藤村操

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ふじむら みさお
藤村 操
生誕 1886年7月20日
北海道
死没 (1903-05-22) 1903年5月22日(16歳没)
栃木県上都賀郡日光町(現・日光市華厳滝
墓地 青山霊園
国籍 日本の旗 日本
出身校 旧制一高
藤村胖(父)春子(母)
親戚 那珂通世(叔父)
家族 藤村朗(弟)
安倍能成(義弟)
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藤村 操(ふじむら みさお、1886年明治19年)7月20日[1] - 1903年(明治36年)5月22日)は、北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感がんとうのかん」によって当時の学生・マスコミ・知識人に波紋を広げた[2]

出自と家庭[編集]

祖父の藤村政徳は盛岡藩であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は明治維新後、北海道に渡り、事業家として成功する。

操は、1886年(明治19年)に北海道で胖の長男として生まれ、12歳の札幌中学入学直後まで北海道札幌で過ごした。単身、東京へ移り、開成中学から一年飛び級での京北中学に編入[3]。この間の1899年(明治32年)に父・胖が死亡[注釈 1]、母や弟妹も東京に移り、同居[5]するようになる。1902年(明治35年)、第一高等学校に入学。

父の藤村胖は、屯田銀行頭取である。弟の藤村朗は、建築家三菱地所社長となる。朗の妻は櫻井房記の長女である[6][7]。妹の夫、安倍能成は漱石門下の哲学者学習院院長や文部大臣を歴任した。叔父の那珂通世(胖の弟)は、歴史学者である。

華厳滝の自殺[編集]

木に彫られた巌頭之感
最期の地(華厳滝
「藤村操君絶命辞」の碑。青山霊園

1903年(明治36年)5月21日、制服制帽のまま失踪[8]。この日は栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の旅館に宿泊。翌22日華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感がんとうのかん」を書き残して投身自殺した。同日、旅館で書いた手紙が東京の藤村家に届き、翌日の始発列車で叔父の那珂通世らが日光に向かい、捜索したところ遺書(巌頭之感)や遺品を見つけた。一高生の自殺は遺書の内容とともに5月27日付の各紙で報道され[9]、大きな反響を呼んだ。遺体は約40日後の7月3日に発見された[10]

厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名に上った(内既遂が40名)。操の死によって華厳滝は自殺の名所として知られるようになった[11]

墓所は東京都港区青山霊園

藤村がミズナラの木に記した遺書は、まもなく警察により削り取られたという(後に木も伐採)が、それを撮影した写真がある。

遺書「巌頭之感」[編集]

藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通り。

巖頭之感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

ホレーショとはシェイクスピアハムレット』の登場人物を指すとみられる(後述)。

「終に死を決するに至る」の箇所を「終に死を決す」としている資料もみられるが、写真のとおり誤りである。

自殺の原因[編集]

自殺直後から藤村の自殺については様々に論じられ、そのほとんどは、藤村の自殺を国家にとっての損失という視点から扱ったものだった[12]

自殺の原因としては、遺書「巌頭之感」にあるように哲学的な悩みによるものとする説、自殺前に藤村が失恋していたことによるもの[13]とする説に大別される。

藤村の恋愛の相手として4人の女性の名が挙がった。菊池大麓の娘である松子とその姉の多美(民)、馬島あい子とその姉の千代であるが、死後80年以上経って、藤村が自殺の直前に手紙とともに渡した本という物的証拠が出てきたため、恋の相手は馬島千代ということで落着している[14]朝日新聞(1986年7月1日)[15]によれば、千代は藤村の母に茶道の指導を受けていて面識があったといい、5月22日の自殺直前、藤村は突然、馬島家を訪ね、千代に手紙と高山樗牛の『滝口入道』を手渡した。手紙には「傍線を惹いた箇所をよく読んで下さい」と書いてあり、本には藤村の書き込みがあった。千代に縁談があったので、藤村が千代を訪ねたことは秘密とされた。手紙と本も焼却されたと考えられていたが、千代は鉱山学者で三井鉱山神岡鉱業所長の崎川茂太郎と結婚し1982年に97歳で亡くなった後、子息の崎川範行(東京工業大学名誉教授)が遺品の中から『滝口入道』と手紙を見つけ、日本近代文学館に寄贈することになった[16]

この「失恋説」については、友人の南木性海は藤村の11通の手紙を公表し、否定している。南木に限らず、藤村をよく知る友人らはみな一様にこの「失恋説」を否定している[17]

ホレーショの哲学[編集]

遺書にある「ホレーショの哲学」のホレーショは、シェイクスピアハムレット』の登場人物であろう(藤村は『ハムレット』を原文で読んでいた)。同作中でホレーショが哲学を語るわけではないが、ホレーショにハムレットが次のように語るシーンがある(第1幕、第5場、166-167行):There are more things in heaven and earth, Horatio, Than are dreamt of in your philosophy[18].(坪内逍遙訳:「此天地の間にはな、所謂哲学の思も及ばぬ大事があるわい」[19]。)。遺書5行目の「不可解」に通じる不可知論的内容を含むセリフである。"your philosophy"の"your"を二人称と解釈し、「ホレーショの哲学」という一節になったのであろう。しかし、この"your"は、話し手本人も含まれる「一般人称」(general person)で、「世にいわゆる」の意味である[20](先に引用した逍遙訳もそのように訳している)。遺書のこの箇所を捉えて藤村による「誤訳」をあげつらう向きもある[21]が、これより以前に徳富蘆花[注釈 2]黒岩涙香[注釈 3]も同様(yourを二人称)に訳しているし、それらの訳を藤村が参照した可能性もある[22]。なお、西洋古典学者の逸身喜一郎は、「ホレーショ」はローマ詩人ホラティウス(英文表記:Horace)ではないかと指摘している[23]。当時のエリート青年たちに流行していた悲観主義的厭世観はショーペンハウアーを受容し、この遺書に漂う人生への懐疑と煩悶は、時代の雰囲気をありありと反映したものであった[24]

自殺の波紋[編集]

彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石や学生たちに大きな影響を与えた[25]。在学中の岩波茂雄はこの事件が人生の転機になった。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれる[26]

当時のメディアでも、『萬朝報』の主催者であった黒岩涙香が「藤村操の死に就て」と題した講演筆記[27]や叔父那珂道世の痛哭文を載せた後、新聞・雑誌が「煩悶青年」の自殺として多くこの事件を取り挙げた結果、姉崎正治ら当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされるなど、「煩悶青年」とその自殺は社会問題となった[28]

言及の例[編集]

打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない。
  • 夏目漱石『草枕』より
余の視るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う[29]
「趣味の何物たるをも心得ぬ下司下郎の、わが卑しき心根に比較して他を賤しむに至っては許しがたい」「ただその死を促すの動機に至っては解しがたい。去れども死その物の壮烈をだに体し得ざるものが、如何にして藤村子の所業を嗤い得べき。かれらは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味い得ざるが故に、たとい正当の事情のもとにも、到底壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。」[30]

漱石はこれ以外にも『文学論』第2編3章や寺田寅彦あて書簡(1904年2月9日)に記した「水底の感」で藤村に言及している。

偽書の登場[編集]

1907年『煩悶記』也奈義書房出版、岩本無縫 篇。内容は藤村操が実は生き延びて書いたとする偽書。出版直後に発売禁止処分になる[31]

藤村は自殺未遂後、下山し、海賊船で世界を巡り、パリで悟りを開く。それを原稿にまとめて知人に託したものをまとめたものとする。「予は迷ひ初めたり。予は疑ひ初めたり。予は泣きたり、煩悶したり」と始まる。内容は社会主義無政府主義の強い影響を受けており、発禁処分はそのためとも言われる。現在、3冊しか存在が確認されていない希少本であり、神田古本まつりに出展された際には、147万円の高値がついたことがある。そのうちの一冊は、野間光辰が所有していたことが判明し、また別の一冊を谷沢永一が所有しており、その全文が『遊星群 時代を語る好書録 明治篇』[32]に掲載されている[33][注釈 4]。また、城市郎の所蔵していたものが、明治大学に「城市郎文庫」として寄贈されている[35]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 胖の死は病死といわれる。伊藤整『日本文壇史』7巻に自殺説が書かれているが、根拠は不明とのこと[4]
  2. ^ 徳冨蘆花『思出の記』(民友社、1901年、p254。)に「ホラシオ、天地のことは卿が理学に説き尽されぬ事もあるものぞ」(卿には「おんみ」とルビがあり、あなたの意味)[1]。土方、p.164。
  3. ^ 黒岩涙香『天人論』(朝報社、1903年、p.28)に名言の引用で「ホレーショよ、天地には汝が哲学にて夢想し得ざる所の者あり 砂翁のハムレツト」[2]。奥付は1903年5月14日付で、藤村が投身する直前の刊行。
  4. ^ 谷沢の所蔵書は2007年6月に関西大学図書館に寄贈され、同図書館の「谷澤永一コレクション」に保存されている[34]

出典[編集]

  1. ^ 平岩 2003, p. 224.
  2. ^ 荻野富士夫「藤村操」『国史大辞典』、吉川弘文館
  3. ^ 朝倉 2005, p. 32.
  4. ^ 平岩 2003.
  5. ^ 東京府小石川区新諏訪町五番地。
  6. ^ 『人事興信録』(第5版)、さ91頁頁。NDLJP:1704046/1156 
  7. ^ 『人事興信録』 下(第14版)、フ79頁頁。NDLJP:1704455/540 
  8. ^ 中嶋繁雄『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、220頁。
  9. ^ 読売1903.5.27「華厳瀑の悲劇」、朝日1903.5.27。
  10. ^ 読売1903.7.5、朝日1903.7.5。
  11. ^ 日光観光協会編 編「華厳ノ滝」『日光パーフェクトガイド』(初版)下野新聞社、1998年3月30日、123頁。ISBN 4-88286-085-6http://www.nikko-jp.org/perfect/chuzenji/kegonnotaki.html2010年6月16日閲覧 
  12. ^ 和崎光太郎「近代日本における「煩悶青年」の再検討 : 1900年代における<青年>の変容過程」『日本の教育史学』第55巻、教育史学会、2012年、22-23頁、doi:10.15062/kyouikushigaku.55.0_19ISSN 03868982CRID 1390001205765916288 
  13. ^ 宮武外骨『滑稽新聞』1903年7月20日:平岩 (2003, pp. 69–70)に引用がある。
  14. ^ 土門 2002, pp. 186–188.
  15. ^ 週刊朝日』1986年7月11日号、安野光雅『わが友の旅立ちの日に』(山川出版社、2012年)pp.116-122も参照。
  16. ^ 藤村の書き込みについては『別冊太陽 日本人の辞世・遺書』(平凡社、1987年)に記述がある。
  17. ^ 土門 2002, p. 186.
  18. ^ このハムレットのセリフはバイロンの『マンフレッド』の冒頭にも引用されている。
  19. ^ 坪内逍遙: “ハムレット 坪内逍遙譯”. 早稲田大学出版部 (1909年). 2017年8月5日閲覧。
  20. ^ 柴田耕太郎『英文翻訳テクニック』ちくま新書、1997年、p53-54。
  21. ^ 小田島雄志 『シェイクスピア名言集』 岩波書店〈岩波ジュニア新書〉、1985年、p208。
  22. ^ 土門 2002, pp. 159–160.
  23. ^ 逸身喜一郎『ラテン語のはなし』大修館書店、2000年、p.136。同「ホレーショの哲学」『文学』1992年冬号。
  24. ^ 井上 2007, pp. 65–66.
  25. ^ 朝倉 2005, p. 39.
  26. ^ 朝日新聞出版刊 新マンガ日本史43号「夏目漱石」。
  27. ^ 朝倉 2005, p. 14.
  28. ^ 和崎光太郎「近代日本における『煩悶青年』の再検討 1900年代における<青年>の変容過程」教育史学会編『日本の教育史学』(第55集、2012年10月)pp.22-24。
  29. ^ 朝倉 2005, p. 44.
  30. ^ 朝倉 2005, p. 45.
  31. ^ 藤村 1907.
  32. ^ 谷沢永一『遊星群 時代を語る好書録 明治篇』和泉書院、2005年12月 ISBN 978-4-7576-0287-8
  33. ^ “藤村操をかたり著述? 「煩悶記」に147万円の売値”. 朝日新聞. (2005年10月15日). オリジナルの2009年5月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090528075932/http://www.asahi.com/culture/entertainment/news/TKY200510140290.html 
  34. ^ 関西大学図書館「谷澤永一コレクションリスト」、関西大学図書館、2009年7月。 
  35. ^ 明治大学プレスリリース”. 明治大学. 2020年11月19日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]