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アヘン帝国 --- 汚れた歴史
追加
第二次世界大戦前の日本にはまともな収入源がほとんどなく (生糸の輸出は少なすぎる)、 基本的に の存続が麻薬の儲けに依存するようにできていたようです。 これに関しては後で追加しました:
富国強兵

「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。 一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945)
追加
最初はここに書かれている内容は少し理解できなかったのですが、以下の内容を書き上げたあとで 再度読んでみると、色々よくわかるようになっていました。ほんのわずかな内容紹介ですが、 読み直してみると、私が以下に書いたことはほぼこの本に書いてあるであろうと確信を持ちました。 但し、これは研究書のようで、日本の帝国主義を研究している修士、博士課程の学生に適当であると、 締めくくっていますから、原書を読もうとする意気込みはさすがに持ち合わせていません。 なお、この本で使用されている資料は、出版されているものもありますが、 出版されていないものもあり、出版されていない文書は多くが日本の外務省の記録文書のようです。

私も英文のページから簡単に理解できることを整理しようと思いこの記事を書くことにしました。 「満州帝国とアヘン」という標題で書き始めたのですが、 満州以外のアヘンの話も関係することになり、結局「アヘン帝国」と変えることにしました。 なお、しばらくして英文のページだけでは底をついたので、日本語のページも調べることになりました。

先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。 しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。 「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。 中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。 しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうが よいくらいです。

注意
次のページで、英国の東インド会社が 1793 年にアヘンの売買に専売制を 導入したことが記されています。
Opium throughout history

なお、以下ではインターネット上で読める英文のページを少しずつまとめていますが、 全体で矛盾していることがあるかもしれません。 内容が多岐にわたり、紆余曲折があるため関連性があるページを部分的にまとめることぐらいしかできていません。 また日本軍とアヘンに関しての英文の書籍は随分沢山あるようですが、これに関しても目を通しているわけではありません。

注意

「アヘン帝国」の前半を書き終えようとした頃に、次のページを 見つけました。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516

このページには色々なページにリンクが張ってあります。 このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。あとあと見るように、日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。 しかし、アヘン帝国日本による「麻薬テロ」と呼ぶほうが雰囲気が出ているような気がします。 東京裁判では日本の「戦争犯罪」の大半が隠蔽されているようで、これは共産圏との 対決の理由からであったようです。 例えば「731部隊」のことが「東京裁判」で取り上げられなかったのは 人体実験の資料を手に入れるための米国による取引とされていますが、 ひょっとすると日本を「共産圏」に対する砦とするために協力者を確保する意図があったのかもしれません。

また上記のページには「1820 年においてさえ、世界の GDP の 1/3 が中国で生産されていた」 と言っています。中国がとても豊かな国であったため、世界中から狙われたのでしょう。 最後には日本だけに食い物にされますが ....

日本を経由した麻薬

日本は中国に麻薬を蔓延させますが、他国の麻薬を中国に持ち込んでいたこともあります。

Japan as an Opium Distributor (アヘンの販売業者としての日本)

の中で、筆者は 1919 年 2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事を引用しています。この記事の主要部は、「アヘン帝国の興隆 -- 台湾」 の箇所で触れることにします。今はこの記事の中ほどで書かれている部分を引用するのに留めます。

カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。
追加
1919 年 2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事は全文を読むことになりました (「アヘン帝国の興隆 -- 台湾」を参照)。そこで、わかったことですが、 このとき持ち込まれたアヘンは中国の広域に持ち込まれたようです。該当箇所を引用すると

強調しなければならない点は、このアヘンは日本に輸入されたのではないことである。 神戸港で積み替えられただけで、ここから日本が支配する鉄道で済南まで運び込まれ、 山東省を通り抜けて、上海、揚子江流域に持ち込まれた。

この鉄道は恐らく、第一次大戦でドイツの租借地である青島を制圧したときに あわせて支配したのでしょう。日本は麻薬の密貿易のために鉄道をよく利用していたことが はっきりします。

「アヘンの販売業者としての日本」の筆者は 1919 年 3 月のプトナム・ウィール (Putnam Weale) による記事を引用しています。

否定することが出来ない点は、(中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) いまや 20 トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

訳注: 「海関の日本人弁務官」(Japanese commissioners of Maritime Customs) の正確な意味 (あるいは役目) は知りませんが、前後関係から大体はわかります。日本からの輸出品は 中国における日本の税関を通すだけでよかったのです。このようなことが 可能となったのは、日清戦争の結果、下関条約で締結された日本と中国の通商条約 (不平等条約) の結果です。日本が中国と締結した通商条約は、アヘン戦争の勝利国が中国と締結した通商条約と 類似のものです。この件に関しては
Treaty of Shimonoseki - Wikipedia (下関条約 - 英語版 Wikipedia)
をご覧ください。(英語版の Wikipedia では第一次アヘン戦争と 第二次アヘン戦争を総称してアヘン戦争と呼んでいますが、日本語版の Wikipedia は前者を単にアヘン戦争と呼び、 後者をアロー戦争と呼んでいます。) 日本政府の許可さえあれば、日本人は中国に麻薬を持ち込むことが でき、(これはとてもよくないことですが) ヨーロッパの国々と対等になったのです。 しかし、この記事が書かれた頃は欧米各国が中国の麻薬から手を引いており、しかも桁違いに大量の モルヒネを日本が中国に持ち込んでいますから、 とても風当たりが強くなったのです。
追加
1919 年 2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事には次のことも書かれています。 中国における港ごとで事情が少しずつ違っているようです。

更に、青島の場合には、条約によって中国海関の独占的権利が日本政府に委譲され、 日本政府が興味を持てば、密貿易であれ、そうでなかれ、税関が関与することがなく 遂行することができた。1905 年 12 月 2 日の条約の第三条 -- これは 1915 年 8 月 6 日 の条約で永続的なものとなったが -- 日本政府の証明書があれば、青島に上陸する物資は 税関の検閲を受ける必要がなかった。このようにして、アヘンの非合法な輸入のみならず、 武器の不正な輸入の道を開いたのである。

1905 年は日露戦争の「ポーツマス条約」の年ですが、 関連して中国と条約を締結しているようです。 1915 年は「対華21ヶ条要求」の年ですが、日付が少し違っています。 但し関連して結ばれた条約があるようですから、基本的には「対華21ヶ条要求」 と思ってよいと思います。

更にマクドナルドによる本

A. J. Macdonald, Trade Politics and Christianity in Africa and the East, M.A., formerly of Trinity College, Cambridge, 1916
(表題の訳 : アフリカと東洋における商業方針とキリスト教)

から次のように引用しています。この本が 1916 年に書かれた本であることに注意します。

アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。 中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。.... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
19115.5 トン
19127.5 トン
191311.25 トン
191414 トン


訳注: 上の文章では日本政府も麻薬の規制をしているかのように表現していますが、 これはないです。本の著者もそこまで理解していなかったのでしょう。 Japan as an Opium Distributor (アヘンの販売業者としての日本) は The opium monopoly (アヘンの専売制) の記事の一部です。直前で The indian opium monopoly (インドのアヘンの専売制) についても触れています。インドからのアヘンの輸出量に関しての表がありますが残念なことに少し不鮮明です。 しかし、この表に関連してなされている議論は紹介することができます。 1913 年には英国はインドから中国にアヘンをほとんど持ち込まなくなりますが、 1911 年からアヘンが日本に輸出されていることを最初に指摘しています。また同時に 1910 年から アヘンが英国に輸出されていることも指摘しています。つまり、筆者は上のモルヒネは インドのアヘンを加工したもので、それを日本に輸出したものだと暗に言っているのです。 この場合、英国も日本もどちらも悪い奴なのです。

更には次のようにも述べています。。

新聞 (The Japan Advertiser) によると、中国におけるモルヒネの取引は新局面を迎えた。 最近の主なアヘンの販売業者は日本人で、製造業者は英国人であったというプトナム・ウィール (Putnam Weale) の 話を引用し、更に次のように続けている。モルヒネは英国から日本へ大量に輸出されていたが、この麻薬を英国から 輸出することが許可制となったため、日本への出荷は 1917 年の 600,229 オンス (17 トン) から、 1918 年にはその 1/4 となった。 別の新聞 (The Japan Chronicle) は絶対的に信頼できる情報からの話として次のように伝えている。 それによると、1919 年の最初の 5 ヶ月には米国から神戸に 113,000 オンス (3.2 トン) のモルヒネが届き、 神戸港で中国行きの船に積み替えられた。 この数値は全てではなく、単に (The Japan Chronicle が) 実際に知っている量であるとのことである。 ポール・S・ラインシュ (Paul S. Reinsch) 博士は、アメリカの中国駐在の公使をやめたあとに、 中国で販売することを目的としたモルヒネの出荷を止めるためにどのようなこともすると述べ、 さらにこれは中国への麻薬を売ることを禁止した国際条約に対する挑戦であると述べた。
注意
  1. ジャパンタイムス (The Japan Times, 創業 1897 年) は自社の歴史を

    Our Company
    に書いていますが、それによると 1940 年に The Japan Advertiser (Tokyo) と The Japan Chronicle (Kobe) を吸収したと書いています。 だから、上で述べていることは、まさしく日本で発行された英字新聞に掲載された記事です。 この記事に限らず、あちこちで引用されているのは、中国、日本などの英字新聞に載った記事、 あるいは記事を載せていたジャーナリストに関連するものが多いようです。 一々詳しく調べるのが大変なので、そこまでしていませんが、 今回に関しては、たまたまかすかな記憶があったので The Japan Times のホームページを調べました。

    The Japan Times は朝日新聞ほどは歴史がありませんが、日本で最初に発行されたのは 英字新聞です。その真似をして、日本の新聞ができました。 その意味ではジャーナリズムとしては英字紙の方がはるかに伝統があります。

  2. 興味ある記事があるので、それも引用します。1919 年 1 月 15 日 (大正 8 年) の 報知新聞の社説です。社説では 私がここで引用しているような英文の記事に関して、日本政府が関係してはいないと勝手に決め付けています。 日本政府の許可なくしては、神戸港での積み替えや、満州への密輸が不可能です。 とても大量の麻薬でこっそり持ち込むことができるような代物ではありません。

    支那に於ける阿片モルヒネ密輸入 : 社説

    日本ではこのようにしか報道されなかったのです。これは神戸大学の 新聞記事文庫 で見ることができる昔の新聞です。日本は太平洋戦争に突入してから、報道管制が敷かれたとされていますが、 それ以前からまともな報道をしていないのです。報知新聞はあからさまな嘘を社説で主張したのです。 端的に言えば日本の全ての報道は、 中国における日本軍の「麻薬テロ」の積極的な協力者というべきであり、 組織として A-級戦犯というべきです。 残念なことに現在でもこれは変化していないと思います。

「アヘンの販売業者としての日本」を書いた人は、「ウィール (Weale) は英国人で、そのため日本のことばかりを責めているが、 売った奴 (カルカッタのアヘンの場合であればインド政府、ひいては英国政府、モルヒネの場合であれば 英国政府、米国政府) にも責任があるのではないか」と書いています。

  1. 国際条約とは 1912 年におけるハーグの国際条約のことです。詳しいことは次をご覧ください。
    1. THE HISTORY AND DEVELOPMENT OF THE LEADING INTERNATIONAL DRUG CONTROL CONVENTIONS
    2. International Opium Convention - Wikipedia
    3. 万国阿片条約 - Wikipedia
    日本語版の Wikipedia の記述から、1912 年に条約が調印されましたが 「ドイツの提案により即時の批准を求める物ではなく、大半の国は批准しなかった」のですが、 第一次世界大戦の終了により、ベルサイユ条約 (1919 年 6 月) で各国が批准することになります。 ドイツが条約の批准を遅らせましたから、ドイツも麻薬で儲けていたことが確実です。
  2. あとで見ることになりますが、1919 年の「ニューヨークタイムス」の記事には、 モルヒネは日本で製造されるようになったと書いてあります。しかし、上の記載を見ると 1919 年にも日本は米国から輸入しています。モルヒネが不足したためのようです。
  3. 日本においてモルヒネが最初に製造されたのは星製薬 (星製薬 - Wikipedia) による製造 (1911 年) が最初のようです。 しかし、この段階ではまだ大量生産がおこなわれていなかったようです。日本語のホームページでは 中々事実関係がはっきりしませんが、ともかくも色々検索すると
    星新一:人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫) (文庫), Amazon.co.jp

    の内容に関連する記述があちこちに見えます。 この作品は星新一 (小説家、SF 作家) が、父・星一の星製薬創業・発展期における苦闘を描いた作品とのことです。 ですから当然内容は美化されたものです。例えば

    1. アヘンの闇
    2. クロカル超人の面白半分日記

    にその内容の一部が紹介されています。これはブロッグですぐにも消えてしまいそうなリンクですが少なくとも次がわかります。 星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

    読者のページ~2005年4月~

    にも、星新一の上の作品が紹介されており、 それによると、1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

    ドイツ製のモルヒネ製造装置は満州にも登場します。大体、モルヒネの大量生産装置を売る奴も買う奴も まともな人間ではないのですよ。

    少しだけ疑問があります。星一がいつモルヒネの大量生産を 始めたのかという点です。日本語のページで何度も検索し、次を見つけました。

    31-1165 W64-4 (PDF)

    これによると、「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。朝鮮では 1914 年にアヘンが禁止され、モルヒネがとって代わっています (この点に関してはあとで言及します) が、これは欧米のモルヒネではないかと思います。

  4. 「営口」は遼東半島の付け根にある港町です。
    満州国の地図 (日本語)

上の話がいつ頃のことか、少し年表を見てみましょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。 しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

あとあと見るように 1911 年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。 絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia

があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。

注意
もともと南満州鉄道は中国領を走るロシアの鉄道でしたが、 日露戦争の結果日本がロシアから譲渡されたものです。 この点を理解するためには、もう少し背景を述べる必要があります。 もともと極東ロシアは外満州 (外満州 - Wikipedia) と呼ばれ、後に満州と呼ばれた場所 (内満州) と 合わせた地域は中国領でした。 しかし 19 世紀中ごろにロシアの侵略により外満州がロシアの領地になります。 さて日清戦争の結果、中国の弱体ぶりが露呈され、その結果、中国はヨーロッパ各国から 色々むしりとられます。 日清戦争 -Wikipedia によると
  1. ロシアは旅順と大連
  2. ドイツは膠州湾 (青島)
  3. フランスは広州湾
  4. 英国は九竜半島 (香港)
を手に入れます。更にロシアは内満州を事実上の自国領とするために、鉄道を建設したのです。 日露戦争の結果、日本はこのロシアの権利を譲り受けました。 中国領における外国の鉄道という非常に奇妙な事実は、従ってロシアの中国侵略から生じたものです。 しかしだからといって日本の中国侵略が合法化できると言えるものでもありません。
アヘン帝国の興隆 -- 台湾

ここでは次のページからの引用を中心にまとめます。 このページはとても短いので、書いてあることが正しいかどうか すこし考える必要があります。

Korean Opium for Japan's Wars (日本の戦争のための朝鮮のアヘン)

このページに書かれていることは、 第二次大戦前の朝鮮と台湾におけるアヘンに関しての状況、及び関連している日本人の名前 (主に軍人) です。 まず台湾に関する記述ですが、少し翻訳します。

日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。

当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、 日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。

日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。 この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ? 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。


ここで少し脱線して、英語版の Wikipedia に掲載されている製造業の国別生産高の 相対比率のグラフ (1750 年-1900 年) をご覧ください。 日本の生産高は相対的にはほとんど増えていません。この間むしろ減っているくらいです。 (だから、日本は実のところ産業革命に乗り遅れたのです。) また米国が 1830 年頃、まったく 0 に等しかったにもかかわらす1900 年頃に世界一になっていることがわかります。 ドイツもかなり増えています。

オリジナル : Image: Graph rel share world manuf 1750-1900
このグラフに、日本語名を挿入して次のグラフを作成しました

次のページも製造業の国別生産高の相対比率のグラフ (1880 年-1938 年) ですが、残念なことに日本は含まれていません (ここに掲載されている国よりは低かったことが確実)。 1938 年に米国が世界の 30 % を生産しているのがわかります。

Relative Shares of World Manufacturing Output 1880-1938

最初のグラフを見ると、19 世紀になって英国は日の出の勢いとなっており、アヘン戦争などしなくても よさそうに思えます。どういうことがおきたと思いますか ? 19 世紀に入ると、 英国には比較的豊かな市民が増え始めます。この人たちは中国製の陶磁器、茶を購入し始めます。 現在の米国と似たようなことがおき、一般市民は輸入品ばかり購入するようになったのです。 この結果、英国から更に大量の銀が中国に流出することになるのです。英国のみならず、欧米がすべて このようになります。つまり産業革命の結果、一過的には英国は赤字に転落するのです。おとろしや.... もうしばらくすれば、例えば日本は明治以後に英国から機械をじゃかすか購入し始めますから、英国としては これでよくなることになります。日本は欧米に追いつくために必死になりますが、差がつくばかりとなります。


もとの話に戻りましょう。台湾に関しては、

Japan as an Opium Distributor (アヘンの販売業者としての日本)

にも記述があります。台湾が麻薬に関しての拠点であったことを示しています。 この中で、筆者は1919 年、2月14日のニューヨークタイムスに掲載された記事を引用しています。 モルヒネに関連する記事ですが、少し長めに引用します。(翻訳です。)

1919 年、2月14日のニューヨークタイムスの記事

去る12月21日の North China Herald 誌のレポーターは

「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けている
と断言している。
もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない
(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)

と記述し、更に次のように述べています。

南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。 中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。 日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。 大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。

(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、 中国本土で活発に活動していたことを意味します。現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。

追加

最初これを書いた時は色々なことが不明だったのですが、 その後下関条約で締結された通商条約で、日本がアヘン戦争の勝利国と同じ待遇を得たことに気がつきました。 それで色々なことが明らかとなりました。

  1. 最恵国待遇と治外法権

    日本語版の Wikipedia (下関条約 -- Wikipedia) では、日本は「最恵国待遇」を得ることになったとしか書いてありません。 そこで英語版の Wikipedia (Extraterritoriality (治外法権) - Wikipedia) を調べたところ事情がはっきりしました。以下その部分的な翻訳です。

    治外法権で歴史的に最も有名なものは恐らく、いわゆる 不平等条約の下で 19 世紀の中国日本における ヨーロッパ国籍者に関連するものである。 第一次アヘン戦争の結果、南京条約で中国に治外法権が押し付けられた。 とりわけ、上海は 2 つの治外法権の領域である「国際居留地」(International Settlement) と「フランス居留地」(French Concession) があったため、外国人の活動の中心地となった。 この治外法権は公的には第二次大戦後にようやく終了したのである。

    日本は「最恵国待遇」の名の下に、1858 年に締結された米国、英国、フランス、オランダそして ロシアとの条約で治外法権を押し付けられた。 しかしながら、1894 年にロンドンで調印された「日英通商航海条約」を通じて 西側諸国との不平等状態の改善に成功した。

    中国における非外交官の治外法権は 20 世紀の様様な時に終止符を打っている。 ドイツとオーストリア・ハンガリーは中国が第一次世界大戦で連合国側についたときに 治外法権を失っている。ソビエトは 1924 年に中国における権限を放棄し、 米国と英国は 1943 年に権限を放棄し、イタリアと日本は 第二次大戦で中国と戦争状態となったため権限を放棄し、 最後にフランスは 1946 年に権限を放棄した。

    要するに、この時代に「最恵国待遇」を得ることは、その国で「治外法権」であることを意味していたのです。

    「日英通商航海条約」は 1894 年 7 月 16 日です。この直後に日清戦争が勃発し、 1895 年 4 月 17 の下関条約では、今度は日本が不平等条約を中国に押し付けることになります。 日本は「不平等条約」の被害国であると同時に加害国であるのです。 この「不平等条約」によって中国で麻薬を売ることができたのですから、 この事実は日本史の教科書では述べられることはないと思います (歴史の捏造)。

  2. 日本の郵便局と麻薬

    2008 年 3 月 18 日のインターナショナル・ヘラルド・トリビューン (IHT) の記事で 「ニューヨーク・タイムズの 1923 年までの記事がニューヨーク・タイムズのホームページで無料で読むことができる」 とあったので、早速探してみることにしました。 1919 年 2 月 14 日の記事は、ニューヨーク・タイムズの過去の記事の中から、"North China Herald" で 検索するとすぐに見つかります。 次の最初が検索で出てくるトップページ (記事の最初の部分), 2番目が記事全部です (PDF)。

    ここには今まで出てこなかった部分があります。少し引用します。事情が非常によくわかります。

    中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。 中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。

    ニューヨーク・タイムズの記事は随分引用したので、全文を翻訳することにしました。
    1919 年、2 月 14 日のニューヨーク・タイムズの記事

ニューヨークタイムスの記事に登場する場所の地図を描いてい見ると次のようになり、 海岸地帯に近いところはほとんど日本の麻薬が浸透していたことがわかります。 (地図は Wikipedia の地図から作成しました。)

外満州 - Wikipedia (極東ロシア) に 「1918 年から 1922 年までの間、日本軍は シベリア出兵に伴い、短期間ではあるが外満州と内満州 (いわゆる満州) とをあわせて支配した」とあります。 ニューヨークタイムズの記事は日本軍のシベリア出兵の頃に書かれたものです。 従って、日本軍は出兵するたびに麻薬を持ち込んでいることが非常にはっきりします。 つまり、日本軍は軍事行動を取れば必ず麻薬を持ち込んだようです。 軍事費の捻出のために他ならないようです。

台湾からもモルヒネを持ち込んでいますが、 「日本を経由した麻薬」で述べたように、台湾にはすでに星製薬のモルヒネ工場があります。 ここで製造されたモルヒネが中国になだれ込んだと考えて差し支えないようです。 極めて大量のモルヒネを星製薬が製造したことはほぼ確実です。 従って、モルヒネが痛み止めなどの医療目的ではなく「麻薬」として製造しているということを ちゃんとよくわかっていたと思います。

大連、青島経由のモルヒネはどこで製造されたものでしょうか ? 日本でモルヒネが出来るようになったにもかかわらず、アメリカからモルヒネを購入して中国に 持ち込んでいますから、この可能性もあります。 しかし、次の「アヘン帝国の興隆 -- 朝鮮」で、第一次大戦の終わる頃には朝鮮で大量のモルヒネが生産され、 これが満州を経由して中国で売りさばかれていたことがわかります。

注意
  1. North China Herald は英国人のホンリー・シアマン (Honry Shearman) 等が 1850 年 8 月 1 日 に上海で創刊した新聞です。1864 年 7 月に North-China Daily News が創刊されると、 North China Herald は週刊になり、土曜日に刊行され、 North-China Daily News の補足の 形を取ることになります。そして 1941 年に太平洋戦争が勃発したときに廃刊となりました。 1919 年 5 月 4 に始まる「五四運動」 (The May 4th Movement) について書かれたページ
    The May 4th Movement
    でも North China Herald の記事を引用しています。かなり影響力があった新聞のようです。
  2. モルヒネはアヘンから製造しますが、
    Morphine - Wikipedia
    によれば、製造過程で sulphuroic-acid が必要であると書いてあります。 これはタイプミスで硫酸 (sulphuric-acid) ではないかと思います。更に 水酸化アンモニウム (ammonium-hydroxide, アンモニア水) もしくは炭酸ナトリウム (sodium-carbonate) が必要です。当時、このような物質は化学工業地帯以外では入手できなかったと思います。 つまり、モルヒネ工場は化学工業地帯にあり、しかもアヘンの生産地に近い場所にあった。 ドイツ製の機械があればモルヒネの大量生産ができたようですから、原料さえあればよい。
  3. (追加) あとで読み直してみると、言葉足らずであった点に気がつきます。 硫酸と水酸化アンモニウムは化学肥料の工場でできます。化学肥料の工場を作れば、 そこに住んでいる人たちにとって見ればとてもありがたい話ですが、モルヒネ製造の原料ともなりますから これは諸刃の刃であることになります。

もう少し上の文章からわかる点があります。「ヤクの運び屋」は麻薬中毒の可能性が高いです。 (今回色々と英文のページを探しているうちに常識になりました、) そこから判断すると、このページが書かれた頃台湾ではモルヒネが流通しており、モルヒネ中毒が 増えていたことがわかります。一般に「アヘン」の消費が少なくなったからといって 「麻薬の根絶」に近くなるわけではありません。「中毒地帯」では「アヘン」 の代わりに「モルヒネ」や「ヘロイン」の消費が増えることがあり、一般にはこうなる場合のほうが 多いようです。 従って上の文面だけから、この記事が書かれた頃「台湾」では「アヘン」の代わりに 「モルヒネ」が取って代わろうとしていることが非常に高い確率で断言できます。

何ゆえ、ここまで書いたのかというと、日本語の Wikipedia を調べているときに 「後藤新平」 ( 後藤新平 - Wikipedia) という人物に行き当たりました。「後藤新平」は台湾で「阿片漸禁策」 を取り、「アヘン」を成功裏に根絶したと書かれていました。 単に「アヘン」の代わりに「モルヒネ」になっただけと考えるほうが自然です。 日本語の Wikipedia では後藤新平が台湾総督府民生長官となったのが 1898 年で、 1906 年に南満州鉄道の初代総督となったとしています。 ニューヨークタイムスの新聞記事は 1919 年です。 従って、台湾においては麻薬の撲滅はおよそありえなかったであろうと断言して 差し支えないと思われます。 麻薬中毒は横行していたはずであり、日本国政府の金の卵の一つであったと想定されます。 素直に判断すれば「後藤新平」は台湾を食い物にする政策を提唱したのです。 個人的な事実ですが、子供のときに、終戦まで台湾にいた人から「台湾には 麻薬中毒が多かった」という話を聞いた記憶があります。

あとで「後藤新平」のことに関していくつかの記述を見つけました。「アヘン帝国」の一番最初に引用した本の紹介ページ

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945)

では、元の本から次のように引用しています。

1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。一時期アヘンの売り上げは台湾政府の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

「御用紳士」とは何のことか意味が不明ですが、日本の統治に協力をした 台湾人のことではないかと思います。 少なくともこの文章から日本語の Wikipedia の「後藤新平」の記述が不正確であることがわかります。 また本の著者であるジェニングスは 「二反長 (にたんおさ) 音蔵 (おとぞう)」のことも書いているようです。 変わった名前の日本人で、漢字がわからず閉口しましたが、何度かトライして 正確な漢字にたどり着きました:

二反長音蔵 - Wikipedia

これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

後藤新平の阿片商売

によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は

そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

注意: ここの一九八五年も一八九五年のミスタイプです。
としています。このことに関しては別のページ
読者のページ~2005年4月~
(このページでは「二反長半」による「音蔵」の伝記などを参考にしています。)

にも言及があり信頼できると思われます。しかも、このページには次のようなことも記されています。

 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

Opium throughout history

には次のような記述があります。

1878 年に英国は、アヘンの消費を削減する目的で「アヘン法」(Opium-Act) を 成立させた。新制度の下では、アヘンの売却は、登録された中国のアヘン喫煙者、 登録されたインドのアヘン食者に限定された。一方、ビルマではアヘンの喫煙は 厳格に禁止された。

訳注: インドではアヘンを食べたようです。

従って、台湾における「アヘンの専売制」は まさしく英国が植民地でしていたことの真似に他ならないことがわかります。 また文中で中国のことが出てきますが、これは中国における英国の植民地 (上海、香港など) の ことを指しています。また「アヘンの専売制がアヘンの消費の削減に役に立つ」などという、 ふざけた論理は英国の主張の受け売りであることも明白です。

もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから

台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、 「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ? 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。

注意
一般に通常の方法では、植民地はもうかりません。 一応これは一般的によく知られた話だと思うのですが、念のため その一つの例を挙げることにします。 ジブラルタル - Wikipedia は現在でも英国の植民地です。かなり以前の英字紙で英国はジブラルタルをスペインに 返却したいらしいと書いてありました。往時はここは戦略上の拠点だったのですが、 近年は、英国政府からすると金食い虫になっており、領有権を手放すほうが経済的に 得策であるようでした。しかし、住民投票の結果は英国領であること望む声が多かったのです。 英国領であるほうがよい生活ができるからのようですが、逆に言えば英国からすると 経済的な損失となるようです。

最後に、ニューヨークタイムスの記事で思いつくことを色々列挙します。

  1. 一般に、日本語の Wikipedia では、第二次大戦に関する記述はとても不自然です。 「阿片漸禁策」によって、麻薬の根絶ができるわけがありません。 しかし、ここに述べているようなことは日本の報道では一切否定されることが目に見えています。 後藤新平は東京放送局 (のちの NHK) の初代総裁 (1924 年) になったようですから、とりわけ NHK はあくまでも否定するはずです。

  2. 1912 年のハーグにおける国際条約 ( 万国阿片条約 ) について、一点付け加えます。 第一条では加盟国は「生アヘンの生産と流通を制限するための効果的な法律ないしは規則を制定する」 ことが義務付けられているようです。日本もその条約の加盟国であったため、見かけ上は条約を遵守する立場で あったはずです。従って「アヘン専売法」にせよ「阿片漸禁策」にせよ、見かけ上は麻薬抑制を目的としたもので あるとされたはずです。
  3. 青島はドイツの租借地でしたが、第一次世界大戦が始まるとすぐに日本に占領されます。 ニューヨークタイムスの記事から判断すると、その直後から青島経由で、モルヒネを中国に 持ち込んでいたと考えるほうが自然なようです。 従って日本軍は占領すればすぐにも麻薬の活動を開始した。 一方でドイツは各国が万国阿片条約の批准を遅らせるようにしむけています。 従って、ドイツも麻薬で儲けていたと考えるほうが自然で、 そのため青島はドイツの麻薬ルートであった可能性があります。従って青島占領と共に日本がその麻薬ルート を引き継いだと考えることもできます。無論規模を拡大したことは言うまでもないことです。
  4. ここで引用されているニューヨークタイムスの記事はとても有名なようです。他でも引用されています。
    The Japanese Drug Supply (日本の麻薬の供給)
アヘン帝国の興隆 -- 朝鮮

以下述べることには「興亜院」が登場します。例によって年表を付け加えます。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1919 ベルサイユ条約
1918 - 1922外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1922 日本は中国に青島を返還
1920 年代 中国北東部で日本の商人たちが麻薬取引
1929 世界恐慌
1931 満州事変
1932 満州国設立
1933 国際連盟から脱退
1936 興亜院の設立
1939 里見機関の設立
独、ポーランド侵入
1941 真珠湾攻撃
1945 日本の降伏
Korean Opium for Japan's Wars (日本の戦争のための朝鮮のアヘン)

における、朝鮮に関する記述に移りましょう。書いてある内容は以下の通りです。

朝鮮北部ににおけるアヘン畑に関してはほとんど報道されていない。 (日本による) 占領下では 朝鮮の北部で農民たちは強制的にアヘンを生産させられていたが、 これは中国における「アヘン作戦」のためであった。 この秘密の「アヘン作戦」は 日本の公式な組織である「興亜院」 (China Affairs Board) の命令のもとに 東京政府の国策として完全に承認されて実施された。

訳注 : (1) アヘン畑というよりケシ畑というほうが正確ですが、原語でアヘン畑 となっています。雰囲気がよく出ていると思います。
(2) 原語では China Affairs Board となっていますが、興亜院 のことと思われます。これはあとで確認できました。 (「Japan Times に載った記事、その 1」をご覧ください)

興亜院は中国における占領地の政治、経済、文化面の責任を取った。 興亜院は近衛文麿 (Prince Konoye) と 当時の戦争、海軍、経済、外交に関連する省の代表によって運営された。 日本のアヘン取引は中国人の抵抗する意思を弱体化し、そして 日本の軍事、経済進出の資金を提供することを目的とした。
訳注 : 「アヘン取引」という訳語はよくないかもしれません。原語は「opium trafficking」で、 ずっと犯罪色が強いような気がします。

アヘンの生産地は現在の北朝鮮のようです。 現在の北朝鮮による麻薬の輸出と何らかの結びつきがある可能性があります。 「興亜院」は昭和 13 年 (1938 年) にできた組織で、 「政務・開発事業を統一指揮する為に設けられた」ようです。 従って、それ以前から「アヘン作戦」は実施されていたと考えるほうが適切で、 「朝鮮」においては日韓併合の直後からこのような活動があったと考える方が自然です。

日本語の Wikipedia によると、興亜院の長は総裁で内閣総理大臣が兼任しています。従って「アヘン作戦」 は日本国政府の方針です。

さて「アヘン作戦」とはどのようなものなのでしょうか ? 上で引用したページには 記述がありませんが、色々な英文のページから判断するとつぎのようなものです。

  1. 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)
  2. これでアヘン中毒を蔓延させます。
  3. ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
  4. 占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。
  5. これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。

これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

最近では暴力団もあまり表立って、こんなことをしませんが、 麻薬中毒にしておいてから搾り取るのは基本的に暴力団の手口です。 だからこれは「麻薬テロ」です。そして、これが日本国政府の国策であったようです。 従って、当時の日本は「国」とは呼べないと思います。むしろ「暴力団」と呼ぶべきで、 「戦争」によって「占領地」が増えるというよりは、 「暴力団の抗争」によって「麻薬取引の縄張り」を広げるものであったと言ってよいと思います。 その意味からは「興亜院」は暴力団の組事務所の規模を大きくした組織で、 当時の日本の内閣総理大臣は「暴力団組長」と考えたほうが事実に近いと思います。

「アヘン帝国」の最初に引用した本の紹介ページ

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945)

には「朝鮮」に関することも記述していることに気がつきました。付け加えます。

朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。
注意
  1. 1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。
  2. 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。 ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。 おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。
  3. 1929 年頃から、日本は朝鮮でモルヒネ使用を抑制しようとしたと書いてあります。 しかし本当の意図がそうであるか否か少し疑問です。 1929 年は世界恐慌が起きた年で、これ以後世界的に麻薬が売れなくなり、価格が下落するためです。 1932 年に満州国ができ、中国侵略が開始されるのもこの世界恐慌の影響だと思われます。 あとでわかりますが、このときに満州国では数千人以上の朝鮮人の麻薬の売人が投入されます。 すると、満州帝国が設立された頃、麻薬の活動の中心地を 朝鮮から満州に移動したようです。 しかし、麻薬中毒が一瞬にして消えうせることはありえませんから、 朝鮮内部でもある程度の麻薬の活動が残ったと思われます。
  4. 朝鮮のモルヒネが中国で売りさばかれたことに関して次も注意する必要があります。

    対華21ヶ条要求 - Wikipedia (1915 年)
    これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。 この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

    「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。

少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)

朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。

日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。

つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

1905 年に日本が朝鮮を保護国にしたという記述は次にも見られます。

朝鮮の歴史 - Wikipedia

この件に関しては次も参考にする必要があります。

桂・タフト協定 - Wikipedia
(米国がフィリッピンを手に入れ、日本が朝鮮を手に入れる。日米間の秘密協定)
アヘン帝国の勝利 -- アヘン撲滅運動とその敗北

最初は次のページ

The Tarnished Crusades (汚れた聖戦)

の最初の部分だけ読んで記述していましたが、このページに書かれていることは とても多く、簡単に判断できないことに気がつきました。 全部に目を通そうとすると、とても大変なので、最初の主だった箇所を翻訳することだけにすることにします。

1906 年、中国政府はアヘン撲滅運動を開始し、アジアにおける麻薬取引の進展に関して、 3番目の大きな流れが開始された。英国政府が公認してきた麻薬取引がついに消えうせ、一時的にではあるが、 徹底的に (アヘンが) 消えうせた。しかし、アヘンが希少となるにつれ、 そしてそのため金を使いまくる麻薬中毒者が代替物を渇望し、更には病気の治療で探し求める者が増えるにつれ、モルヒネ、 ひいてはその派生物であるヘロインが登場することとなった。 また、中国のアヘンの供給が一時的に停止したため、東南アジアの麻薬取引のパターンが変化した。

1906 年の皇帝の布告により、10 年間で中国のアヘン問題を撲滅することが発表された。中国の外交官である Tang Shao-yi は、彼自身がアヘン中毒から社会復帰した人であり、すでに 1904 年に英国政府と交渉を 始めていた。英国帝国政府は 1908 年に有効となる条約を締結し、インドから香港、中国へのアヘンの 輸出を徐々に減少することに同意した。 しかしながら。多くの英国政府の官僚は -- とりわけインドを支配していた官僚は -- この決定に心から歓迎したわけではなく、効果的な撲滅運動に関しての中国の決意と能力に疑念を表明し続けた。 中国で (アヘンを) 製造するようになってからは、インドの (アヘンの) シェアが減少し、 アヘンはもはや、中国貿易で重要なものではなくなっていた。しかしインド政府はまだ中国にアヘンを売ることによって 年間 300 万ポンドの収入を手に入れていた。インドの経済省の言い分では

もしも、我々が長年の間甘受しつづけた収入を犠牲にしてまで、中国政府に協力することを 要請されるのであれば、我々としても、我々の利益となるように極力配慮し、我々に不都合とならないような 方策を取る事を要求する権利を持つ。

英国帝国政府は、中国政府が外国のアヘンを差別するような方法を取るのであれば断固反対をすると主張した。 この事実は、英国は、政府の利益のための「アヘン専売」の技を完全なものとしていたが、 中国政府が、輸入したアヘンあるいは国内で産出したアヘンを統制し、削減することを目的にして 「アヘン専売」を導入することに、断固として反対したのである。 撲滅運動が開始された年には、中国がアヘンの販売を制限したため、 アヘン商人たちが怒り狂ってわめきたてた事件が随分あった。アヘン商人たちが英国政府の官僚の庇護を受けている点に関しては ほとんど変化がなかったのである。

アヘン撲滅運動は 1911 年の革命以前に中国政府が取り組んだ 全ての改革の中で最も成功したものであった。 非常に多くのアヘン屈が閉鎖され、そして多くの場合に、地方官僚は効果的に行動して、(ケシの) 栽培を除去した。 撃退運動が力を強め、(アヘンの) 供給が少なくなると、結果として価格が高騰した。 儲けることを視野において、英国は、インドから中国への輸出を制御することはせずに、単に削減することを 同意したのみであった。 この違いは明白で、インドからの輸出は 1907-1911 年において、実際は若干増加したのである。

にもかかわらず、英国政府の態度には変化が起きていた。 1909 年、上海で国際会議が開かれ、植民地支配の国に対してアヘンの貿易を中止するように 圧力が加えられた。 英国政府の官僚たちは、中国の (アヘン) 撲滅運動が効果を示していることの証拠を提供し、 より懐疑的な同僚たちも無視することができなくなることになった。 インド政府でさえ、アヘン商人たちの不満をあびせかけられていたものの、もっと急速に禁止することに あまり反対しなくなっていった。

訳注: 1909 年の上海の国際会議に関しては THE HISTORY AND DEVELOPMENT OF THE LEADING INTERNATIONAL DRUG CONTROL CONVENTIONS を参照のこと。 万国阿片条約 - Wikipedia には「万国阿片委員会」として紹介されています。

その結果、1911 年に中国と英国はインドのアヘンを輸出することに関して、より厳しい制限を加える 2番目の条約を締結した。更に、英国と中国の合同の視察で、域内における (アヘンの) 生産が 中止された省に関しては、英国のアヘンは排除された。 1911 年から 1915 年にかけて、中国のほぼすべての省から、少々性急な視察があるにせよ、ないにせよ、 外国のアヘンが消えうせた。インドから密輸されるアヘンが少々表面化することは あったが、大規模な公的な (アヘンの) 貿易は終に終焉を迎えたのである。

利用できるアヘンの量を削減することに伴い、中国の撲滅運動は大量のモルヒネの 登場を招くこととなった。このモルヒネはヨーロッパにおいて中東のアヘンから精製されたものであった。 モルヒネはアヘンの主要な麻薬成分であるが、モルヒネ中毒の危険性に関してはすぐには 気づかれることがなかった。1880 年代には中国におけるヨーロッパの宣教師は、アヘン中毒の 治療のためにモルヒネを使用し、「イエスのアヘン」と名前が付けられていた。1902 年に至るまで 中国へのモルヒネの輸出には制限が加えられなかった。.....1903 年以降、重税が課せられ、 流通が地下にもぐった。

撲滅運動の最中に、モルヒネは治療法としても麻薬としても使用された。 モルヒネはアヘンの喫煙者よりも発見が難しかった。 もっと重要な点は、モルヒネはアヘンよりもずっとよく効き、密輸するのにとても簡単であったため、 極端に安かった。1909 年、英国政府の化学者はモルヒネを飲み込めば、アヘンの喫煙と同じ麻薬効果がある -- しかし 10 分の 1 の値段で -- と報告している。 中国の中毒者はモルヒネを飲み込んだり、吸ったりすることを好んだが、注射器を使えばもって安くなった。 注射器では 1 オンスのモルヒネは 1000 回分 から 2000 回分になる。しかしながら、一般に、 中国で最も貧しいものが麻薬を注射器で摂取した。

最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

......中略 .....

中国は一つの国ではなくなった。北京で中国政府を主張する政府 (軍閥、warload) がいくつも現れ、 ますます弱くなり、ただ名前のみとなっていった。 軍隊には資金が必要であった。1918 年における見せかけの政府は、 よく儲かるアヘンの取引の復活を奨励した。.... 中略 .......

英国領インドが、中国市場へアヘンを輸出することを停止することについに余儀なく同意したが、 東南アジアの他の植民地の「(アヘンの)専売」に (インドのアヘンを) 売ること、および 東南アジアの他の植民地の「(アヘンの)専売」が (中国に) 輸出することに関しては このような制約が課されてはいなかった。 そのため (アヘンの) 商売が繁盛した --- 中略 --- 植民地国家が麻薬の取引に関しての国際的な非難を無視できなくなったとき、 政府の (アヘンの) 専売はアヘンの制御のためであると宣伝され、 公的に推し進めることによって、利益を得続けたのである。 ---- 以下略 ----

上の話に続いて、辛亥革命後の中国各地の軍閥 (warload) の話、上海のヘロイン、外国人が果たした役割、 蒋介石の話などが続きます。あまり長くなるのでここらでおしまい。

追加
文中で出てくる Tang Shao-yi の漢字表記は 唐紹儀 のようです。
  1. Tan Shaoi - Wikipedia
  2. CAMPAINS: China Man - Time

これは中国の側から見た事件の姿です。日本の側から見れば、麻薬王(二反長音蔵、後藤新平、星一) あるいは製薬会社の策謀が見えるだけなのですが、...いずれにせよ、アヘン帝国が中国の 「アヘン撲滅運動」に勝利したことになります。「このとき歴史が動いた」のです。

Opium throughout history

によれば、1843 年にエジンバラのアレクサンダー・ウッド (Alexander Wood) 博士が モルヒネを注射器で摂取する方法を発見したとのことです。 最初は、医療目的であったようです。上の記事と比較すると「モルヒネを注射器で摂取する方法」 はすぐには広まらなかったようです。注射器を大量生産していなかったためかもしれません。

syringe - Answers.com

によると、注射器の大量生産は 19 世紀後半に始まるようです。

英国は、インドのアヘンを中国領には持ち込まなくなりましたが、 植民地 (上海、香港) などではアヘンの専売制を続けています。

アヘン帝国の支配構造

「満州帝国」(manchukuo) と「アヘン」(opium) を AltaVista で検索すると色々なページが検索されます。 例えば、

Annotated Bibliography Part 6

ここには次の本が引用されています。 (題目は「日本とアヘンの脅威」とでも訳すべきです。)

Merrill, Frederick T. Japan and the Opium Menace.
New York: Institute of Pacific Relations and the Foreign Policy Association, 1942.

この記事の一部を翻訳します。これは 1938 年の 5 月初旬の日本軍の占領下における中国中部のアヘンの事情に関して まとめた部分です。 完全に事態を把握できていないので、うまく翻訳できませんが、 恐るべきことが起きていたことがはっきりします。

記事の翻訳をする前に少し予備知識が必要です。 1937 年 12 月に日本軍が南京を占領し、その直後、かの有名な南京大虐殺がおき、 数ヶ月後の1938 年 3 月 28 日に南京に傀儡政権

中華民国維新政府 - Wikipedia

が設立されています。記事の内容はこの 1, 2 ヶ月後のことで、中国中部と言っているのは南京の傀儡政権の統括する地域 (江蘇省、浙江省、安徽省 + 南京市、上海市)のことでしょう。

Wikipedia の地図から作成した地図

また記事の中では、麻薬が大連と天津から輸入されたとしています。日本語版の Wikipedia によると北京に傀儡政権

中華民国臨時政府 (北京)

が 1937 年 12 月 14 日に成立したとあります。英語版の Wikipedia には統括地域は

河北省、山西省 + 北京市、天津市 + 一部の内モンゴル

とあります。ここに天津市が含まれていることに注意します。以上で予備知識はおしまいです。記事の内容に移りましょう。

  1. 中国政府によって設置されたアヘン撲滅のための 政府部局が日本人もしくは日本人によって 設置された傀儡政権の干渉によって事実上機能が停止した。
  2. アヘン、ヘロイン及びその他の麻薬の輸入が 完全に自由になった。 ありとあらゆる大量の麻薬が -- とりわけ日本の支配下にあった大連と天津から -- 輸入された。
  3. アヘンとその他の麻薬は問題としているすべての地域に 自由に配布され、例えば南京のように、 それまではまったくアヘンが見られなかった地方や都市で公然と 取引されるようになった。
  4. アヘンの専売事業は、日本人と朝鮮人のアヘン組織の系列に 集約された。彼らは日本政府及び傀儡政権と親密な関係により、きわめて強力であった。 新たに組織化された中国のアヘン組織は、 一つの都市全体 -- 例えば蘇州市 -- の麻薬ルートの統括をまかされた。
    訳注   訳しにくいので「アヘン組織」としましたが、原語は opium ring です。opium は「アヘン」で、ring は「ギャング」の 意味です。だからこれは「アヘンを扱っている暴力団」の意味です。
  5. アヘンや他の麻薬の末端の売人には、中国の最も低い身分に 属し、日本の植民地である上海にいた者が採用された。 彼らの多くは犯罪者であった。 この麻薬販売の特徴点は、売春婦をしばしば雇ったことにある。 売春婦たちには中国籍のものも日本籍のものもおり、 また日本兵によって連れまわされて破綻した中国の女性もいた。
    訳注   日本籍のものには、台湾人も朝鮮人も含まれることに注意してください。
  6. 日本によって設置された傀儡政権は麻薬取引の 収益を公然とアヘン窟のライセンス料として徴収したり、 支配的なアヘン組織からの上納金として獲得した。 多くの中国人の地方官僚は麻薬売買に直接関与することで 報酬を得た。
  7. アヘンやその他の麻薬は、中毒していない人や 麻薬摂取をしたくない人にも強制的に摂取させた。 アヘン摂取に関してのプロパガンダ (訳注  健康によいなどのでまかせ) があり、 中国の労働者は頻々として麻薬の形で給料の一部を受け取っていた。
  8. このような事態の結果、アヘンと麻薬の消費は急激に増大し、 麻薬中毒が広範囲に広がることとなった。

この記事からわかることは、日本政府は麻薬を売るために、 日本や朝鮮の暴力団組織を使って麻薬ルートを作り、麻薬の直接の売人は 中国の暴力団を使ったことがわかります。上の記事には直接「暴力団」とは 書いてありませんが、麻薬の売買を常日頃から手がけている人たちを使ったことが 明白で、日本語ではこのような人は暴力団と呼ばれると思います。 (英文のページには「ヤクザ」の記述も見られますが、最近の日本語では「ヤクザ」 とはあまり言わずに「暴力団」と言っていると思います。)

注意
あとで、わかりますが満州では何千人もの朝鮮人がアヘン屈で働かされていました。 従って、ほぼ確実に、満州の売人たちが中華民国維新政府の統治下に投入されたようです。 麻薬の売人は麻薬中毒になる可能性が多いです。そのため、直接日本人を売人にすることはなかったようです。
追加
満州の売人たちが投入されて理由は、つぎのように考えると説明ができます。 まず世界恐慌により麻薬の価値が下がり、 朝鮮半島の麻薬の売人と関東軍の収入が激減し、 その結果、満州に進出し、満州国が設立されます。 このとき、朝鮮半島の麻薬の売人は関東軍と行動を共にします。(こうしないと飯が食えない) しかし、満州国においては農民たちの骨の髄まで絞るようなやりかたで、 麻薬で絞りたてますが、おそらくこのようなことをすると社会全体が貧しくなり、 結果として、麻薬の売れ行きがじり貧となる可能性があります。 また世界恐慌後も麻薬の単価がどんどん下がった可能性もあります。 こうなると再び、麻薬の売人と関東軍の収入が減ることになり、 新天地を求めて、日中戦争を吹っ掛けた可能性があり、 占領地で再び満州でしたことと同じことを繰り返そうとしたと考えられます。 麻薬の単価が下がっていれば、よりひどいことをしなければならなかった可能性があります。

また各「暴力団」は一つの (都) 市を縄張りとして与えられていることがわかると 思います。したがって、今日の広域暴力団の下部組織に類似しています。

最初に、この記事を読んだときは愕然としましたが、よく考えてみれば当たり前で あることがわかりました。末端の麻薬の売人はギャングないしは暴力団です。 普通の人が麻薬の売人にはなれませんから、これは当たり前です。 通常、商品の流通過程では「卸」があって「小売」があります。 末端の麻薬の売人は「小売」です。「卸」になることが出来る人は普通の人でしょうか ? まず間違いなくギャングないしは暴力団で、当然、広域暴力団の構造と似ることになります。 末端の売人は中国人に売るのですから、中国人の方がよいですが、「卸」の売人は、一応誰でも儲けたいですから 日本人ということになりそうです。これも広い意味の日本人 (朝鮮人、台湾人) でよいはずです。

文中には日本人、朝鮮人が登場しますが、これは恐らく麻薬の産地の理由からです。 あとで見るように、満州における麻薬の産地は熱河省と吉林省です。

天津は熱河省に近いので、文中に登場する天津経由のアヘンは熱河省のアヘンのようです。 あとで見るように満州には何千人もの朝鮮人がアヘン屈で働かされていましたから、 麻薬の「卸」を担っているのが日本人であっても朝鮮人であっても不思議ではありません。

さて大連経由の麻薬はどうでしょうか ? 近くには吉林省があり南満州鉄道で結ばれています。 しかし、今まで見てきたように北朝鮮にはアヘンの産地がありました (場所は不明ですが、モルヒネなどの 理由から、あるとすれば、鴨緑江南部の重化学工業地帯の近くです)。 しかし、満州国ができてから以後は麻薬の活動の中心地が、朝鮮から満州に移動したようですから、 多分、吉林省の麻薬だと思われます。

注意
国と暴力団とのかかわりは、それほど不自然ではありません。 現在の北朝鮮のことを思い出してください。北朝鮮は麻薬を輸出していますが、 その日本における窓口が北朝鮮系の暴力団であることはよく知られていることです。 このため北朝鮮系の暴力団は資金面で祖国に貢献していることになります。 この点から第二次大戦前および戦中の日本は現在の北朝鮮と似ているといえるかもしれません。
アヘン帝国の支配者たち

この項目は、「満州国」に関するもので、直前の「アヘン帝国の支配構造」は「中国中部」に 関するものです。最初にこれを書いたときは地理的な違いに気がつかずに書いていました。 しかし、どの地域でも末端の麻薬ディーラーは中国人のようです (当然ギャング、あるいは暴力団)。 そして、中間に「卸のディーラー」がいます。「アヘン帝国の支配構造」では、これも (朝鮮もしくは日本の)「暴力団」です。 常識的には「満州国」の「卸のディーラー」も暴力団であったと考えるほうが自然です。以下これを前提にします。

事実をまとめるために、もう一つの記事を引用します。英語版の Wikipedia で 色々調べているうちに、1 週間以内に途中で次の記事の内容が変わりました。

Economy of Manchukuo (満州国の経済)
アヘンに関する箇所はこのページの下の方にあり、次をクリックすると該当箇所に行きます。
Economy of Manchukuo (満州国の経済のアヘンの項)

最初はこの記事にアヘンの内容が記載されて いませんでした。少し妙だと思ったのですが、色々調べていくうちに記事の内容が 基本的に変化しました。現在のページにはアヘンのことが記載されています。 但し「この記事が正確かどうかに関しては議論がある」(The factual accuracy of this article or section is disputed.) の一文が付けられていて、以前のページにリンクが張ってあります。 (追加:2009 年 10 月にはこれは消えています。正しいと判断されたようです。) 以前のページには今述べたように英語圏では常識化している満州帝国のアヘンの記述がありませんから、 現在のページの方が信頼性があると思われます。 決定的な個人名が登場します。少し紹介をします (翻訳)。 1932 年の 3 月 1 日に満州国ができていることを予備知識にしてください。

1932 年 の 11 月には組織化されたアヘンの専売があり、 三井財閥が、さもこれが国内における麻薬の多量の消費を抑える目的のためとか称して、アヘンを栽培していた。 固定された栽培地が熱河省と吉林省の北西に設定された。 1934-35 年の間の栽培面積は 480 平方キロメートル、1 平方キロメートルあたり 1.1 トンを生産していたと評価されていた。 また、多くの非合法の栽培もされ、非常によく儲かるため、この危険な麻薬を効果的に抑制することに障害となった。 秘密の日本人の商人のグループである "Nikisansuke" が関与した。

このグループは以下から構成されていた。 (訳注 : 英文の Wikipedia 内にリンクが張ってあって日本語表示があるものは日本語表示もつけています。)

  1. Hoshino Naoki(星野 直樹) (noted Japanese Army thinker)
  2. Tojo Hideki (東条 英機) (Japanese Army politician and leader in nation)
  3. Kishi Shinsuke (Merchant and right-wing supporter)
  4. Matsuoka Yosuke (松岡 洋右) (Japanese Army follower and foreign affairs minister)
  5. Aikawa Gisuke (Japanese Chairman of Manchukuo Zaibatsu)
  6. Kuhara Fusanosuke (Right-wing thinker)

専売は、1 年あたり 2000 万円から 3000 万円の利益を生み、満州国の産業発展に資金供給をした。

軍隊は兵士によるアヘンと麻薬の使用を禁止したが (これを破れば、日本の市民権を剥奪された)、 劣等種族の士気をくじくために使用することには許可を与えた。

関係者の一人である星野 直樹は満州国のアヘン専売局の儲けを抵当にして、 日本の複数の銀行から多額のローンを取り決めた。 別の当局者によれば、満州国の分も含め中国全体の麻薬の収入は日本軍によって年間 3 億円と評価されている。

類似の、アヘン専売制は日本が支配したアジア全体にあった。

  1. アヘンの産地は以下の通りです。


    以下は英語版 Wikipedia の 満州国の地図 の縮小図です。日本語で書かれた地図です。
  2. 「商人」(merchant) は少し変なのですが、あとで別の理由が判明します。 「Japan Times に載った記事、その 4」をご覧ください。 しかし、次のように考えてもよいです。ギャング映画でギャングのボスがマーチャント(merchant、商人) と呼ばれていれば、 ほとんど確実に「ヤク」を扱っている奴のことです。 映画ではギャングたちはビジネス(buisiness、仕事) という言葉もよく使います。これは「ヤク」の取引です。 英語は使われる局面で意味が基本的に変化してしまいます。今、麻薬の話をしています。裏世界の話です。 だから、この場合にマーチャント(merchant、商人) は特別な意味を持つことになるのです。

秘密の日本人の商人のグループの "Nikisansuke" とはいったい何のことでしょうか ?

私立PDD図書館、百科辞書、「に」

には次のような解説があります。

「にきさんすけ」(ニキ三スケ) とは
満州の実力者のことで、東条英機星野直樹の「二キ」と、 鮎川義介(ヨシスケ)岸信介(ノブスケ)松岡洋右(ヨウスケ)の「三スケ」

としてあります。「満州の実力者」と書いていますが、 実のところ英文の Wikipedia のニュアンスからは「アヘンの流通の独占」を目的としたグループと読み取った方がよく、 「ヤクの帝王」と呼ぶほうがふさわしい人たちです。 英語版の Wikipedia の方は一名多く、日本語表示から「岸信介」 が入っていることがわかります。英文のほうは読みが正確でないのではっきりしませんでしたが、 これでようやく事実が明らかとなりました。

これが、満州における麻薬の下部組織を統括する中枢であったようです。 すなわち、日本軍の支配する満州における麻薬の流通組織は 今日の広域暴力団とよく似ており、その中枢が「ニキサンスケ」であったわけです。

冷静に考えると「暴力団」と「軍隊」の間の垣根が低く、 「政府」と「暴力団」の垣根も低い非常に異常な世界です。 「軍隊」や「政府」の発想も「暴力団」にきわめて近く、むしろ国ごと広域暴力団であったと 言ったほうが的を得ているような世界ではないでしょうか ?

日本が占領した「他のアジア」の国でも麻薬の専売制があったことから判断をすれば、 「大東亜共栄圏」とは実のところ「アジアの人々をヤク漬け」にすることを 目標としたものであったことになります。

「ニキサンスケ」の記述は

The Japanese Drug Supply (日本の麻薬の供給)

にも見られます。ここでは次の本から引用しています。

John G. Roberts, Mithui: Three Centuries of Japanese Buisiness, Weatherhill, New York, 1991
(表題の訳,  三井 : 日本のビジネスの 3 世紀)

表題の「ビジネス」には皮肉が込められています。三井はまっとうな「ビジネス」をしていたときも あるが、裏世界の「ビジネス」をしていたときもある、と言っているのです。 引用されている箇所を、ここでもそのまま引用します。

星野により設立されたアヘン専売局により、 アヘンは満州国政府の重要な収入源であった。 それに先立つ 100 年前の中国の別の場所で英国がしたことの例にならい、 関東軍は社会の抵抗を弱めるためにアヘンを使用し、 更に満州国と中国の占領地で意図的に麻薬中毒を奨励した。

新たに麻薬中毒を作る方法はモルヒネを含んだ薬の配布、あるいは 人気のあったタバコ「ゴールデンバット」の特別仕様 -- 吸い口に少量のヘロインを含んだもの -- の配布であった。 これらの色々な麻薬は、三井やそれ以外の商社がきわめて 合法的にアヘン専売局に提供していた。その結果 不幸な犠牲者に幸福感をもたらすとともに ニキサンスケの悪党たちにも幸福感を与えることとなった。 なぜなら、これにより年間 2000 万円から 3000 万円の収入が 得られ、満州国の産業開発の資金源となったためである。 (これは 1948 年の東京裁判で提示された証言に基づいている。)

東京裁判の証言では更に、星野は満州国のアヘン専売局 の儲けを留置権の形で抵当に設定し、日本の (複数の) 銀行から 多額のローンを取り決めた。別の当局者は 満州を含む中国における麻薬化政策からの収入は 日本軍によって年間 3 億円と評価されていると言っている。

アヘンの専売制を導入したのはどうやら英国が最初のようです。 「ニキサンスケ」とか、3 億円の収入とかいったものは 東京裁判での証言に基づくものであることがはっきりしました。なお、上のページでは 「2 キ 3 スケ」では 4 人の「スケ」をあげており、 英語版の Wikipedia の記述と同じになっています。

更に又、次の本からも引用しています。

Violet Sweet Haven, Gentleman of Japan : A Study in Rapist Diplomacy, Ziff-Davis, New York, 1944

これもそのまま引用することにします。

占領地で野火のように広がっていく 危険な中毒を放置することが、薦められることであるかどうかを東京の自由主義者が 問題にしたとき、この考えは直ちに踏みにじられてしまった。 儲けが絡んだ場合のよくある話であった。 ハルビンや大連の麻薬工場は三井および Suzuki 銀行によって 資金が提供され、ドイツ製の機械が設置された。

... 1931 年の満州占領時に、日本は、より速く利く麻薬、ヘロインと モルヒネを導入し、中国人をより速く堕落させた。 侵略の結果日本軍にわかったことは、 アヘンを吸っている中国兵は真っ先に降伏し、 奉天の麻薬常習者は一般市民の中で、もっとも問題がないことであった。

日本の傀儡政権である満州は、今日、世界中の合法的なアヘンの供給の 20 倍を生産しており、 真珠湾攻撃の前には、その一部が米国で高値で売られた。 この金で、日本は中国とそして我々と戦うための銃器を購入した。

日本帝国軍は、まだ満州に残っていたアヘン禁止法を停止して、 百姓たちに通常の穀物の代わりにケシを栽培することを強制した。 百姓たちが拒否をすれば、生アヘンが生産された場合に相当する 地税が課せられ、応じることがなければ土地を失うことになった。

日本の将軍達は自分たちにとってアヘンが利益あるものにするだけではなく、 実際には百姓たちが麻薬中毒となるように強制したのである。 アヘンパイプでは、あまり事が運ばないことにいらだって、 将軍たちはハルビンや大連に生アヘンをヘロインやモルヒネに 変える工場を開設した。

日本人が支配するアヘン屈で仕事をさせるために 朝鮮の麻薬の売人を何千人も引きずりこんだ。 まもなくして、豊かな店 (rich store) の 3 倍ものアヘン屈ができることになった。 危険な「白い麻薬」のために、百姓たちはより金をはたき、 より貧乏となった。 売人たちは「新しい種類のタバコ」を最も安いタバコよりも安く売ったり、あるいは無料で配った。 このタバコは最も哀れな人の間で人気が出ることになった。これはお買い得品などではなかった、 それにはヘロインが詰まっていたからだ。そして、麻薬中毒がこの地域全体に吹き荒れることになった。

注意
  1. 文中の「Suzuki 銀行」は何のことか不明です。鈴木商店 のことかもしれません。しかし「鈴木商店」(あるいは「鈴木財閥」) は満州国ができるまえに (世界恐慌で) 消滅しています。あるいは上で述べている麻薬工場は満州国が設立される前に出来ているのかもしれません。 しかし
    The History of Corporate Ownership in Japan (PDF)
    によると鈴木財閥のグループには銀行がなく、資金はグループに属していない台湾銀行に依存しています。 また最盛期には鈴木財閥は大量の小麦を満州から英国に輸出していますから、 何らかの関連があったのかもしれません。
  2. 朝鮮から、麻薬の売人を導入していますが、これは、朝鮮にも麻薬が蔓延していたことを意味します。 しかも、何千人もの麻薬の売人を導入できたということは、 朝鮮における麻薬の浸透状況もかなりひどかったことを意味しています。 従って、満州国において「麻薬の儲け」が満州国の産業開発の資金源になる以前に、 すでに朝鮮半島でも同様であった可能性が高いようです。 日本は朝鮮のインフラ整備に多額の資金を投与したようですが、 おそらくほぼ確実にこれは麻薬のもうけであったと思われます。
追加
  1. 日本が満州を占領したのは世界恐慌によって、麻薬の価値が暴落し、 その結果関東軍の収入が底をついたためと考えることができます。 麻薬の価値が暴落し、麻薬の売人たちの収入と共に関東軍の収入も激減したのです。 そのため、関東軍の満州進出とともにヤクの売人も満州に進出することになったようです。

満州では満州国が成立する以前に、麻薬工場があっても不思議ではありません。 次の理由です。

対華21ヶ条要求 - Wikipedia (1915 年)

この条約の第 2 号の 2 で日本が満州で工場建設をする自由が与えられました。 また第 2 号の 3 で日本人が満州を自由に往来する権利が与えられました。 日本人の中には当然朝鮮人が含まれます。従って、朝鮮のヤクの売人は 自由に満州を往来できたことになります。

最後にこのページでは日本の麻薬プログラムの代表選手を列挙しています。これも付けておくことにしましょう。 (原文には、肩書きや、捕虜収容所で残虐行為にかかわったなど色々書いてありますが、日本語に訳すのが至難なので、麻薬に関連するコメントのみを つけてあります。) 氏名は日本語の Wikipedia へのリンクとなっています。 この人たちの経歴には麻薬とかかわったことが一切載っていません。注意して (あるいは疑いを持って) 経歴を読めば、どれだけドス黒いことが起きていたかがわかります。

麻薬プログラムの代表選手
土肥原賢二 - Wikipedia 満州の軍の麻薬取引に深くかかわった
板垣征四郎 - Wikipedia  
木村兵太郎 - Wikipedia  
東條英機 - Wikipedia  
賀屋興宣 - Wikipedia 占領軍の出費の資金繰りのために
中国人に麻薬を売ることを早くから提唱した。
小磯國昭 - Wikipedia  
南次郎 - Wikipedia  
鈴木貞一 - Wikipedia 日本の中国における麻薬取引にかかわった。
論理的事実から断言できること

「アヘン戦争」の結果、アヘンが中国になだれ込みますが、 麻薬中毒の結果、中国の人々の健康が蝕まれます。しかし実際はこれは重要視されていないようです。 問題となるのは、この結果「銀」が中国から大量に流出したことです。 この理由から中国は英国と交渉して、インドからのアヘンの流入に規制をかけようとしたのです。

アヘン (日本語版の Wiki)

によれば、明治維新後に日本国内でアヘンの規制がおきているようですが、最大の問題点は 人々の健康ではなく、金、銀の流出が問題であったと思われます。当時の貿易は 通常は銀で、密貿易であれ、対価は銀です。国内に銀がなくなれば何も輸入できなくなります。 そのため麻薬の輸入はどうあっても防ぐ必要があったのです。

麻薬中毒になれば、ちょっとした病気でも死ぬ可能性が増えますし、冬が越せなくなることも あるようです。事実、中国では多くの中毒患者が死亡したようです。しかし、当時の感覚では 人が死ぬことさえあまり問題とされていないようで、単に銀が国外に流出しないように することの重要性の方が高かったようです。

では、アヘンの輸出に関してはどうであるかという点ですが、 道義的な問題を意識することなく、平気でしたであろうと思われます。 しかもこうすれば貴重な銀が手に入ります。 いつ頃から、日本は中国にアヘンを輸出していたのでしょうか ? 日清戦争の戦場を思い出してください。

  1. First Sino-Japanese War - Wikipedia
  2. Image:First Chinese Japanese war map of battles.jpg (オリジナルの地図)
日清戦争の軍隊の移動と交戦図 (英語版 Wikipedia の縮小図)

日本は艦船を朝鮮半島、遼東半島、台湾などに展開し、 戦争で勝利を得ています。これは簡単でしょうか ? そこが、日本にとって自分の庭のようであれば、 非常に簡単なはずです。日本の艦船は当時の貿易 (あるいは密貿易) 上の理由から、海路にとても習熟していたと 考えるほうが正しいと思います。そうでなければ、とても戦争をするなど無理な話です。 当時の日本の艦船が移動したルートは恐らく貿易ルートであったと考えるべきです。 つまり、日本は朝鮮半島、遼東半島、台湾などと貿易 (あるいは密貿易) をしていたと判断したほうがよいと 思います。では何を輸入していたか ? これはいくらでもあると思います。 問題は何を輸出していたのかです。輸入だけして、輸出をしないことは有り得ません。 すぐに銀が枯渇します。

ここで、なぜアヘン戦争が起きたのか、その原因を述べる必要があります。 19 世紀前半になっても、世界中でもっとも豊かな国は中国でした。つまり、何でもある国です。 この国から輸入したいものがいっぱいあります。(絹、陶器、おそらくありとあらゆるものです。 ヨーロッパに持っていけばいくらでも売れます。) ところが、英国は中国に何か売るものが あったでしょうか ? 英国は産業革命により、繊維製品が安く生産できるようになっていましたが、 これは木綿です。中国には絹があります。木綿など買うはずないじゃありませんか ? その他、産業革命の結果色々なものが英国でできるようになりましたが、ほとんどどれも 豊かな中国で売れるはずもなかったものです。東インド会社はそのため慢性的な赤字でした。 そしてついにアヘンに手を出したのです。そしてその結果戦争となりました。

注意
  1. 英国と中国の貿易は広東を経由していました。 ここだけが唯一の入口でした。広大な中国から見ればごく一部の物資が貿易の対象となっただけです。 従って、英国からの輸入品を購入する可能性があるのは一部の富裕層で、木綿など 購入する可能性はありえませんでした。しかし、アヘンはすべての中国人が対象となりえます。 アヘン戦争の結果、中国の多くの港が開港されることになりますが、これでも英国製品は あまり売れなかったと思われます。
  2. 今日、麻薬の摂取はよくないこととされ、どの国でも禁止されています。 しかし、これはハーグなどの国際条約の結果、国際的な啓蒙活動があったためであると思われます。 何でも自由なアメリカでは麻薬を禁止する法律を単独では作ることができず、 このハーグの国際条約をテコにして、ようやく法律を作ることができたのです。 麻薬を売ることが人の道に反すると考えるのは現代人の考えです。
  3. 日清戦争以前に、日本の軍隊が朝鮮半島、遼東半島、台湾に麻薬を 密輸していたと次のように考えてもあたりまえです。北朝鮮の軍隊は日本に麻薬を密輸している話は 有名ですが、これは何のためにしているのでしょうか ? 諜報活動の一環と考えることもできますが、 いざ戦争が起きたときの日本上陸のための準備です。日清戦争以前に、日本の軍隊は、 朝鮮半島、遼東半島、台湾に上陸する作戦の準備をしているはずです。現在のようにレーダがなく、 また不審船が発見されても航空機で追跡するなどということは出来ませんから、確実に 上陸作戦の準備をしています。この際に経費が必要となりますから、麻薬の密輸もついでに 実行したことは火を見るよりも明らかです。麻薬は儲かりますから、一度手を染めれば、 あとで足を洗うことは出来ないと思います。
  4. 欧米諸国は中国に麻薬を輸出しなくなります。これは無論麻薬に関しての国際条約の こともありますが、別の側面があります。輸出用に国内で麻薬を生産すると、結局 自国内に麻薬中毒が出現し、国内問題を抱えてしまいます。しかし植民地で生産をすれば、 この危険性があまりありません (無論植民地では麻薬がはびこる)。これは広く知られていたことではないかと思います。 日本も植民地ができれば、本土で麻薬を生産しなくなったのではないかと思います。

産業革命の先進国である英国ですら、豊かな中国に売れるものはほとんどなかったのです。 中国には何でもあったからです。では日本はどうでしょうか ? そう考えればもはや明白です。明治維新後、日本は中国、朝鮮、台湾と貿易 (あるいは 密輸) をすることになったはずです。このときは広東を経由していませんから、 富裕層を対象にした貿易 (密輸) ではなかったとは思われますが、 輸出品の中で多くの割合を占めたものがアヘンだと思われます。 どこの国 (現在の G8) も中国にアヘンを輸出していますから、日本も同様であったと思われます。 当初は国内でアヘンを生産し、その後、台湾、朝鮮、満州が日本に組み込まれていくにつれ アヘンの生産地が植民地に移動していったと考えれば、すべてつじつまがあいます。

追加
前にも引用しましたが
読者のページ~2005年4月~
によると台湾における「アヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていた」ようですから、 台湾ではケシは栽培されなかったようです。 外国 (インド・イラン・トルコなど) や内地におけるケシの栽培 (二反長音蔵) でアヘンを供給したようです。 この時期には麻薬を国内で生産すると、国内で中毒が蔓延する危険性を認識していなかったようです。

北朝鮮の軍隊が麻薬の密貿易に手を染めているようですから、 明治時代の日本の軍隊が麻薬の密貿易に手を染めていたと考えることはとても 自然ではないかと思います。


日本語版の Wikipedia のアヘンの項目 (アヘン - Wikipedia) の中の「日本におけるアヘン史」で

1879年(明治12年)5月1日には薬用阿片売買竝製造規則(阿片専売法)を施行した。 この法律において、政府は国内外におけるアヘンを独占的に購入し、許可薬局のみの専売とした。 購入は医療用途のみとし、購入者及び栽培農家は政府による登録制とした。 この専売制は日清戦争の戦需品として、政府に利益をもたらした。

と述べています。注目すべきはこの最後の行です。いかにも医薬品 (痛み止め) として、 アヘンが使用されたかのように見えますが、戦争で負傷兵の手当てをするのは日本軍です。 負傷兵の手当てのために、いくらアヘンを使用しても日本政府に利益が出るはずがありません。 むしろ損失となるだけです。 ですから、この最後の行は戦地でアヘンを売って儲けたと解釈する必要があります。 また「戦需品」と言っていますから、戦争をするための資金となったことも意味していると思います。 当然のことながら、日清戦争の準備のためにもアヘンが使用されたことは火を見るよりも明らかです。

Japan Times に載った記事、その 1 (興亜院と里見甫)

ここまでの内容を書き終えた後で、2007 年 8 月 30 日の The Japan Times に次の 4 つの記事が載りました。

  1. Japan profited as opium dealer in wartime China (2007/8/30)
  2. Opium King's ties believed went to the top (2007/8/30)
  3. Japan followed West by drug-peddling in China (2007/8/30)
  4. Narcotics trade boosted army scrip (2007/8/30)

以下この記事を 4 部に分けて紹介します。最初の記事は 1940 年頃の中国中部に関することで、 内容を理解するためには、当時の状況を理解する必要があります。最初は年表です。

1936 興亜院の設立
1937 日中戦争の開始
1938 南京占領、傀儡政権の設立
1939 里見機関の設立
独、ポーランド侵入
1941 真珠湾攻撃
1945 日本の降伏

次は、中国中部における日本の支配に関することです。

  1. 中華民国臨時政府 (北京) - Wikipedia 1937 年 12 月 14 日に北京に設立した傀儡政権 (河北省、山西省 + 北京市、天津市 + 内モンゴルの一部)
  2. 中華民国維新政府 - Wikipedia 1938 年 3 月 28 日に南京に設立した傀儡政権 (、江蘇省、浙江省、安徽省 + 南京、上海)
  3. 蒙古聯合自治政府 - Wikipedia 1939 年に内モンゴルに設立された傀儡政権

以上の傀儡政権は蒋介石の「中華民国」と対立するために、 1940 年にまとめられて、形式的に 中華民国南京国民政府 - Wikipedia (傀儡政権) が設立されます。もっとも国としての機能がなかったようです。

次の最初の地図は Wikipedia の熱河省の地図から作ったもので、 2 つめの地図は 英語版の Wikipedia (日本軍の占領地の地図) の地図を縮小したものです。

Japan Times の最初の記事は 日本人が書いた記事で、里見 甫 (さとみ はじめ) による (麻薬に関しての) 報告書が国会図書館で見つかったというものです。 この報告書は誰もが閲覧できるものです。 更に報告書は China Affairs Board (興亜院) に宛てたものであろうと書かれています。 (原文は, China Affairs Board の後ろに括弧をつけてローマ字で Ko-a-in と書いてあります。) 「アヘン帝国の興隆 -- 朝鮮」の項目で China Affairs Board は興亜院のことであろうと書きましたが、 これで裏付けられました。

この報告書が興亜院に対するものであると結論されたのは、 この文書に 1941 年 4 月 10 日付の及川源七 (興亜院の総務長官) 宛てのメモが付属していたためです。 (日本語版 Wikipedia の興亜院 の項目で「興亜院の人事」が書かれており、及川源七の名前が記載されています。)

興亜院の長は総裁で内閣総理大臣が兼任していましたから、これで日本政府が戦時下の中国における 麻薬取引に直接関与したことが文書で明らかになったことになります。

里見甫によるアヘン取引組織は「里見機関」として知られていますが、 Japan Times では Hung Chi Shan Tang と言っています。 これに関して Japan Times は次のように述べています。

「Hung Chi Shan Tang (里見機関) の概要」と題された文書は、上海に拠点を置く企業の歴史を明らかにしている。 この企業は、里見甫が代表となり、上海を含む日本の占領下の中国中部の支配的なアヘン取引業者であると思われ、 1944 年初頭まで活躍した。
Hung Chi Shan Tang (里見機関) は技術的には 「1938 年に南京に設立された日本の傀儡政権」によって特別に認可を受けた私企業である
Hung Chi Shan Tang (里見機関) が 1939 年に設立された理由の 1 つは、 「アヘン事業を日本の戦時統制下に置くことである」と里見甫が文書内で述べている。

また、文書に付属のメモの中で

「帝国政府の将来の利益のために (借り受けた) 資金を管理し、投資する」と里見甫が 誓約している

つまり、「里見機関」は完全に日本政府の統制の下にあり、日本政府のためのみの組織であることが 文書で裏付けられたことにもなります。

Japan Times の記事で、里見機関の扱った麻薬に関する記述を幾つか列挙します。

文書によれば 1941 年に Hung Chi Shan Tang (里見機関) は 600 万 liang あるいは 222 トンの アヘンを地方レベルの中国人ディーラーに売りさばいた。

訳注 : liang は昔の日本の重さの単位である「両」 (両 - Wikipedia) に相当するもののようですが、 地域によって若干重さが違うようです。

この記述からは、里見機関は直接中国人ディーラーに売りさばいたことになりますが、 「アヘン帝国の支配構造」で書いたことと食い違っています。 「アヘン帝国の支配構造」では、小売のディーラは中国人ですが、 卸のディーラは日本人もしくは朝鮮人です。 里見甫の報告書にはディーラがどこの国籍であるかという点は触れていないと思います。 よしんば、ディーラのことが記述してあっても、組織名であると思われます。 従って「アヘン帝国の支配構造」で記述した広域暴力団の組織はそのまま残っており、 これが里見甫の客であったと思われます。

里見はまた次のようにも報告している。 彼の企業は、モルヒネやコカインを中国の市場価格で直ちに売ることが出来、 市場価格は帳簿価格の倍である。

Japan Times では内モンゴルのアヘンに関して次のように触れています:

1937 年に設立された内モンゴルの傀儡政権は収入を増やすため、組織的にケシを栽培し、 取引をした麻薬取引業者の最大手が Hung Chi Shan Tang (里見機関) である。 1942 年にはアヘンの収益は当初予算の 28 パーセントにも達した。

里見は更に文書の中で「アヘンはモンゴル政府が外貨を獲得できる唯一つの物資なので、 我々は販路拡大に最大限の努力をした。」とも述べている。

Japan Times は里見機関が内モンゴルのアヘンに付け加え、イランからもアヘンを輸入し、 更に満州の熱河省からも輸入したことを述べ、次のように述べています。

1941 年に里見機関が売りさばいた 600 万 liang (= 222 トン) のうちで、 400 万 liang は内モンゴルのもので、 160 万 liang はイランのものである、 と文書で述べている。
注意
途端に内モンゴルのアヘンが登場して、少し違和感があります。 しかし、次のように考えると十分ありえることであることがわかります。 まず、満州の熱河省ですが、これはもともと内モンゴルでした。満州国を設立するときに 組み込まれたのです。従って、内モンゴルには熱河省と同じような場所があるはずで、 そこでアヘンが生産されても不思議ではありません。

英語版の Wikipedia の Economy of Manchukuo (満州国の経済のアヘンの項) では、1934-1935 の満州国では 1 平方キロ当たり 1.1 トンで栽培面積は 480 平方キロメールとしていましたから 生産量は 528 トン程度となります。それに比べると里見甫の扱ったアヘンはかなり少ないことになります。 上の記述で注意する点は、里見甫の扱っているアヘンが新規に設立された内モンゴルの傀儡政権、 およびイランのアヘンを扱っていることです。

1940 年に、南京の傀儡政権、北京の傀儡政権、および内モンゴルの傀儡政権 をあわせて、汪兆銘政権ができて、蒋介石の「中華民国」の向こうを張って まったく同じ名前の「中華民国」と称しました。国旗までまったく同じでした。 ややこしいので「中華民国南京国民政府」とも呼ばれているようです。 (但し、国としてのまとまった機能はあまりなかったようです。) 「満州国」ができたときに麻薬活動の中心を「朝鮮」から「満州国」へ移したようですが、 「中華民国南京国民政府」の樹立にあわせて、麻薬活動の中心を「満州国」から 「中華民国南京国民政府」に移そうとしたのかもしれません。

Japan Times の 2 つ目の記事では、里見甫と岸信介、あるいは広く政治家との関連を追及しています。 その中に次のくだりがあります。

「上海やそれ以外の都市からのアヘンの売り上げは直接東京に渡った。 調査の結果、東条内閣の時にはこのような金は内閣の秘密資金として割り当てられ、 国会議員の補助に使用された。これは戦後、日本と協力関係にあった 中国の指導者を裁くための南京裁判で Mei Sze Ping が書面で提出したものの中に記載されている。

里見甫は東京政府から金を借りて、里見機関を設立したようで、 その理由からも、また既存の麻薬の流通組織との摩擦を解消するために、 東京に金を提供したのかもしれません (ワイロ)。 一方で里見甫は新しいやり方を導入しようとしたようで Japan Times の最初の記事の中に次のようなくだりもあります。

モンゴルと満州国からのアヘンはすべて空輸され、昨年度、航空会社 (中華航空, Chinese Aviation Airway) に対する支払いは軍票で 300 万円に達した。

日本語の Wikipedia の「里見甫」の項目にはかなり嘘があります。「戦後はA級戦犯として起訴されるが無罪釈放。」 と書かれていますが、Japan Times の最初の記事には

東京裁判のときに里見は A 級戦犯として逮捕されるが、不明な理由から、起訴されることがなかった。

無罪釈放ではなく、裁判を受けていないのです。理由が明示されないまま不起訴処分となったのです。

Japan Times に載った記事、その 2 (アヘンの専売制)

Japan Times の 3 番目の記事に、アジアにおけるヨーロッパの植民地でも (満州国などと同様に) 財政の 10 % から 50 % がアヘンの売り上げで占められていたとしています。例えば英国領のインド、香港、シンガポール、 ポルトガル領のマカオ、オランダ領の東インド (現在のインドネシア)、フランス領のインドシナです。

このことは英文のホームページで独立に確認することになりました。 知りたかった点は第二次大戦ではインドシナ、インドネシアなどは日本が占領しますが、 ここでも日本軍は麻薬の専売制を導入するはずです。どのような形態をとっていたのか 調べようとしたことから、いくつかのページがヒットしました。その中のひとつに次があります。

Economic Histories of the Opium Trade (アヘン取引の経済史)、 ピッツバーグ大学、 Siddharth Chandra

ここでは、植民地の財政にアヘンの売り上げが計上されている国として、Japan Times で述べている ヨーロッパの植民地以外に日本領の台湾が挙げられています。(満州は必ずしも植民地でないので ここには含まれていないようです。) 指摘されている点をいくつか挙げることにしましょう。部分的な翻訳です。 英文が読める人は原文を読んでください。

19 世紀後半に世界中でアヘンの消費が増大します。しかしながら20 世紀初頭に倫理的な問題に関しての 議論が激しくなると各国は見かけ上は植民地および本国でのアヘンの消費量を削減する方向になります。 例えば、オランダは (植民地の) 東インドでのアヘンの製造と販売を自国の管理下におきます。 アヘン専売制度 (Opium Regie) と呼ばれる制度が導入されますが、これはフランス領のインドシナ の制度を真似たものです。これでオランダ領の東インドでアヘンの消費が削減できるかどうか 大いに疑問です。明らかに、アヘン専売制度の導入直後の 10 年間ではアヘンの売り上げは ずっと増え、政府に多大の利益をもたらしました。

引用しているページには表も掲載されています。それも引用することにします。 (価格は 100 万ギルダーです。インフレ補正はしていないとのことで、* がついているものに関しては、 アヘンと塩の専売の総計から計算したもので過小評価しているかもしれないとのことです。 表の出所に関してオリジナルの説明をご覧ください。)

オランダ領東インドにおける政府予算に占めるアヘン専売の寄与
A :アヘン
の収入
B :総収入A/B (%)C :アヘン
の利益
C/A (%)
191435.0281.713.526.776
191532.6309.711.225.277
191635.3343.110.828.480
191738.2360.111.430.480
191838.8399.710.230.178
191942.5543.1 8.233.278
192053.6756.4 7.541.678
192153.3791.8 7.142.179
192244.2752.6 6.234.578
192337.6650.4 6.130.180
192435.3717.9 5.128.180
192536.6753.8 5.228.778
192637.7807.9 5.229.177
192740.6779.1 5.731.477
192842.8835.9 5.734.681
192940.9848.5 5.332.780
193034.5755.6 5.327.179
193125.3652.0 4.619.075
193217.3501.8 4.512.371
193312.7460.6 3.7 8.668
193411.1455.2 3.27.2*65*
1935 9.5466.7 2.66.1*64*
1936 8.9537.8 2.25.7*64*
193711.5575.4 2.57.7*67*
193811.9597.1 2.68.0*67*
193911.5663.4 1.78.6*75*
194011.7 --- -- 8.5*72*

原文では更に次のように続けています。

しかしながら、1900 年から 1936 年のアヘンの消費量は、ずっと縮小しています。 このような統計量は

  1. 専売制は実際にアヘンの消費を抑えることを意図したもの
  2. 専売制はアヘン問題に取り組むのに有益であった
という議論に使用されている。実際のところ 1936 年が 参照の年に使用されたのは不運なことであった。1929 年に始まった 世界恐慌は 1936 年に至るまで -- とりわけ貿易に依存したアジアでは -- 影響があったためである。 世界恐慌における収入の激減と多くの経済における公的なアヘンの価格が 柔軟でなかったため、アヘン消費者の合法的アヘンの購買力が極端に落ち、 合法的アヘンの消費が激減することとなった。

更に原文では、上で引用した表から折れ線グラフを描き、1929 年から 1936 年までの グラフの部分に「世界恐慌」と記しています。 つまり、アジアでは 1929 年から 1936 年までを「世界恐慌」としているのです。

原文では、もう少し分析していますがこのあたりでやめることにしましょう。

注意
  1. アヘンの専売のことを Opium Regie を呼んでいますが、普通の英語では Regie ではなく monopoly です。regie はフランス語です。
  2. 最初にも述べたように、この項目を書く当初の目的は東南アジアが日本の支配下に置かれたときに どのようにして「麻薬の専売制」を導入したかを知ることが目的でした。 しかし、すでにヨーロッパの植民地である東南アジアでは「アヘンの専売制」が敷かれており、 日本による占領で変化した点は、アヘンが中国から導入されるようになったことぐらいであろう と結論することになりました。 一応、第二次大戦の日本の占領地ではどこでも麻薬がはびこっていたことの再確認になりました。 日本軍が行く所はアヘン屈ばかりができるのです。
  3. 「アヘンの専売制」に関しては朝鮮半島のことが言及されていませんが、 これは朝鮮半島ではアヘンが禁止されていたためだと思われます。 アヘンは禁止されていましたが、非常に多くのモルヒネ中毒がいたはずです。
追加
  1. 「アヘン取引の経済史」の著者の主張する所は 麻薬の専売制がアヘンの消費を削減したのではなく、 アジアで 1936 年まで続く世界恐慌がアヘンの消費を削減したのだと言っているのです。 1936 年までアジアでは世界恐慌が続いたのだ、という主張を吟味するために 日本のことを考えます。 日本における輸出品で当時中心となっていたものは「生糸」でこれ以外にめぼしいものがありませんでした。 「生糸」の輸出先は米国でした。 世界恐慌により「生糸」の輸出は半減し、元に戻らなかったのです。 そして真珠湾攻撃 (1941 年) により貿易が中断しました。 ですから、確かに表の経済では日本における世界恐慌は日本が米国に宣戦布告を するまで続いているのです。 米国からすれば女性が贅沢を控える程度のことではなかったかと 思われますが.....
  2. 「アヘン取引の経済史」で述べていることは植民地政府が提供する合法的なアヘンのことで、 非合法なアヘンでは価格の暴落があったはずです。 世界恐慌の時に遼東半島や朝鮮半島に駐留していた関東軍はどうなったのでしょうか ? 朝鮮半島では、アヘンは非合法化され代わりに合法的なモルヒネが流通していたはずです。 このモルヒネの値段を下げなければ販売が激減し、 値段を下げても利益が激減するはずです。 一方、関東軍は、中国にもアヘンやモルヒネを輸出していたはずですが、 こちらは非合法なものですから需要供給の関係から売値が暴落したはずです。 ここで関東軍はにっちもさっちも行かなくなったはずです。 そのため、満州を領地に組み込み麻薬中毒を大量に作る必要が起きたと考えてよいと思います。 これが満州国ができた理由だと思われます。
Japan Times に載った記事、その 3(軍票)

Japan Times の載った記事には「軍票」のことにも触れています。これは当然触れないといけないのですが、 この「軍票」に関しては、英文のページから多くの事実を調べることができませんでした。 まず困るのが対応する英語です。「millitary yen」あたりが該当しそうなのですが、 Japan Times では「army scrip」と表現しています。そのためインターネットの英文検索では困難を極めることに なります。

Japan Times の記事を参照する前に、英語版の Wikipedia

Japanese military yen -- Wikipedia

書かれていることを引用します。香港に軍票が導入されたときの部分に関しての翻訳です。

1941 年 12 月 25 日に香港の英国殖民地政府が日本の帝国軍隊に降伏した後、 日本の新占領政府は翌日から軍票が香港の法廷貨幣であることを布告した。 日本の占領政府は香港ドルの使用を非合法化し、ドルを円に両替することに 最終期限を設定した。それ以後にドルを所持するものは拷問されることとなった。 軍票が 1941 年 12 月 26 日に始めて導入されたときの 香港ドルと円の為替レートは 2 対 1 であったが、1942 年の 10 月には 4 対 1 と なった。

ドルを手に入れて、日本軍は中立地帯であるポルトガル領のマカオで補給と戦略物資を購入した。

日本は 1944 年に戦争継続に絶望的な努力を払い、香港における日本の軍政府は更に 多くの軍票を流通させ、結果としてハイパー インフレーションを招くこととなった。

これで Japan Times の記事に戻ることが出来ます。記事では早稲田大学教授の Hideo Kobayashi の 意見を次のように引用しています。(翻訳がへたくそにみえますが、 日本語の英訳を再度日本語にするのはとてもやりにくいです。)

国会図書館で見つかった文書から明らかとなった点は、 1940 年代の蒋介石の yuan (元, 圓) に基づく法定貨幣から、 経済覇権を奪取して、軍票を助勢するためにアヘンを使用したことである。 軍票の価値を支えるためにアヘンが使用されたと言われていたが、 どのようにして運用され、どれだけ (アヘンが) 使用されたのか 始めて具体的に明らかとなった。

国会図書館で見つかった文書では里見甫が、アヘンの価格を「元」ではなく、(軍票の) 「円」に 変更したことを報告しており、これが上の議論の根拠を与えているようです。なお、蒋介石 政府の法定貨幣 yuan は漢字ではどのように書くのか少しわからないので可能性のある漢字 (元, 圓) を 列挙しています。軍票のことに関しては次も参考になります。

軍票

ここには「日露戦争・青島出兵・シベリア出兵・日中戦争・太平洋戦争に際して発行され、 日清戦争の時には印刷されたが発行されなかった」としています。 以下見るように、軍票は単独ではかなり危なかしいですが、麻薬とコンビを組めば、比較的に 安定するようです。従って、軍票が発行された場所には麻薬中毒が累々と存在したことになります。

色々なページを引用しましたが少し整理をする必要があります。 第二次大戦前の多くの国では紙幣の価値を保障するために金などと交換可能でした (金本位制, Gold Standard)。 ただ単に紙幣を印刷するだけではインフレになる可能性があります。 日本軍の占領下では、強制的に軍票を使用させたようですが、これだけでは紙幣の価値を 保障することが出来ません。 端的に言って日本の軍票は「金本位制」ではなく「アヘン本位制」を取ったと言えばわかりやすいでしょうか。 これが、Japan Times に掲載されている記事で述べていることです。 また、これは日本軍が軍票を使用し始めた当初からこうであったようです。

しかし、これが可能となるためには、占領下の住民がアヘン (あるいは広く麻薬) を価値あるものと しないといけません。従って、占領下で麻薬が蔓延していないと、軍票の意味がなくなります。 そのため、占領地で麻薬中毒がいなければとても困ることになります。 通常は日本軍は敵地を攻める前に、敵地で麻薬を蔓延させる下工作をしていますから、 占領と同時に軍票が効果を持ったことでしょう。 しかも軍票以外の (敵の) 貨幣 (yuan) では麻薬を購入できないようにでもすれば、 貨幣の移行は極めてスムースに行くはずです。しかし、いくら麻薬で価値を保障されていても あまりに軍票を乱発すれば、ハイパーインフレーションととなることが必定のようです。

通常、戦争では直接の戦闘員よりも補給 (logistic) に従事する非戦闘員の方が多くなります。 ところが明治以後、第二次大戦に至るまでの日本軍には補給らしい補給がなく、ほとんど現地調達です。 そのための軍票なのです。しかしこれはとても危険です。麻薬が浸透しておらず、しかも食糧事情が極めて悪化している場所を 占領しなければならないとしたらどうなるのでしょうか ? この話は「南京大虐殺」で述べることにします。

注意
日露戦争で軍票が使用されています。日露戦争では海戦もありますが、満州も戦場となっています。 ここで軍票が使用されたようです。従って、この際にも、麻薬が持ち込まれたはずです。 日露戦争 (1904-1905) のときは、まだ清国が存在していますが、 清国が麻薬撲滅運動を開始するのは 1906 年です。(日露戦争の終了の翌年にこの様な活動を 開始したのはひょっとすると日露戦争であまりに麻薬が蔓延したせいかもしれません。 英国も中国に協力しなければならなくなったのかもしれません。) 従って、日露戦争の時点では比較的容易に麻薬を売りさばくことができたはずです。 日本は戦争をする前に、その下工作として、戦場となる場所であらかじめ麻薬を蔓延させていますから、 この場合も同様であったと思われます。軍票と麻薬のコンビを組ませることが、 極めて有効であることに気がついたのは恐らく日清戦争のときだと思われます。 このときは、あらかじめ準備していなかったので間に合わなかったのでしょう。
Japan Times に載った記事、その 4(商人)

Japan Times の 3 番目の記事では次のように述べています。(翻訳)

英国は 1913 年にインドから中国へのアヘンの出荷を停止した。

そしてヨーロッパ各国と日本は 1912, 1925, 1931 年に開催された 3 つの国際会議 で署名をし、アヘン事業を政府の制御下に置き、段階的に縮小する義務を負うこととなった。

しかし、日本は中国北東部で日本の商人たちによるアヘンその他の麻薬の 取引を野放し状態にして抑制することがなかったため、 1920 年代の中ごろから英国に代わり、国際連盟 (League of Nations) で 国際的な非難の主要な対象となることになった。

少しややこしいので、この時期の前後の主な出来事をまとめます。

1904 - 1905日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1918 - 1922外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1920 年代 中国北東部で日本の商人たちが麻薬取引
1931 満州事変
1932 満州国設立
1933 国際連盟から脱退
1936 興亜院の設立
1938 南京占領、傀儡政権の設立
1939 里見機関の設立

Japan Times の記事の中の「中国北東部」と言っているのは満州、もしくはその周辺のことでしょう。 ここで気になる言葉があります。「商人」(merchant) です。 普通の言い方では「麻薬のディーラー」を「商人」とは呼びません。 このような書き方をしているのは、記事を書いている人が 色々下調べをした文献の中に「商人」(merchant) と書いてあったから、 そのままここに書いた可能性が大きいです。 英語では参考にした文献に書いてあるように記述するのが普通です。

「アヘン帝国の支配者」で説明をしたように 満州ではアヘンを独占的に扱う組織があり、 「ニキサンスケ」と呼ばれる「商人」のグループが流通部門を独占していたとされています。 これは英語版の Wikipedia に書かれていることでした :

Economy of Manchuko -- Wikipedia (満州国の経済のアヘンの項目 -- 英語版 Wikipedia)

従って、英語版の Wikipedia の「満州国の経済のアヘン」の項目における「商人」(merchant) が Japan Times の「商人」(merchant) に由来していると考えるほうがよいようですが、 この時点ではまだ満州国はできていません。 満州国が設立されれば、国内でアヘンの専売が始まるはずです。そのときアヘンの専売を 一手に独占する人たちも英語圏で「商人」(merchant) と呼ばれた可能性が高いと思われます。 そして、この人たちが「ニキサンスケ」であったと思われます。

英語版の Wikipedia の「満州国の経済のアヘン」の項目における「商人」(merchant) の 組織は満州国の設立以来あったはずです。 日本語版の Wikipedia の 鮎川義介 を読むと、鮎川義介は満州重工業開発株式会社の総裁で

当時の満州国の軍・官・財界の実力者、松岡洋右(満鉄総裁)、岸信介(産業部次長)、 東條英機、星野直樹らと並んで「2キ3スケ」とあだ名された。
としています。 日本語の Wikipedia で岸信介の経歴を調べると、

1936渡満、満州国国務院実業部総務司長
1937産業部次長 (「産業開発 5 ヶ年計画」)
1939総務庁次長

満州国の産業が色々な意味でアヘンと結びついていたと考えれば、産業部次長の時が最もアヘンと近いようです。 「アヘンの権限を独占する組織の構成メンバー」は例えば次のようなものであったのではないでしょうか ? 満州国は傀儡政権ですから、表面的な肩書きは意味を持たず何らかの (アヘンを統括する) 裏の組織があったはずです。 (なお、星野直樹は満州国の建国以来から満州国の (裏の) 代表ですから、少し別格かもしれません。 また東条英機は総理大臣となりますが、満州国内にもアヘンを統治する組織は続いたはずです。)

秘密組織のメンバー (満州国のヤクの帝王たち)
  1. 満州国の代表 (星野直樹)
  2. 関東軍の代表 (東条英機)
  3. 南満州鉄道 (満鉄) の代表 (松岡洋介)
  4. 満州国財閥の代表 (鮎川義介)
  5. 満州国国務院産業部次長 (岸信介)

何らかの意味でアヘンに関連しそうな組織名が出るように書いてみたのですが、 どうでしょうか。 岸信介は、実務担当と判断できそうです。英語版の Wikipedia の「満州国の経済のアヘン」の項目には 鮎川義介を満州国財閥の座長 (chair man) としており、更に もう一名 (Kuhara Fusanosuke) が入っています。これは久原房之助のようで、鮎川義介と 同じような立場の人です。財閥の代表が代わったのかもしれませんし、あるいは代表が 2 名いたときが あるのかもしれません。

英語版の Wikipedia の記述で、「ニキサンスケ」のメンバーの肩書きがカッコつきで 記入されています。そのなかに、「商人」(merchant) と記されているのは「岸信介」のみです。 恐らくは「岸信介」(あるいは産業部次長) が組織のただ一人の実務部門の担当者で、 直接麻薬に関連する可能性が極めて高かったのではないかと思います。


少し蛇足ですが、南満州鉄道で走っていた蒸気機関車は国内の蒸気機関車より、 とても速かったようです。特急アジアが最高時速 110 km で走っていたことが記されています。

瀋陽蒸気機関車博物館

には、最高時速 130 km の蒸気機関車も見ることが出来ます。 しかし

ドイツ国鉄05形蒸気機関車

を見ればわかりますが、05 002 型が 1930 年代に最高速度 200 km を記録しています。驚くべきことに、 これと同じシリーズの 18 201 型はまだ動くことができ、21 世紀に入って、最高時速 180 km を記録したそうです。次に説明があります。

Fastest Steam Locomotive

この下のほうに写真がありますが、次をクリックしても写真を見ることが出来ます。(うまくジャンプできなければ一旦元に戻って再びクリックしてください。)

18 201: The world's fastest currently operational steam locomotive
(18 201:現在稼動可能な蒸気機関車で世界最速)
追加
蛇足を書いた目的を書くことを忘れていました。 当時の日本の技術はトップクラスでは到底ないことを書きたかったのです。 満州の蒸気機関車は米国などの機関車のイミテーションなのです。 自力で開発したのではない。蒸気エンジンもエンジンなのです。 エンジンの製造は日本は不得手あったはずなのです。部品が多いせいです。 蒸気エンジンにせよ、ディーゼルエンジンにせよ、 構成部品の数が多ければ、 当時の日本は最先端の製品を作ることができなかったのです。 これは戦後にも反映し、日本はエンジン製造では欧米に太刀打ちできなかったはずなのです。 突破口は電車です。電気モーターは部品の数が多くないので、 高性能化することができ、新幹線ができたのです。 だからこちらの方が早く、新幹線よりはずっと後になって、自動車の製造で世界レベルとなることができたのです。
南京大虐殺

「アヘン帝国の支配構造」に書いたように戦争中における「日本政府による麻薬事業」 により「南京」における麻薬中毒が全人口の 1/8 に達しています。このような事態になる前に 有名な「南京大虐殺」が起きています。

狭い意味の南京には城壁があり、日本語の Wikipedia では南京城と呼んでいます。 これを含む行政区も南京 (南京特別行政区, Nanjin Special Municipality) と呼ばれています。 この広い意味での南京の行政区には当時 150~160 万人の人が住んでおり、 南京城の中には常時は 20~25 万人の人が住んでいたようです。 しかし南京城が落城したときには、ここにずいぶん大勢の人が避難していたようです。 1937 年 12 月 13 日のことでした。 戦争はこれで終結したかのように見えましたが、 その後 6 週間にのぼる日本軍による大量殺戮が開始されたのです。

2007 年 12 月 13 日は、南京大虐殺の 70 周年記念にあたり、 Japan Times にもこれに関連した記事が載りました。

Nanjing Massacre certitude: Toll will elude (南京大虐殺は確実 : 犠牲者の数で一致せず)

それによると、現在では「南京大虐殺」があったことに関しては 日本の歴史学者も認めているようですが、犠牲者の数で中国と 日本の歴史学者と大幅な開きがあるというものでした。 中国の公式な犠牲者の数は南京城内で 30 万人であり、 日本の歴史学者は、広い意味の南京の行政区で 1 万人から 20 万人を 超える程度とのことでした。 この記事はかなり偏見を持っており、 日本人が書いた記事であることは署名を見なくても明らかです。

偏見を持っているように感じたのは、次の点です。「日本軍の将校が 軍の規律を守らせることができなかった」とあった点です。 ここまで私が書いた内容を読めば関東軍には軍隊の規律がなかったことは 明白です。あるとすれば軍隊の規律などではなく暴力団の規律です。 戦争を吹っかける前に敵地に麻薬を蔓延させ、いざ占領すれば 大量の麻薬中毒を作るような組織が軍隊といえるはずもありません。 あったとすれば、暴力団の規律で、これはでたらめとなるのが必定です。

しかし、単にこのように述べるよりは、 英語版の Wikipedia で少しは南京大虐殺のことを調べる方がよいであろうと 思い少々時間をかけることにしました。

Nanking Massacre -- Wikipedia

中国と日本の間に、犠牲者の数で隔たりがあることも書いてありましたが、 Japan Times の報道ほど離れてはおらず、日本の歴史学者は犠牲者の数を 10 万人から 20 万人考えており、 日本、中国以外の歴史学者は 15 万人から 30 万人程度と考えていると指摘していました。 そのあとで 2007 年の 12 月の 12 日に、すでに公開されている米国の文書の中に 新たな文書が発見され、更に 50 万人の犠牲者が明らかになったと指摘していました。 これを最初に読んだのが一昨日 (2007 年 12 月 13 日) です。少し文脈が理解できずに何度も読んでいましたが、 そのうち、これにリンクが張られていることに気がつきました。次です。

U.S. archives reveal war massacre of 500,000 Chinese by Japanese army
(米国の公開公文書から日本軍により 50 万人の中国人が殺戮されたことが明らかとなった)

新華社通信 (Xinhua News Agency) のインターネット版です。 新聞記事 (2007-12-12 20:45:20 ) ですから そのうち読めなくなる可能性があります。少し詳しく引用します。基本的には 1937 年の南京占領に至るまで、日本軍は 50 万人の中国人を殺戮したというものです。 明るみに出されたのは 2 つの電信文です。

日本が南京を占領した翌日の 1937 年 12 月 14 日に、 米国の駐独大使であった ウィリアム・エドワード・ドッド (William Edward Dodd) は ベルリンからルーズベルト大統領に電信を送っており、 その中で次のように述べています。 「今日、極東からの報道は以前にもまして悪化し、日本軍の残虐行為に 関してのあなたと国務長官の発言を読みました。 当地における日本の大使は 2,3 日前に日本が 50 万人以上の中国人を 殺したことを豪語していました。」

もう一通の電信は、 1938 年 1 月 25 日、上海の米国領事であった クラレンス・E・ガウス (Clarence E. Gauss) が国務長官の コーデル・ハル (Cordell Hull) に宛てた報告で、その中で 同時期の南京周辺の都市にいた米国の宣教師によって目撃された 日本軍の残虐行為を述べています。

この 2 つの電信文は中国の歴史学者 Wang によって、 公開されている (おびただしい数の) 文書の中から 発見されたもののようです。 またこれは上海で出版されている Academic Monthly に掲載された論文に 述べられていることのようです。その中で Wang さんは「電信文から判断すると虐殺は南京に始まったのではなく、 日本軍が上海から南京への進撃途中に始まったことがわかる」としています。

新華社通信の記事の最後あたりで、電信文に出てくる日本の駐独大使は Shigenori Togo であると しています。漢字がわからなくて探すのがちょっと難しかったのですが東郷茂徳のようです :

東郷茂徳 (日本語版 Wikipedia)
追加
殺戮の件はそのうち米国も知ることになり、 そうなれば再び日本は非難されることになりますから、 東郷茂徳は、 自分の方から攻勢に出て、米国の外交をひっかきまわしたのでしょう。 これは日本政府の指示にもとづいているはずです。 つまり、この時点での日本政府は関東軍による 50 万人もの 中国人の殺戮を了解していたのです。

南京占領までに 50 万人を殺戮していますから、南京城内で 30 万人の犠牲者がいたという 中国の主張はまず間違いないように思われます。


なぜここまで大量の殺戮をしたのかが疑問でしたが、しばらく考えるうちに非常に自然な解答があることに気がつきました。 まず、Japan Times では、南京が落城したときに投降した数千名の中国兵は食糧不足から 殺戮されたと述べています。これに関しては、日本の歴史学者にも異論はないようです。 Japan Times は日本軍はそのとき、極端に食糧不足であったという点にも触れており、それが規律を 維持できなくなった理由であるとも述べています。それ以上に関して、実際の犠牲者の数で -- とりわけ 日本の歴史学者と中国の歴史学者で -- 一致を見ていないということを指摘しています。

ここでもう少し単純に考えることにします。常時は南京城内に 20~25 万人の人がいたとしましょう。 日本軍の侵略から、城内に逃げ込む人が現れるのが当然です。どのくらいまでの人が逃げ込めるでしょうか。 恐らく近郊には、城内にゆかりの人がかなりいるはずですから、逃げ込めるだけの人が逃げ込んだと 考えるのが普通です。日本の歴史学者には 50 万人の人がいたと考えている人がいるようです。 これを採用することにします。これで極めて深刻な問題が登場します。衛生上の問題もありますが、 水と食料です。 この状態で落城したとしましょう。水と食料の問題はこれで解決するでしょうか。 日本軍は軍票を乱発して、食糧問題を解決できるでしょうか ? 常時は南京城内に 20~25 万人しかいなかったのですから、その程度の人数分の 食料しか確保できないと考えてよいと思います。おそらく、この食料は近郊の農村から荷車などで 常時補給できる食料の上限であると思われます。今日、都会では職を手に入れることが出来れば いくらでも人口が増えます。(逆に職がなくなれば人口が減ってしまいます。) これが可能なのは 流通網が整備されているからです。南京は当時の蒋介石の中華民国の首都ですが、 物資の流通網は整備されていたとはいえないと思います。流通網が整備されていないから、 投降した数千名の中国兵を皆殺しにしたのです。食糧確保が出来なかったからです。 それでは、戦火を避けて南京城に逃げ込んでいた一般市民はどうでしょうか ? 南京城内に食料が登場すれば、この人たちが殺到したはずです。 いくら軍票があっても、食糧確保に極めて困難なことになっていたはずです。 しかも、南京は日本軍が占領下に置くまでに麻薬がなかった場所です。軍票があまり 意味を持っていなかった。

余剰の食料を手に入れるために、日本軍は余剰の住民をシステマチックに殺戮したのです。 これが最も簡単な説明だと思います。50 万人いる中で 30 万人を殺せば 20 万人が残ります。 これで余剰の食料を手に入れたのでしょう。上海から南京に至るまで同様な問題に直面し、 同じように極めてシンプルな解決を与えたと考えるほうがよいのではないかと思います。 あまりに短期間の間にあまりに大量の殺戮は困難ではないかという点が日本の歴史学者の論拠の ようです。しかし、日本の軍隊が飢餓状態にあったとすればそれも説明が付くのではないかと思います。


英語版の Wikipedia には南京大虐殺の生々しい写真が掲載されています。 以下にそれを掲載します。 写真は日本の新聞に掲載されたものもありますが、 コピーライトが (日本の法律に照らし合わせても) すでに消滅しているとのことです。


日本軍が南京に行進する写真、一般市民の恐怖がこれで開始されます。



松井石根の南京への入場。馬で入城していることに注意してください。燃料がなくなっており、距離がある場所からの食料の調達が不可能ととなっていることがわかります。食料の調達は南京城内でしかできない。



生き埋めにされる中国市民



Murase Moriyasu による「私の従軍中国戦線」から (著者の漢字名が不明), 死体だらけ



殺されて埋められる市民たち



首を切られた一般市民たち

英字紙などでは虐殺された人の写真をよく見ることがあります。 上の写真を見ると、公然と写真が撮影されていることがわかります。 殺戮を隠蔽するどころか、その逆なようです。 日本の歴史学者が言っているように軍隊の規律がとれなくなって、殺戮が起きたのではなく、 ほぼ確実にシステマチックな殺戮と考えるほうが正しいと思います。 またこのような写真が撮影された状況から判断をしても、南京城内で 30 万人もの犠牲者があったとする 中国の主張は納得できるものです。



百人の首を軍刀で切り落とした人は当時日本で英雄扱いされました。
首を切られた人たちはほぼ確実に一般市民です。



「南京大虐殺」に関しては次のページも参考になるようです。

Japanese Army's Atrocities -- Nanjin Massacre

このサイトには写真も掲載されています。英文の Wikipedia の写真と重複している部分があります。 次がそのトップページです。全部で 6 ページあります。「Next Page」と書いてあるボタンを押すと 次のページに移動し、「Previous Page」と書いてあるボタンを押すと、前のページに戻ります。 写真はクリックするとすべて大きなものが表示されます。(あまり見ないほうがよいです。悲しくなります。 主だった箇所にリンクを張るためにしているだけです。)

Japanese Army's Atrocities (page 1 of 6)

英語版の Wikipedia には「南京大虐殺のメモリアル ホール」(Nanjing Massacre Memorial Hall) の記述があります。この建物の入口には犠牲者の数 (300000) が記されています。 (日本の歴史学者はこの数値を目の敵にしています。) 12 月 14 日の IHT (= International Herald Tribune) には 新たに付け加えられた陳列物の写真がありました (Reuter)。犠牲者が埋められていた土地をそのまま切り出して、 断面を見せています。おびただしいばかりの石化した骨が見えますが、残念なことに写真をこのページに載せることが できません。

Nanjing Massacre Memorial Hall - Wikipedia
Image:Nj06.jpg - Wikipedia の縮小図

英語版の Wikipedia の「南京大虐殺」の最後に別の意味で興味ある写真があります。 マンチェスターガーディアン (Manchester Guardian) の新聞記者である ティンパレー (H.J.Timperley) はこの電信文を書きますが、 上海で差し押さえられ、日本の外務大臣の広田 弘毅により, 1938 年 1 月 17 日にワシントンの日本大使館に転送されます。 通信文は途中で米国により傍受され、解読されました。



この通信文の内容は 1994 年 9 月に NARA (= National Archive and Record Adrministration) により 出版されています。テキストの内容は

上海に数日前に帰ってきてから南京と周辺で日本軍が虐殺をしたという報道があり、これを調査した。 信頼できる目撃者の口頭による証言および非常に信頼できる人からの手紙から 日本軍がアッチラたちのやり方にも似た方法で行動をとり、また行動をとり続けていることの 確証を得ることになりました。最低限 30 万人もの中国市民が殺され、しかも冷血な 方法で殺された。強盗やレイプが横行している。しかもか弱い子供たちも対象となっている。 何週間も前に戦争が終わったのにもかかわらず市民に対する不条理な暴行が報道され続けている。 良心的な日本人は非常に恥ています。 南京における日本軍の非難すべき行動により、緊張感が高まり、 上海でも日本兵が凶暴に振舞う事件が起きている。 North China Daily の今日の報道ではとりわけ目まぐるしく変化する事件を 報道している。その事件では酔っ払った日本兵が女を手に入れることができず、 酒を要求し 60 才過ぎの 3 人の女性を撃ち殺し、何人かの一般市民を負傷させた。
追加
  1. 大変なことを見落としていました。 「マンチェスター ガーディアン」とは昔の名前で現在は「ガーディアン」です。 日本の全国紙など及びも付かないような世界のトップクラスの新聞です。
    The Guadian - Wikipedia
    差し押さえられたのは恐らく「マンチェスター ガーディアン」に掲載される記事だったのです。 「ガーディアン」に掲載される記事は日本の全国紙などよりははるかに信頼されています。 従って、上の内容は決定的な意味を持ち、それだけでもって 30 万人の犠牲があったことが事実として世に受け入れられます。
  2. 「マンチェスター ガーディアン」(あるいは「ガーディアン」) のように著名な新聞であれば、 情報提供者は南京政府の高官であった可能性があります。南京城への出入りは恐らく自由ではなく、 (日本軍のスパイが侵入することを防止するために) 身元検査でもしていたとが 確実で、城内の人口を把握していたことも確実だと思います。
  3. また外務大臣がワシントンの日本大使館に電信を転送したというのであれば、 その内容の重要性、あるいは信ぴょう性も増すと考えることもできます。 つまり、電信の内容が真実で、その内容が米国にすでに知られているかもしれないという懸念から 日本大使館に注意を促したのだとも考えることができます。内容に根拠がないのであれば 外務大臣が転送するはずがない。

暗号を解読したことが出てきますが、これは「パープル暗号」であると思います。 1 年以上前の日本語の Wikipedia の「パープル暗号」の記事はとてもいいかげんなものでしたが、 最近とても良くなっていることに気が付きました。信頼できる内容です:

パープル暗号 - 日本語版 Wikipedia

「パープル暗号 (機械)」は第二次大戦中に日本の外務省が使用した暗号機械で、海軍によって提供されたものです。 海軍は数学者の「高木貞二」のアドバイスからこれを全面的に信頼したようです。 陸軍は別の暗号機を使用していましたが、暗号機を信頼しておらずあまり使用されることはなかったようです。

パープル暗号は戦争前から完全に解読されており、 電信による連絡はすべて内容が米国、英国に筒抜けでした。

参考

パープル暗号の解読はすさまじかったようです。これは戦況にも影響を与えています。 ノルマンジー大作戦が開始される前に、ドイツは連合軍によるノルマンジー上陸に備え、 ノルマンジーを要塞化しますが、その詳細な内容を当時のドイツの日本大使館に 教えています。そして、その詳しいデータがパープル暗号によって日本本国に送信されました。 英国がこれを傍受し、解読していました。このおかげで、ノルマンジー上陸作戦を具体化できた ようです。

しかしパープル暗号の解読は反面、米国の油断を招いたのではないかと思います。 真珠湾攻撃のとき日本軍は電信を一切使用しませんでした。

追加

現在では、日本語の Wikipedia のパープル暗号の項目には年譜まで付いています。 私が書いたノルマンジー大作戦のことと、年譜のことが若干矛盾しそうにも見えます。 日本語の Wikipedia には「フランス戦線の視察報告が解読される」と あり、ノルマンジー上陸作戦に貢献と書いてあるからです。 私が、どこかの英文の頁を読んだときには、解読されたのは 1 度ではなく、何度もです。 全部が全部解読されているのに性懲りもなく電信を送り続けているのです。 ちょろっと滑稽だったので、よく記憶しています。 最新鋭の機械を使っているつもりなのでしょう、膨大な電信文を送っており、 これが全部解読されていたのです。笑い話になりそうです。

英語版 Wikipedia のパープル暗号 に掲載されている写真の縮小版

第二次大戦中の米軍の暗号解読を担当したのは 「軍部安全保障局」 (Armed Forces Security Agency) でこれが戦後「国家安全保障局」(NSA = National Security Agency) となります。上のパープル暗号機は NSA もしくは付属の博物館に展示してあるものだと思います。 NSA のホームページの 下に Photo Gallery があり、 ここにエニグマ (独の暗号機) と一緒に写真が掲載されています。 パープル暗号はエニグマと同様に観光用に陳列してあるはずです。

追加 2

2008 年 9 月 29 日に、ワシントンからの共同通信の英語ニュースが Japan Times に載りました。 ほぼ同じ記事を次で読むことができます。

ここに、JN25 という暗号が登場します。色々調べているうちに英語版 Wikipedia
Japanese naval codes - Wikipedia (日本の海軍の暗号)
に解説されていることに気が付きました。

パープルは海軍が外務省に提供した暗号ですが、 海軍自身は基本的に違う暗号を使用していたことがわかりました。JN は Japanese Navy (日本海軍) の頭文字で、JN25 というのは 25 番目の暗号の意味だそうです。 JN25 は時と共に随分変化したようで、 1941 年 12 月 7 日の真珠湾攻撃の直前に基本的に変化したそうです。 しかし、このバージョンの JN25 は 1942 年の 5 月末までには、十分に解読が進み、 アメリカによるミッドウェー海戦 (1942 年 6 月 4 日 から 7 日) の勝利を導いたようです。 暗号解析には IBM のタビュレーティングマシンも使用され、 また日本の公文書、書簡は紋切り型の決まり文句で始まっていたため、 クリブ (crib) と呼ばれる暗号解析の手法が可能であったようです。

真珠湾攻撃以前の暗号文書は多くが手渡しで伝えられていたため、JN25 の解読率は 10% にも ならなかったようです。しかし、真珠湾攻撃以後非常に多くの暗号文が電信で送られたため、 1941 年の末には、暗号解析に十分な資料が手に入り、わずか 5 ヶ月で JN25 の解読に成功したことになります。

最初に引用した新聞記事では、山本五十六が前線視察することを通知する 暗号化された電信文 (1943 年 4 月 13 日付) が傍受、解読されて、 待ち伏せにあった山本五十六の飛行機が撃墜されて、戦死することが書かれています。 新聞記事にはこのとき使用された暗号はすでに、 旧式になっていて、旧式の暗号を使い続けたから、 山本五十六が戦死したのだと書いています。新聞には JN25E14 と書かれていました。後の 3 桁がマイナーバージョン を意味するのでしょう。 JN25 のバージョンは随分変化し、変化した直後は解読を最初からやり直さなければならなかったこと もあるようです。JN25 は結局 JN40 となるようですが、 こちらのほうは 1942 年の 9 月の日本のエラーから手がかりがつかめ、 1942 年の 11 月までには完全に解読できるようになっていたとのことです。 だから、暗号のバージョンを上げていたところで、山本五十六が 最後まで生き延びれたかどうかは、疑問ではないかと思います。

年表

非常にややこしいので、年表としてまとめることにしました。

  1793英国の東インド会社が「アヘンの専売制」を導入
  1878英国が中国の植民地およびインドでアヘンの登録制を導入
登録したもののみがアヘンを購入できる
(台湾の「阿片漸禁策」と同様にアヘンの消費を抑制するとしたふざけた主張)
明治121879アヘン専売法
明治271894日清戦争が開始
日清戦争中、日本はアヘンで多大な利益を得る
明治281895日清戦争が終了 (下関条約)
台湾が日本の支配下
中国との通商条約で日本がアヘン戦争の勝利国と対等の立場 (不平等条約)
(日本も中国に阿片を持ち込めるような条約)
明治311898後藤新平が台湾総督府民生長官
阿片漸禁策 (1878 年に英国が植民地で導入した方式と類似のもの)
見かけ上の論理とは別に単に麻薬で儲ける政策
明治371904日露戦争 (1904-1905)
(軍票の使用開始)
明治381905桂・タフト協定
(米国がフィリッピンを手に入れ日本が朝鮮を手に入れるための秘密協定)
日露戦争が終了 (ポーツマス条約)
日本が朝鮮を保護国化
明治391906南満州鉄道 (満鉄)、日本の会社
(日本が恒久的な麻薬ルートの確保)
中国がアヘン撲滅運動開始
英国と中国間にインドのアヘンの持ち込みを停止することを目的とした協定を締結
明治431910日韓併合
明治441911英国と中国間に二度目の協定(インドのアヘン持込の段階的停止)
辛亥革命
大正元1912ハーグにおける万国阿片協定
大正 21913英国によるインドから中国へのアヘンの持込が事実上終了
この頃、ヨーロッパのモルヒネが日本により中国及び朝鮮に持ち込まれる
英国のモルヒネはインドのアヘンを加工したもの
大正 31914第一次世界大戦開始
青島占領 (日本が麻薬ルートの確保)
朝鮮でアヘンが禁止 (朝鮮はモルヒネ化)
この頃台湾にモルヒネ工場
大正 41915対華21ヶ条要求
(この結果、ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承,
また日本人が南満州で自由に往来する権利と、工場などを作る権利を確保
麻薬の密輸に好都合となる)
大正 61917朝鮮にモルヒネ工場
朝鮮のモルヒネが満州を経由して大量に中国に持ち込まれることとなる
大正 71918シベリア出兵開始
シベリア出兵で日本は外満州 (極東ロシア) と内満州 (いわゆる満州) を占領
(広範囲の麻薬ルートを獲得)
台湾のアヘンの売り上げがピーク (800 万円以上)
大正 81919ニューヨークタイムズの記事
(この頃日本のモルヒネが中国に怒涛のように乱入)
ベルサイユ条約 (第一次世界大戦終了)
(多くの国により万国阿片条約が批准される)
大正111922シベリア出兵終了
中国へ青島返還
昭和 41929世界恐慌
昭和 61931満州事変
昭和 71932満州国成立
星野直樹はアヘンの専売のために日本の銀行 (複数) から多額のローンを取り決める
満州国に朝鮮の麻薬の売人が大量に投入される
満州国が麻薬活動の中心となる
昭和 81933リットン報告書、日本が国際連盟から脱退
日本に対する経済制裁成立せず (米国が国際連盟の一員ではなかったため)
昭和 919341934-35 年、満州におけるアヘンの栽培面積は 480 平方キロメートル、
1 平方キロメートルあたり 1.1 トン、1 年あたり 2000 万円から 3000 万円の利益
昭和111936興亜院の設立
麻薬政策の一本化、内閣総理大臣が掌握
昭和121937日中戦争の開始
南京占領
昭和131938南京傀儡政権の設立
南京傀儡政権の下でアヘン、ヘロインなどの麻薬が大量に流通する
満州の麻薬の売人たちが大量に南京傀儡政権の領土に投入される。
昭和141939里見機関の成立、(日本政府から資金提供を受ける)
里見機関は内蒙古のアヘン、イランのアヘンを持ち込む
昭和161941真珠湾攻撃
昭和201945日本の降伏
昭和231948東京裁判