小中学校ではエアコン整備立は数%だが、米軍基地内の学校は100%」というのも、その一端に過ぎません。

他にも「条約や法律に基づかない独断行為」「非道義的行為」が多数に上ります。「法律・協定・不文律・道徳上義務・約束などの反故」は著しく、これらは全て「制度的暴力と差別・格差・思い上がり」による物です。

  「アメリカ側の思惑として、何故こういった状況を続けるのか」、その大きな要因に「世界的な権力構造やパワープレゼンスの維持」「歴史的正当性」という観念があります。こういった状況を続けていないと「覇権国家たるアメリカ」を維持できなく、「日本という都合の良い従属国・ポチ・財布」を利用して、その地位を維持しようとしています。また、従属国に対して「地位協定や諸々の状況を改善する」というのは、特段やる動機はなく、「既得権益・当然の権利の譲歩」であるので拒否します。そもそも「非常に優先順位・重要性の低い事項」に過ぎなく、「時々褒めてやったり、脅したり、すかしたりをすれば、問題は先延ばしされて有耶無耶になるし、連中は尻尾を振って付いてくる」といった程度でしょう。これらは「第二次大戦の戦勝国としての、世界構造の覇権国としての当然の行動」「従属国はそれに従うべき」であって、こういった観念が「世界の警察官」という自画像を醸成しています。要するにこれらは「世界構造や従属国に対する最上位の地位保全の方策」という事です。

「米国や欧州で、辺野古のような地に軍事基地を建設するのは絶対不可能」で、やろうとすれば全方面から底的に弾劾されます。もとより「県民や市民の意見を押し切って、欧米以外の国の軍事基地を欧米に建設する」という事からして有り得ません。しかも「世界支配の為に、他の候補地を拒否し、外国のそのような地に建設を強要する」という行為であり、この格差も著しく卑怯です。そもそも普天間基地移設問題の本格化は婦女暴行事件が発端であり、それがこんな「破壊性・暴力性の新たなる押し付け」という結末になることは、あまりに矛盾に満ちていて、正義がどこにも存在しなく、非道の行為です。

これら全ての基地問題は「欧州などに駐留する基地・兵隊・軍属の問題」の場合なら、現代の欧米の世界支配構造の下、世界中で大問題として頻繁に報道されて、早期に是正されてゆくでしょうが、これは「日本・アジアの問題」なので全く報道されずに、完全に放置されたままです。

  しかし「日本政府は日米地位協定を改定する能動的な気構えはない」です。また日本の体制による「よりましな候補地選定・基地縮小・地位協定の能動的改定などの否定・忌避」は、彼らには当事者意識・能力が著しく欠けている事を示します。

これは他の対米問題の対応と同様で、大問題が起きたり、都合が良い時(基地移設の承諾など)だけ、お為ごかしの部分改定の日米合意が行われるのみです。最近の米政府による世界中の政府への盗聴事件でも、各国が厳しい抗議や対応をしたのに対にして、日本政府だけが唯一「まともな抗議をしない」という対応を見せました。このように米軍基地と米兵・軍属・家族と、日本国内の米国の機関は、半ば「治外法権」にあり、日本は完全に「従属国」となっています。

本より、沖縄の本土復帰時点の「沖縄返還協定」「核抜き本土並み」など日米間の協定・約束事が、全くの嘘だった事は、当時から公然の事実でした。米軍による様々な犯罪・不祥事・非道徳的行為を、不公正な手法で隠蔽してきただけであり、最初から日米の政府に公平性はなく、延々と非正義による蹂躙ばかりを行ってきました。

そして「日本の体制側は、こういった対米関係・国際的地位格差に、疑問さえ持たずに隷属している」のであって、彼らの「下位構造の沖縄」「内部的に下位構造に格差を受け入れさせる権威主義」と、「上位構造の米国」「外部権威からの絶対的格差を受け入れる隷属性」は、「表裏一体の権威主義・従属思考の二重基準」「強きに従い、弱きをくじく」という思考法を示しています。

ある防衛大臣は辞任直前に「軍事戦略的には何も沖縄でなくてもいい」「政治的に一番適切な場所」と述べました。ここで見えるのは、推進の理由の一つに「体面」があって、「何度も"やる"と言い続けてきたので、引っ込みが付かなくなっている」という状況です。凡そ政界・官界の中枢の在り様とは、この程度の「内部と外部の権威と無謬性の妄信」「事勿れ主義」「付和雷同」「自己保身」と「その競い合い」に覆われた物に過ぎません。ここに個々の政治家・官僚などが持つ「理想」「公平性」などの視点は入る余地が無いというのが、この「硬直した政治・社会構造」の際立った特徴です。

また「財政力指数0.3未満の県において、沖縄県の国への依存財源は一人当たり31.5万円の全国18位(2011年度)で、類似10県平均の41.2万円を下回っている」=「低所得の県の平均的な国財源への依存度より低い」という状況にあり、事実関係として「国への集り」などの論は成立しません。「沖縄への米軍基地負担押し付けの強硬な推進派」には「沖縄の反対論は集り」とする論が多く存在します。しかしこのクラスターには「公共事業や恣意的な箇所付け等の乱発による、国財源の私的な利権化、集り構造の構築、国・社会構造の低質化」については肯定論が多いという様相があり、勿論、その最たる物の「原子力」については、全く批判などしません。他にも「恣意的な二重基準の押し付け」がやたらと目立ちますが、ここには低質の意識に塗れた状況が存在します。

沖縄では「観光業」が主要産業で、現在は米軍基地の経済効果は低く、返還されれば多様な効果が期待できます。更には「2001年アフガン紛争では、米軍基地への襲撃を恐れて、沖縄を訪れる観光客が急減した」という状況がありました。平時でも「安らぎ」を求めに来るのに、対極の軍事など邪魔なだけでしょう。

「人間はこの地球で暴虐の限りを尽くしている」という状況がありますが、その「極性の刃が向けられている地域」というのが幾つかあって、「環境の破壊・汚染、戦争・軍事、国内格差・国際的地位格差・人種間格差、物質至上主義・金銭至上主義・など、各種の暴力が集約されて沖縄と辺野古に向けられている」と言えます。

  • 沖縄問題への誤った対処
  沖縄での米軍の存在は、主に「中国による領土・海洋境界の主張・行動」「中国の一部の沖縄への領土主張と沖縄独立論」「日本への揺さぶりとしての、琉球は清王朝に服属し、後に日本が奪い、元は中国領土だったとする論」の為だとされます。実際に中国の体制側の「他国の水準や国際的基準との比較時の、主張・行動原理の極端な乖離・非対称性」「個別事案と2国間・多国間関係の変遷ごとに、主張の根拠を頻繁に変える事」「あらゆる手段を用いた主張・利益の最大化」「国内外に対しての攻撃的・威嚇的な言動」は非常に問題です。

例えば「中国・ベトナム間のトンキン湾における境界画定」では、「ベトナムは大陸棚の権利を主張」「中国は中間線を主張」、中間線を基本に決着しています。国際法は等距離・中間線を基本原則としています。ベトナムは中越戦争やその後の経緯や、人口・面積とも中国に比べ小さい事から、当初の主張は止む無しと言えます。しかし「日中の海洋境界」では「日本は日中中間線を主張」「中国は大陸棚の延長を主張」しています。太平洋の「沖ノ鳥島」は、満潮時に海面上に出ていて、「日本は島と主張(排他的経済水域・EEZが発生)」「中国は岩と主張(EEZが発生しない)」です。しかし南シナ海の「赤瓜礁」では、満潮時に海面上に出ているか不明ですが(ベトナムは満潮時に海中に没すると報道)、「中国が海戦でベトナムから奪取した後に、島と主張し、領有宣言して、巨大な建築物を構築した」という状況にあり、しかし沖ノ鳥島での中国の主張に沿えば、少なくとも岩以下の赤瓜礁は領土足りえません。

南シナ海における「九段線」について、中国は「南シナ海での中国の権利と国益は歴史的に形成され、国際法で保護されている」などと主張します。しかしその根幹の「具体的な歴史的事象と国際法の条項」を説明する事は決してありません。このような二重基準は頻繁に見られ、自国利益にやたらと固執しています。若し日中が逆の主張をしていたならば、中国の反応・対応はいかばかりか、強硬というレベルどころではないでしょう。

しかしそもそも、領土問題を考慮する際に、その前提になる認識論自体がおかしいのが現実です。

ここでは論点明確化の為、「沖縄独立論」は除外しますが、本来「どの人・集団も、自分で自己の在り方を決めるべきで、他人・他集団はできるだけそれを尊重すべき」であって、独立論は「当該集団の多数派が主張するなら有効」です。また「○○は◎◎の領土という主張」「他国の過去(対日の言動の負の部分)」をとかく主張したい訳ではなく、元々近代国家を生んだ分断的思考法には問題があり、いずれ世界に国境は無くなります。しかし、こういった問題・歴史が存在するのは事実で、「沖縄・アイヌへの軽視・不正義と背景の暴力性・破壊性」「辺野古などの環境・遺跡・波動の破壊」という現状・未来を阻止と、更に「人類・社会の誤った思考行動原理の背景」を改善するには、最も妥当な選択と、その為の具体的考察が必要であり、その意味で記述します。

軍事と言うのは、若し軍備増強をしても、相手側も増強するだけで、環境も精神も破壊して、互いに疲弊するだけで、全く無益であり、ここに解決法はありません。しかし「言語・文化などを中心とした、古代の土地の基層」を領土主張の根拠とするならば、これに反駁するのは非常に困難です。再反論として無理筋の主張をすれば、後々に自分に跳ね返ってきて、他の事象・主張においても、自らの存在基盤・論理的基盤を益々危うくするだけです。

また先述のように、主張・論述に際しては「主張という物は、自分達に有利だろうが不利だろうが、高い論理的一貫性が必要である」「自分達に有利だから不利だからという基準で、主張・持論の論拠を二転三転するのは誤りであり、その論拠の無意味さを示す」という、一般論としての前提が存在します。

  「領土問題の解決」には「世界の多数が認める道義的な判断・解決法」「国際法・国際慣習法」が尊重されます。具体的には「ある地域がどの国の領土か判別するには、その地域の住民(特に先住民族)の帰属意識と、言語・文化・歴史・DNA(人種)という観点・証明が必須である」「この比較考量による"どちらにより理があるか"の判別で決する」と言えます。そして「本来的な土地の居住・占有・帰属の意味合い」からすれば、「その土地をどの集団がどう利用してきたか(呼称・文化も含む)」というのが重要です(より根源的には「地球上の全ての土地は全地球人の共有物」です)。

これらの点では、言語・祭祀・DNAを中心に、明白に「沖縄を日本領土とする論拠が大多数」です。言語は「琉球方言は日本語(族)」「文字は日本語」であり、これは日本固有の状況であり、「中国語由来の言葉」もありますが、全体数から見ると少数です。祭祀は「琉球神道も神道も起源が同一」「沖縄には、巫女教時代の古神道が残っている」「祭祀文化に符合が多い」、これは日本固有の状況です。神道の神社を建て始めたのは、琉球王朝です。これら祭祀は、沖縄における社会的位置付けを考えると、沖縄の歴史的文化の中枢に位置する事象です。「本土の縄文遺跡・弥生遺跡・古墳時代の遺跡の遺物と、同時代の沖縄の遺物は、多くが一致する」のも、日本固有の状況です。「古書に見える沖縄県の地名の記載」も、日本の奈良時代の物に複数見られ、12~13世紀以降に度々登場します。DNA的に「琉球民族は縄文人が祖(又は縄文人と同系統集団が祖)」で、これは「アイヌ民族」「大和民族」と同じであり、また中世以後に本土の人々が沖縄に多数流入、これらも日本固有の状況です。

そして「帰属意識」でいうと、「自分を沖縄人と捉える人」が多いですが、「自分を日本人か、沖縄人であり日本人と捉える人」も多いです。「中国に対しての帰属意識を持つ人」は、ほぼ皆無です。

しかし、歴史・文化の観点においては「沖縄の明・清への朝貢(日本と両属)」「中国の文化・言葉・法律などの歴史的流入」といったように、中国からの影響を多大に受けました。三山時代以降、特に琉球王国時代には、中国(明・清)文化が多く流入し、上流階層や国家制度を中心に大きな影響を与えました。ただ、古来中国文化は高い次元にあって、日本も含めて、周辺国・地域はどこも強い影響を受けてきたので、それだけで「中国に属する」と論じるのは不可能です。検討には、その度合い・内容が重要です。

本土日本の文化も、先述のように古代は勿論の事、中世以後にも沖縄に流入、上流階層や国家制度に大きな影響を与えています。「平仮名」の導入により、文章は琉球方言と日本語を取り混ぜて記述されていました。「漢詩」も詠まれましたが、それ以上に「和歌」や「琉歌」が詠まれていました。「琉球方言の中の中国由来の言葉」は、基本的に琉球王国時代に渡来した言葉が多いと思われ、「古層(祭祀など)に位置する本土日本と南西諸島の言葉ほど類似性が高い」という傾向が見られます。また、そもそも「日本語・琉球方言」と「中国語」は、別系統の言語です。

拠って、実質的根拠は「朝貢関係」だけで、これも以下により否定されます。慶長十四年(1609)以後は「日本と明・清への両属」の関係にあり、「明・清だけへの朝貢」はそれ以前の時代で、これは遥か昔です。「過去に中国の歴代王朝に朝貢していた国は多い」「モンゴル民族の元王朝の中国(中原)支配」「満州民族の清王朝の中国(中原)支配(歴史的に異国とされてきた万里の長城北方の民族の王朝)」などがあり、「どこが中国領で、どこが中国領でなくて、(中国も含めて)どこが他国・他民族領か」という区分の根拠は曖昧です。朝貢関係だけでの領有主張は不可能で、これが通ると「中国はモンゴル領」になります。そして「ある民族集団を中国人であるとする論拠とは何か」「何故、他国・他地域には領土主張をしないのか」という根本的問題があり、これら事実に整合性はなく、認識の恣意性が問題です。これらは「沖縄が日本領でないという論拠よりも、中国国内の少数民族地域が中国領でないという論拠の方が遥かに多い」と示します(少数民族居住地が中国領かどうかを判断する物でなく、比較により、沖縄領有論に理が無い事が論証されるという意味)。

これらを比較考量すると、「古代:沖縄⇔日本の関係性・文化流入の方が多い」「中世・近代初頭(江戸時代初頭まで):沖縄⇔日本、沖縄⇔中国の関係性・文化流入は同程度か(詳細な考慮ではない)」「近代初頭以後(江戸時代初頭以後):沖縄⇔日本の関係性・文化流入の方が多い」「沖縄と本土日本の関係性は、沖縄と中国の関係性よりも、一般的に古層に位置する」「沖縄と本土日本の関係性・文化流入の方が、かなり総量が多い」と言えます。そして非常に重要な点として、「沖縄と中国」の例に比して、「沖縄と本土日本の関係性・文化流入は、双方向的である」「沖縄と本土日本の、相互の共通性は高い」という事が挙げられます。これは古代は勿論の事、江戸時代以降にも双方向性は高まり、近年は更に多様な関係になっています。勿論、当サイトに記述しているように、その様相には非常に誤った点は多々ありますが、これは対中国との関係性では全く見られない点です。これは「同一の文化圏」たる根源的な傍証の一つであり、更に先述の「言語・祭祀・遺跡の状況・DNA」を鑑みれば、「沖縄が日本文化圏に属する」ことは明白です。

沖縄と本土の「沖縄の歴史・考古・伝統などに詳しい識者」は、その誰もが「古代や歴史に由来する沖縄と日本本土の各文化の一致点と、沖縄の持つ高い独自性」の双方を強く認識して、研究と報告を行っています。識者は「古来沖縄は広域の日本文化圏にあった」「沖縄には日本の基層・古層が残っている」と認識していて、その中で識者ごとに「どれほどの独自性を見出すか」が異なります。翻って中国の領有主張の根拠は「数百年の朝貢関係」だけという薄弱さで、「沖縄の歴史・考古・伝統などに詳しい沖縄人の識者」は、昔から誰も沖縄が中国に属すると考えていませんでした。実際の歴史によらずに、一部事象を極大視して領有主張をするのは、肥大化した国家・民族意識による身勝手さ故で、荒唐無稽その物です。またこれら「中国の体制側の思考・行動の問題点」は、集団化した際の「権威主義・全体主義」「国粋主義・民族優位主義」などが問題なのであって、これは日本も歴史的に同じであり、特にそれによる災厄を他国に与えたという歴史もあり、どの国・社会・民族・集団も重々気をつけなくてはなりません。

  「久場島(くばじま)」は「尖閣諸島(沖縄県石垣市)」に属します。島名の由来は「クバ(ビロウ)」、沖縄では古来、本土でも古代に神聖視された木で、島の南側に「クバの木」が広ります。先島諸島の島民に「クバシマ」、八重山列島では「チールージマ(黄色い島)」とも呼ばれ、琉球王国の文書に「黄尾嶼」とあります。「尖閣諸島」を、20世紀初頭の八重山の古老は「イーグン・クバ島」、明治時代に沖縄県人は「ユクン・クバ」と呼びました。「与那国島(沖縄県与那国町)」では、クバの葉を採る為に尖閣諸島へ行く人が多くいました。大正十二年の「与那国島図誌」に、「与那国島」の「スユリギ(豊年祭や字祭りなどで唱えるユンタ)」が載っていて、「ニシマジマワタリミリ クバシマニツタイイキ ミヤラビバミカギヨウリ・・・」とあり、日本語訳は「北の島へと渡ってみ、クバの島へと渡って行き 島のみやらび(乙女)を娶れば・・・」です。「与那国島」の北方(正確には北東)には「尖閣諸島」しかなく、海流に乗れば自然に「尖閣諸島」付近も通る事になります。16世紀の明王朝時代の複数の地図に、「尖閣諸島」が「北山」と記されてると言います。しかし「八重山列島」の古名に「北木山」があり、この語源は不明です。

「尖閣諸島問題」においては、従来あまり語られていなかった重要な問題として、「日本の江戸時代以前・中国の明王朝時代以前の時期に、日本人(八重山列島の特に与那国島)や中国人は、尖閣諸島を知っていたか、どのように利用していたか、どう呼んでいたか」という点があります。これについては、後述のように、琉球王国・日本・中国ともに、尖閣諸島の存在は知っていました。しかし「明王朝時代の北山などの表記は、八重山列島の人の知識を基にした記述の可能性がある」と言えます。また「海禁政策で中国人は島を利用できる状況になかった(基本的に琉球とは交易のみ)」と言えます。しかし「日本や琉球王国の黄尾嶼・赤尾嶼などの島名表記は、中国名に準拠した物」です。

他の「尖閣諸島への日本と中国の領有権主張」には、「双方の言い分ともに、ある程度以上の論拠が存在する」「双方ともに、不利な事実を複数抱える」と言えます。例えば「日本側」:「日本が先に領有権主張した」「中国が領土主張を長年せず、新聞・地図・要人・政府機関の発言・記述などで日本領としていた」「中国の明・清時代の古地図などに、明確に自国領土と記した物が一つも無い」、「中国側」:「中国の明・清時代の複数の地図に尖閣諸島の記載がある」「日本の江戸時代の地図に一つしか記載が無い」が挙げられます。日本(領有主張する前)や琉球王国や・明・清は、何れも「尖閣諸島を版図とした認識や地図を持っていたと証明する証拠が存在しない」です。。

以下においては「尖閣諸島問題の領有権問題の部分」については除外して、それ以外の「沖縄問題」について考察・記載します(領有権論争以外の双方の言動は考慮)。

いずれにしろ「世界的な意識の"量子的飛躍"が起きて、世界が現在と比較にならぬ高みに向けて前進しだし、人間関係・社会・国際関係に共有思考が広まり、それを以って尖閣諸島問題・竹島問題や、数々の国際間・人種間の紛争が消滅・解決していく」というのは間違いなく、衝突を拡大するような行動を殊更行う必要はありません。こういった全ての問題は、そのうち「世界的な意識の量子的飛躍」が解決してくれるので、基本的には寛容に・鷹揚に構えているのが良いです。

  本題に戻り、ここで論説の際に重要になるのが、先述の「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」の各事象です。そして「古代の・古来の遺跡・遺物・祭祀信仰・伝承・言葉」などが、「その関係性を立証する証拠」となります。繰り返しですが、現在の「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」への一般的認識は深くはなく、それが沖縄などへの軽視を生んでいます。然しこれは歴史的事実がきちんと認識されていないからであって、「古代日本や邪馬台国など、日本と沖縄の歴史的関係性は非常に密接だった」と明確化すれば、その根本の部分が転換する事になります。

そしてこれには、「本土・沖縄の古代遺跡」「沖縄の神歌」などの解明を進めていく事が必要です。そこから真の古代史と日本の実像が判明し、沖縄やアイヌなどの存在への認識の深化へと繋がっていきます。

即ち「これらの解明と認識の一般化こそが、問題の原因の根源的解決への最大の方策」であり、「沖縄への軽視と思い上がり、軍事防衛的観点による基地造営と破壊に対して、これを阻止する最大の論拠」「辺野古の大又遺跡などの古代遺跡群を保護し、真の歴史を解明していく事が、日本と沖縄の自己探求と、領土保全と総合的防衛力の強化を行う事になる」「辺野古・大浦湾の自然環境・伝統・祭祀を継承していく事が、日本と沖縄の基層と、素晴らしさと、波動環境を保全・改善していく事になる」と言えます。ただ「自然環境の保護」「伝統や遺跡などの保護」「地方の尊重」などを訴えても、現実には届いていない物があり、それ故に、このような具体性を持つ主張が必要不可欠でしょう。

  しかし現状は「基地建設と地域・自然・遺跡の破壊」が進行・画策されているのであり、これは「歴史的経緯や文化面の根源的論拠の破壊と、生命・精神や、過去~現在の自分達の存在自体の破壊である」「日本本土・琉球の歴史的一体性を示す最有力事象の破壊で、防衛に資する非常に有力な事象の破壊であり、やっている事・黙認は、論拠と精神性の破壊・自殺行為である」のです。然しながら、現状では「権威・金銭・破壊性などの否定的観念」が先走り、特に「遺跡・歴史的意義への視点」は、ごく少数を除きありません。

若し、これほどの貴重な「辺野古・大浦湾の自然・歴史・遺跡・祭祀・波動環境」を、米軍基地建設により破壊されるようになるならば、従来の反対活動とは異なる次元の反対論・反対活動が展開されていくでしょう。このような自然・遺跡があり、「日本本土と琉球の古来からの一体性を明確に示す遺跡」だという点を明確にアピールしていけば、「それの破壊行為こそ、日本の軍事的脆弱化を招く活動」だと認知されてゆくでしょう。

この点は以前には無かった視点の主張であり、とりわけ有力な反対論拠です。このような「豊富な自然環境・歴史遺産の破壊の画策」「そもそも不要な基地の為に、相手国が金を払うからとの理由で、圧倒的な力関係を盾に、米国が日本・沖縄に破壊を強制している」「日本の極端に酷い環境保護精神と、内への傲慢と、外的権威への隷属根性」という事を、国際的な場や国連で訴えれば、各国の有力新聞の意見広告を出せば、各国の自然保護団体と連携すれば、ネット上で強く主張していけば、両国の異常性が世界中に知れ渡っていくでしょう。また「辺野古のジュゴン保護」「日本政府が埋め立て着工を決めた場合、米政府に日本側関係者の米軍施設内への立ち入りを許可しないよう求める」という内容の訴訟を、米・サンフランシスコ連邦地裁に提訴する動きがあり、この判決次第では計画は中止されます。

更には「辺野古・大浦湾の自然・歴史・遺跡・祭祀・波動環境」などによって導き出され・解明されてゆく「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」とは、「それら事実は、どの勢力の自民族中心主義・自文化中心主義・エスノセントリズムをも、否定する物」です。この点は非常に重要な点で、「真理という基軸は、如何なる人・勢力の独善的な思考法をも、無効にする物」であり、「社会の覚醒が起きた後の世には、如何なる"真理と相容れない思考法"も無効になる」のです。

  • アイヌ・沖縄問題に見える国内外の自己優位思想と従属思考
  「北海道などのアイヌ・ニブフ・ウィルタなど民族と、沖縄・琉球民族の歴史的状況」は、過酷でした。アイヌは先住地を追放され、土地を奪われ、聖地を破壊され、文化・言語の継承を阻害されてきました。沖縄は土地を破壊され、収奪され、軍事基地にされて、聖地を破壊されました。その文化・祭祀形態は、明治以降の地域文化を否定し、日本全国を均一化しようとした思想により否定されて、彼らは体制側からは、常に下位構造・二級市民と見做されてきました。

これは、近現代社会に横たわってきた「国内外の地位格差・不正義」「民族集団・地域の重層的な負の関係性」をそのまま現す物で、「日本・日本国の体制側・ヤマト民族‐北海道・アイヌ民族・沖縄・琉球民族」「欧米・白人‐日本・日本国の体制側・ヤマト民族‐北海道・アイヌ民族・沖縄・琉球民族」「欧米・白人‐アジア・モンゴロイド」「征服者‐被征服者」「世界の統治構造の上位集団‐下位集団」という、理不尽な世界の格差構造が存在しています。

そしてこの「前者の集団」は、世界構造の中で権力を持ち、主張の広報手段が豊富で、その思惑を実現させてきました。「後者の集団」は、権力は無く、声は無視され、権利擁護はされず、常に蔑ろにされてきました。こういった「自己優位思想(自民族中心主義・自文化中心主義・エスノセントリズム)」「上位階層が支配する世界構造」は、従来の世界の負の側面でした。

「何故、利益集団のムラ社会があれほどに力が強く、アイヌ・沖縄などの存在の声は小さいのか」について、現代の社会構造は「権力がある集団の勝ち」「声が大きな集団の勝ち」「カネのある集団の勝ち」という仕組みになっています。日本の体制側から見て、沖縄の声は小さく、アイヌの声はそれこそミクロ単位でしょう。現代日本では、声が大きな集団の力で、議員・官僚・財界・マスコミなどがなびき、権力・カネ・利権が差配されて、「原発ムラ」に代表されるような構造が、日本の政官財を牛耳っていますが、アイヌや沖縄にはそんな力はありません。

「アイヌ・沖縄の問題」に対しては、「千島列島・樺太の帰属」の問題では、関係国家による「強者・勝者の論理」「領土の分捕り合戦」の態度が、この醜悪な構造・状況を放置させたままにしてきました。国内では、日本に非常に特徴的な「同調圧力」「寝た子を起こすな」「臭い物に蓋」「本音と建前(ご都合主義と欺瞞性)」、そして「面倒に関わりたくない・関係ない」という感覚によって、「問題自体が存在しない」「意見するのはおかしい」「大した事でない」「蒸し返すな」とい空気が醸成され、これが支配してきました。「議論の土壌が弱い」という悪癖を持つ日本においては、これら問題は「非本質的な諸問題の報道量に比べて、ごくごく僅かな量の報道しかされてこなかった」という扱いを受けてきて、「どうでも良いようなメディア報道・番組が氾濫する中で、特にアイヌ問題が報道される事は、非常に稀な機会しかない」です。

そして「自己側に利する場合は盲目的に肯定、利さない場合は盲目的に否定」「極端な権威主義と隷属思考」という様式が横行するネット掲示板・ブログなどでは、「沖縄・アイヌを誹謗・嘲笑するろくでもない書き込み」が蔓延っています。また「米軍などの不祥事では、それを問題ないとして、関係ない組織・人を攻撃する」「被害者を無根拠に中傷する」ことが、毎度のように繰り返されています。

  第二次世界大戦の戦前~戦中、日本などの帝国主義国家の行動により、多くの国々・地域・集団が甚大な被害を受けました。帝国主義は「暴力的に自己を他者の上に立たせる社会施策」と言え、これは「外国」だけでなく、「内なる他者」にも向かうのであって、多くの国で「国内の少数集団・少数民族・先住民族」が征服対象とされました。

「日本は帝国主義の下に行ってしまった国内外への甚大な罪科を、真摯に反省すべき」であり、そして「何時如何なる時も、他国をとやかく言う前に、先ずは自国の姿勢を改めるべき」です。日本の戦前から戦中の行為と、その影響により、多くの国に対して「本来遭わなくてよい過酷な災禍」を与えてしまい、特に「中国」「フィリピン」「太平洋諸国」の被った被害は深刻でした。この過程で、日本は居住民に対して「戦闘・戦死」「捕虜」「虐待」「非人道的・暴虐行為」「重大過失による非常に多数の死者発生」などの目に遭わせて、「多くの地域の苛烈な破壊」を行いました。これは戦地になった各地域での直接的な戦災だけでなく、非戦闘時の軍人による行為の為であり、この事は現地の多くの人が語っていて、そして幾らかの軍人も語っています。

「日本の戦争責任の否定論」と、「幾つかの大戦中の日本による非人道的行為(とされる件)に対しての疑義の意見」があり、不明確な点も多いです。しかし、それらが無かったとしても、如何様にも「シンガポール華僑虐殺事件」「中国などでの幾つかの特務機関の重犯罪行為」「ポンティアナック事件(インドネシア)」などの件は否定しようも無く、この背景として「日本の侵略行為と苛烈な非人道的行為」があったのも否定しようがありません。「日本軍の中国の重慶爆撃」は民間人犠牲者が1万人規模、「国際法が禁じる無差別大量殺戮」とする説が多数で、「異論(中心部に高射砲などの陣地を構えた)」はあっても、「他国で行った苛烈な非人道的行為」に間違いありません。「中国側の行為を以って、日本側の行為を非がなかった・仕方なかったとする論法」がありますが、「他国に侵略された国は、様々な手段で抵抗する」「日本も同様の目に遭ったら、同様に様々な手段を用いるのは明白」「そもそもその地域は他国・他民族の土地であり、戦線縮小・非軍事的手法に極力努めなければならない」のであり、論拠薄弱です(あらゆる観点は即ち要素で、各々は重要な論点だが、だが論証の必要十分条件足り得てない)。

本来フィリピンは「無辜の第三者」的な立場でしたが、日本軍と米軍の戦闘で激甚な国土破壊を受けました。「マニラの戦いとマニラ大虐殺」では10万人が死亡、日米双方の攻撃によりますが、日本軍の市民虐殺が横行しました。そして日本軍による「自己優位思想と極端な傲慢さ」による非人道的行為が行われ、失政による飢饉が発生、その統治は搾取的でした。

「ベトナム」「ビルマ(ミャンマー)」では、日本の占領後の統治体制が悪かったので、当初は期待していた住民達が反旗を翻して、「抗日戦争」に至りました。「ベトナム」では、失政と過酷な食糧徴発により大飢饉が発生、100万人以上が亡くなりました。「ビルマ」では、日本と連合国(とビルマ国民軍)との間の戦争で、「マンダレー」「メイクテーラ」など、貴重な文化遺産がに彩られた都市が破壊しつくされてしまいました。当然ベトナムやビルマの人々には、このような事をされる謂れは何一つありませんでしたが、帝国主義勢力の暴力の為に、このような過酷な目に遭う事になりました。

「戦前~戦中にかけての日本の諸地域での行動」というのは、その是非の程度は一様でないですが、「対中国など:明らかな侵略戦争」「対数カ国:侵略戦争・独善主義・自信過剰・重過失などの面が濃い」「対数カ国:統治の功の部分も多少あった」というように、「どの地域でも負の部分の方が多い」です。「欧米の植民地からの解放戦争的な解釈」については、「元々太平洋戦争の原因は、大陸での日本の植民地・権益の維持拡大を阻む国との争い」「東南アジアにはその余波で進出した」「当初から解放戦争を企図して戦争の立案をした訳ではない」「政府の体制が優れていたのではない」「幾らかの統治者の資質は良かった」「しかし他の人達の行動基準は悪かった」「実際に被った被害は甚大である」「人・物資・食料の徴発が酷かった」「被害の歴史として記憶している(ロームシャなどの言葉も含む)」という事が重要です。基本的に「食料や多くの物資は現地調達」「資源調達で南進した」「善政を敷いた事で左遷されたりした」のであり、これで統治がうまくいく訳がありません。またどの地域においても、誤った政策や、厳し過ぎる対応が多数行われています。いずれにしても「大多数の現地住民に招請されて軍を派遣した訳ではない」ので、殊更肯定するのは空虚な事です。

これらの状況は、どの地域でも、戦況が悪化するほど深刻化しました。当初は比較的良好な統治もありましたが、これは「アジア開放の理想」を信じた人達による物と言えます。しかし次第にどこも過酷な統治や状況になり、戦争の直接被害も含めて、深刻な被害が発生していき、この中で複数の虐殺事件も起きています。物事は「状況が悪化した時に、その真価が問われる」のであり、こういった状況は、統治の是非を示しています。戦後に独立戦争に従軍した人達もいましたが、その行為が個人に帰すべき事です。そして「明治以来の厳しい上下関係による組織統治」が横行していた日本のやり方は、これは異常なのであり、これを統治下の諸国で行ったのは誤りであり、上手くいかない上に、反発が起きるのは当然です。それを無視してやり方を押し通すのは、傲慢その物です。

元々「アジア主義」の論説の中には、「平等主義」「人道主義」「平和協調」「民族自決」といった高邁な思想を伴った物が多数ありました。アジア各地域の人々が日本に留学、日本では多くの人が理想の信じて、独立運動家などに支援を行いました。こういった思想の背景もあり、また自国利益の観点もあり、1919年の「パリ講和会議」で、日本政府は世界初の「人種的差別撤廃提案」を行いました。

しかし日本では、明治時代から「帝国主義」は跋扈していたのであり、「中国(清)での義和団事件での日本の行為(他の列強も同じ)」「台湾の植民地化」「朝鮮半島(李氏朝鮮)での江華島事件」は帝国主義による行為です。

そして「アジア主義」のの様相も、周辺状況の変化と共に次第に変節、後のスローガンとしての「アジア・モンロー主義」「八紘一宇」「南進論」「東亜共栄圏」などは、帝国主義その物です。そもそも「何故諸国・諸民族が、日本を盟主として仰がなくてはならないのか」という根本的疑問への論理的回答などある訳もなく、これは「肥大化した自我意識による物」です。日本では明治から戦後まで、この二つの相反する方向性が、せめぎあっていました。しかし第二次世界大戦に至るまでの過程と戦中において、負の方向性が拡大していきました。

また、「日本の戦前の強圧的体制が、敗戦を経ずして、どの程度修正されたか」という事を考えると、「戦後の状況より相当酷い社会体制」が想定され、結果的に敗戦自体は良かったと言えます。戦後~現在の社会もそうですが、戦前社会は「客観的な議論の土壌」「自己修正能力」がより大きく欠けていて、これはあまりに深刻な根本的問題でした。故に「日本の社会・体制の有り様が、強圧的な雰囲気を惹起させて、帝国主義・覇権主義という侵略行為を他国に行った」というのは、全く否定しようがありません。

結局の所「日本は第二次世界大戦で、多くの国にあまりに過酷な目に遭わせた」という事が、日本人の持つべき意識としては最重要です。それは「他国の膨大な人々の人権を蹂躙した」「人間は他人の権利を侵す権利はない」からであって、如何に良い点を羅列しても、数多の悪事を覆い隠せる訳がありません。ただ重要なのは、事実はどうであったか、客観的に考えるという事です。

  第二次大戦以前の列強各国は、大概がどこも帝国主義と覇権主義の行動をとっていて、アメリカ・イギリスやソ連や他の強国もそうでした。ソ連については既述の通りで、帝国主義や覇権主義が色濃い行動を繰り返していました。                                 

アメリカは「公民権問題(先住民・黒人・アジア系などの基本的人権の制限)」「黄禍論」「アジア系移民の禁止法」「各種の土地法」「パリ講和会議での人種差別撤廃案の拒否」「日系人の強制収容(他国へも強制収用を要求、多くの国が行った)」など、歴史的に人種差別が過酷でした。その刃は、当時アジア系移民の中で多数を占めた日系人に向けられ、日本の昇竜の勢いの国情も危機感を持たせました。こういっ状況も伴って、米英などが日本を戦争へ追い込んでいったのは各事実から明白です。「ABCD包囲網(対日経済制裁)」「ハルノート」は最たる物で、「米英の援蒋ルートや、米のフライングタイガースなどの対中支援」「日本人資産凍結」も挙げられます。ルーズベルト米大統領を始め、多くの有力者が日本を戦争へ追い込む為の物だったと、当時や後の書で明かしています。戦争中の行為も、戦争末期以前は、太平洋戦線での日本兵投降者・捕虜は概ね殺されています。

歴史的に「米英仏など列強は、世界中にも中国大陸にも植民地や独占利権を持っていた」のであり、その権益への侵害者たる日本の排除が目的で、別に高邁な思想から対中支援を行った訳でもありません。「米軍の各都市への空襲」「広島・長崎への原爆投下」は「国際法が禁じる無差別大量殺戮」です。非人道的行為は、捕虜などに対しても、また戦中戦後の占領期にも横行しました。日本以外の国に対しても、例えば「米軍はフィリピン兵を日本軍への盾に使った」「元々米国は長年フィリピンに帝国主義的行動を行っていた(米比戦争の経緯を見れば一目瞭然)」という事実があります。これら事実を見れば「米国などの日本に対しての道義的優位」など存在しません。

しかし「太平洋戦争の戦端は日本の真珠湾攻撃で開かれた」のは、紛う事なき事実です。また大戦のかなり前から、日米の戦争に至るとの予見の下に、日米ともに戦略を検討していたのであり、戦争の責任は両国にあります。そして、不当な侵略を受けていた中国にとっては、米国などの行為は有意義な支援であり、こうでもしないと「日本の対中侵略」は抑止できませんでした。それでも日本の自信過剰と覇権主義は止まらずに、日中戦争は泥沼化していきました。

云わば「第二次世界大戦は、帝国主義・覇権主義・自己優位思想が肥大した者同士による、巨悪と巨悪の全面的戦い」でした。そして、多くの地域の人々がその被害者となって、「内国・他国・他集団に対しての帝国主義という世界的構造の中で、常に先住民族や少数民族はヒエラルキーの下位集団と位置づけられ、その居住地域は侵略され、基本的人権が蹂躙され、文化を否定・毀損された」という歴史が繰り返されてきました。

ただ、史実の考察においては、近代の世界状況も勘案されます。ほぼ全ての国は、外国との関係において「良い歴史」もあれば「負の歴史」もあります。また近代でも、中国「清」は「朝鮮半島(李氏朝鮮)」を属国としていて、その統治は酷いものでした。そして、こういった様相ばかりな訳でもなく、「当時の欧米列強諸国の組織・人々による、世界各地域への支援や有意義な研究」などは多数あったのは言うまでもなく、そこには「無数の善意・利他心」があるのであって、その様相は一様ではありません。

このように第二次大戦の戦前から戦中の様相は、簡単に全否定・全肯定などできる物ではなく、しかし「日本を含めた列強は、苛烈な悪事を行った」という事ははっきりしています。「日本は過酷な加害者としての重大極まる歴史的責任を負っている」のであって、これは日本の紛う事無き歴史の一部であり、無視する事は決して許されません。その上で、日本の行状に対しての過大な言い分があったとすれば、それは否定して、淡々とその証拠を提示れば良いです。

  戦後、帝国主義は終わりを告げたかのように言われますが、実際は形を変えただけです。「帝国主義の残滓」「新たなる帝国主義」「遅れて来た帝国主義」や、依然とした「覇権主義」「膨張主義」「国家的独善主義」の現れである「国家や国際政治の場による、理不尽な施策・行動・言質」が、世界中で行われてきました。これは強国・強者だけでなく、多くの国・集団が繰り広げていて、「国家の施策・行動・言質」「国際体制による施策」や、「コーポラティズム(特に企業による社会統治)」を利用した方策などもあります。そもそも時点で、多くの「戦後処理」自体が「独善主義による領土分捕りや、自己を善者側とする認定」に塗れています。

そして「世界中の多くの先住民族の少数民族は、歴史的に強者から多大な被害を受けてきた」のと同様に、「アイヌ民族・琉球民族とは、国内外の帝国主義とその残滓により、歴史的に多大な被害を受けてきた民族」です。多くの少数民族とて、長い歴史のうちには周辺との戦争や侵略も行いましたが、しかし大規模な行為というのは先ず存在せず、少なくとも近代においては世界中に「支配集団の横暴と文化否定の同化主義による、構造的加害者と被害者の構図」が存在していました。

彼らは近代の国際的パワーゲームにおいて、身勝手で暴力的な強者から、常に不当な脅威を受けてきました。従来の世界構造とは、常に「強者の国家・地域・民族・集団が、世界統治のピラミッド構造や、国内の統治構造において、圧倒的な地位を得てきた」のであり、「その対極に位置する少数民族は、常に敗者の立場に追いやられてきた」のです。「Environmental Racism(エンバイロメンタル・レイシズム=環境を通じた人種差別)」「Nuclear Racism(ニュークリア・レイシズム=核を通じた人種差別)」は「資源・核原料の採取・精製・廃棄による環境汚染が、先住民族の居住地域で行われることが非常に多く、世界の人種差別構造の典型例である」ことに対して、この事実の周知と改善の為に作られた造語ですが、これもこの世界構造の一端に過ぎません。それが「権威主義・物質主義・攻撃性・破壊性が支配してきた、従来世界の負の構造」です。

  総じて日本では、「個の抑圧」「全体主義」に発する問題により、そういった状況を重ねて、自らに有利な状況を積み重ねて、カネや非道徳行為を使って、相手に諦めさせて、無理に同化させ、問題を風化させ、経年的に問題を消滅させてゆくという、暗黙の方策が採られてきたと言えます。

特に同調圧力が強い幾つかのネット掲示板では、偏狭な優位思想により「アイヌ・沖縄問題では、まともな議論が成立し難い」「理不尽な論理・攻撃・レッテル張りに終始する」という状況が長く存在します。特にアイヌ問題では全く議論が成立せず、このような「国内の民族、特に先住民族の議論が、中心的なネット掲示板で全く成立できない先進国は唯一日本のみ」です。

そして「自国の少数民族・少数派には根拠無き攻撃を加えるが、敵対国の少数民像・少数派は称揚する」という言動が横行しています。これは「敵の味方は敵」「敵の敵は味方」「自己が属する集団への絶対的肯定」「利害観念のみが判断基準」「他の存在をどうでも良いとする」という思考法による物で、その対象国でも幾つかの少数民族・少数派に同様の言動が行われています。何れの場合も「(敵対国の少数民族の)人道問題」を指摘するも、彼らは「一般的に自国・他国の人道問題に全く無関心」「自国に有利・不利という判断基準に関わる場合のみ人道問題を重視するのであり、通常は対極の性質の「権威主義」を称揚します。その言動の根幹には「都合の良い時と悪い時では、全く言動が異なる・真逆になる」という「論理的一貫性の欠如」「ご都合主義の二重基準」、「喚いた者勝ち」という「非論理的な言動様式」、「実際は人道問題はどうでも良く、利害関係だけに関心」という「欺瞞性と非共存思考」があります。「このような主張の人が敵対国で転生したら(頻繁にある)」を考えると、そこでも「自国の少数民族・少数派には根拠無き攻撃を加えるが、敵対国の少数民像・少数派は称揚する」のを繰り返すでしょうし、これは低波動の意識の問題です。これらは世界中で長年続いてきた「極端な利己主義・独善志向・非道義性」による物で、それが現在にも引き継がれています。「アイヌ民族と琉球民族」とは歴史的に、「国同士・民族同士の争い」ゆえに、理不尽にも最も「穢れた強者たちの陣取り合戦の思考法」の犠牲になった民族の一つでもあります。

また、平和国家などと言われていますが、その実相の一端として「まともな議論の土壌や、民主主義的概念が弱い」「これにより体制側・権力側が常に非常に有利で、非体制側は常に不利である」という様相があり、これが当該状況が長年中々改善されなかった要因です。更には「草の根的・市民的・オルタナティブ(代替)の社会機能・メディアなどの存在を担保する社会土壌」も弱く、これらは通底します。

これらの原因は、多くが「個の抑制・空気優先主義・権威主義」に還元され、それが長年無数の悪果を招いてきました。「アイヌ・沖縄の問題」も「原発問題」も「企業社会やメディアの問題」も、その他の多くの問題も「もっと早期に改善できたのに、自己利益や権威主義の為に、放置・不作為・嘘・隠蔽・糊塗・犠牲・破壊・・・が繰り返されてきた」という点で、共通した悪化要因により問題が深刻化しました。

  「沖縄の基地問題・辺野古への基地移設問題」について、「このような環境汚染・自然破壊・犯罪・遺跡破壊は、米国本土(の居住地域)と欧州では、米軍は決して行う事はない」、これは非常に重要な点で、社会が徹底して考え抜くべき観点です。これは「現代世界の統治構造の極端な制度的犯罪性」を示しています。然し、その支配体制下にある現代の世界にあって、特に日本において突出して、あまりに多くの人が「仕方が無い・そういうもんだ」などと考えてしまっています。

日本の体制側は「徹底した欧米への、特にアメリカへの隷属思考」に、完全に染まりきっていて、「これほどにある国が他国に完全従属している例は、世界中に他には存在しない」です。これはある種の信念で、極端に狭い思考範囲の先に見える光景を、絶対的常識としてしまっています。この思考法を持った体制が長年支配してきた事により、現代の日本社会においても、同様に「欧米の事物・基準=絶対的基準」とする思考が隅々に蔓延しています。

そしてこの前提の下に、「軍事的に沖縄での海兵隊は不要で、デメリットが大きい」→「アメリカは自国が費用負担するなら、沖縄に海兵隊を置く意味が無い」→「だが要求すれば、従属国の日本が費用負担する」→「世界におけるパワープレゼンス向上の為に、沖縄に置く事を日本に要求する」→「日本は何でも要求通りに唯々諾々と受け入れる」→「反対派封じ込めの為、利益配分・権力濫用・御用マスコミの提灯記事が行われる」という「上意下達の強要」が続いてきました。

「日本の体制側は、対外的権威には従属的だが、国内の下位構造には強圧的という二面性を持つ」のであって、「権威主義と破壊性と非共存的思考(自然破壊の許容)と、飴と鞭の駆使により、沖縄へ基地移設受け入れを強要する」という行為を行っています。

この過程においては、政界(与党)・官庁は「デメリットの勘案(危険性・犯罪・騒音・環境破壊など)「他の案の検討」「県民・市民の意向」などを、真剣に勘案する事はありません。特に「極端に従米思考に支配されている官庁」では、絶対にありません。多くのマスコミもそうであり、「日本のマスコミの特徴である、ジャーナリスト精神の希薄さと利害重視」により、「大勢においては、受任は仕方ないんだ・そういう物なのだ、という空気を作り出す事」を旨としています。

「空気支配」が最大の特徴である日本社会において、どんな事でも「お上の判断(日本の体制側と欧米・アメリカ)」なら「最初からそう決まっているのだ・そういう物なのだ」として処理されて、「実質的思考は全くせずに、既決事項として流すの当たり前」という観念が蔓延しています。こういったメカニズムで、常に日本では「日本の体制側やアメリカが決めた事」が、絶対的前提として空気のように受容されていきます。これは「米軍問題」「対米問題の全て(アメリカの対日行為)」「原発問題」「TPP」など、何時如何なる時もこのようになっています。

これは他国であったら、その国や社会はもっと自律的思考をしているので、こんな事は決して起きません。しかし「日本だけが全く自己が無いかのように思考放棄して、ただ只管に上位概念の基準をそのまま受容する」という事を行っています。そしてこれは、特に「日本の大組織・体制側」が特徴的に持つ傾向であって、その構造に隷属する人が追従を繰り返しています。

そして「福島第一原発事故で失った、(ある程度以上)清浄な・居住可能な地域の面積」と「千島列島・樺太以外の領土問題での島の面積」を比較した時に、「前者を殊更矮小化して、後者については常に極大の関心を向ける」という態度が、頻繁に見受けられます。これについて「EEZ」という加算要素はあっても、「究極の僻地」という減算要素もあり、そして「福島第一原発事故で汚染された地域は、歴史的・居住的・経済的にも日本の非常に重要な一部」です。この状況はあまりに異常であり、如何に感覚が「攻撃的な意識」「他の集団との際限なき争い」に塗れてしまっているかを示します。

  こういった日本特有の負の状況の原因ですが、これは戦後「個の抑制と権威主義に発する、無思考と、強者への付和雷同」が、蔓延し続けた結果として引き起こされた集団的アノミーの現象で、社会の末期的症状です。

更に遡れば、「そういう物」というのは「そういう物としてきた歴史の積み重ねが原因」で、「そういう物としないとすれば今後は変わる」のに、しかし「そこまでに思い至らなく、諦念・思考放棄してしまう」という状況があり、こういう構造を作り上げたのは「従属させた方が支配するには楽」だからで、これは「個の抑制と人間の均質化・ロボット化を招く、明治以来の全体主義的な統治政策」に起因します。この残滓が強く残り過ぎていて、「教育制度」「政界・官界」「企業社会・労働風土・労働組合「マスコミ」など「日本社会における大規模構造」は押しなべてそうです。これが日本を破壊した根源です。

  結局の所「権威主義と隷属思考は表裏一体の物」であり、その中心的観念とは「上位概念に隷属して、下位概念に押し付ける事で、自己の地位を保とうとする行為・心象」に他なりません。この負の循環の中で、「アメリカ」→「日本の体制側」→「沖縄」という「下位構造への軽視・従属集団扱い」が続いています。実際に政界・官界・マスコミ・ネットなどを見ると、「上位概念(米国・欧米)への高い従属意識を持つ人は、アイヌ・沖縄を軽視する姿勢を持つことが多い」というのが明確です。

これは波動原理から考えると当然の事で、端的に言えば「権威を第一とするか、共存を第一とするかの違い」「権威を第一として、それを振るうか、従属するかの違い」だけです。「権威に従属する・従属させる」、この「低波動の社会における行動原理その物」の風潮が変わらない限り、こういった思考・行動から脱却しない限り、絶対に社会状況は改善しません。

そして「覇道」というのは、遂には成就しません。その最中の時代には、その国家において称揚する声が挙がり、極端な意見が純化していく事が多いですが、その方向では何も解決はしません。これは波動原理的に「社会の波動が悪化していく」からで、そういう思想が低波動である以上、不可避です。そして後の時代から見れば、そのような方向性は虚しく見えるばかりで、残した爪痕に苦しむ事になります。現代の世界の多くの様相は、その原因は「非・共存性」にあって、覇道は対極に位置します。

本質的には「アイヌ問題・沖縄問題とは、意識の高低の問題」です。意識に問題があるから、全てが疲弊して破壊されて、こういった問題が改善しないのです。「アイヌ問題・沖縄問題は、日本の戦後社会の様相が特徴的に現れている事象」だと言えますが、「自律的に考えて、平和共存を思考して、その輪を繋げる」ことでしか、この問題と、ひいては日本の全ての問題は改善できないでしょう。

何故ならば「全ての人間は神性を持つ」「全ての人間・社会は平等である」のであり、「高い意識を持った個が連来する」「それが繋がってゆく」ことでしか、社会は良くならないからです。非常に簡潔な事ですが、ここを踏み外すと、物事の本質的改善は不可能です。またこれは「常に何事も高度だったり完璧だったり」が望まれるのではなく、「高い労働強度」が求められるのでもなくて、ある意味「気楽・適当」で良くて、そこに「共存を想う心」さえあれば良いのであって、これは「精神世界と最新の量子力学の諸々の見解の纏め」による見解です。

解決するのは「共存を想う心」、これさえあれば、何事も改善してゆくでしょうし、一旦社会がそうなれば、量子的飛躍(クオンタムリープ)が訪れれば、それは簡単に成され続けてゆくでしょう。

  • ヤマト・アイヌ・沖縄(琉球)などの和合
  本来は「北海道などのアイヌなど、本州・四国・九州などのヤマト民族、沖縄などの琉球民族が、互いに尊重して仲良く暮らせば良いだけの事」、ただ単にそれだけのことです。

しかし「他集団に対して、自らを優位な立場に置きたいとする潜在意識」により、「相手に不都合な立場を押し付ける」という事が横行して、「社会に多くの軋轢・格差が生じる」という社会状況を招き、これが事態の改善を阻害しています。「上下関係を強いて、根拠の無い優越感に安住して、その為には無辜の他人に犠牲を強いてもいい」とするならば、何処にも「真の平和・幸福に満ちた社会」「個人の意識の高まり」はありません。

結局は「他の存在との共存意識の欠如」であり、全ては「波動原理による、低意識とその悪影響」に行き着きます。他国・世界体制の理不尽な行為の影響はあったにせよ、いずれにしても、戦前~戦後の日本は対内・対外的に多くの過酷な行為を起こしたのであり、言われ無き甚大な被害を与えてしまった他国と自国内の集団に対しては、その罪をありのままに認めるのは当然です。

そして「事実に目を瞑る・臭い物に蓋をする・都合悪い事を隠蔽する」のが横行する現状を最終的に選択したのは戦後日本であり、それが「無思考」「諦念」「付和雷同」を招き、「物事の真の部分を見ないような空気」「長い物に巻かれろという因習」「多様性・多様な思考を排除する社会構造」を醸成、それに流されてきてしまいました。そしてこれが「権威・カネ・空気による支配の固定化」を生むという悪循環が、戦後日本の概要です。

この戦前~戦後の流れと社会力学は、「権威主義・統制主義」「物質至上主義」の下、「体制側からの、過剰同質性への順応と多様性排除を受忍させる空気」を特徴としています。逆に「共存・連帯を深化させてゆく機能」が脆弱で、草の根レベルに良い部分が沢山あっても、この激流下では支えきれる物ではありませんでした。個人レベルに共存意識が無いと言うより、「ピラミッド構造の上層部」が集う大組織に無いのであって、それは「全体主義的体制による統治思想」による物です。そして戦後日本を覆った「物質主義・消費主義」「破壊性(環境破壊・上意下達・労働強度の強さなど)」というのは「過剰競争を煽る性質」があり、更に「空気支配」「同調圧力の高さ」に促進され、共存意識が阻害されました。

そして当然の事として、これら事象が大幅改善されて、「ヤマト民族・アイヌ民族・琉球民族など」が調和共存して助け合なくては、日本の復興もありません。そもそもこれは人間として社会として、余りにも当然過ぎる最低限の事です。よくメディアやネットであるような、形ばかりの「和の精神」や「和を以って尊しと成す」といった自画自賛をするのではなく、その真意に沿って「円満な対等性と相互尊重の実践」という「魂」を入れて、大同団結しなければ、「大きな和・大きな輪(=大和)」にならないでしょう。沖縄の反戦平和運動のスローガン「命どぅ宝(命こそ宝)」や、古くから伝わる「意地ぬ 出じれー 手ー引ち 手ーぬ出じれー 意地引ち(いじぬ んじれー てぃーふぃち てぃーぬ んじれー いじふぃち/腹が立ったら手を引きなさい。手が出そうになったら怒りを引きなさい)」の精神を刻み付け、そして「真の平和とはどのような物か」を考え、実現していく必要があります。

量子・波動というのは遥か昔にも影響を与え、誰しもがその影響を無意識に受けるので、「大和の国号が一般化した波動的な理由」は、「量子的飛躍の以後の時代における、大きな和・大きな輪という、幸福な連帯が循環する社会状況」を、意識体(神)が意識した事によると思われます。そのような社会を理想としたのでしょう。  

  「古神道‐縄文神道‐弥生時代・古墳時代の神道‐琉球神道に色濃く残存」「縄文文化‐アイヌ文化」などの関係性を見ても分かるように、元々は「ヤマト民族・アイヌ民族・琉球民族は同じ根を持つ」のであり、これに上とか下はありません。ただ並列的に存在するだけで、そして近しい関係にあるという事です。

原初の神道は「八百万の神を祀る」「地方ごとに多様な神々がいる」「歴史伝統や地域の民俗に根ざす」という形態でした。これは「個の重視や尊重や、地方や末端組織への分権体制に近い」「ピラミッド型よりネットワーク型」「硬質性より緩やかさ・柔軟さ」「多様性や大らかさや包容力」という種類の物です。そして「押し付け的・お上的・観客的」でなく「個人個人が真摯に本質と対峙している形態」、「破壊的・抑圧的・一方的」でなく「自然や多くの人との共存型・相互型」であり、元々は「原始共同体社会の縄文文化」から発しています。現代でも「アイヌ民族・琉球民族」は縄文文化に近く、「縄文は母権的」であり、この社会形態は「両性が高い社会的役割を持つ社会」に近い物があります。文明が発達して社会の階層化が進みましたが、この「日本の基層部分にある平等感覚・平和精神」という良い部分を見失っては、道を誤ります。

若し多民族が融合した「真の大和(大きな和・大きな輪)の社会」になったならば、其々に民族・文化が別れる前の、より柔軟で平和だった「縄文時代の思想」や、「日本の基層にある精神性」に回帰する事であり、それは「弥勒の世の中」であるのでしょう。更に「千島列島・樺太」も日本に戻ってきたならば、それは「日本国土の龍体の復活」であり、波動的・霊的に非常に高くなっていくでしょう。精神世界的に「日本=世界の雛形」「日本国土=龍体」「北海道=龍の頭(アタマ)」「沖縄・琉球=龍のタマ(霊・魂・玉・珠)」とする見立てがありますが、その波動的構造が完全化してゆくという事です。「封印された神々の復権」「縄文回帰」が言われますが、これらも含めた総合的な事を指し、本質に戻る時代が来たのでしょう。そしてそれこそが、在るべき姿です。

「アイヌ問題・沖縄問題」には、多くの問題が集約されています。そしてその際たる物が「辺野古の地」で、「自然環境」「歴史・遺跡」「祭祀・信仰・伝承」「日本の体制の全体主義性・権威主義・画一的思考法・統制主義」「関係国の傲慢さ・独善性・優位主義思想」「軍事・基地などの暴力性・破壊性」など、これら「高波動:修復的性質」⇔「体波動:破壊的性質」の事象が、一点に集約しています。これは波動原理的に考えれば、「極性が集中する辺野古の地から、世界の大転換が始まっていく」という事を示唆しているとも思えます。l

今後、これら「アイヌ問題・沖縄問題」を契機に、全ての流れが大きく変わっていく可能性は充分にあります。時代はいつ社会の大変換が起きてもおかしくない時点まで来ていて、これら事象が契機にならなかったとしても、近い将来に何かが切っ掛けとなり、或いは自然な流れで、社会や世界が大きく激変していくのは間違いありません。そして一つの問題として、「肯定的な社会の大激変を起こそうと、能動的に努力をするか」「ただひたすら、世間の空気の前に受動的に居続けるか」の違いがあります。「沖縄と北海道が、世界の大転換の端緒の地になる」というのは「縄文への回帰」という観点にも即しています。この点から、ある意味でこれら事象・問題は「今後の世界の雛形」と言えるでしょう。


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最終更新:2014年07月28日 15:54
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