夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

§278c[至高性(主権)をつくる観念論、Der Idealismus, die Souveränität ausmacht]

2018年06月01日 | 法の哲学

 

§278c[至高性(主権)をつくる観念論、Der Idealismus, die Souveränität ausmacht]

Der Idealismus, die Souveränität ausmacht, ist dieselbe Bestimmung, nach welcher im animalischen Organismus die sogenannten Teile desselben nicht Teile, sondern Glieder, organische Momente sind und deren Isolieren und Für-sich-Bestehen die Krankheit ist (s. Enzyklop. der philos. Wissensch. § 293), dasselbe Prinzip, das im abstrakten Begriffe des Willens
(s. folg. § Anm.) als die sich auf sich beziehende Negativität und damit zur Einzelheit sich bestimmende Allgemeinheit vorkam (§ 7), in welcher alle Besonderheit und Bestimmtheit eine aufgehobene ist, der absolute sich selbst bestimmende Grund; um sie zu fassen, muß man überhaupt den Begriff dessen, was die Substanz und die wahrhafte Subjektivität des Begriffes ist, innehaben. - Weil die Souveränität die Idealität aller besonderen Berechtigung ist, so liegt der Mißverstand nahe, der auch sehr gewöhnlich ist, sie für bloße Macht und leere Willkür und Souveränität für gleichbedeutend mit Despotismus zu nehmen.

主権die Souveränität を構成するところの観念論とは、動物の有機体においては、いわゆる部分といわれるものが、それは部分ではないのであって、むしろ肢体であり、器官という要素であって、それが切り離されて独立して存在するときは病的状態とされるものである。(『エンチクロペディー』§293参照)その原理とは、意志という抽象的な概念にあっては(次節§279註解参照のこと)自己を自己に関係づける否定性として、そして、それでもって自己を個別性へと規定する普遍性が現れるのであり(§7)、そこにおいては、すべての特殊性と規定性は一個の揚棄されたものであって、絶対的に自己を自己として規定する根拠である。その根拠を理解するためには人はおしなべて、概念の実体とその真の主体性が何であるか、その概念をうちにもたなければならない。なぜなら、主権とは全ての特殊な権限の観念性であるから、誤解されやすいし、単なる権力や空虚な恣意と主権とが独裁制と同じ意味のものとして捉えられることもふつうにまたよくありがちだからである。


世間で多くの「学者」「識者」たちが偉ぶって「それは観念論だ」というとき、彼らのいう「観念論 Der Idealismus」とはどういう意味なのか、問い直す必要があるでしょう。
主権、至高性 die Souveränität を成しているものは、一個の生命とおなじく、さまざまな要素 Momenteを統一する客観的な観念性である。Der Idealismus とDie Idealität  の違いは、観念を主体性の面から捉えるか、客体性の面から捉えるかの違いだろうか。

この個所はヘーゲルが「概念 der Begriff」についてどのように考えているか、彼の概念観を知るうえで参考になる。彼は「(意志など、すべての事物の)自己を自己として規定する根拠を理解するためには、概念の実体とその真の主体性が何であるか、その概念をうちにもたなければならない(概念そのものを理解していなければならない)」という。

彼の概念観によれば、すべての事物がその事物であるのは、それを規定する概念(普遍)を根拠としているからである。まず普遍が自己を自己と関係づけること、⎯⎯これをヘーゲルは自己否定という。⎯⎯によって、概念の実体としての普遍は、まず自己を特殊化する。否定することは規定することであり、特殊化することでもある。さらに主体でもある概念は、自己を個別性へと規定することによって現実的な存在となる。この一連の主体的な運動をヘーゲルは Der Idealismus 観念論と呼び、それを客体的に捉えたときに Die Idealität 観念性といったのだろう。

したがって、概念の立場は絶対的観念論の立場であり、哲学とは事物についての概念的な認識である。(小論理学、第三部 概念論 §160註解 参照)

 

 ※20180611追記

ヘーゲルの概念観を前提にすれば、当然に上記のような認識になる。また、この点については、マルクスなどの唯物論者たちが、ヘーゲルの絶対的観念論を「神秘化している」として批判する核心であるように思われる。彼らはヘーゲルのように事物の内的な活動性を「概念=思考規定」として捉えることができず、「対象のうちに内在する概念(観念)」を認めない。――この点については、いずれ再考する機会もあると思う。

 

 

 

 

 

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