メニュー12 : 波動原理・ゼロ点効果の纏めサイト - 放射能除去法纏めサイト

波動原理・ゼロ点効果の纏めサイト - 放射能除去法纏めサイト
無数の除去事例や超常的現象、量子の共鳴効果による意識・社会・環境の改善
万物における波動情報の原理・作用・効果・影響・意味合いと形成・発展・永続化

量子(電子・陽子・中性子・光子・ニュートリノ)=波動(気)・ゼロ点(Zero Point Field)・電磁波・プラズマ・幾何学的形態・物質(珪素・量子水・酵素)・微生物・コイル・波動器具・波動農法や意識・言葉・パワースポットなど、波動原理の各種効果(超科学・超能力・元素変換・健康・意識覚醒・自然環境の浄化・森羅万象の好転)

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項目6⑥:波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い
森羅万象の形成・発展・永続化、意識・社会・環境の浄化・改善

【霊魂の所作と活性化、日本の基層と神事、精神性・芸術性の淵源】
魂振り・魂呼び・殯、神事・芸術の原点
一霊四魂
霊・魂・玉・珠・タマの増殖による産霊・生体の活性化、斎み清めること
神性と芸術と意識状態
玉(ぎょく・たま)
縄文時代と、日本の基層の自然信仰や緩やかな融和的意識


魂振り・魂呼び・殯、神事・芸術の原点
  古代日本の葬送儀礼「殯(もがり)」は、「人の死後、本格的な埋葬までの間、遺体を棺に納めて喪屋内に安置し、あるいは仮埋葬して、儀礼を尽くして霊を慰める、日本の原初の葬制」です。大王・首長などが眠る喪屋「殯宮(もがりのみや)」を建てて、祭祀具・呪具が置かれて、一部の人がそこに入りました。その前の「殯庭(もがりのにわ)」には、多くの親族・知人・高官・祭祀関係者などが集まり、各種の儀礼が行われました。弥生時代・古墳時代・奈良時代など、古くは広く行われていました。火葬導入後に衰退、現在は一日に短縮され「通夜」となっています。殯が行われた事の背景に「古墳造営までの期間」があり、最大の背景には「古代の霊的観念・死生観」があります。

それは「病気は霊魂の衰弱、死は体から霊魂が完全に離れる事で起きる、その前は蘇生の見込みがあった」「生死の境が明らかでなく、殯が行われるのは生死なお不明の時であった」「死の直後の魂はまだ完全に肉体と切り離されていなく、離脱しそうになっている霊魂を捕え、魂呼びで呼び戻したり、魂振りで活性化すれば人は甦るとされた」という観念です。

  「殯宮(もがりのみや)」と「殯庭(もがりのにわ)」では、次の儀礼を含め、各種の儀礼が行われました。

「魂振り(たまふり)」が「舞踏・歌舞(神楽)」などを以って行われました。携わっているのは「葬送儀礼での歌舞の奉納」を主な職掌とした「遊部(あそびべ)」などです。祭祀具の着装をした「巫女」が多数いて、「遊部の女性」は「巫女」でもあります。今でも一部神社では「巫女」を「舞姫(まいひめ)」と呼びます。この舞は「巫女舞」「神楽(かぐら)」の原型の一つです。また、女性だけでなく男性も舞をしています。

「魂呼び(たまよび)」は「魂が弱って体から離脱しつつある遊離魂に対して、呼び返したり蘇生させる」ことが目的、「大声で名を呼ぶ・名を呼びかける」「慟哭・すすり泣く」などを行い、明治時代までは広く行われていました。婦人達は魂呼びで「歌」を歌ったりもしていて、「琴」を弾く男性などがいます。人々は呪術的意味を持つ「隈取(くまどり)」などの「顔面の彩色」をしています。

そして「魂振り」や「魂呼び」で蘇生が叶わないとなると「鎮魂の儀礼」に移ります。「魂鎮め(たましずめ)」は「死者の魂が荒ぶらないよう・安らかに眠るよう」にと、「武具を持ち、呪文を唱えながら、棺の周りを回る」という行為を行いました。

「誄(しのびごと)」は「偲び言」の意、「死者を思慕する言葉」「貴人・民間人の死を悼み、生前の功徳・業績を称えて、その死を悲しむこと」です。古代では「各豪族・部曲から代表が出て、それぞれ伝来の誄を唱えた」というのが形式です。これは元は「寿詞(よごと)」に通じる物です。

「寿詞」は「善い言葉」の意、「賀詞」とも書いて、「天皇・貴人などの長寿・隆盛を祝福し、臣従を誓う善言・吉言」「寿(ことほ)ぎ祝う言葉」で、「呪言・神言的要素」を持ちます。「祝詞(のりと)」は「神徳を称え、崇敬の意を表する内容を神に奏上する言葉で」、語源は「のりとごと(宣之言・宣処言・宣呪言)」」とされます。古代の祝詞には「〜と宣(の)る(宣ふ)」、寿詞には「〜と申す(白す)」と結ばれている物があり、起源(原初の祝詞・寿詞)についての説は複数あります。これらは共に「言霊信仰」に基づき、同じ物と理解されたり、または「祝詞のうち、祝賀の意味の多い物を寿詞と呼ぶ」などとされます。

  そして復活が叶わないとなると「殯」が終了されて、陵墓である「古墳」への葬送行列へと移りました。葬列の中心には、棺などが乗った車が何台も続いて、車には「旗状の五色の幣(ぬさ)」が付けられていました。万葉集の歌人で、「歌聖」「三十六歌仙」と称される「柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)」は、多数の「挽歌」を詠んでいます。「柿本氏」は「葬送行列に従って挽歌を詠む」のが職掌だったとも言われ、また「柿本人麻呂」は「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいます。

古墳は「奥津城(おくつき・上代の墓)」であり、祭祀施設です。「墳頂部」やそこに設けられた「壇」「御柱(おんばしら)」や「石室」「造り出し」などで祭祀を行い、「石室」「墳丘」「周濠」に大量の祭祀具が副葬されました。この祭祀・儀礼は「葬送儀礼」「政権交代式」「王権継承式」「亡くなった前首長の霊を継承する儀式」という意味を持っていました。これで、葬送が終了しました。

「古墳」は「殯」と深い関係にあり、「長期間殯を行ったのは、古墳造成までの期間が関係した」「墳丘に並ぶ埴輪群像・埴輪列の多くは、殯に纏わる物で、葬送や墓前での祭祀・儀式と結びついて配置された」とされます。「魂振り」「魂呼び」「魂鎮め」「誄」ほかの行為を行う「武人・巫女・力士・芸能を行う人」などを象った「人物埴輪」、「盾・甲冑」などの「器財埴輪」、「馬列」などの「動物埴輪」、「宮殿か殯宮」とされる「家型埴輪」など、そこから古代の葬送儀礼・祭祀形態・社会文化が再現できます。

古代の「群馬県」は、「栃木県」と共に「毛野国(けぬのくに)」と呼ばれ、後に二国に別れ「上毛野国(かみつけぬのくに)」「上野国(こうずけのくに)」と呼ばれました。古墳時代の東国の一大中心地であり、「古墳」は一万二千基以上と東国最多、「精巧な埴輪」「鈴鏡(れいきょう・銅鏡の周囲に鈴が付いた物)」という、独自性の高い文化を有していました。「埴輪」では「腰かける巫女」「挂甲をつけた武人埴輪」「帽子をかぶる正装の男子埴輪」「踊る埴輪」が知られていて、太田市に東日本最大の前方後円墳・全長210mの「太田天神山古墳」があります。

腰かける巫女(文化遺産オンライン)
「両肩に襷(たすき)を掛け,意須比(おすい・おすひ)と呼ばれる右前合わせの衣に,幅広い帯を締める。髪は島田髷(しまだまげ)に結い,輪状の髪飾りをつける。二重の頸玉(くびたま・首飾り)・足玉(あしたま・足飾り)に,手玉(てたま・腕飾り)・耳飾と盛装し,左腰には鈴鏡(れいきょう)と香袋(こうぶくろ)を帯にとめる。腰掛けは古墳に副葬される石製品や埴輪の椅子に似ており,この埴輪が神に仕える神聖な巫女を表現したものであることを窺わせる。」

古代(縄文~飛鳥時代)の服飾・身体装飾は、各地で様相が異なりますが、基本的にはこれが「古代の巫女の姿」です。服は朱色などの彩色があり、「ブラウス」のような衣装を着て、上に袈裟状衣の「意須比(襲/おすひ・おすい)」や「手繦(襷・たすき)」を着て、腰に「連続三角文の幅広の帯」をつけ、スカート状の「裳(も)」をはいて、髪型は「古墳島田」で「櫛」を刺し、顔面に「隈取」をしている事もあり、足は「裸足」、「玉類」を手足首耳に付けて、「鏡」「鈴」「装飾性の高い祭祀具」を着装する・持つ、といった様相で、中世以後よりも相当に鮮やかです。この姿で、各種祭祀と共に、「魂振りとしての舞」を踊っていたものと思われ、歩くたびに「鈴の音」が鳴りました。
(「意須比(襲/おすひ・おすい)」や、古代の「千早(ちはや)」(後述)は、中央に穿たれた穴から頭を出して着る「貫頭衣(かんとうい)」で、古来の日本の衣装を神事に用いていた)

「踊る埴輪」は「男子が踊っている光景」であり、「魂振り」か「新首長誕生の祝祭」を表現していると見られます。「武人埴輪」は全身装備した全身立像、極めて丹念な作りで、達や弓を持っていて、これは「殯宮や古墳を警備する姿」です。男子の服装・装飾は、服は「衣(きぬ)」と「褌(はかま)」、髪型は「美豆良・角髪(みずら)」、「櫛」「玉類」を着装、というのが一般的で、地位・仕事に応じて多様な出で立ちがあります。

古代日本には、「古墳と祭祀具の大量造営・製造」という「世界的に稀に見る大規模な祭祀」があって、「殯に纏わる概念」は「神道の形式・様相や、現代社会の多くの名称・概念の起源」となっています。

  「魂振り(たまふり)」には「魂に活力を与え再生させる行為・呪術」「殯において、死者の遊離魂を呼び返し蘇生させる事」「殯において、遊離しかかっている魂を賦活させ、蘇生させる事」「祭りで、御神輿(おみこし)が神幸する際に途中で上下左右に荒々しく揺さぶる事」など、多様な意味があります。これは「魂や物を振るわす事、揺さぶる事で、活力を与える行為」であり、およそ「何かを振り動かすこと・揺り動かすこと」は、全てが「魂振り」に該当します。

「神社参拝での、鈴を鳴らす行為・柏手を打つ行為」は魂振り、「お祓いとして大麻・大幣(おおぬさ)を神職が振る行為」は、元は魂振りでもありました。神事やお祭りで「フサフサした物(大麻など)」「何かしらの物(御神輿など)」など、色々な物を「振るわしたり・震わしたり・揺すったり・動かしたり・ぶつけたり」するのは、「魂を復活させる儀礼=魂振り」の意味が込められています。

「魂振り」の一つに「袖を振る行為」があり、これは「自らの・病人の・死者の・誰かの、手や袖を振って、活力を与えようとした」という行為で、古くは非常に広く行われていました。「(名詞としての)袖振り」は「別れを惜しんだり、愛情を示したりするために、袖を振る」という意味で、「魂振」りから「恋愛表現や相手の気持ちを引き寄せる仕草」などに意味が変化しました。「"いってらっしゃい"で手を振る事」も元は「魂振り」で、「手・袖を振り、神霊を招いたり、呪力を相手に及ぼして、旅の安全などを願った行為」に由来します。巫女装束「千早(ちはや)」に纏わり、万葉集の「千早振る(ちはやふる・ちはやぶる)」は「神」「宇治(地名)」に掛かる枕詞ですが、前者の用法は「神事での腕・体の動きにつれ、装束が振り動いていた様子」に由来、これも「魂振り」です。

「経津主神(ふつぬしのかみ)」は「香取神宮(かとり・下総国一宮・千葉県香取市)」の御祭神、「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」は「石上神宮(いそのかみ・奈良県天理市布留町)」の御祭神であり、両神は同一神とされます。「物部氏」は古代に非常に大きな勢力を持った氏族、両社は物部氏の代表的神社のうちニ社であり、「石上神宮:物部氏が奉じた最も中心的な神社」「布留地区:物部氏の本拠」「香取神宮:東国の要の神社」です。「フツ」は「霊がフツフツ湧き上がる様子」、「フル(布留)」は「魂や物を振る」「ふるい起す」、両方とも「魂振りに纏わる名称(神名・地名)」です。「物部氏」とは「祭祀氏族」「フツ・フルの氏族」「魂振りの氏族」です。

「石上神宮」に伝わる「十種の神宝」は、物部氏祖神「饒速日命(にぎはやひのみこと)」が「天神御祖」から授けられた宝とされます。その時の教え「布瑠之言(ふるのこと)」には「若し痛む所有らば、この十の宝を、一二三四五六七八九十と唱えて振るえ。 ゆらゆらと振るえ(由良々々止布留部)。此の如くせば、死人も生き反らむ。」とあります。「石上神宮」や「宮中」で斎行される「鎮魂祭(ちんこんさい・みたましずめのまつり)」は「最も活力が低下した冬至に行う、十種神宝を振る、魂振りの神事」であり、また「冬」の語源は「殖やす(ふやす)」だとされます。

「古代出雲(島根県東部・鳥取県西部)」は弥生時代に非常に栄え、「銅鐸祭祀」を特徴として、一説に「フツ・フル(魂振り)」の観念が強かったとも言います。常陸国一宮「鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)」は、古来朝廷から「東国の最重要の神社」と看做されてきました。御祭神「建御雷神(たけみかづちのかみ)」は、別名に「建布都神(たけふつのかみ)」「豊布都神(とよふつのかみ)」というのもあります。鹿島神宮や建御雷神は、古くは「フツ・フル」のお社・神様だったとする説もあります。

  更に「魂振り」とは、およそ「感動する事」「魂が揺さぶられる事」「昂揚感を感じる事」の全てです。同義あるいは類義の概念に「魂触」「魂殖」があり、「威力ある魂に触れる魂触によって、魂・霊威が増殖する魂殖が成される」となります。「見る事」「聞く事」「鑑賞する事」「感じる事」でも、魂振りは起きます。「音楽・舞踏・歌」「芸術」は、古くは神事であり、魂振りをもたらす物でした。大王の殯に携わった集団「遊部(あそびべ)」は、「音楽・舞踏」を職掌としていました。

そして「歌舞・芸能の女神」「音楽・舞踏・歌・神楽の祖神」とされる「天宇受売命(アメノウズメノミコト)」が、「天照大神」が「天岩戸」に隠れた「岩戸隠れ」において、大神を岩戸から引き出す為に踊った「神がかりした舞踏」とは、「太陽神を復活させる為の魂振り」「シャーマニックな行為・神託的な行為」です。ここで命は、桶を伏せて、これを踏んで太鼓のように音を鳴らし、手にしていた「茅纏の矛(ちまきのほこ)」は「鐘の一種の鐸(たく)を付けた矛」とされます。「俳優(わざおぎ)」の祖で、「わざおぎ」とは「神を招(お)ぐ態(わざ)の意」「面白おかしい技を演じて、歌い舞い、神や人の心を和らげ楽しませること。また、それを行う人」で、これら全ての行為は古くは「神事」と関わっていました。「天宇受売命」の神名は、巫女装束の一つの「髻華(うず)を結った女性」とする説もあり、後裔「猿女氏」は巫女の氏族です。

  《巫女・シャーマン」は大きく「脱魂型」「霊媒型」に分類される》
脱魂型
・シャーマンの霊魂が身体を離脱して霊界に赴き、諸精霊を使役してもろもろの役割を果たす。
・広義の精霊統御者型の一種。
精霊統御者型
・補助霊を駆使してもろもろの役割を果たす。
霊媒型・憑霊型
・シャーマンが神霊・精霊を自らの身体に憑依させ、人格変換が行われ、シャーマンは神霊自身として一人称で語る。
予言者型・霊感型
・シャーマンは神霊・精霊と直接交信し、その意思を三人称で語る。
・シャーマン自身の個人的意志がある。
見者型
・神霊の姿が見え、或いは声が聞こえる。
・神霊の意思を三人称で語る。

邪馬台国の「卑弥呼」は「日の巫女(神子)」の意と言われます。魏志倭人伝に「鬼道を用いた」とあり、これはシャーマニズムとされます。「天照大神」は「太陽神」で、また「巫女」ともされます。「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)」は「卑弥呼」に比定する説もあり、名前は「ヤマト(大和)のトトビ(鳥飛び)に基づく神祀りに仕える巫女」、「霊魂が身体から離脱して空中の鳥のように飛んでゆく、離魂型の巫女名」とされます。「神功皇后(じんぐうこうごう・息長帯姫命)」は、全国の「八幡神社」に祀られる「八幡三神」の一柱で、この神も巫女とされます。

縄文時代~古墳時代までは「衣装・身体装飾」は華やかで、女性だけでなく、男性も古墳時代までは、身体装飾を多くしていて、遺跡からはそのような遺物が多く発掘されていています。古墳から出土する「女性像の埴輪」は、その殆どが「巫女埴輪」であり、鮮やかな装束を重ね着していて、装飾具を各所に付け、鈴・鏡などを下げている物が幾つもあります。古代の有力な女性というのは、巫女的な性質を持っていて、その神託・託宣は、社会にとり重要な物でした。

「全てが一体的・融合的に存在」「全生活が世界観と表裏一体な物」「神人合一・神人和楽」という様相の中で、往古は人々は暮らしていました。後に社会の階層化していった後も祭政一体であり、集団の族長・首長らは、皆が霊的権威も兼ね備えていました。そういった社会においては、集落(遺跡)や多くの道具が、祭祀的な意味合いを有していて、即ちそれらは、波動的な意味合いを強く持っていた(持っている)という事を表しています。「神職・巫女」などの原型も、そういった古神道の在り方に発しています。

  そういう社会の中で、「芸術・音楽・服飾」というのは「高度に精神的な物」「神事と一体的な物」でした。そして「大いなる何か」「宇宙とも、大地・地球とも、自然とも繋がるような・交わるような、壮大な感覚」「心底の楽しみ・感動」を感じるなどして、それら芸術行為を行っていたのでしょう。どんな行為でも、見るだけでも、聞くだけでも、「想い」「強い気持ち」などが篭っていれば、それは「魂振り」となります。往古には「祭祀・祈り」も「魂振り」も「芸術・音楽・服飾」も、日々の暮らしの循環において、その基盤となる世界観に一体的に組み込まれていました。

古書に「ホツマツタエ」という物があり、この中の「アワの歌」は「歌中の四十八音に、整然と言霊がこめられている」と言われます。「十種神宝はチャクラ十箇所に対応、これを活性化させる物」という説もあります。一見意味が良く分からない物でも、「波動原理においては非常に理に適った物、高度に計算された物、真理と同一の物」は多数あります。

波動原理では「全ての物質は振動している・回転している・波である」「エネルギーや光が固定化された物が物質」「物質は波動が上がると光・量子エネルギーになる」「意識・物質・光は根源的には同一で、相互に共鳴・振動・影響しあっている」「意識とは、即ち波動の性質である」とされます。そして「量子もつれ」効果により「対象物の性質に意識が同調すると、同効果が自己内に齎される」「量子エネルギーが溢れている事象に意識が同調すると、感動すると、愛情を感じると、その他何かしらの意識を持つと、同種のエネルギー・波動が、虚世界から体内に流入する」となります。拠って「魂振りに該当する行為」は、その全てが「霊魂を賦活・活性化させる物」「量子エネルギーを得て、"陽性の波動・朗らかな波動"を受けて、生体が活性化する物・元気になる物・意識が前向きになる物」「波動が上昇する物」です。


一霊四魂
  神道には「一霊四魂(いちれいしこん)」という「心の構造の概念」があります。心は「天と繋がる一霊:直霊(なおひ)」「四つの魂」から成り立つという思想です。四魂には「荒魂(あらみたま)」「和魂(にぎみたま)」「幸魂(さちみたま)」「奇魂(くしみたま)」という神様の名前が付いており、それらを統括するのが直霊、これが人間の一霊四魂の仕組みです。

四魂は魂ごとに、他のどの魂とどういう関係にあるか、どれと結び付き易いか・離れ易いか、どういう効果を齎すか、という固有の性質があります。「産霊(むすひ)」は、この一霊四魂を増殖するものです。Wikiに以下のように記されています。

荒魂には「勇」、和魂には「親」、幸魂には「愛」、奇魂には「智」というそれぞれの魂の機能があり、それらを、直霊(なおひ)がコントロールしている。簡単に言えば、勇は、前に進む力、親は、人と親しく交わる力、愛は、人を愛し育てる力、智は、物事を観察し分析し、悟る力である。
これら4つの働きを、直霊がフィードバックし、良心のような働きをする。例えば、智の働きが行き過ぎると「あまり分析や評価ばかりしていると、人に嫌われるよ」という具合に反省を促す。つまり、この直霊は、「省みる」という機能を持っている。

《一霊四魂》
荒魂(あらみたま):勇
・「勇」は荒魂の機能であり、前に進む力である。勇猛に前に進むだけではなく、耐え忍びコツコツとやっていく力でもある。
・その機能は、「勇」という1字で表される。行動力があり、外向性の強い人は荒魂といえる。
和魂(にぎみたま:親}
・二つ目の魂の機能は和魂であり、親しみ交わるという力である。その機能は、1字で表現すれば「親」である。平和や調和を望み親和力の強い人は和魂が強い。
幸魂(さちみたま・さきみたま):愛
・三つ目の魂は幸魂であり、その機能は人を愛し育てる力である。
・これは、「愛」という1字で表される。思いやりや感情を大切にし、相互理解を計ろうとする人は幸魂が強い人である。
奇魂{くしみたま):智
・四つ目は奇魂であり、この機能は観察力、分析力、理解力などから構成される知性である。
・真理を求めて探究する人は、奇魂が強いといえる。


霊・魂・玉・珠・タマの増殖による産霊・生体の活性化、斎み清めること
  「古代の霊・魂などを意味する言葉」には、「タマ」「ヒ」「チ」などがあります。先述のように、「タマ」は「魂・霊」の読みであり、「玉・珠(球・弾)」も「同じ読み・類似の原義」です。

「ヒ」は「霊」の読みの一つ、「日・火・陽(灯・燈)」なども「同じ読み・類似の原義」で、「火は霊の象徴やその物」でした。 「人(ヒト)」とは「霊止(ヒ・ト)」で、「霊が留まっている存在」です。男性の名詞「彦(ヒコ)」は「日子(ヒ・コ)」です。女性の名詞「姫・媛・(ヒメ)」は「日女(ヒ・メ)」で、「日売・比女」などとも表記されました。「人・彦・姫」ともに、往古の「人とは根源的に霊である」という観念を表した言葉です。

「チ」は「自然の霊力」のような意味で、「命・血・乳」に通じ、「魂・霊」とも類似の概念です。「イノチ」とは「生きる命」、「イ」は「湧き上がる命」のような意味で、「生・息・井」に通じます。

「稜威(いつ)」とは「神聖であること。斎(い)み清められていること」「勢いの激しいこと。威力が強いこと」の意味、「稜威(りょうい)」「御厳(みいつ)」とは「天子の威光」を意味、また稜威とは「外来魂」であるとも言います。

  神道に「むすひ」という最重要概念の一つがあり、「産霊・産巣日・産日・産魂」という字が宛てられていて、「むすひ(むすび)」を神名に含む神は多数います。これは「ものを生み出す力」「天地・万物を生成・発展・完成させる霊的な働き」で、万物は「むすひ」の働きによって生じ、発展すると考えられています。

「むすひ」とは、古代の観念における「大地・自然の豊穣、多産と健やかな一生、魂の不老不死、輪廻転生を顕現させる為の、神が備えた能力」でもあります。「魂振り」も、霊を産み殖やす「むすひ」の働きを現した概念です。

「結び(むすび)」と「むすひ」は同じ原義で、「全ては繋がっている・結ばれている」という概念です。この方向には、意識・思いやり・奉仕的役割が繋がっていく「連帯」、常に新しい物(生命・意識・事象)を生み続ける「輪廻転生」「循環」「メビウスの輪」があります。「輪」もそうでしょうし、更に「和」「共生・共存」「融和性」に通じていきます。「むす」は「産むす(うむす)」に通じて、「生命はむすひ・結びによって生まれる物」であり、「息子」「娘」も「むすひにより生まれた子供」です。

逆に、こういう方向の事を蔑ろにすると「気枯れ(けかれ)」が生じて、「気が枯渇」していき、「不浄」となって、「生命力の低下」「寿命の早期化」を齎します。「穢れ(けがれ)」という言葉の原義もここにあり、現在の意味は「けがれること。特に精神的に醜い事。良くない事」とされます。「イヤシロチ(弥盛地)」に対する「ケカレチ(気枯れ地)」は「気が少ない土地」で、生物・物質の寿命・状態は悪い傾向にあります。

同様の言葉に「忌み(いみ)」があり、現在は否定的な言葉ですが、元は「清浄な・浄化された」という意味を含んでいました。「斎み(いみ)」「忌み(肯定的意味)」は「清浄な・浄化された」という意味です。「禊(みそぎ)」は神道の基本的概念の一つで、「自分自身の身に穢れのある時や重大な神事などに従う前、又は最中に、自分自身の身を氷水、滝、川や海で洗い清めること」を指し、「水垢離(みずごり)」は類語です。「物忌み(ものいみ)」「潔斎(けっさい)」「斎戒(さいかい)は「神事などのため、ある期間、飲食・言行などを慎み、不浄を避け、心身のけがれを除くこと」です。

禊の後に「祓(はらえ・はらい)」が行われ、「罪や穢れ、災厄などの不浄を心身から取り除くための神事・呪術」「神を迎え交流するための準備として、罪穢れのない清浄な空間をつくりあげること」を指します、具体的には「神前で祈祷」「祝詞奏上」「財物などを祓物として拠出」などで、祓の神事を行うことを「修祓(しゅばつ・しゅうほつ)」と呼びます。「禊」は「身体の穢れを除去して浄める行為」、「祓」は「罪や災いをとり除く行為」、互いに機能が近く、記紀の時代には「ミツギハライ」と複合した言い方もされていました。

  「神道」においては「心の浄化」「各種の穢れを清めること」を最も重視します。「罪穢れについては、神事に臨む個人のものだけではなく、この世界のあらゆる罪穢れを徹底的に祓い浄め、"明(あか)き浄(きよ)き正しき直き"境地を求める姿勢こそが、神道の根本思想とされる」とされます。その為に、「禊」「潔斎」「物忌み」などで「自己を斎み清める(いみきよめる)・清浄な状態を保つ」ように努めたり、「祓い」「祝詞奏上」「各種の祭祀」で「対象や場を清める」と、いうのが基本的な考え方です。「八百万の神や霊的なものを重視して、精神と体を斎み清める」、これが古神道の時代から続いてきた「人の生きる道」であり、神であるままにという「神ながら(随神・惟神・かんながら)」の在り方です。

「イヤシロチ(弥盛地・弥栄地)」は「量子エネルギーが多い」「酸化還元電位が低い」「生命の寿命を長くする」「物が壊れ難い」という特徴があり、「龍穴・龍脈・気脈」「パワースポット」は類似概念で、その多くに「祭祀場」があって「清浄な地」となっています。

「魂は磨いていないと曇る」ので「御魂磨き」は重要です。神は「自らの心」にも「どの場・物質・命」にもいます。「意識の波動的な力は強い」ので、これにより祭祀を行いますが、神と繋がるには、より高い能力や、心身の清浄な状態が必要になるので、「神職・巫女」のような方々がいます。

まとめると「斎み・物忌みなどで、魂・波動は浄化される」「産霊で生命が生まれて、産霊・魂振りなどで、生命力は増加する」「気枯れ・穢れで、不浄となって、生命力は低下する」となります。「霊は、生命力は、精神・意識は、産まれ、殖やされる物」なのです。「意識の浄化」「魂振り(感性)」は「生命力の源」です。「穢れた意識・低い意識」は「生命力を低下させる存在」です。

また「他の意識・波動」との「結び」が繰り返されていけば、「意識が結ばれて、連帯が成されて、波動の効果が乗数的に増大する」「自己も他者も森羅万象も調和して、波動が上昇する」となります。これは波動原理に則っていて、こうして「集合意識」が形成されていきます。


神性と芸術と意識状態
  波動を上げるには、基本的な意識状態が「調和・融和・共存」「柔軟性・融合性」「思いやり・優しさ・愛情」「素直さ・純粋さ」「低意識で現れる典型的感情を、常としないこと」などにあると良いとされます。人間には喜怒哀楽があって、、様々な感情は、人間足らしめる事や、更に世界の発展にも重要です。「間違った事に怒る」のは、「関係ないとして無関心でいる(利己主義)」に比べたら、基本的な意識状態は高いと言えるでしょう。ただ言えるのは「低意識で現れる典型的感情は、一時的な物として、それを常としないことが重要」だという事です。スパイスにはなっても、主食ではないという事でしょう。

人間は「無心」になると「脳波が下がる」という現象が起き、これは雑念が無い状態で、「脳波・意識」が「単一波長(コヒーレント状態)」になっていて、レーザー光線のように、強い効力を発揮します。人間には「肉体的意識」「霊的意識(無意識)」があります。「無意識状態・超越的な意識状態」にあると、「松果体」などを通じて「宇宙の根源的波動」まで通じていきます。また「他人の持つ有用な意識」とも「共鳴効果(量子もつれ効果)」を起こしやすくなります。このような状態にあると、「探していた解決法」「高度な知識・知見」「高い芸術性」などが得られ易くなります。「催眠術」は、外部的にこの状態を起こす物で、「人間の潜在意識に指令を与え、肉体をコントロールする手法」です。

波動を上げる為の基本的な意識状態の「素直さ・純粋さ」は、こういう意識状態・作用原理・現象と通じる物です。また、曇りの無い心であれば意識が高いでしょう。人間の心は複雑で、様々な要素が存在し、例えば「頑固さ」も有用に用いれば、多大な効果(各種成果や意識・波動の上昇)を齎すと思われます。ただ心象の全てで無いにしても、「心の中の何処かに素直さ・純真さがあり、それを大事にしている」というのは重要でしょう。「心の何処かの素直さ純真さ」があれば、「意識の現実化効果」「真理を見極める能力」「意識や波動」が高くなるでしょう。これは「子供や赤ちゃんの無邪気さと、その高波動」にも通じます。

巫女が踊る「神楽」「巫女舞」は「歌や踊りで神様を招き寄せたり、もてなしたりする行為」であり、その起源は、古代の「神遊び」です。「神遊び」は現在はあまり残っていませんが、縄文文化の名残を伝える「琉球地方」や「新潟県糸魚川市」などに残っています。

「神遊び」には幾つかの物があったり、又は決まった形式は無かったりしますが、元は「巫女や女性が、神々などと戯れる舞いや踊り」に発するとされ、原初は「楽しげに、自由に、心向くままに踊る、丸で天女の舞のような様子」であったと思われます。また「アメノウズメ」が踊った「忘我・無我の境地で舞い踊る状態」もそうです。こういう時は「素直さ・純真さ」「超越的意識」だと思われ、これこそが「神と繋がる意識」「高次元に導かれる意識」なのだと思われます。

では何故「素直さ・純真さ」「超越的意識」が良いのか、それは「雑念の無い状態」「意識が単一波長的な状態」だからでしょう。先ず「波動には低意識(=低波動)は厳禁」です。そして「波動は意識と同調する」ので、「高度な意識集中」或いは「無になり、神霊に任せる」という状態が必要です。そして「雑念を取り去って、邪魔な波動を無くして、ゼロ点と単一波長の波動を発生させる」「意識(無意識)・心身を同調させて、更に大地・宇宙とも同調して、波動を最大限に共鳴増加させる」と解釈できます。これは「シャーマニックな歌手が、意識を完全没入して、体全体を楽器にして歌い、場全体に世界観を顕現させ、超越的なパフォーマンスを見せる」というような光景に通じるでしょう。


玉(ぎょく・たま)
  「勾玉(まがたま)」は「曲がっている玉(たま・ぎょく)」の意、日本独自の「玉(ぎょく)」です。「玉」は「魂・霊(たま)」に通じる言葉であります。

《勾玉の形状の由来説》
・動物の牙で作った牙玉(牙製垂飾・牙勾玉)
・動物の犬歯
・動物の腎臓の形
・胎児の形を模した
・魂の姿を象った(霊魂を形象化した物)
・松果体の形状
・神社の社紋や家紋によく使われる巴形を模した
・月の形を模した、三日月(鏡は太陽、勾玉は月)
・陰陽や太極図(勾玉二つを反対向きに置く)
・昆虫の蛹(さなぎ=銅鐸に通じる)、繭の形
・魚などの形、ナマズ・イルカなど
・釣針の形
・形・角度そのものに意味があった
・天体の位置と関係する
・破損した玦状耳飾りを再利用した
・南洋産巻貝のゴホウラの断面 
・他にも幾つかの説があり、何がが由来となっているか、そもそも一つのものを由来とするのかもよく分かっていない。

「勾配」の「勾」は角度を表し、古くは「勾」は「直角三角形の短辺」を指しました。「勾玉の語源」は「曲っている玉」から来ているという説が有力です。

  勾玉は、先ず「東日本」で広く流通、弥生時代に「出雲地方」「九州北部」などで分布するようになり、日本中で用いられました。

石を身に付ける風習は、12000年前(縄文時代早期)の「湯の里遺跡群(北海道知内町)」の「小玉類」が最古の出土例、素材のダナイトは「ロシア・バイカル湖周辺」の物と確認されています。同遺跡群では「琥珀製小玉」や「二重の環状列石(ストーンサークル)」「立石」「垂飾」「漆製品」など、縄文時代の遺物も発掘されています。「垂飾(すいしょく)」は「石製の首飾り」で、一説に旧石器時代には存在していたとも言われます。

「玦状耳飾り(けつじょうみみかざり)」は「石製・土製・骨製の耳飾り」「円形か長方形で、中央に穴をあけ、外縁からこの穴に切れ目を入れたもの」で、主に東日本から見つかっています。古代中国の玉類「玦(けつ)」に類似する事からついた名称で、中国が起源とも言います。玉類の文化は、古代中国から伝播し、後に日本で独自発展を遂げました。

縄文時代の装飾具「大珠(たいしゅ)」は、木の葉状の形状をしていて、勾玉と同じく翡翠などが素材です。「天神遺跡(山梨県北杜市)」は、八ヶ岳山麓の縄文遺跡群の代表遺跡の一つで、日本最古の翡翠製装飾具として、墓坑から縄文時代前期末の約5.5cmの「翡翠製大珠」が出土しました。勾玉と大珠は、同時期の6000年前頃に誕生したと言われます。

  「玉(ぎょく)」は「美しく価値のある石の類」、素材・分類は「宝石製」だけでなく、「石製模造品」「土製模造品」「貝製など」も含めた総称です。種類は「勾玉」「菅玉(くだたま)」「丸玉(まるだま)」「平玉(ひらだま)」「臼玉(うすだま)」「小玉(こだま)」・・・など多種多様で、「祭祀具」でも「装飾具」でもあります。

日本においては、玉の頂点は「勾玉」でした。勾玉が不思議な所は、上記の管玉など「石を削り穴を開けた玉」の中で、唯一左右が非対称な事です。古代の勾玉の素材は、「翡翠(ひすい)」「碧玉(へきぎょく)=青瑪瑙(あおめのう)」「水晶」「琥珀(こはく)」などの宝石、「滑石(かっせき)」「蝋石(ろうせき)」「蛇紋岩(じゃもんがん)」「緑色凝灰岩≠グリーンタフ」「雲母片岩(うんもへんがん)」など柔らかい石を用いた「石製模造品」、「埴(はに=粘土・赤土)」を用いて埴輪・土師器と同質の「土製模造品」、「ガラス製」と、稀に「青銅製」もあります。

中でも尊ばれたのは「翡翠」で、「軟玉(なんぎょく)」より「硬玉(こうぎょく)」がより価値が高く、「新潟県糸魚川市」産の硬玉は、市内に分布する工房で、勾玉などに加工されました。

糸魚川周辺は、古代の「越国(高志・古志・こしのくに)」があった地で、永らく独自文化が存在していました。越国の女王「奴奈川姫・沼河比売(ぬなかわひめ)」は「翡翠の女王」「勾玉の女王」であり、糸魚川を流れる「姫川」は奴奈川姫に由来、産地の「青海海岸」は翡翠の青緑の色から来ています。万葉集に「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」という歌があり、「渟名河:姫川」「底なる玉:翡翠」とされます。

次いで価値が高い「碧玉(青瑪瑙・青メノウ)」は、「花仙山(島根県松江市玉造)」の「玉造石」、「新潟県佐渡地方」の「赤玉」、「青森県津軽地方」の「錦石」などがあります。「錦石」は、縄文時代~弥生時代にかけて「三内丸山遺跡(青森県青森市)など、県下の各遺跡から原石・祭祀具・装飾具が発見されています。佐渡産の碧玉製管玉は、北海道の弥生時代の遺跡でも見つかっています。

「出雲国(島根県東部)」では、弥生時代に「玉造石」を用いて「出雲型勾玉」が造られていて、非常に盛行した古代出雲の文化の中でも、勾玉は重要な位置にありました。古墳時代には「玉作氏(たまつくり・出雲忌部氏)」が玉類の製作、古墳に埋納したり、朝廷に献納しています。全国の多くの地域に「玉造・玉作(たまつくり)」という地名があります。これは古墳時代に「玉作部(玉作氏)」などの「玉類の製造者集団が集団居住していた地」で、「部民(ぶみん)」として、朝廷から専門的な職掌を任ぜられていました。

出雲は「国作り」「国譲り」をした「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の地です。大国主命は沼河比売に「妻問い(求婚)」をしましたが、これは「古代の出雲と越国の日本海沿岸の交流」を示すとされます。大国主命を祀る「出雲大社(島根県出雲市)」境内の大石の下(真名井遺跡)から、4世紀の「大型の翡翠製勾玉」「臼玉」「銅戈(どうほこ)」が発掘されました。大国主命の別名に「八千矛命(やちほこのみこと)」があり、死後に多量の勾玉と共に埋葬されたとされます。

古墳時代の代表的氏族「土師氏(はじ)」は「埴(はに=粘土・赤土)や土木の扱いを職掌とした氏族」、畿内の大古墳を造営した「土木工事の専門集団」「古墳用・祭祀具用の石材加工の専門集団」であり、古墳に副葬する「祭祀具を大量に発明・製造した氏族」であり、これらを総合した「代表的な祭祀氏族の一つ」でした。土師氏は「土師器(はじき)」「須恵器(すえき)」などの土器・土製品を大量に製造、「日用の土器」と、「祭祀用の土器」「埴輪」「土製模造品」「石製模造品」「棺用の甕(みか)」などを製造しました。模造品とは、粘土や柔らかい石を素材として、例えば「勾玉など玉類」「鏡」「剣」などを模造して造り、一般の祭祀と古墳副葬で用いた物で、古墳時代の代表的な祭祀具であり、土師氏は「玉類の製造氏族」でもありました。土師氏の祖「野見宿禰(のみのすくね)」は、記紀に「埴輪を創出した」「相撲の祖」とあり、大古墳に用いられた「二上山(大阪府・奈良県)」の石材「サヌカイト」を押えていたとも言います。

古墳時代、ヤマト王権の誕生と共に、「前方後円墳」を頂点とした祭祀制度が一気に王権領域内に展開されました。古墳の全国総数は20万基以上と言われ、全長100メートル以上の大規模古墳が各地に築造されました。「伝仁徳天皇陵」とされる「大仙陵古墳(だいせんりょう・大阪府堺市)」は、墓域面積が世界最大(全長486m・高さ35m)です。これほどの大規模な葬制・祭祀は、世界的にも類例がありません。古墳は形状などに高度な画一的文化を有しながらも、内部構造(石室・石棺ほか)や副葬品は地域ごとに多様性があり、これは当時の地域文化の広がり・氏族の分布・交通と移動などを示しています。

一般の祭祀や古墳副葬で用いられた「祭祀具」は、「埴輪」「祭祀用の土器」「玉類」「模造品」「銅鏡」「鈴」「武具」「馬具」・・等等、多種多様な物があります。「古墳内壁や祭祀具に施された意匠」は、「直弧紋(ちょっこもん)」「蕨手文(わらびてもん)」・・・などがあり、また「祭祀具自体の形状」も含めて、これら意匠・形状は「特別の呪術的な含意が篭められた物」でした。「古墳の「祭祀具」「意匠」は、時代と地方ごとに種類と傾向が変遷して、質量ともに豊かな文化を形成していました。

中でも特徴的なのは「沖縄・奄美諸島」などで産する「南方産貝製品(ゴホウラ製貝輪)」と、その派生事物「車輪石(しゃりんせき)」「鍬形石(くわがたいし)」「「直弧紋」など「沖縄的事物」の存在で、日本の弥生時代~古墳時代前期のみで見られ、この時代に非常に重要視されました。これは「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」「邪馬台国に纏わる謎」「古代日本の成り立ち」「国・地域・社会の基層・古層」の解明と、「その解明と適切な解釈、良い方向での利用が、日本国土と社会と人々の量子的飛躍にとり重要である」という点から非常に重要であり、「アイヌと沖縄について」の項で記述します。

このように古墳時代は、中央の大王や有力氏族・地域の豪族・祭祀集団・部民などが非常に多様な文化を作り上げていました。その祭祀文化は「大規模古墳」「多様な祭祀具」「装身具・服飾・彩色など身体装飾」「巫女・遊部(あそびべ)などによる歌舞」などといった、鮮やかな様相を持っていて、日本史上最大の大規模な祭祀を行っていた時代です。古墳時代を非常に特徴付けるのが「古墳築造」と「豊かな祭祀具の文化」であって、中でも最も多く製造されたのが「玉類」です。そして「勾玉」「前方後円墳」は、日本を代表する代表的な祭祀具・祭祀場ですが、その形状は独特で、世界的に類例がありません。

「勾玉を用いた祭祀」「沖縄的事物の古墳への副葬」は、畿内では古墳時代前期の終了時点までに終了、勾玉の使用は地方ではこれより遅く、九州地方や関東地方では古墳時代後期に終了しました。そして他の「玉類」と「多くの祭祀具」の製造も徐々に衰退、古墳時代後期(7世紀半ば以前)に終了しました。この時期は、畿内より始まった「古墳築造の衰退」と重なっていて、東国では続いていた古墳や埴輪などの築造・製造も、飛鳥時代終末(和銅三年・710)以前には概ね終了しました。これを以って、古代祭祀の時代が終わりを告げ、祭祀において勾玉を着装する事もなくなりました。しかし古神道の形式が残り続けた「沖縄」では、その後現在に至るまで、巫女である「ノロ」が勾玉を着装して祭祀を続けています。

「記紀(日本書紀・古事記)」や、各種の古典・神話・伝承には、玉類が頻繁に現れ、各種の名称が付いています。中でも「三種の神器」の一つ「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は最も有名です。記紀に見える「山幸彦・海幸彦(やまさちひこ・うみさちひこ)」の説話において、山幸彦は「龍宮」の海神「綿津見神(わたつみのかみ)」から、「潮位を自在に操れる玉」である「潮満瓊・潮涸瓊(しおみちたま・しおひたま)」を授けられました。先述の「十種の神宝(とくさのかんだから)」の意味する所は、「霊・魂(たま)」「玉・珠(ぎょく・たま)」「フル(魂振り・霊の活性化)」です。

  「たまゆら」「オーブ」という物があり、「浮遊する光体」の意、漢字では「玉霊」「玉響」「魂響」と書きます(項目6②)。肉眼でも見えますが、よく写真やビデオにも映り込み、波動の感度が高い人は多く見えます。「たまゆら」は「波動原理における意識体」、意識に感応して「ゆらゆら揺らめいて」、斥力(反重力)により「ふわふわ浮遊」、量子エネルギーの集合体なので「ほのかな光体」と成しています。

万葉集の柿本人麻呂の歌に「玉響」という言葉があります。古語で「読み・意味・原義・一般的用例」は諸説ありますが、一般的に次のように言われます。「玉響」は「たまゆら」か「たまかぎる」と読む、意味は「少しの間・ほんのしばらく・暫時」、原義は「勾玉同士が触れ合ってたてる微かな音」です。「夕(ゆうべ)」に掛かる枕詞で、「夕日の光は玉の放つ光のように、ぼわっとした感じで光っている」というのが枕詞になった理由です。

「丸い形状の:玉・珠(たま)」「宝石・土・石などの:玉(ぎょく)」「霊魂の:魂・霊(たま)」、これらは古くは「性質が近い物」として捉えられていました。それは「丸い物や、大切にしている物には神霊が宿る」「宝石だけでなく、埴・丹などでできた、一部の土製品も、神霊が宿りやすい」という古代人の観念を表しているのでしょう。また、これらの「概念の性質・名称の類似」は、それだけ「こういう性質の物には、高波動状態が現れやすく、神霊が宿りやすい」という事を示しています。

波動原理に拠れば、「意識」とは「霊魂」、珪素などを多く含有する「宝石類」は「高波動」、「埴(はに・赤土)」などは「珪素分が多い」、更に「土でも、強い意識が篭められた物」は「高波動になる」「意識が顕現化する」「他の高波動物質や意識と共鳴する」、「量子エネルギー」は「丸い形状として発生する」、勾玉のモチーフとも言われる「胎児」は「最も波動が高い・原初的な姿・純粋で生まれたての魂」となります。

また「玉のような子」「玉石混交」などの言葉に見られるように、「玉」は「大事な物・価値ある物」の象徴的な言葉でした。ただ「石・土」も非常に重要な意味を有していて、「ただそこら辺にある物」という無機的な認識論から、「その本質性を感じる」という統合的感覚へと変遷するでしょう。

波動原理を考えると、これらの「魂・霊・玉・珠などに纏わる用法・表現・事物」には、高い波動や意味があるのは確実です。「特に日本においては、意識の面から、それら事物には特別な意味がある・効果がある」と考えられます。それは「往古にそう看做され、強く信じられていた」「往古からそう看做されてきた」という「意識の所作の積み重ねの効果」によります。そして実際に、それらで言及される事象を探っていくと、他の伝承・伝統・神事などと同様に、多くの物に高い波動効果の存在が見えてきます。


縄文文化に由来する、日本の基層の自然崇拝と緩やかな融和的意識
  「縄文時代」の開始年代には諸説あり、約16500年前や16000年前に始まったとするのが一般的です。時代区分は「草創期(約16000or15000~12000年前)」「早期(約12000~7000年前)」「前期(約7000~5500年前)」「中期(約5500~4500年前)」「後期(約4500~ 3300年前)」「晩期(約3300~2800年前)」などの区分法があります。

縄文時代前期の約6000年前にピークに、気候は現在より温暖湿潤で、年平均で1~2℃気温が高い環境でした。海面は2~3メートル高く、日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んだ「縄文海進」により、特に「南関東」で「香取海」「奥東京湾」を形成しました。しかし縄文時代晩期・3000年前は、前の縄文時代後期に比べて、一気に気候が約2度下がりました。

縄文初期には2万人だった日本の人口は、前期には10万人、中期には26万人になったと推定されています。その人口の多くは「東日本」に集中していました。

文化は時代ごとに変遷して、地域ごとでも異なり、縄文時代中期には九つの文化圏があったとされています。特に「東北地方」「北海道南部・中部」「中央高地(長野県・山梨県)」「新潟県」で高度な文化が発達、「北陸地方」「関東地方」「静岡県」にも特筆される物が多く見られます。中でも「東北地方北部(青森県・岩手県・秋田県)」と「北海道南部」の「津軽海峡文化圏」は、全国の最も中心的な地域であり、多くの盛行した文化と大規模集落が存在、そのうち後述の遺跡を含む17遺跡は「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」として世界遺産の暫定リストに登録されています。

  縄文時代の食糧事情は、早期は厳しく、前期に徐々に良くなっていき、中期には豊かであったとも言います。九つの文化の分布地は、それらの地域ごとに、食料事情が異なっていた事により、人口の増減も食糧事情によります。

食料は「木の実(クリ・クルミ・ドングリ・トチの実など)」が非常に多かった事が分かっていて、中でも「ドングリ」が主要な食物でした。「貝類・魚類など海産物」も重要な食料資源で、「漁労具や貝殻・魚の骨」はどの沿岸の縄文遺跡からも出土、「川を遡上してきた鮭」は寒冷期の東日本の重要な食料資源でした。植物は「穀類(イネ・アワ・ヒエ・オオムギ)」「豆類(大豆)」「ソバ」「シソ」「エゴマ」「ヒョウタン」や「漆(ウルシ)の木」などを栽培していました。「酒」「発酵ジュース」が生産されていたとも言います。動物では「鹿・猪」「鳥類」などを狩猟、「骨角器」にも利用しました。「犬」が家畜とされていた事も分かっています。

「中里貝塚(東京都北区)」は、非常に大規模な「水産加工場」と言われます。貝塚では大型のカキとハマグリしか見られず、生活遺構はなく、茹でてから干して、内陸部へ干貝を供給する仕事場だったとされます。また海中でカキをつけるために立てたと思われる「カキ養殖用の杭列」も見つかっています。

「稲(イネ)」は、栽培種が「アフリカイネ」「アジアイネ」に分かれ、アジアイネは「インディカ種」「ジャヴァニカ種」「ジャポニカ種」の3亜種に分類されます。「インディカ種」は「長粒種」「東南アジアから南アジア」「世界生産量の8割」、「ジャバニカ種」は「大粒種」「陸稲」「インディカ種とジャポニカ種の中間の種」「東南アジア島嶼・ベトナム・中国南部」「生産は少量」、「ジャポニカ種」は「短粒種」「東アジア」「生産量は15%以下」というようになっています。「稲作」は1万年以上前の「中国南部の長江流域」で発祥、「ジャポニカ種」の発祥地も同地域です。「ジャバニカ種」は、「2メートル近い草丈・太い桿(かん)・長い芒」といった特徴があります。

日本の稲作は、「陸稲」では「彦崎貝塚(岡山県)」の「朝寝鼻貝塚(岡山県)」の6000年前(縄文時代中期)の「プラントオパール」が、「水稲」では「板付遺跡(いたつけ・福岡県福岡市博多区)」「菜畑遺跡(なばた・佐賀県唐津市)」の3000年前(縄文時代晩期後半)の「水田跡」が最古です。菜畑遺跡からは「ジャポニカ種」の米粒が出土、2300年前(弥生時代前期初頭)の水田跡から大規模営農を裏付ける「水路・堰・取排水口・木の杭・矢板を用いた畦畔(けいはん)」が発掘されていて、また松浦湾沿岸の同地域には「魏志倭人伝」に見える「末盧國(まつら・まつろ)」があったとされます。

縄文~平安時代の日本の水田跡から出土するイネの「プラント・オパール」は「ジャポニカ種」が主体で、「ジャヴァニカ種」も含まれています。大正末期まで「沖縄」に分布した在来種にも「ジャバニカ種」は含まれていました。「赤米」には「ジャヴァニカ種」「日本型赤米(ジャポニカ種)」の二種類があり、柳田國男は祝い事で「赤飯」を炊くのは、古代の「赤米」を再現しているからだと考えました。種子島の「宝満神社(ほうまん・鹿児島県南種子町)」は、社の縁起に「種子島は日本における稲作の始まりの地」とあって、「神田」で「赤米」を栽培する神事は2千年の歴史があると言います。

各種事象を重ね合わせると、「稲作の日本への伝播経路」は、縄文時代の「ジャパニカ種:長江下流域→九州北部(対馬暖流ルート)」「ジャヴァニカ種:中国江南か東南アジア→西南諸島→九州南部(黒潮ルート)」という二つのルートが考えられます。これは「日本への南方系文化の主要な流入経路」でもあり、そして「多くの古の碩学が探求してきた、渡来人・渡来文化の渡来の初期の、南方文化渡来の道」と重なります。

  湖沼・内海が多く、陸上の交通手段に難があった古代は、船の重要性は現在の比較にならない物がありました。日本は海洋国家ですが、海洋民的な南方系文化は、縄文時代やそれ以前から受け継がれてきた物です。「丸木舟」は「巨木を刳りぬいた舟」で、これで日本各地を航海していました。また丸木舟を進化させた準構造船の古名「軽野・枯野(かるの)」は、「カヌー」と同じ語源とする説があります。「千葉県」は「貝塚」「出土した先史時代の丸木舟」の数が日本一です。

「加曽利貝塚(かそり・千葉県千葉市若葉区)」は「世界最大規模の貝塚」で、住居跡や遺物も多数出土しています。「斧・剣・磨石・皿・玉など、道具によってそれぞれの石材の種類が異なる」「県内の同時期の遺跡の出土品と共通点が多い」「素材の石は、殆どが県内にはない」「完成品を関東各地や甲信越から川や海を船に乗せて運んだと思われる」とされます。

「鳥浜貝塚(福井県若狭町)」では、日本最古の植物栽培跡らしき縄文時代早期の「瓢箪」など栽培植物多数、日本最古の「赤漆塗り櫛」、世界最古の12600年前の「漆の枝」など、多数の遺物が出土、漆の技巧は現在と変わらないほど高水準といいます。同遺跡など、三方湖周辺の縄文遺跡からは「丸木舟」11隻が出土しています。

「麻(あさ)」」は、元は「大麻(おおあさ・アサ科アサ属)」の繊維を指し、後に「苧(からむし・イラクサ科)」や「亜麻(あま・アマ科)」も含めるようになりました。「大麻」「苧」は縄文時代以来、日本の生活・文化には最も必須だった物の一つであり(大麻は戦後GHQに一般栽培が禁じられるまで)、、高い成長力があります。特に大麻は「糸・縄・網・布・衣服などの素材の繊維」「食用(栄養価が高く、油が取れる)」など、各種用途に利用され、「縄文土器」の紋様は麻の縄で付けたとも言います。そして大麻は「高い波動と浄化能力」を有していて、多くの「祭祀具」の素材に用いられました。

日本最古の針は、「栃原岩陰遺跡(長野県南佐久郡北相木村)」の縄文早期・1万年前の「骨製の釣り針・縫い針」で、精巧にできています。縄文人は針を用いて、毛皮を縫い合わせて衣服としていました。

  「縄文土器」と「土偶」は、地域や時代ごとに、大きく形式が異なっていて、時代ごとに編年がされています。土器・土偶は、製造地から他の地域へ、運搬された物も多かったことが分かっています。

「人型の土偶」は、ほぼ全てが「デフォルメした女性像」、「大地の女神・地母神を表現したもの」とされ、「母性信仰・多産信仰」の祭祀具とされます。土偶は人型以外にも、「動物を象った物」や、「筒形土偶」「ハート形土偶」「山形土偶」「ミミズク土偶」など多種多様の物があります。多くが東日本に分布、出土数は上位から「岩手県」「長野県」「山梨県」です。人を象った土製品としては「人面付き土器・土偶・土版」もあります。粘土を素材とした祭祀具として「土偶」「土製品(土偶に分類される物も)」「土板」、同系の石を素材とした祭祀具に「岩偶」「岩板(石板)」があります。

宇宙人とも形容される「遮光器土偶」を始めとした「亀ヶ岡文化」「亀ヶ岡式土器」は、縄文時代最末期に「青森県・岩手県」などで栄えた、際立った造形美を特徴とするた高度な文化で、「北海道中部~近畿地方」まで多くの影響を与えています。縄文時代後期には、掌に収まってしまう「ミニチュア土器」など、明らかに祭祀目的の物が増加します。3000年前の縄文時代晩期、前の縄文時代後期に比べて、一気に気候が約2度下がり、生活基盤に大打撃を受け、東日本では人口が大幅減少しました。これは後に生まれた「亀ヶ岡文化」の背景となり、人々は祭祀に重点を置く事で、共同体の拠り所としていて、様々な祭祀具や装飾具が発展しました。「冬」の語源は「殖やす(ふやす)」とされ、「太陽が低くなり光量が少なくなると、世界が消滅すると感じた」とも言われ、「魂振り」の項の「鎮魂祭(ちんこんさい・みたましずめのまつり)」は、冬至に行われる生命活性化の儀式です。そしてこの時代の後、人口が希薄だった西日本では徐々に増加、これが弥生時代へと繋がります。

この時代の呪術具に「土製仮面(仮面土偶)」があり、また「木製仮面」「皮製仮面」もあります。大きさから「実際に顔に被って使える大形の物」「小形で被るのは困難な物」の2種類があります。東北地方が分布の中心、関東地方や北陸地方でも見られます。様々な表情をしていて、「仮面を被った呪術者を模した物」とされます。呪術的意味があり、「精霊との対話が行われていた」とも言われ、広く仮面を用いた儀式が行われていました。

「縄文土器」は、文様が変化に富み多く用いられ、装飾は時には容器としての実用性からかけ離れるほどに発達しました。一説に「縄文の紋様は波動が螺旋状に湧出する様子を模したもの」とも言います。実用的な「ランプ」などだけでなく、祭祀用の土器が多く存在します。その一つとして「モチーフを形象した土器」があって、対象は「人体・人面」「動物」「鳥類」「魚介類(魚・貝など)」「何らかの事物」と様々です。「実用から掛け離れた装飾を持つ土器」「特殊な形状の土器」「小型の土器」は、多くが祭祀用の土器とされます。特に「新潟県」を中心とした地域で縄文時代中期に盛行した「火焔土器(馬高式土器)」「水煙土器(曽利式土器)」は、火焔や水煙のような装飾性に溢れ、縄文土器の最高傑作とも評されます。日本最古の土器は、「大平山元遺跡(おおだいやまもと・青森県外ヶ浜町)」の縄文時代草創期・16500年前の縄文土器で、同遺跡の弓に用いる「石鏃(せきぞく)」も日本最古の物です。

  「新潟県糸魚川市」産の「翡翠(ひすい)」、「千葉県銚子市」「岩手県久慈市」産の「琥珀(こはく)」、「山梨県」など各地で産する「水晶」、「島根県」などで産する「瑪瑙(めのう)」は、特に縄文時代~古墳時代にかけて利用された代表的な宝石です。翡翠と琥珀や、柔らかい「滑石」「蝋石」などを用いて、「勾玉(まがたま)」「大珠(たいしゅ)」を始めとした各種の祭祀具・装身具を製造、製品は広域で流通しました。

「貝製品」は近海産の製品の他に、「南西諸島(沖縄県・鹿児島県島嶼部)」産の物が各地で流通、祭祀具・装身具として利用され、弥生時代・古墳時代に特に重要視されました。縄文時代の道具や装飾具・祭祀具には「石」「粘土」「木」「動物・魚類・鯨類の骨・牙・角(骨角器)」「貝(貝器)」が用いられています。

「道具」の材料としては、「黒曜石」は全国各地に産地があり、「伊豆諸島神津島」の物は「南関東」の2万年前の遺跡、「佐賀県腰岳」の物は「朝鮮半島南部」、「隠岐」の物は「ロシア・ウラジオストク」で見つかっています。「秋田県」産の「アスファルト」は接着用として用いらています。「香川県」「二上山(大阪府・奈良県)」「広島県」「佐賀県」で産する石材「サヌカイト」は、固いもので叩くと高く澄んだ音がするので「カンカン石」とも呼ばれ、旧石器時代から交易されて、多様な用途に用いられました。

北陸地方最大の集落遺跡「長者ヶ原遺跡(新潟県糸魚川市)」は、縄文時代の「翡翠製玉」「蛇紋岩製石斧」の生産・交易拠点でした。ここから000年前(縄文時代中期)とも言われる、「翡翠製大珠」「翡翠製勾玉」と「加工道具」「工房跡」などが出土、これが最古の勾玉とされます。翡翠製玉の製造以前には、滑石・蛇紋岩などで「耳飾・管玉」が作られていて、北陸独自の「蛇紋岩製指輪状石製品」が出土しています。また「独特な土偶」が多数出土、明らかに祭祀用の「ミニチュア土器」も幾つも発掘されているなど、多様な様相を持つ遺跡です。

亀ヶ岡文化の「是川遺跡(青森県八戸市)」は、集落・貝塚・ゴミ捨て場などの複合遺跡です。発掘された「縄文琴」は「世界最古の現存する弦楽器」「日本最古の琴」とも言われます。他に「縄文土器多数(特に漆塗りや彩文のある土器)」、祭祀に纏わる「赤色顔料がまかれた人骨」「石棒」「石刀」「土偶」「勾玉」、装飾具の「木製腕輪」「耳飾り」「櫛」「ガラス玉」、狩猟用や武具の「弓」「大刀」や、「赤い漆塗りの植物性容器」「果実の種」や、弥生時代の「遠賀式土器」など、多数の遺物が見つかっています。

「キウス周堤墓群(しゅうていぼぐん・北海道千歳市}」は、縄文時代後期(3000年前}の8基の墓で構成され、縄文時代に作られた墓としては日本最大です。名称は墓の周りを堤が囲っていることから名付けられたもので、盛土遺構や建築物の跡も見られます。出土したものには土器や木製品などがあります。

「上野原遺跡(うえのはら・鹿児島県霧島市)」は、縄文時代早期から近世にかけての多くの遺物が出土した複合遺跡で、南に鹿児島湾、北に霧島連山を望む高台に位置します。同遺跡からは「国内最古・最大級の定住集落跡の、約9500年前(縄文時代早期前葉)の竪穴式住居跡」「約7500年前の、弥生土器に類似した1組の壺形土器」が発見されました。縄文土器や土偶や各種道具には、赤色顔料の「朱(しゅ)=弁柄(べんがら)」や「赤漆・黒漆」で彩色されている物があります。朱は墓の遺体に散布されたりしていて、「生命の躍動を表し災いを防ぐ」として呪術用に用いられました。日本最古の彩色土器は、「塚原遺跡(つかばる・宮崎県宮崎市)」の、11500年前(縄文時代草創期)の朱塗りの縄文土器です。しかしこうした南九州の縄文文化は、7300年前の「鬼界カルデラ」の噴火による南九州全滅で途絶、植生の回復には500年かかったとも言います。一説にこの影響で、海を航海した縄文人が「南米」「南太平洋」に縄文土器を伝えたとも言います。

「鹿角製腰飾り」は全国で20例ほど出土、鹿角の分岐部分が素材で、紐などを通して腰に着けたと推定されます。男性人骨の腰の辺りからの出土例が多く、「呪術的首長が身に付けていた」とも言われます。「寺下遺跡(青森県階上町)」では、鹿角製腰飾りがほぼ完形で出土、縦26cm・横約11cm・厚さ約4cm、「一端が長く尖った短剣のような形式」で、精巧な文様と優美な彫刻が見られます。2900年前(縄文時代晩期中頃)の「蛇骨の入った無紋の壷型土器」は、「蛇神信仰」の起源を探る上で重視されます。

縄文時代の葬制として、遺体に装身具が付けられている物があります。地域別に「北海道・青森県:玉類や櫛の着装、朱の土坑への散布」「関東・上信越:玉類・石製耳飾りの着装」「愛知県以西:貝輪や腰飾りの着装」という傾向があります。「貝輪は9割が女性」「腰飾りは大半が男性」であり、両方とも呪術具と見られます(貝輪については"アイヌと沖縄について"で後述)。

縄文時代には他にも、装飾具としては「髪飾り」「指輪」「耳輪」「鼻輪」などがあり、凝った物では「鹿角製飾櫛」など複雑な形の物があります。祭祀具としては「石剣」「足形付土版」「巻貝型土製品」ほか多数、また用途不明の遺物は多数ありますが、祭祀具として用いられていた物が多いと見られます。楽器では他に「土鈴」「土笛」「石笛」があり、「太鼓」もあった可能性があります。

  縄文時代などの「配石遺構」は全国で500箇所以上あり、多くは「祭祀・葬送の場」とされます。また、各地の「ピラミッド山」「一部の磐座」「一部の海底遺跡(沖縄県与那国島の海底遺跡など)」などと共に「超古代文明の遺跡」とも言われます(超古代文明はあったのは確実です)。代表的な配石遺構に「環状列石(ストーンサークル)」があり、円環状の類似遺構に「環状土籬(かんじょうどり)」「環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ・ウッドサークル)」があります。「大和(やまと)は大きな輪を意味する」「その淵源は、縄文時代の環状列石・環状木柱列などに代表される円状の構造物である」「これは平等思想による」とする見立てもあります。

環状列石(ストーンサークル)
・環状の配石遺構
・環状列石は実際には真円でなく、
 「長軸・短軸・外部に出っ張った配石がされた場所で構成される多角形」である。
 これは「世界各地に共通する構造の定形様式」であり、フランス人学者が解明した。
・環状列石は、集落内に造られた物と、集落外に造られた物がある。
・長径30~40メートルの隅丸方形に配石している。
・一番外側に、二重・三重に川原石を環に並べた「外帯」と、
 多くの場合、その中心に「内帯」がある。
・「内帯」の内側は、直径5メートル内外の方形または円形の広場ができている。
・これらの配石の下に墓穴があったり、石列の間に土器棺があることが多い。
・環になっている石の一部が途切れ、幅2~3メートルの通路ができ、両側に石が並び外に続いている。
・「祭祀場」であり、多くは「墓構・墓域」でもある。
 多くは山などを目印として構築されていて、「日時計・暦を計る」という機能を持っている。
・「血縁・地縁をもった氏族の連合が40~50キロほどの距離をおいた領域を占有し、
 その中心に祭の場を築造したのではないか」と考えられている。
・日本で最も密に分布するのは、
 「東北地方の青森県・秋田県北部」「北海道西南部(特に渡島半島)」。
・東北地方から北海道では、縄文時代中期後半から後期にかけて作られている。
 大きさは直径30m以上のものと直径10m以下のものがあり、
 大きいものは祭祀の場として作られ、小さいものは竪穴住居の周囲に石を置いたものが多い。
・直径が30m以上のものは、
 まず縄文時代中期の終わりごろに「静岡県」「山梨県」「群馬県付近」で作られる。
 続いて縄文時代の後期前半に「秋田県北部」「青森県」「北海道西南部」で作られる。
・同じころ、「岩手県」では、「石を直線状や弧状に並べるもの」が作られている。
・配石遺構は、縄文中期後半から後期になると各地で築造される。
・現在までのところ最も古いと考えられているのは
 「阿久遺跡(長野県諏訪郡原村)」の配石遺構で、縄文時代前期のものと推定されている。
・「伊勢堂岱遺跡」「小野牧遺跡」など環状列石には、
 表面が亀甲状・裏面が平滑の祭祀具「三角形岩板」が出土した場所が多い。
・「ドルメン」が多いが、大分県には
 人間の背丈程の「メンヒル」を環状に並べた「佐田京石(大分県安心院町)」がある。

代表的な環状列石
大湯環状列石(おおゆ・秋田県鹿角市)
・4000年前(縄文時代後期)、日本で最も著名な環状列石。
・100基以上の配石遺構で構成され、東西南北の四方向に大きな石を配している。
・2つの環状列石「野中堂」「万座」があり、直径が44mと52mと日本最大規模。
放射状に石が配置されていて、中心に立石が立っている。
2つの環状列石の中心を結んだ線は、夏至の日没方向を指す。
・野中堂の中心に「日時計状組み石」がある。
・14基の遺構の地下が調査され、11基の地下から長さ1m・深さ50cmの土壙(穴)、3基の地下から大小円形の土壙が確認された。
・死者の埋葬施設としても用いられていて、葬送儀礼の場でもあった。
・使用した石は7200個以上、しかし大正時代に遺跡と気付かれぬまま、相当数の石が運び出された。
・高さは最大で約80cm程度、重さは平均30kgで最大200kg。
・「石英閃緑ひん岩」を使用、、約6km離れた安久谷川(諸助山山麓)から運ばれた。
  ・翡翠のような断面と、表面の美しさを持つ石で、硬くて重い。
 ・「医王石(戸室石)」とも呼ばれ、波動の高い石で、ミネラルが多く、各種効果が報告されている。
   「マイナスイオン効果(量子の湧出効果)」「多孔質」「吸着作用」「イオン交換作用」「水の浄化作用と腐敗防止」など
 ・富山県と石川県の県境の金沢市戸室地区の霊山「医王山(いおうぜん)」でも産出され、古墳時代から利用されてきた。
  奈良時代の「修験道(神道と仏教が習合した山岳信仰)」の僧「泰澄」が開山した。
  泰澄は「恒武天皇」の病を、医王石(薬草とも)を処方して回復させ、大師の称号を得て、石を採取した山は医王山と称された。
・北東の「黒又山(クロマンタ)」を綺麗に望め、関係性が指摘されている。
三角錐の山容を持ち、ピラミッド山と言われ、平坦な台地に立つ標高80mほどの小山である。
山麓から山頂への地中に、階段式のピラミッド構造がある可能性があり、嘗て頂上に環状列石のような配石遺構があった。
南西方向にだけ裾野が長く、大湯環状列石と黒又山の間には、まだ地下の遺構があるとされる。

伊勢堂岱遺跡(いせどうたい・秋田県北秋田市)
・4500年前(縄文時代後期前半)
・4つの環状列石があり、国内で最も集中している地域である。

三内丸山遺跡(青森県青森市)

{小牧野遺跡(こまきの・青森県青森市)
・4500年前(縄文時代後期前半)
・配石の仕方が北方の三内丸山遺跡と共通して、珍しい組み方である。
・直径55mある。

忍路環状列石(おしょろ・北海道小樽市)
・小樽から余市町には環状列石が80基以上存在、その中の代表的な遺跡である。
・すぐ近隣に「地鎮山環状列石」がある。

御所野遺跡(岩手県一戸町)
・5000年前(縄文時代中期後半)。
・東西500m・南北100~150m。
・竪穴住居跡が遺跡のほぼ全域に確認された。

千居遺跡(せんご・静岡県富士宮市)
・富士山周辺の列石群の一つで、これら遺構は「富士山信仰の淵源」とも言われる。

環状土籬(かんじょうどり)
・「土堤を巡らした周堤墓」である。
・知床半島の基部にある「朱円遺跡(しゅえん・北海道斜里郡斜里町)」や、
 「キウス遺跡(北海道千歳市)」は、「巨大な土堤を巡らした周堤墓」である。
・キウス遺跡には、周堤墓が14カ所あり、
 周堤の外径が74メートル、高さが5メートルに達するところもある。
・周堤の内部には土壙だけでなく立石の伴う遺跡もある。

環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ)
・巨木柱を環状に配置した遺構。
・日本海沿岸を中心に、全国で十数例が見つかっている。
・「チカモリ遺跡(金沢市新保本町)」では、
 直径50~85cmのクリ材による直径7メートルの遺構が確認されている。
・「桜町遺跡(富山県小矢部市)」では、縄文晩期の直径30~60cmのクリ材10本を用いた
 直径6メートルの遺構が確認されている。

列状列石(れつじょうれっせき)
・組み石が直線状になっている配石遺構。
館石野遺跡(岩手県田野畑村)
・山の斜面にあり、等高線に沿って3列状に並んでいる。
・1号列石は延長が約80メートル、2号が約20メートル、3号40メートル。
・いずれも墓とみられている。
・斜面の下の平坦地では竪穴住居が出土、集落とセットの遺構とされる。

立石(りっせき)
・遺構の一種で、大きな河原石を地面に穴を掘って立てたものをいう。
・日本では縄文時代とくに後期の墓域によくみられる。
・「大湯環状列石(秋田県鹿角市)」の「日時計様組石」が有名である。
・ある種の記念物・墓標あるいは何かの目印として立てられたものと考えられる。
・縄文時代早期のものとしては「こぶし畑遺跡(長野県松本市)、
 前期のものとしては「根羽子沢遺跡(秋田県横手市)」、
 「阿久遺跡(長野県諏訪市)」「上原遺跡(長野県大町市)」の例が知られる。
・これらはいずれも古い段階の立石遺構である。
・中期~晩期になると数が増え、分布域も広がる。

掘立柱建物(ほったてばしらたてもの、ほりたてばしらたてもの}
・地面に穴を掘りくぼめて礎石を用いず、そのまま柱(掘立柱)を立て地面を底床とした建物。
・建物には、土間のままの建物もあり、床の高さが数十センチから一メートルくらいの木の床の建物もある。
 そのような建物は柱数によって大きさが異なってくる。
・建物の周りに立てる側柱(がわはしら)上で屋根を支持する日本の伝統的な建築様式で、高床建築と平屋建物に大別される。
・民家建築としては18世紀頃まで建物の主流であったが、近世後期には一般庶民の民家にも礎石が用いられるようになった。
・遺構(考古資料)としての掘立柱建物跡は、通常、柱穴の規則的な配列として確認される。
・掘立建物の床が人の背を越えるほどで、階段か梯子が必要な建物を「高床建物」という。
 高床建築の場合は、生活の痕跡が当時の生活面に残りにくい傾向がある。

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき・青森県青森市)
・縄文時代前期中頃から中期末葉((約5500~4000年前)の日本最大の大規模集落跡、国特別史跡。
・沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。
 「八甲田山」から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。
・集落は「住居」「墓」「捨て場」「住居」「大型掘立柱建物」「掘立柱建物」
 「貯蔵穴」「土坑墓」「粘土採掘穴」「盛り土」「道路」などが、計画的に配置されている。
・遺跡には、通常の遺跡でも見られる「竪穴住居」「高床式倉庫」の他に、「大型竪穴住居」が10棟以上、約780軒にもおよぶ「住居跡」、
 さらに祭祀用に使われたと思われる「大型掘立柱建物」が存在したと想定されている。
・他の遺跡に比べて「土偶」の出土が多く、板のように薄く造られていて「板状土偶」と呼ばれ、「日本最大の板状土偶」が出土した。
  次の縄文後期・晩期の「立体的に体の各部を表現した土偶」とは大きく異なっている。
・出土遺物は段ボールで数万箱に及んだと言われ、1958点が国の重要文化財に指定された。
・「土器」「石器」が中心であるが、「土製品」「石製品」も多く出土している。
・縄文時代前期~中期の「東北地方北半部~北海道南西部」に
 「円筒土器」を特徴とする「円筒土器文化圏」があり、当遺跡でも文化圏の遺物が出土した。
 土器の種類・器形は「台付浅鉢」「深鉢形土器」
・石製品としては、実用的な石器のほか、祭祀用とされる「石棒(せきぼう)」「石冠(せっかん」「異形石器(用途不明)」や、
 「円筒土器文化」の特徴的な石器「半円状扁平打製石器」「抉入扁平磨製石器」などが見つかっている。
・「木製品」「赤や黒の漆器」「漆塗り土器」「多様な用途の骨角器」が出土した。
・日本各地域を中心とした交易で得たと推測される「黒曜石(北海道から長野県)」「琥珀(岩手県久慈産)」「漆器」
「翡翠(新潟県糸魚川産/大珠など10数点)」「錦石(碧玉=青メノウ/津軽産)」「アスファルト(秋田県産?)」などが出土している。
 これらは舟で運ばれたとされる。
・長野県霧ヶ峰産の「黒曜石の矢尻」は、製品として入ってきた可能性がある。
・装飾具・祭祀具として他に、「耳飾」「玦状耳飾り」「土製垂飾」「石製垂飾」「イモ貝形土製品」などが出土している。
・「直径約1メートルの栗の柱と穴」が、6本・6箇所検出された。
 「六本柱建物(長方形の大型高床建物)」「神殿などの祭祀施設」とする説が多い。
  ・精密な検証の末に復元された建物は、地面を併せて三層構造で、
   軒高(三階の部分)が高さ14.7m、  屋根の頂上が17m、木柱の長さは地下も含めて16.5m。
  ・園内掲示板には「一部漆塗りの神殿」「シンボルタワー」「典型的な記念物」の3説のイラストがある。
  「物見櫓」説もある。
  ・「巨大木柱のすべてが内側に向かって幾分、傾斜した状態で建てられていた」
   「木柱の周囲と直下にかなりの荷重がかかっていた」ことが判明、これは屋根付建物があったと示唆する。
  ・「柱穴の間隔・幅・深さ」がそれぞれ「4.2メートル・2メートル・2メートル」で全て統一されている。
  ・柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術を使っており、腐食を長い間防いだ一因となっている。
  ・この建造物は多くの人々の労働力を必要としたであろうし、集落居住者の一致協力と指導者がいたのではとの想像もできる。
   これは、その当時既に測量の技術が備わっていたことを示し、ここに住んでいた人々が当時としては高度な技術的水準に達していたことを示すものである。
・「幅10メートル以上の大型竪穴式住居跡」がいくつも検出されているが、
 その中でも最大なものは「長さ32メートル、幅10メートル」のもので、これが復元されている。
・一般の住民が暮らしていたと思われる「竪穴式住居跡」も多数検出されている。
 屋根に関しては茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類の屋根を持った住居をそれぞれ想定・復元した。
・東西約75メートル、南北約18メートルの範囲に「掘立柱建物」のものであると推測される「柱穴群」が検出されている。
 この掘立柱建物の柱穴の周辺及び内側には、生活の痕跡が確認できなかったため、
 この掘立柱建物は「高床式建物」であった可能性が高いと判断され、現在高床式建物として復元されている。
・道の跡周辺からは「環状配石墓(ストーンサークル)」が二十二基検出されている、小型で直径2~4メートル。
  ・南方のやや離れた所にある「小牧野遺跡」に先行する中期後半の物で、石の並べ方が小牧野遺跡と共通している。
  ・この墓の一つから炭化材が出土したが、これは「最古の木棺墓」の跡であるとも言われる。
  ・これらはムラ長の墓とも考えられている。
  ・石は長さは15cmから30cm程度のものが多く、大きなものでは1m以上ある。
   南方約10kmの堤川上流(荒川)、東方約10kmの野内地区で採取したとみられる。
  ・大人は、地面に掘られた円形や楕円形の土坑墓に埋葬された。
   大人の墓は集落東側の道路に沿って、両側に2列に配置されていた。
  ・子どもは亡くなると、丸い穴を開けたり、口や底を打ち欠いた土器の中に入れられ、住居の近くに埋葬された。
   土器の中から握り拳大の丸い石が出土する場合が多く、当時の習慣に関係するものと考えられる。
・集落の中心から幅約12メートル、長さ420メートルにわたって、海に向かって延びている。
 道路は地面を少し掘り下げて、浅い溝のようになっているものや、さらに土を貼って「舗装」されているものもある。
 南北にのびる道路も見つかった。
・「食糧の貯蔵穴」「捨て場」「粘土採掘跡」などが発見された。
・多数の「堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻」、さらには一年草の「エゴマ」「ヒョウタン」「ゴボウ」「マメ」などといった栽培植物も出土した。
・大粒の栗が出土、周辺の森の多くは栗林で、栗の巨木が遺跡で多用された。
・三内丸山の人たちは、自然の恵みのみに依存した採取活動ではなく集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられる。
・出土した動物の骨の7割弱が「ノウサギ」「ムササビ」の骨であり、縄文人が食料としていたと推察できる。
・三内丸山遺跡は「物資を集散する交易拠点」で、居住者数は数百人とみられている。
・遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていない。
・三内丸山遺跡と一連のものであると考えられる遺跡
「熊沢遺跡」「三内遺跡」「三内沢部遺跡」「三内霊園遺跡」「近野遺跡」「安田水天宮遺跡」
・遺跡の内容は、縄文時代の文化が従来考えられていたものよりも進んだものであることを示すものであった。
・これほどの集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎である。
 一因としては、気候の寒冷化などが挙げられるが、それだけで集落全土を手放すとは考えづらく、
 栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されてはいるが、それが何であるかは分かっていない。

縄文時代は「竪穴住居」を家としていて、一般に平安時代ごろまで庶民の家として用いられました。どのような地に集落が営まれたかについて、沿岸部では「海岸線近く(漁労や貝の採取)」、内陸では「日当たりの良い台地で、食料の得やすい場所」が多いようで、、そしていつの時代にも「水の確保が容易な場所」が必須要件です。集落の規模は30人程度、「三内丸山遺跡」のような数百人というのは異例です。集落が大きくなると「施設配置の増加と規格性」「植物栽培地など食料を確保する場の増加」が必要になります。

「縄文時代から温泉の近くに集落を営まれていた」「古代の温泉数十カ所を調査して、内陸部に集落遺跡ができた要因の一つとして、近くに温泉があった」とする論説があります。「嬉野温泉(佐賀県嬉野市)」の公園から「石斧や黒曜石の剥片」が出土、「上諏訪温泉(長野県諏訪市)」がある諏訪湖の湖底遺跡から「湯垢が付着した土器」が出土したといいます。「日本書紀」「風土記」「万葉集」には温泉の記述が見られます。「道後温泉(愛媛県松山市)」は日本最古級の歴史があり、約3000年前(縄文中期)の「土器・石鏃」が出土、神代からあると伝わります。温泉にはミネラルが多く、特に内陸部では「塩化ナトリウム(塩)」が重要でした。温泉地は波動が高いパワースポットで、「湯治場」と呼ばれるほど、体への効果が高いです。このような地に集落が営まれるのは、道理に適っています。

しかし縄文社会については分からない事だらけです。どのような会話や教育がされていたのか、歴史・伝統・信仰の口承について、老若男女がどう行っていたのかは不明です。

  縄文時代には「巨木信仰・高木信仰」があったとされ、これが「古神道」の「自然祭祀」の代表的な姿の一つです。

出雲大社(島根県出雲市大社町)の本殿と心御柱
・「大国主神(おおくにぬしのかみ)」は、「国譲り」に応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った(古事記)。
 この葦原の中つ国は、命のままにすでに献りぬ。ただ僕(あ)が住所(すまひ)は、天つ神の御子の日継ぎ知らしめさぬ、富足る天の御巣のごと、底つ石根に宮柱太しり、高天原に氷木高しりて治めたまわば、僕は百足らず八十摑手(やそくまで)に隠れ侍いなむ(古事記)。
・「高皇産霊尊(たかみむずびのみこと)」は、国譲りに応じた「大己貴神(おおなむちのかみ・大国主神の別名)」に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命(あめのほひのみこと)をに祀らせよう」と述べた(日本書紀)。
 汝(あ)は天日隅宮に住むべし、今まさにつくりまつらむ、すなわち千尋の拷縄(たくなわ)を以て結いて百八十紐にせむ。其の宮を作る制は、柱は高く太く、板はすなわち広く厚くせん。またみ田つくらむ、また汝がかよいて海に遊ぶ具のために、高橋、浮橋および天鳥舟またつくらむ(日本書紀)。
・これが現在の「出雲大社」で、「大国主大神」が主祭神として祀られている。
・正式名は「出雲大社(いずもおおやしろ」、一般に「いずもたいしゃ」と呼ばれる。
 古くは「杵築大社(きづきのおおやしろ)」「杵築社」「杵築宮」などと呼ばれた。 
 社格:延喜式内社 出雲國出雲郡 杵築神 名神大(名神大社)、 出雲國一宮、官幣大社
・社伝によると、創建当時の本殿の高さは「三十二丈(約96m)」あった。
 実存性に疑義が持たれているが、これは古今東西比類なき木造高層建築物である。
 「山の頂上に建てられ、その山の高さも含めた大きさである」とも言う。
・本殿背後の「八雲山(蛇山・不老山・宇迦山)」は標高約90mのピラミッド山、禁足地で巨大な磐座がある。
 「大国主神のの陵墓」があったとも言われ、元は「八雲山が神体山として崇拝されていた」ともいう。
・後に、本殿は「十六丈(約48m)」の高さになった。
・社殿は11世紀から13世紀の間に十一回倒壊したと伝わる。
・十六丈の時の本殿は、先ず建築に際して、根固めを強固に行う。
・「(出雲大社の)宮材造る山」と出雲國風土記に記された「吉栗山」から切り出した杉の大木を三本束にして、一つの柱として、穴に建てる。
・九本の大きな柱が建っていて、その上に拝殿が乗っていた。
・社殿は海岸からごく近い所に建っていてた。
・海岸から真っ直ぐに長さ110mもの大階段がついていた。
・古事記の「底つ石根に宮柱太しり」は、同じ文が、神事で奏上する「大祓祝詞」にある。
 「大倭日高見の国を、安国と定奉て、下津磐根に宮柱太敷立、高天原に千木高知・・・(口語訳:地中深く土台石の上に太い柱をどっしりと差し立て…)」
・出雲大社に代表される神社建築「大社造」においては、「九本の柱を田の字構造に配した社殿」が建つ。
 「掘建柱」「切妻造」「妻入」であり、屋根には優美な曲線がある。
 社殿中央に「心御柱(しんのみはしら)」は、「心の太柱」「岩根御柱」とも呼ぶ。
 長さ六間半(11.8m)・直径二尺八寸八分(0.87m)、現在は礎石の上に立つが、近世までは根元を土中に埋めた掘立柱だった。
 心御柱は、上部の「垂木(たるき・小屋組構造材)」を支える。
 妻中央の、やや外側に飛び出し棟へ達する柱を「宇豆柱(うずばしら)」と呼び、本殿の棟を支え、心御柱を補助する
 宇豆柱は、他の神社建築では「棟持柱(むなもちばしら)」と呼ぶ。
 「側柱(がわばしら)」が桁を支える。
・出雲大社の宮司家は「出雲国造」後裔の「出雲國造家(千家)」、「天照大神」の御子神「天穂日命(あめのほひのみこと)」を祖とする。
 千家に伝わる平安時代の図面「金輪造営図」は、平安期の本殿の指図(設計図)の1つとされ、
 本殿は「心御柱(大木の杉柱3本を合せ鉄の輪で束ねた直径3mの柱)」で支えられ、階段の長さは109mとなっている。
 (「国造(くにのみやつこ):古墳時代・飛鳥時代などに朝廷に任じられ、地方の国(令制国以前の国)を治めた首長、地方の大古墳は国造一族の陵」)
・近年の出雲大社境内の発掘で、大社造の九本柱のうち「心御柱」「宇豆柱」「側柱」の三本が、図面通りに綺麗に並んで見つかった。
 年代測定などにより、これら巨柱群は平安時代末から鎌倉時代初め頃に造営された神殿のものと判明した。
 「心御柱」は直径135cmの杉の巨木3本を束ね、柱と釘に朱が塗られ、「祭祀用土器・勾玉・鉄製手斧」ほかが出土した。
・山陰地方で弥生時代中期に出現する「高床式建物」が起源とされ、大社造本殿と平面の共通する九水柱の建物が出土する。
 しばらくの空白期間を経て、古墳時代中期以降に九本柱遺構は増加する。
・現在の出雲大社は、高さ「八丈(約24.2m)」で、神社としては日本最高の高さである。

この建築物の淵源は、「東北地方・北陸地方の日本海沿岸」を中心に分布する、縄文時代の「大型木造建物」「巨木列柱」「環状列柱(ウッドサークル)」などです。「環状列石」中央部にある「立石(りっせき)」も同類の物だとも言います。「弥生墳丘墓や墓構(弥生時代)」「古墳(古墳時代・飛鳥時代)」には、墳丘の石室真上(墳丘の無い墓構はその上部)に「木製の柱・柱列」「標石(立石)」が建っていた物もあり、そこで祭祀をしたとされます。

「祭礼で使う柱」や「環状木柱列(ウッド・サークル)」を検出した縄文遺跡は、晩期の「桜町遺跡(富山県小矢部市・縄文時代晩期)」、後期~晩期の「チカモリ遺跡(石川県金沢市)」、晩期の「真脇遺跡(石川県能登町)」ほか、各所に見られます。これらは伴出の遺物から、祭祀や葬送にかかわる施設である可能性が高いとされます。

これら構造物の構築には、「縄文尺」と呼ばれる共通の尺度(度量衡)が用いられていたとされます。「縄文尺」は基本が「35センチメートル」であり、「35センチメートルの倍数の距離」が「柱列の間隔」に用いられていました。これは「東日本の大型の建物や祭祀遺構」の多くに見られ、「祭祀場に用いられた度量衡」と見られます。「35センチ」は「肘から中指の先の長さに相当する」「中国西南部や東南アジアの家造りでも使われる」といい、江戸時代の材木の長さを測る道具も約4.2mです。

「三内丸山遺跡」には、「祭祀施設(神殿)」として直径1メートルの栗柱六本を用いた「六本柱建物」があり、「柱穴の間隔・幅・深さ」がそれぞれ「4.2メートル・2メートル・2メートル」で全て統一されています。「環状列石(ストーサークル)」では、「各遺構の大きさや配石のライン」などが「4.2メートル」を基準とした数値で構成されています。「チカモリ遺跡」「真脇遺跡」の環状木柱列は「35センチ」を基本に設計されています。

「桜町遺跡(さくらまち・富山県小矢部市)」では、「栗柱」「床」「杉の薄板を網代編みした壁」「屋根(垂木の上に細い材の屋根木舞を組み、オニグルミの樹皮で葺かれ、上にススキが逆葺き)」が出土しました。これを基に「棟高8メートルの高床建物」を復元、その大きさから倉庫でなく「神殿・祭殿」とされ、「縄文尺」が用いられています。また「環状木柱列」や、「日本最古の舗装道路跡」として、2つの川の湧水地を結んだ、全長約40メートル・幅約2.5メートルの遺構が出土、地面を50センチ掘って砂利を敷きつめ、両側に大きく平たい石を並べてありました。

「宮畑遺跡(みやはた・福島県福島市岡島)」は、縄文時代中期・後期・晩期(4500~2500年前)の集落遺跡で、多くの遺構が出土、3つの時代ごとに様相が異なります。中期の竪穴住居約40箇所は、その半数が長期間にわたり焼き壊されていて、その理由は不明です。後期の約2800年前ごろの集落は、中央に広場と考えられる東西45m・南北60mの空閑地があり、周囲に「掘立柱建物」を環状に配列、外側から幼児用の墓と考えられる「埋甕」が多数出土しています。建物群には、直径90センチの太柱を用いた「大型掘立柱建物」があり、巨大な柱穴跡が「4.2×3.6メートル」の長方形に区画されていて、当時最大級の建造物とされます。これは「祭祀・葬送儀礼などのムラの行事の際に使用されていた」と推定されています。大量の遺物が廃棄された捨て場から、大量の「土器」「石器」のほか「土偶」「石剣」「石刀」などの祭祀遺物が出土しています。「埋甕(うめがめ)」とは「土器内に亡くなった子供を入れて竪穴住居の床面などに埋める葬法」で、「子供の母胎に帰り再生を願う呪術」と推測されます。体の一部をおりまげる屈葬とのばした状態の伸展葬があり、頭部に石や土器をのせることもあった。これは死者の霊魂が外界に遊離しないことをいのった儀礼と思われます。

  往古よりの「御柱(おんばしら・みはしら)」と、上記の縄文時代(~古墳時代)の「大型掘立柱建物」は、起源・性質を共有するとも言われ、共に「かなりの高さを持った木造構造物」です。各地に残る「御柱信仰」は、この名残です。神社の本殿では「心御柱(しんのみはしら)」と呼ばれ、「社殿の中央にある柱のことであるが、建築構造上、意味をなさない柱」です。また「棟持柱(むなもちばしら)」も「構造上では強度にはあまり寄与しない」とされます。これらは「神社建築の起源に由来する、象徴的な意味合いの構造物」です。

中央高地の「長野県・山梨県の八ヶ岳~霧ヶ峰~諏訪湖」は、縄文時代前期~中期に非常に栄えた地域で、日本を代表する遺跡が多数あります。しかしこの繁栄は、縄文時代中期・4000年前に突然終了、その後も継続した集落は少数です。「尖石遺跡(とがりいし・長野県茅野市)」は、縄文中期の代表的な遺跡です。近隣の「棚畑遺跡(たなばた・長野県茅野市)」の約4500年前の「縄文のビーナス」は全長27cm・重量2.1kg、最古の国宝です。頭部は平らで文様があり、帽子とも髪型とも言われ、粘土の雲母により金色に輝いています。「中ッ原遺跡(なかつぱら・長野県茅野市)」は、後期前半まで営まれた集落の一つで、土器や翡翠・琥珀の装飾品などが出土しました。約4千年前の「仮面の女神」は、高さ34cm・重量2.7kgの大型立像で、仮面土偶としては国内最大級、墓構から出土しました。内部は空洞で、逆三角形の大きな仮面で覆われた顔を持ち、下腹部は妊娠を示すように膨らみ、股間に女性器、胴部に幾何学文様が描かれています。「天神遺跡(山梨県北杜市大泉町)」は、前期の大規模集落・墓坑群が主体で、日本最古級の5000~6000年前(前期末)の翡翠製大珠(5.5cm)が出土しました。この周辺には縄文前期の遺跡が多数あります。

八ヶ岳山麓の土器は、「呪術性を感じさせる装飾美」「種類の豊富さ」で知られています。3〜5cmのミニチュア土器から、70cm以上の大型土器ままで、器形は「壷・浅鉢・円筒型・器台」ほか多種多様です。把手(とって)が付いた「釣手土器(つりでどき)」は、中期の中央高地から関東地方の「勝坂文化(勝坂式土器)」で特に多く出土します。その一つとして、八ヶ岳周辺に多い「蛇体装飾把手付土器」「顔面把手付土器」などの形式があります。「蛇は勝坂文化に多い意匠」「蛇の装飾は八ヶ岳から広まった」「蛇装飾がある土器に八ヶ岳の石を材料に混ぜた」とも言われ、八ヶ岳周辺は一大文化発信地でした。また「和田峠(長野県長和町・下諏訪町)」の黒曜石は最高品質とされ、青森県まで運ばれています。

信濃国一宮「諏訪大社(長野県諏訪市)」は、「諏訪湖」を挟んで「上社」「下社」に分かれ、さらに「上社前宮」「上社本宮」「下社春宮」「下社秋宮」の四社に分かれ、「本殿」はありません。六年に一度の「御柱祭(式年造営御柱大祭)」では、それぞれの社に四本、四社で計十六本の大木を建てます。そして各社境内の四方には「一之御柱~四之御柱」が建っています。長野県の多くの神社では同様に「御柱祭」「四方の御柱」が見られ、特に諏訪地方では、小さな祠や境内摂社でも「四方の御柱」が見られます。「諏訪大社」は「五穀豊穣・狩猟・風・水・農耕の神」であり、「御柱祭」は平安時代以前から続く、これらの祈願祭だったとされます。

「大国主神の国譲り」に際して、御子神で諏訪大社御祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」は、鹿島神宮御祭神「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」に敗れ、降伏の地の諏訪から出ないと誓い、その時結界として神社の四隅を仕切った、と伝わります。これは「地鎮祭」の神話的表現とも考えられます。「土地の神・水神・・・を鎮める」という祭祀形態は縄文の往古から存在するとされ、「龍・蛟(みずち・みつち)など:水の神:水の豊かさ・水害を鎮める」「銅鐸:土地の神・農耕神:土地を鎮める」と言われます(左記は弥生時代以降の例)。そして「建御名方神」は、古来諏訪地方を統べる神であった「洩矢神(もりやしん・もれやしん)」に勝ち、諏訪に居住しました。
(「統べる(すべる)」:「全体をまとめて支配する。統轄する」)

「石棒(せきぼう)」は縄文時代を代表する祭祀具の一つで、中期の遺跡で全国的に見られます。「石棒」は普通50センチメートルから1メートル程度、「豊穣や集落の繁栄を願う祭祀の象徴」「男根の象徴」などとされ、これは「御柱」の性質の一つでもあると言います。諏訪地方の遺跡では、石棒が非常に多数出土します。長野県佐久穂町では日本最大の縄文時代中期後半の高さ2.3m・直径25cmの「北沢の大石棒」が発掘されています。「石棒」は縄文後期に彫刻が複雑化、更にやや意味合いが異なる「石剣(せっけん)」「石刀(せっとう)」へと変遷しました。

諏訪地方には古来よりの「ミシャグジ神」の信仰が色濃く存在、この神は「石神」で、「大蛇の神」「塞の神(さいのかみ=境界の神)」とも言われ、「先祖神」「生産神」「豊穣神」などと言われます。由来としては「当初は主に石や樹木を依代とする神であったとされる。地域によっては時代を経るにつれて狩猟の神、そして蛇の姿をしている神という性質を持つようになった」「その信仰形態や神性は多様で、地域によって差異があり、その土地の神や他の神の神性が習合されている場合がある」と言われます。「石棒」が御神体である事が多く、同様に縄文遺跡から出土する「石皿」「丸石」「石臼」も御神体の場合があります。ミシャグジの名称の表記・読みは「御社宮司」「石神(シャクジン)」「石神井(東京の地名)」「赤口」「社口」「シュグジ」「ミサグチ」・・・など多様で、神社や地名は「長野県・新潟県・静岡県・山梨県」を中心に全国的に分布します。

「ミシャグジ神社(御社宮司神社など)」は、縄文遺跡・弥生遺跡の近隣に鎮座している事が多いです。祠の無い神社も多く、巨木を御神体「ミシャグジの木」としたりしています。諏訪大社神長官「守屋氏(もりや・洩矢神の後裔)」は「御柱はミシャグジの依り代」と伝えています。諏訪大社に祭具として「神代鉾(じんだいほこ・鉄鉾)」「八栄鈴(やさかのすず)」「佐奈技鈴(さなぎのすず)」が伝わります。「佐奈技鈴」とは「鉄鐸(てったく)」で、「ミシャグジ神」を降ろす時に鳴らされます。そして「洩矢神」は「縄文中期以来の自然神であるミシャグチ神を束ねていた神」とも言われます。「ミシャグジ神社」の御祭神は、夫婦神の「猿田彦命(さるたひこのみこと)」「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」や、食物神「保食神(うけもちのかみ)」が多いです。
(「鐸」は「さなぎ」「ぬりて」「ぬで」と訓じられ、「鐘(かね)」の一種、「銅鐸」「鉄鐸」などがある。「イザナギ」「イザナミ」の二神は「サナギの神」と言われる)

また諏訪には「蛇神」である「ソソウ神」の信仰があったとも言われます。「ミシャグジ神」や「ソソウ神」の「蛇神」としての神格は、縄文時代の「蛇体装飾把手付土器」に遡る可能性も考えられます。

「御柱祭・御柱信仰・巨木信仰」「ミシャグジ信仰」「石棒信仰」「蛇信仰」は、「記紀神話」以前からの信仰に由来します。諏訪地方の信仰形態の淵源は縄文時代に遡り、そこから重層的に信仰が折り重なっていて、日本の古層の一つです。

  「伊勢神宮」には「正殿(本殿)」の床下に「心御柱(しんのみはしら)」があって、これは「神の依代(よりしろ)」です(依代について後述)。「伊勢神宮 内宮(ないくう・三重県伊勢市)」の「心御柱」は「天照大神(あまてらすおおかみ)の依代」、「伊勢神宮 外宮(げくう・三重県伊勢市)」の「心御柱」は「豊受大神(とようけのおおかみ)の依代」です。「心御柱」は「直径一尺(約30cm)の檜の堀立柱」であり、長さは内宮が五尺五寸ほど、外宮が五尺ほどで、地中に二尺ほど埋められます。心御柱は特に神聖視され、清浄神秘が重んじられます。式年遷宮では夜間に厳かな秘儀が行われ、二十年後の次の遷宮まで、仮の社が建てられ同じ場所で安置され続けます。また「境内摂末社の古殿地」には、旧殿の「心御柱」を祀った小祠が幾つもあります。「心御柱」は「忌柱いむはしら)」「天御柱(あまのみはしら)」「天御量柱(あまのみはかりのはしら)」とも呼ばれます。
(「伊勢神宮」は、「内宮」の正式名称は「皇大神宮(こうたいじんぐう)」、「外宮」の正式名称は「豊受大神宮(とようけだいじんぐう・とゆうけ‐)」)
(「伊勢神宮」での御祭神の正式名称は「天照坐皇大御神((あまてらしますすめおおみかみ)」「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」)
(「天照大神:太陽神・高天原の最高神」「豊受大神:食物神(ウケ=食物)」で、二神とも女神である)

「高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)」は、別名「高木神(たかぎのかみ)」、「高木を神格化した神」「産霊(むすひ)の神・生命力を高める神」「創造・発展・完成せしめる神」です。日本神話の神々の中で始原的な「造化三神(ぞうかのさんじん)」の一柱であり、神道における非常に重要な神です。「高皇産霊尊」は「御柱の神」とも解せられ、「木は気その物」とも言われます。後述の「チャクラと岩戸開き」「産霊(むすひ)」の項と、「正中線(せいちゅうせん):人体の中央部を頭頂から真下に貫く線」に纏わり、「巨木信仰」「御柱」「高皇産霊神」とは「人体の正中線を現す物」だと捉える事ができます。また神社の参道の中央部は「正中(せいちゅう)」と言い、ここは「神様が通る道」だと言われます。

「伊弉諾神(いざなぎのかみ)」「伊弉冉神(いざなみのかみ)」による「国生み」に際して、先ず「天の浮き橋(あまのうきはし)」から「天の沼矛(あまのぬぼこ)」を使い、海を掻き回して持ち上げると「オノゴロ島」ができて、そこに、太い柱の「天之御柱(あめのみはしら)」を中心に、広大な御殿「八尋殿(やひろどの)」を建てました。「天之御柱」は「大地の気と天の気が繋がった場所」などと理解されています。

そして「ライトボディ(体幹の光の柱)」「チャクラ・正中線」「高木・巨木」「御柱・心御柱」「天之御柱」「高皇産霊神」「光の柱(世界各地で稀に見られる)」などは、全てが「波動(量子)が垂直に立ち上がっているもの」であり、「量子エネルギーが天地の間を渦巻きながら上下している」という同じ性質を有しています。「神話・伝承・古書」「古来の科学・医学・哲学(アーユルベーダなど)」「精神世界」に共通するこれら事象は、波動が起こす基本的現象をあらわしています(後述)。

  古来、木の生育環境に適した日本には「木の文化」があって、豊かな木材資源により「木造建築・木工」が発達しました。「伊勢神宮」を代表とする神社建築様式「神明造」は「高床式建物」ですが、これは「弥生時代に稲作の普及とともに穀物を蓄えるための倉として用いられた」ことから発展したとされます。各地の「稲荷神社」で祀られる「倉稲魂命・宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと)」は「穀物の神・稲の神」であり、伊勢神宮では「御倉神(みくらのかみ)」と呼ばれています。

高床式建物や、これを祭祀場とする形式は縄文時代から存在していて、「三内丸山遺跡(青森県青森市)」の縄文時代中期(5000年~4000年)の「高床式建物」は、祭殿に用いられたと見られています。弥生時代の全国の中心地とも言われる「唐古・鍵遺跡(からこかぎ・奈良県田原本町)」には、「高床式建物(多層式の楼閣)」があったことが判明していて、これは王権祭儀の神殿「高殿」とされます。近隣の「纒向遺跡(まきむく・奈良県桜井市)」は「邪馬台国の最有力候補地」「古墳時代に最初に都が置かれた地」であり、「卑弥呼の居館」とも言われる大型建物跡があります。弥生時代~古墳時代の複数の「銅鐸」「銅鏡」「土器」には、「装飾」が表現された「多層式の楼閣」や、更に「鳥・鹿」「船」など、当時の祭祀形態に伴った事物が描かれています。

弥生時代・古墳時代の「神殿・祭殿・王の宮殿」は、各地に存在しますが、概ねが「木造の高床式建物」です。「石材」は「古墳・弥生墳丘墓」や、宮殿を含む「大規模建造物の地下構造」などに利用され、畿内の大古墳に九州の石材を用いるなど、遠方から運ばれました。

古来「神社・神殿・祭殿・王宮」などは「木造建築物」であり、これは日本の特徴となっていて、これは「縄文時代以来の自然崇拝・八百万の神の信仰」に由来するとされます。神社建築物は「縄文時代以来の高床式建物など大型木造建物の神殿」「弥生時代に稲作と共に普及した高床式倉庫(文化)の神殿」「仏教と共に大陸から渡来した寺院建築」という、三つの木造建築様式が基になっています。また「縄文時代~古墳時代前期にかけて、一部で高床式建物を神殿として用いて、後に寺院建築の普及と共に、神社に建築物を築くのが一般化した」と言えます。

  「巨木信仰・高木信仰」「御柱信仰」として、神域に「木の御柱」が建てられて、それは神が降臨する「依代(よりしろ)」の「神籬(ひもろぎ)」であり、そこで祭祀が行われました。これが後に、神社本殿の「心御柱」に変遷しました。

神社では古樹・高木が「御神木」とされていて、「神体・神域」である事を示す「注連縄(しめなわ)」が張られたり、「紙垂(しで)」が巻かれていたり垂れ下がったりしています。高波動の環境にある境内・参道の木には、螺旋状に湧出する波動の性質により、グニャっと変形したり、絡み合った木が、多く見掛けられます。「木」は「気その物」とも言われ、神道では「木々に囲まれた清浄な神域」という環境の維持・保護が重視されてきました。縄文時代は、山紫水明の国土に大森林が広がり、高木・巨木が林立していたでしょうし、現在でも「縄文杉」を始め、日本には古木が多く存在します。

「鎮守の森(社叢林)」は、神社・神道にとって非常に重要で、これにより神聖な波動が保たれていて、内部が神域である事を示し、外界と隔てる「垣(瑞垣)」の役割も持っています。古代日本の辺縁部の「東北地方北部」「南九州・南西諸島」を中心に、「山」の山名が「○○森」である例が多数あります。地方独自の聖域の名称が「○○森」「○○山」となっている例が複数あります。沖縄の祭祀場「御嶽(うたき)」の別名に「腰当森(くさてむい)」「拝み山」があり、これらは元は神社と同じ、古神道に由来する祭祀場です。万葉集の内容から「杜も神社も同義」「"もり"も"やしろ"も神社を意味する」と判明しています。「もり」の原義は「(霊魂の)守(もり)」に通じるとも言います。このように「森・杜」というのは、古来「神が鎮まる場所」だとされてきました。

神様は「一柱・二柱」と数えますが、これは「巨木信仰・御柱信仰」に由来するといいます。「御柱」や「立石」などは「神の依代」とされますが、「天と地を繋ぐ柱」でもあったとも考えられます。これら全ては、「巨木信仰・高木信仰」「巨木・高木・御柱を建てて祀った」という、往古の自然崇拝の世界観に由来する物です。

  古代において、神々は、人間の住む所や「現世・顕世(うつしよ)」から、遠く離れた世界に住んでいると考えられていました。そして「高い山の頂」「大きい森の中」などは、神々の居住地であったり、そことの境界であったり、そこに近いと思われていました。そういった概念が「常世・常夜(とこよ)」「幽世・隠世(かくりよ)」「天(てん・あま)・高天原(たかあまはら)」などであり、またそこは「祖霊」が帰っていく場所でもありました(高天原は除く)、そういった、神が隠れ住まう「神奈備(かんなび)」を仰いで、そこで神々を祀り、「巨石」「高木」などを神々が依り付く「依り代(よりしろ)」と考えて、「神籬(ひもろぎ)」「磐座(いわくら)」として祀ったのが、古代祭祀の姿です。

古代祭祀においては、「祭祀場」の多くは、又は「祭祀場の原型」は「自然の場」であり、元々は「自然そのもの」を祀っていました。日本語の「カミ(神)」は、元は「クマ(限)・クム(隠れる)を語源とする水源の山谷に隠れた霊性を指した」と言わます。これらの場は「元々波動が高く、波動上昇の効果も高い(効果的に人為的な波動上昇ができる)」という特性があり、更に「祭祀場の設定」「祭祀行為(祈祷や祭祀具による意識エネルギー・形態エネルギーの効果)」で波動を上昇させます。

自然崇拝での「祭祀対象・祭祀場」は、木の信仰として「巨木・高木」「森」、霊峰を信仰する「山(嶽・岳・丘)」「火山(火の信仰)」、巨石信仰の「磐座(いわくら)」、水の信仰として「海」「河川・湖沼」「滝」「泉」、神奈備としての「島」、「気象現象」の「風雨」「雷」、超越的存在の「天(宇宙)・太陽・月・星」」、「鳥」「鹿」「蛇」「「狼」ほか「動物(後に神使として)」、など多岐に亘ります。そして「祖先・祖神」への信仰も原初から存在しました。これらは「神奈備:自然崇拝」「神の降臨地:神話・伝承」「陵墓・廟(びょう):祖霊崇拝」「トーテム(集団が奉じる動物・魚介類・植物)」に大別されます。

祭祀場の一般的な名称に「斎場・斎庭(ゆにわ・ゆには)」「斎場・沙庭(さにわ・さには)」「神庭(かんば・こうには)」などがあります。元は「清庭(さやには)」で、「斎(い)み清められた場・清浄な場」を意味します。「庭(にわ・には)」の原義の一つに「神事・行事などの行われる場所」「山の奥深く、人里離れたところにあり、神々が来臨する場」「家から離れたところにあった広い土地」があり、後の「祭祀場」「日本庭園(一部の)」の設定・構築に際しては、「神奈備の風景・様相を、切り取った・移植した場所」「神奈備の風景・様相と一体的である場所」という思想が見られます。

「神奈備である霊山の、山上にある磐座の前に、神籬としての御柱を建てた」、往古の祭祀形態はこういった「山岳信仰・巨岩信仰・巨木信仰が融合した自然崇拝」という姿でした。「高床式建物」の「神殿」も、縄文時代から存在しました。また「環状列石」「弥生墳丘墓」「古墳」もあります。「神社」の起源は、この辺りに求められます。

そしてそれらの「祭祀場」において、人間が住む「宮(みや)」「御殿(みあらか)」に擬して、「高床式建物」が「祭壇」「神殿」として設けられ、これが建築技術が発達するにつれて「神社建築物」へと変遷、「神社・神宮」となり「鳥居」が建てられるようになりました。そこには「自然の一部として存在する」「自然を出来るだけ豊かに保つ」という思想があります。こういった変遷から「日本における祭祀・祭祀場の原点」とは「自然の奉祀・自然の場の信仰(自然神)」「祖霊信仰」に集約されます。

古い祭祀形態を伝える古社には、「社殿(本殿・拝殿」の何れか、又は両方とも無い神社があり、そういった神社では「巨岩・磐座」「神体山」などの「自然の場」に対して祈祷をします。古代の日本の様相が色濃く残る「沖縄・南西諸島」では、「琉球神道」の祭祀場として「御嶽(うたき)」などがあり、神社の起源の姿を留めています。「北海道」でも、「カムイコタン」などの祭祀場は自然の場にあります。神奈備「三輪山(みわやま)」は、古の祭祀場である「磐座」が多数あり、付近から古代の祭祀具が多数出土しています。別名「三諸山(みもろやま)」「三室山(みむろやま)」は「古代の山・森・杜などの名称」に由来するとも言います。大和国一宮「大神神社(おおみわ・奈良県桜井市)」は本殿を持たず、拝殿から神体山の三輪山を遥拝、邪馬台国首都の最有力候補「纒向遺跡」近隣に鎮座します("アイヌと沖縄について"の項)。

「神楽(かぐら)」の語源は「神座(かむくら・かみくら)」から転じたとされます。神座は「祭祀場」であり、具体的には「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味、「神座に神々を降ろし、巫・巫女が人々の穢れを祓ったり、神懸かりして人々と交流するなど神人一体の宴の場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになった」とされます。記紀の「天照大神の岩戸隠れの段」で「天宇受賣命(天鈿女命・あめのうずめのみこと)」が神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされ、後裔の「猿女君(さるめ)」が宮中で「鎮魂の儀」に関わるため、本来神楽は「招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊び」だったとも考えられています。また「殯(もがり)」での巫女の舞も起源とされます。沖縄の「御嶽」には、奉納芸能を行う広場「神あしゃぎ」があります。「祭祀場とは芸術・芸能の起源の纏わる場」でもあり、そこでは自然神や祖霊などへの奉納が行われていました。

神籬(ひもろぎ)
・神道において、神社や神棚以外の場所において祭を行う場合、
 臨時に「神を迎えるための依り代(よりしろ)」となるもの。
 (「依り代・依代・憑り代・憑代(よりしろ)」:「神霊が依り憑く(よりつく)対象物のことで、神体などを指すほか、神域を指すこともある」)
 (「依り代」を指す言葉:「御霊代(みたましろ)」「巫(かんなぎ・巫女など)」「神代・上代(かみしろ)」「神籬」「神奈備」など)
・形式は、「八脚台」という木の台の上に枠を組み、
 その中央に「榊の枝」を立て、「紙垂(しで)」と「木綿(ゆう)」を取り付けたものである。
・神籬には、「常緑樹(常磐木・ときわぎ)」)が用いられてきており、
 「榊(さかき)」のほか、「松」なども使用されている。
・古来、日本人は自然の山や岩、木、海などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきた。
 そのため、古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祭るのではなく、
 祭の時はその時々に神を招いてとり行った。
・その際「神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして、注連縄で囲うことで神聖を保った」。
 古くはその場所が神籬と呼ばれた。
・次第に神社が建てられるようになり、祭りも社殿で行われるようになったが、
 古い形の神社は「建物の中に玉垣を設けて常盤木を立てて神の宿る所とし、祭るもの」であった。
・後にはこの常盤木を神籬と呼ぶようになった。
・現在は、神籬は「地鎮祭」などで用いられる。
・「ひもろぎ」は、古代には「ひもろき」と呼んだ。
 語源は、「ひ」は神霊、「もろ」は天下るの意の「あもる」の転、
 「き」は木の意とされ、「神霊が天下る木、神の依り代となる木」の意味となる。
・漢字の「神籬」は宛て字であり、「籬」は「竹や柴で作られた垣根」を意味する。
・「垣」も「垣根」を意味するが、こちらはもともと
 「土塀(土で作られた垣根)」を意味していたのが、広く垣根全般を指すようになったものである。
・「神籬」の本来の読み方は「かみがき」「みづがき」であった。
・日本神話の「天孫降臨」において、「高皇産霊神」は
 「天児屋根命(あめのこやねのみこと・中臣氏祖神)」「太玉命(ふとだまのみこと・忌部氏祖神)」に、
 「天津神籬と天津磐境を起こし樹(た)てて、常にわが天孫のために斎(いわ)い祭りなさい」と命じた。
・「岩戸開き」においては、「天照大神(あまてらすおおかみ)」が篭る「天岩戸(あまのいわと)」に、
 根ごと引き抜かれてきた「真賢木(まさかき)」が神籬として据えられ、各種の神具が据え付けられた。

榊(さかき)
・神棚や祭壇に供えるなど、神道の神事にも用いられる植物。
・ツバキ科サカキ属の常緑小高木。
 低木を見ることが多いが、高さ12m、胸高直径は30cmになるものがある。
・若枝は緑だが、幹の樹皮は灰淡褐色になる。枝先の芽は裸で、若葉が巻いて鎌状になる。
・葉は二列生の互生で、厚みのある革質、のっぺりとした表面で、鋸歯は全くなく、きれいな楕円形である。・裏面はやや色薄く、両面ともに無毛。
・6月ごろ側枝の基部の側の葉腋から白い小さな花を咲かせる。
 花は1-4個が束状に出て、いずれも葉の下に出て、下向きに咲く。
 11月ごろには黒くて小さな液果を付ける。
・本州では茨城県、石川県以西、四国、九州に分布する。
 国外では済州島、台湾、中国から知られる。
 ヒマラヤと中国南部には、別亜種が知られる。
 var. wallichiana - ヒマラヤ産。花が大きい。
 var. parvifolia - 中国南部。葉が小さい。
・日本では古くから神事に用いられる植物であり、「榊」という国字もそこから生まれた。
 古来から、植物には神が宿り、特に先端がとがった枝先は神が降りる「依り代」として
 「若松」や「オガタマノキ(招霊木)」など様々な常緑植物が用いられたが、
 近年は、もっとも身近な植物で枝先が尖っていて、
 神の依り代にふさわしい「サカキ」や「ヒサカキ」が定着している。
・家庭の神棚にも捧げられ、「月に2度、1日と15日(江戸時代までは旧暦一日・十五日)」に
 取り替える習わしになっている。
・神棚では榊立を用いる。
・田舎などでは庭先に植えている家庭が多い。
・また、常緑樹でもあることから庭木としても使われていることがある。
・サカキの語源は、神と人との境であることから「境木(さかき)」の意であるとされる。
・常緑樹であり、さかえる(繁)ことから「繁木(さかき)」とする説もあるが、
 多くの学者は後世の附会であるとして否定している[要出典]。
・混同されやすいので、「榊」は「本榊(ホンサカキ)」とも呼ばれ、
 「ヒサカキ」については「シャシャキ」「シャカキ」「下草」「ビシャコ」
 「仏さん柴(しば)」「栄柴(サカシバ)」などと地方名で呼ばれることもある。
・サカキは関東以南の比較的温暖な地域で生育するため、
 関東以北では類似種(別属)の「ヒサカキ(Eurya japonica)」 をサカキとして代用している。
・「オガタマノキ(招霊木)」は、モクレン科オガタマノキ属の常緑高木。
 日本列島の本州の関東中南部以西と四国の海岸部、九州の低地、南西諸島に分布し、原名変種は日本固有。
 八重山には「タイワンオガタマ(var. formosana Kanehira)」があり、
 この種は台湾、フィリピンにも分布、ただし別種とする判断もある。
 日本では中国原産の「カラタネオガタマ(別名:トウオガタマ)」が栽培されることが多く、
 オガタマノキよりも出合う機会が増えている。
 榊の自生しない地域を中心に神前に供える玉串として
 古くから代用されたり、神木とされて神社の神域などに植栽されている例がみられる。

磐座・磐倉・岩倉(いわくら)
・古神道における、岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。
・神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代「神籬」と「神威」をもって祭りの中心とした。
・時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、
 元々は古神道からの信仰の場所に「社(やしろ)」を建立している場合がほとんどなので、
 境内に依り代として「注連縄が飾られた神木や霊石」が、そのまま存在する場合が多い。
  • 岩にまつわるものとして他にも、「磐座を中心とした祭祀場」である
 「磐境(いわさか)」があるとされるが、こちらは「磐座」に対してその実例がないに等しい。
 そのため同一のものと目されることもある。
 日本書紀では磐座と区別してあるので、磐座とは異なるなにか、
 「さか」とは「神域との境」「境界(坂・峠・岐・・・)」であり、
 「神籬」の「籬」も「垣という意味で境」であり、禁足地の根拠は「神域」や「常世と現世」との端境を示している。
 「磐境の境はを意味し、このときの坂も神域との境界の意味を持つ。
  • 現在ではご神木などの樹木や森林または、儀式の依り代として用いられる「榊などの広葉常緑樹」を「神籬」と言い、
 「山や石・岩」などを依り代として信仰することを「磐座」という傾向にある。

神奈備(かんなび・かむなび・かみなび)
・表記は「神名備・神南備・神名火・甘南備」、読みは「かんなび・かむなび・かみなび」。
・神道において、「神霊(神や御霊)」が宿る
 「御霊代(みたましろ)」「依り代(よりしろ)」を擁した領域のこと。
・または、「神代(かみしろ)」として「自然環境を神体(しんたい)とする」こと。
・神が「鎮座する」または「隠れ住まう」「山や森の神域」や、
 「神籬(ひもろぎ)」「磐座(いわくら)」となる「森林」「神木(しんぼく)」「鎮守の森」
 「神体山」を、また「特徴的な岩(夫婦岩)」「滝(那智滝)」がある神域などをさす。
・神籬と磐座の総称でもある。
・依り代となる森林や岩などがない「神奈備野」もある。
・「男体山」「女体山」の名も古い類語と考えられる。
・現在の神社神道の神体は「社(やしろ)」であり、神奈備とはいわない。
 神社神道も、本来は日本で自然発生的に生まれた原始宗教といわれ、
 自然崇拝や精霊崇拝を内包する古神道から派生して現在に至る。
・現在の神社には、主たる祭神の「尊(みこと)」とは別に、
 「自然」という神体が存在するのが常で、神体として注連縄が飾られた社とともに、
 境内の内外に「神木」「霊石」「鎮守の森」「湖沼」「滝」などの神体が存在する。
・古い神社では、拝殿や本殿もなく、自然の神奈備そのものを祭神として祀るところもある。
・神奈備は「アニミズム」でもあり、「自然への感謝や畏敬や畏怖の体現」であるが、
 「神の住まう神域」や、「常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境」、
 または、その「常世と現世をわかつ結界」や、「禁足地」なども意味する。
・自然を手付かずに残す事例として、自然環境の保護の観点からも重視され、
 里山やその周囲の文化として貴重であり、固有の土壌細菌の発見が新薬の開発の
 きっかけとなることがあるほか、世界中の自然環境学の研究者などが、研究に訪れる場所でもある。
・「カンナビ」は「神並び」の「カンナラビ」が「カンナビ」となったとする説や、
 「ナビ」は「隠れる」を意味し「神が隠れ籠れる」場所とする説がある。
・「神が鎮座する」を、古語では「神留まる(かんづまる)」「神留坐す(かむづまります)」などと言う。

地鎮祭(じちんさい・とこしずめのまつり)
・土木工事や建築などで工事を始める前に行う、その土地の神(氏神)を鎮め、土地を利用させてもらうことの許しを得る。
・神式と仏式がある。
・一般には神を祀って工事の無事を祈る儀式と認識されている。
・「安全祈願祭」「鎮地祭」「土祭り」「地祭り」「地祝い」とも言う。
・一般的な形式:「土地の四隅に青竹を立てる」「その間を注連縄で囲って祭場となす」「斎主たる神職のもと、建築業者・施主の参列の上で執り行う」
「祭場の中には八脚台(木の台)を並べる」「その中央に神籬を立てて祭壇となす」「酒・水・米・塩・野菜・魚等の供え物を供える」
・関西などの特定の地方によっては、「伊勢神宮」近隣の浜から砂または塩を取り寄せ、四隅に置く場合もある。
・祭壇の左右に「緑・黄・赤・白・青の五色絹の幟」に榊をつけた「真榊」を立てる場合もある。
 この「五色絹」は「五行説」における天地万物を組成している五つの要素、つまり「木・火・土・金・水」を表している。
・日本以外では韓国や台湾でも地鎮祭に似たお祓いをすることがある。

  縄文時代、「八百万の神」などの観念とは別に、どのような「神名を持つ神」を祀っていたかは不明です。ただ「ミシャグジ神」「アラハバキ神」「クナト神」「瀬織津姫神」を「縄文神」とする説があります。「蛇神」の信仰があり、「大神神社」の御祭神「大物主大神(おおものぬしおおかみ・大国主命の別名)」は「蛇神」「水神・雷神」とされます。「縄文神」という言葉は、「弥生時代以降、縄文人の血統が色濃い集団・地域で奉祀された神」というニュアンスも持っています。

「アラハバキ神」は「荒覇吐神」「荒吐」「荒脛巾」「アラバキ・アラブキ」など、様々に表記され、古層の伝統文化の多く残る地、特に「東北地方」で信仰が残っています。記紀・風土記などには全く登場しない謎の神で、民間信仰で祀られてきて、「足腰の神」「蛇神」「塞の神(さえ・境界を守る神)」などの説があります。多くで「客人神(まろうどがみ)」とされ、これは本来「主祭神」だったのが、後に来た集団が違う主祭神を祀り、「客人(まれびと)の神」とされた物です。各地の「荒神社」のうち、一部に関係を推察する説もあります。古史古伝「東日流外三郡誌」に「遮光器土偶」の絵で示され、ここから様々な想像を呼んでいます。

「クナト神」は謎の神で、詳細は不明ですが 、「出雲」で祀られていたとも言います。「岐神(ふなどのかみ)」や、日本書紀に見える「来名戸之祖神(くなとのさえのかみ)」と同神とも言われ、「来名戸:来るな」「さえのかみ:塞の神」という意なので、これによると「境界を守る神」です。

「瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)」は「穢れを祓う神(低波動を浄化する神)」、代表的な「祓神(はらえのかみ)」です。「祓戸四柱」の一柱であり、「祓戸(はらえど)」は「祓を行う場所」「穢れを祓う場」、四柱の神は「祓戸大神」と呼ばれます。「水は浄化能力が高い」ので、祓神は水辺に多く祀られています。代表的な祝詞の一つ「大祓詞(おおはらえのことば)」では、最初に登場する神です。多くの神話・伝承が残る「遠野地方(岩手県)」には、瀬織津姫神の信仰が色濃く見られます。

  日本の「感覚や祭祀の基層」は、「古神道」の「自然崇拝」「精霊崇拝(アニミズム)」という形態で、「八百万の神」などに見られる「自然と生活・文化・世界観が一体的に存在するという観念・様相」があり、古くは「縄文時代の文化・思想」に由来しています。「古神道」とは定義は無いですが、「仏教・儒教・道教の渡来以前の神道」で、「縄文時代・弥生時代・古墳時代の信仰」「渡来後の時代でも、その影響をあまり受けてなかった頃・地域・神社での信仰形態」というニュアンスがあります。また「縄文時代の信仰」は「縄文神道」とも呼ばれ、古神道・縄文神道は「日本の祭祀・信仰の淵源」です。「古くからの文化・信仰を残す地域・神社」には、このような往古の日本の姿が色濃く残っています。

そして「自然の場は、元々は波動に満ち溢れている」のであって、自然崇拝は「自然の大いなる波動を奉祀する」という形態があり、今後の時代には「自然・環境の波動の潜在的能力を最大化していく」「自然・環境を清浄にする」「様々な波動的手法を駆使する」のが必要で、また「心を清浄に保つ」のも求められます。

  縄文時代は「共存しながら平和に暮らしていた世の中」でした。戦争が行われた形成はなく、人間の攻撃に用いるような道具もありません。また「母系社会」であって、土偶は「縄文時代の代表的な造形物(美術品)・祭祀具」「大地の豊穣と多産を願った物」であり、この時代の「母系社会の世界観を現した物」とされます。「呪術者」とみられる墓の副葬品から、後期・晩期に社会の階層化が現れたとする説がありますが、いずれにしても、さほどの大きな格差は無かったとされます。

往古の日本は「平和的」「母性的」であり、「大自然や宇宙などの大いなる存在」と共にあり、「八百万の神」の概念のように、緩やかな社会と時間と世界観がありました。縄文文化を多く受け継いでいる「北海道のアイヌ文化」「琉球地方」「奄美諸島」には、今でもこの傾向が割合残っていて、「自然」「神」が身近にあります。

縄文文化をを受け継ぎ、「弥生時代・古墳時代の祭祀は、巫女が中心的立場」であり、「神託を基にした祭政一致体制」を行い、又は「"女性:祭祀者""男性:政治権力者"という二重体制」も多数存在していました。「邪馬台国」の「卑弥呼」「台与」も女性の巫女・シャーマンで、日本神話には多数の「女性神」「シャーマン的な女性」が登場します。「日本の祭祀・信仰・文化」というものは、元々このようにして存在していました。

「日月神示」には「世界中揺すりて眼覚ますぞ。三千年の昔に戻すぞ。煎り豆花咲くぞ。上下ひっくり返るぞ。」とあります。先述のように、亀ヶ岡文化もこの3000年前以降の時代の文化です。しかし「三千歳・三千年(みちとせ)」と読む場合は「三千年(さんぜんねん)」「きわめて長い年月」の二通りの意があります。神示は、どちらを指しているのかは分かりません。

縄文時代以後、何度かの歴史的区切りごとに「縛りが多くなる風潮」が浸透、徐々に「縛りが多い社会」となっていきました。近年の日本は「規則決まり事が多く、周りに合わせないといけない社会」ですが、元々からこういう訳でなく、逆に元々の日本は「緩くて、ゆっくりして、平和で、母系的な社会」でした。

  近年は「縄文時代の観念・認識論が重要」「縄文回帰」や「自然回帰」という論が、徐々に増えています。「江戸時代」の一般社会は、明治時代以降より「のんびりした印象」が持たれていて、最近の関心の高まりも、通底しているものがあると思われます(身分制度などもありましたが)。

これは「人間の社会というのは、自然が身近にあって、共存的で、ゆったりしているのが良い」という、潜在感覚に根ざした本能的渇望によるのでしょう。「あまりに自然を破壊して、環境を汚染して、非共存的で、持続可能性がなく、ギスギスしたり、あくせくし過ぎている」というのでは、それは「知的生命体の社会」と言い難いものがあります。「縄文文化の自然との一体性や共存型社会」「古神道の自然崇拝」「縄文回帰」「自然回帰」などは、今後「自然環境と人間の波動の量子的飛躍」を迎える時代にあって、必要とされる感覚と軌を一にするものです。

しかし歴史的に日本社会も、海外の多くの地域と同様に、自然破壊に見舞われました。産業革命以前の自然破壊は、概ね「森林伐採の横行よる環境の荒廃・荒地化・禿山化」に集約され、「木材供給の逼迫」「河川氾濫・台風被害・山林火災などの増加・激甚化」が起こりました。「最初に里山のオーバーユースによる森林破壊が顕在化したのは畿内であり、日本書紀によると、天武天皇六年(676)には南淵山・細川山などで木を伐採することを禁じる勅令が出されている」「800年代までには畿内の森林の相当部分が、また1000年頃までには四国の森林も失われ、1550年代までにこの二つの地域の森林を中心にして日本列島全体の25%の森林が失われたと考えられている」「織豊政権期、江戸時代に入っても日本列島の森林破壊は留まる所を知らず、1710年までには本州、四国、九州、北海道南部の森林のうち当時の技術で伐採出来るものの大半は失われた」「こうした激烈な森林破壊の背景には日本列島の人口の急激な膨張による建材需要や、大規模な寺社・城郭の造営が相次いだことがあったと考えられている」とされます。また一説に「平城京(奈良)から平安京(京都)への遷都」は「奈良盆地の森林資源枯渇と災害多発」「京都盆地の広大さと交通の便」が理由だとも言います。

この森林の荒廃に対して、近世から植林が奨励されていきました。日本最古の人工造林の記録は、室町時代の「秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ・静岡県浜松市天竜区」での杉・檜(ひのき)の植林で、この神社は「火防(ひよけ)・火伏せの神」「修験道の神」として広く信仰された「秋葉大権現(あきばだいごんげん)」を祀り、神社本庁傘下の八百社、小祠は無数にある、全国の「秋葉神社」の総本山です。また「奈良県吉野川上郡」でも、杉の植林が開始されました。徳川幕府は寛文八年(1666)以降、森林保護政策に乗りだし、森林資源の回復促進と厳格な伐採規制・流通規制をしきました。これにより森林の回復が始まりましたが、近代でも「明治維新後の乱伐」「「太平洋戦争時の乱伐」「近年の里山などの開発」という危機がありました。ただ国産木材資源の利用が減少、これにより近年は、古代以降で最も森林が回復しつつあるとも言います。

「里山」とは「集落・人里に隣接した結果、人間の影響を受けた生態系が存在する山」を指します。その生態系は「集落や農地」「森林や草原」「自然と人工の小川・池」などと共生、森林は「雑木林」が多く、「多種多様な動植物が暮らす共有域」です。「里山」という単語の初出は、宝暦九年(1759)に尾張藩が作成した「木曽御材木方」です。奈良県の「吉野山地」では、山を村落から近く標高が低い順に「サトヤマ」「ウチヤマ(内山)」「オクヤマ(奥山)」「ダケ(嶽・岳)」と区分、「サトヤマ」は「集落の周囲の斜面にある畑や雑木林」に該当します。里山の利用は、古くは縄文時代の栗の木や漆の木の栽培に見られ、「三内丸山遺跡」では集落近隣の森に植えていました。里山は歴史的に「木材供給」「薪炭林」「防風林」「踏鞴製鉄・陶磁器・製塩などの燃料」「草山(肥料用)」「食材資源の確保」など、多種多様に利用されてきました。しかし江戸時代には多くが「アカマツ林(痩せた土地でも生える)」「竹林」「草山」「禿げ山」と化し、回復に多大な努力が払われてきました。

西日本から東日本太平洋岸の多くは「暖帯域」「降雨量が多い(湿潤)」、「日本海側」も「降雨量が多い(湿潤)」という環境があり、また山がちな地形も相まって、日本の自然環境は森林の成長には適してい手、森林面積は広大です。中部地方以西から東北地方沿岸域本の沿岸域は「照葉樹林」、中部地方の山岳地域から北海道南部は「落葉広葉樹林」、より北部・高地では「針葉樹林」が、土地の気候や土壌などの環境に合致した「潜在自然植生」とされます。

日本に残る「原始林(有史以来、人の撹乱を殆どない)」「原生林(極相の後のある程度の期間、人の撹乱がない)」は希少で、原始林の「知床半島(北海道)」「白神山地(青森県・秋田県)」と原生林の「屋久島の縄文杉などの森(鹿児島県)」が有名です。「極相(きょくそう)」は「生物群集の遷移の最終段階で見られる平衡状態」、「極相林」は「樹種の構成がさほど変化しない状態の林(極相に達した林)」、「極相種」は「主に極相林で生育する樹木種」を指します。一般的に落葉樹林では「草地」→「松など」→「ミズナラ・ブナが優占」と変遷、乾燥・低温などの環境では「草地」、水辺では「湿原」が極相になったりします。

この中で、神社・寺院の「鎮守の森(社叢林)」「社寺林」は聖域として守られてきたり、利用価値が高い木が植えられたりしたものの、収奪的利用は避けられてきました。日本の広域の原初の姿たる「照葉樹林」は、伐採など人為的撹乱をすると「落葉広葉樹林」に遷移、一部「鎮守の森」「社寺林」に残るのみです。極相林は、都市地域にはほぼ無く、郊外では一部の「鎮守の森」に残り、天然記念物となっています。「春日大社(奈良県奈良市)」は「藤原氏」の氏神として崇敬された神社で、神体山「春日山」の連峰には、笠を伏せたような山容の「御蓋山(三笠山・みかさやま)」などがあり、万葉集・百人一首などに詠まれています。樹木伐採が承和八年(841)から禁じられている「春日山原始林(実際は原生林)」は、暖帯南部の植物が非常に多く、滝もあり、都市近郊の原生林は世界的に極めて稀です。

明治時代の自然学者・民俗学者「南方熊楠」は、神社合祀令による神社合祀に反対しましたが、これは「鎮守の杜の生態系の破壊」「土着の信仰・習俗などが毀損」を危惧したからです。「柳田國男」「折口信夫」など「著名な民俗学者」「日本の基層・古層を深く研究していた人」は、その多くが「自然に親しんだ感覚」を持っていました。「「日本の基層・古層と、その研究者」は「自然に親しんだ感覚」を持っていたと言うのは、殊の外重要です。

ここから「日本の自然環境は、気候風土と、鎮守の森・社寺林など神域の杜により、より大規模な破壊を免れてきた」「日本の信仰は、自然と共生しながら存在してきた」と言えます。それこそが「日本や和の真髄・基層」であって、決して「明治時代以降や戦後の権威主義・全体主義や、物質至上主義・経済至上主義・消費主義と、それによる自然環境の軽視」には存在しません。

  「神事・各種伝承など」は「波動原理に沿った物」「効果が大きい物」が多く、「長年積み重ねられてきた、神事の歴史・意識・言霊など」により「地域・国・世界に対して、非常に重要な波動上昇効果の役割を果たしてきた」と言えます。これが無かったら、日本も世界もより酷い状況にあり、崩壊していたかもしれません。神道・琉球神道・アイヌ神道をはじめ、各地の伝統宗教はこのような波動原理の基盤の上に存在しています。

その上で、上記のように「魂振り」「玉・魂・霊」とは「波動原理その物」「波動原理で全てを説明できる物」であり、また「波動原理が齎す効果・恩恵の中枢に位置する物の一つ」です。また「芸術」も「波動原理で説明できる物」「真の科学たる波動原理に沿った物」で、根源的には「人間の神性と切り離せない物」です。

「霊魂」というのは「夕日のように揺らめき儚げで、たまゆらのようにフワッとして、勾玉のように美しく、想いにより健全化する物」かもしれません。なので「子供達の環境」というのは、あまり縛り付けるよりも、自由にふわふわした感じにさせていて、それでいて暖かく包まれていた方が、「霊魂・霊性」「意識」「精神性・感受性」「各種能力(真の意味の深い能力)」の育成という面から、良いのだと思われます。

また「日本語の語彙」は、多くが「元の言葉を組み合わせて、混成して出来た言葉」と、「その概念の性質から連想的に、新たな概念を作る、又は何らかの概念に宛てる言葉とする」というように出来ています。なので「両義的・多義的な含意を持つ言葉」「ダブルイメージを伴った言葉」が多数存在します。「忌み言葉」が多数ある事の背景には、このような点もあります(何でも忌み言葉とするのは無意味でしょうが)。

日本語は、この点も含めた歴史的経緯と、固有の特性により、「言葉の持つ波動」である「言霊」の力が強いと言われます。「言霊」は「過去の意識の積み重ね」であり、日本においては「意識の高低(斎み・穢れ)が大事だと、歴史的に強く認識してきた事により、強い肯定的効果が得られるようになった物」「近年は各種状況により、非常に危機に瀕している物」であります。

縄文時代~弥生時代・古墳時代は「魂振りに連なる概念」が重視され、非常に広範に存在しました。それは、より根源的には「霊・魂・魄・玉・珠・球(たま)が重視された」ということで、「意識・精神こそが中枢」「それを中心に物事は連なっている」「その健全化・大事にすることが要」という感覚だったとも考えられます。

「三つ子の魂百までも」と言いますが、「森羅万象は意識が形成する」「原初の意識・想念は、その物の根源的な性質・状態・方向を規定する」と言えます。そして、このような観念が「日本の原初の観念」かもしれません。日本は「霊・魂・魄」「魂振り」「霊性・精神性」「感覚・感受性」「想い・心」を大事にすべきだと思います。これを失ったら、「霊性・精神性」を失ったら、意識の顕現たるこの世において、「最大多数の最大幸福は不可能」です。

  これらに見られるように「神事・神話・伝承」「霊魂・産霊・魂振り」というのは、意味は途方もなく深遠で、実際にその効果は莫大です。これらが残されてきた事に感謝して、残してくれた「神々(霊・意識体・spritほか定義や名称は色々)」、残す為に努力をしてくれた「先人・御先祖様たち」に感謝したい物です。

残してくれた「神々」は「高級霊」とも表されますが、要は「意識・精神性が高い意識体」です。では「高次元の神・意識体」は「自然破壊」「理不尽さな格差」「欺瞞」「金銭・物質への偏重」を望むでしょうか。そんな訳はありません。現代社会の「力学」は、「高次元の神・意識体」の望んでいる方向と反対方向にあるでしょう。

それは現在は理不尽にも放置されている事、「ヤマト民族とアイヌ・琉球民族との格差」「男女格差」も当然含まれます。これは端的に「低い意識・霊性の成せる状況」であり、こういう事を放置し、自分達は優位だとしていて、その上で神が霊がと言っても、それは全て欺瞞であり、それで世の中が良くなる訳はありません。何故なら「波動原理や高級霊の意識に、そういう観念が沿っていない」からです。そして、沿う沿わない以前に、道義的に間違っています。

全ての人は本来神性を持っていて、即ち「全てが平等」であり、この真理は永久に普遍不変です。またこれに反した時の「超長期的な因果律」も普遍不変で、誰しもが「高い意識・低い意識の因果応報」「相応の結果」を受けます。宇宙に遍く波動原理は「道義的な物として存在」、これは「量子もつれ・共鳴効果」「因果律」でそう説明されます。拠って「高い意識・精神性の顕現が、神・霊に適う事」「低い意識・精神性の顕現は、神・霊に適わない事」です。

今を生きる世代が成すべき事は、一つにはこれらを出来うる限り全て後代に伝える事、更に自然環境を回復させる事、波動原理・真理に沿う、理不尽さのない社会を目指す事でしょう。社会を正常化させ、在るべき状態となれば、波動が高い社会となりますし、そう行わなかったら波動が高い社会とはなりません。


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項目6⑪:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー17)
項目6⑫:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー18)
項目6⑬:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー19)
項目6⑭:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー20)
項目6⑮:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー21)
項目6⑯:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー22)
最終更新:2014年06月13日 06:55
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