証言 当事者たちの声“あのとき目を離さなければ” 横山ゆかりちゃん誘拐事件から25年

2021年7月6日事件

家族旅行で行った鬼怒川温泉で、笑顔でポーズをとるゆかり。
この1週間後、事件に巻き込まれました。

どうしてあのとき目を離してしまったのか。
ずっと後悔しています。

ゆかり、ごめんね。
無事でいると信じて、待っているからね。

<横山ゆかりちゃん誘拐事件>
平成8年(1996年)7月7日、群馬県太田市のパチンコ店に家族と一緒に訪れた横山ゆかりちゃん(4歳)の行方がわからなくなった。警察は、何者かに連れ去られたとみて捜査を続けていて、防犯カメラに写っていた男を重要参考人として情報提供を求めている。

25年前のあの日 何が…

あの日は、日曜日でした。

私は、妻とゆかりを連れて、車でパチンコ店に行きました。
午前10時のオープン前に到着し、少し並んでから店に入りました。

何度か行ったことのあるパチンコ店でしたが、ゆかりは初めてだったと思います。

私と妻は別の通路にある台で、それぞれ打ち始めます。

自分の座っていた場所からは、ゆかりが通路を走り回ったり景品を見たりして、ひとりで遊んでいる姿が見えていました。
あの日は、景品の花火を欲しがっていたと記憶しています。

お昼に妻はゆかりに車の中でおにぎりを食べさせましたが、少し食べると「もういらない」と言って残したそうです。

ただ午後になっておなかがすいたのか、妻におにぎりをねだりにきたので、おにぎりとパックのジュースを持たせて、店内のベンチに座って食べるように言いました。

すると午後1時半ごろ。
ゆかりが妻に駆け寄ってきて、こう言ったそうです。

「・・・のおじちゃんがいるよ」

店内の音でかき消され、一部は聞き取れませんでした。

「絶対ついていっちゃだめよ」

その10分後。
妻が慌てて私の所に来ました。

「ゆかりがいないの」

ベンチには、おにぎりとパックのジュースが残されていました。

このときなぜか胸騒ぎがして、ただ迷子になっただけじゃない、誰かにさらわれたかもしれないと思ったのを覚えています。

防犯カメラが捉えた“重要参考人”

クリックすると動画が見られます・映像提供 群馬県警

警察が店内の防犯カメラを解析したところ、重要参考人が浮上します。

画面奥のベンチに座るゆかりちゃんの隣に、サングラスをかけた男が座り、顔を近づけて話しかけたり、店の外を指差したりする様子が写っていました。

そして男がベンチを立った数分後。

ゆかりちゃんは出入り口に向かう通路をひとりで歩いて行き、そのまま行方がわからなくなりました。

犯人からの電話を待ち続ける中で…

ゆかりさんの父 横山保雄さん

それからおよそ2か月。

父親の保雄さんたちは、群馬県警の捜査員と一緒に自宅で電話を待ち続けました。

「身代金を要求する電話があるかもしれない」

電話を逆探知するために待機していましたが、かかってきたのは嫌がらせやいたずら電話ばかりだったといいます。

父親の保雄さん
「ゆかりをかえしてほしければ金を出せ、出せば居場所を教える」とか。中学生が5000万円要求してきたこともありました。電話が来るたびに「もしかしたら本物の犯人かもしれない」と思って対応していたので苦しかったです。

自宅の一角にゆかりちゃんの品

自宅のリビングに設けた棚には、ゆかりさんの写真とともに思い出の品が飾られています。

ハート型が好きだったゆかりさんが大切にしていたイヤリング。

“パパっ子”だったというゆかりさんが、保雄さんにおねだりして買ってもらったものです。

クリーム色とピンク色の2本の髪ゴム。

これもお気に入りでした。

母親
ゆかりが保育園に行くときに、いつも付けていたものです。朝は忙しかったので「はい行くよ」って感じで、私が結んであげていました。ゆかりが直接身につけていたものは、こういうものしか残っていないので、取っておきたくて。

ゆかりさんの母親

消えない自責の念 「ゆかりに謝りたい」

事件からことしで25年となり、7月11日にゆかりさんは30歳になります。

ゆかりさんに会えたら何と声をかけたいですかと尋ねると、保雄さんはこう答えました。

時間がたちすぎて正直なんて言えばいいかわかりません。ただ謝りたい。あのときしっかり見ていなかったこと。これだけの長い期間、見つけてあげられなかったこと。すべてです。

そして、「自業自得だと思っている」と打ち明けました。

今さら言ってもどうしようもないですが、パチンコ店に連れて行かなければ、あのとき目を離さなければと、ずっと後悔しています。

パチンコなんかに子どもを連れて行くのが悪い、自業自得だと何度も言われてきました。それは私たちが一番わかっていますし、ゆかりに本当に申し訳ないと思っています。

現像したフィルムに写っていたのは

自宅で見つかった古いカメラのフィルム。

現像した写真

先月、カメラ店に持って行くと、なんとか現像できました。

色あせていたものの、そこには写っていました。

家族と笑顔で暮らしていたときのゆかりさんの姿が。

近くの公園に遊びに行ったときに撮ったものでした。

「これゆかりだよ。間違いない。かろうじて顔が見えるのがこの4枚だ」

「早く現像していれば色があせなかったのに。2歳くらいかしら」

「顔がしっかりしているから3~4歳くらいじゃないか。活発だったんだよね」

「そうね。いい表情してるね」

初めて見る写真を手に取ってほほえんでいましたが、複雑な心境も語りました。

保雄さん
写真が見つかってうれしいですが、やっぱり写真じゃなくて本人が見つかるのが一番なので。写真が何枚出てきても、本物のゆかりが帰ってくるわけじゃないのでなんか切ないですね。

母親
私たちのゆかりの記憶は、行方不明になった4歳で止まっています。帰ってきても何十年間の空白があります。それでもゆかりが無事に帰ってきてくれるだけでいいんです。

最新技術で防犯カメラ映像を鮮明化

右が鮮明化した画像。左手に丸形の腕時計、その下にポーチが確認できる(画像提供 群馬県警)

警察はことし、鮮明化した防犯カメラの映像を新たに公開しました。

最新技術で映像を解析した結果、これまで判明していなかった「丸形の腕時計」と「ポーチ」を身につけていたと特定できたのです。

群馬県警 髙橋稔 班長

群馬県警捜査一課 重要事件特別捜査班 髙橋稔 班長
現在の最新技術を使って鮮明化すれば、何か新たな特徴がわかるかもしれないと解析しました。両親の気持ちを考えれば、1日も早くゆかりさんを発見・保護して帰してあげたいという強い信念を持って捜査にあたっています。

取材後記

私は去年NHKに入局し、前橋放送局に配属されました。
この事件は、自分が生まれる1年前に起きました。

この25年もの間、両親はどんな思いでゆかりさんを捜し、待ち続けてきたのか。
とても想像できず、何と話を切り出していいのか分かりませんでした。

でも初めて自宅に伺うと快く迎えてくれ、事件当日のこと、ゆかりさんとの思い出を語ってくれました。

両親を標的にした心ない中傷は、今でもSNSなどに書き込まれるそうです。

そんな中でも、保雄さんが力強く語った言葉が印象に残っています。

「中傷を気にしていたら生きていけないですし、それを気にするより、ゆかりが見つかるためにできることをやりたい。ゆかりはどこかで元気でいてくれればと思っていますし、そう信じています。帰ってくるまで私たちは諦めません」

保雄さんたちが、ゆかりさんと再会できる日が1日も早く訪れてほしい。

そのために私も発信を続けていきたいと強く思いました。

情報を求めています
▼事件が起きたのは、平成8年(1996年)7月7日の午後1時45分ごろ
▼現場は、群馬県太田市高林東町のパチンコ店
▼ゆかりさんの特徴は、おでこが広い、耳が大きい、おなかの左側にだ円形のあざ
▼重要参考人の男は、サングラスをかけた身長1メートル58センチくらい、ニッカポッカ様のズボンを履き、腰にポーチのようなものを付けていた
▼懸賞金は、最大600万円
▼連絡先は、群馬県警・太田警察署。フリーダイヤルは「0120-889-324」

  • 前橋放送局記者 岩澤歩加 2020年入局
    警察・司法担当 

  • 証言 当事者たちの声

    “夫を殺した被告”に、私が語りかけたこと司法 裁判 事件

    3年前 富山市の交番を襲撃した被告に拳銃で撃たれて夫を殺された女性。被告本人と直接向き合う中で考えに変化が…そして、はじめは思ってもいなかったことばを被告に語りかけました。

    2021年6月25日

  • 証言 当事者たちの声

    リンちゃん パパはここで生きていくよ事件

    4年前、小学校への登校途中に殺害されたベトナム国籍の女児。父親は事件のあと誰も信じられなくなり、母国へ帰ることも考えました。しかし娘のために何が出来るのか考え、日本に残ることを決断。その思いを取材しました。

    2021年6月4日

  • 証言 当事者たちの声

    犯罪被害者は2度苦しむ事件

    2人の子供を理不尽な殺人事件で失った遺族。追い打ちをかけるような根拠のないデマやひぼう中傷、さらには行き届かない支援。なぜ再び遺族が苦しまなければならないのか、現状を取材しました。

    2021年5月25日

  • 証言 当事者たちの声

    歩道を歩いていただけなのに ~奪われた女子高校生の未来~事故

    どこの大学に進学しようか悩んでいた長女。父親と一緒に都内の大学のオープンキャンパスを訪れ、この大学への進学を決めました。教師になることを目指して。でも、叶いませんでした。よく晴れた日の朝、歩道を歩いていただけなのに。

    2021年5月20日