走れメロス
 
 
太宰治
 
 
 
 
 メロスは激怒した。
 
 
 
必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。
 
メロスには政治がわからぬ。
 
メロスは、村の牧人である。を吹きと遊んで暮して来た。
 
けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、、十里はなれた此のの市にやって来た。
 
 
メ ロ ス に は 父 も 、 母 も 無 い 。
 
 
 
 
 
女房もない
 
 
 
 
 
 
 
 
 
十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿として迎える事になっていた。
結婚式も間近かなのである。
メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。
先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。
メロスには竹馬の友があった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セリヌンティウスである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今は此のラクの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。
 
 
ひっそりしている。
 
 
もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。
のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。
 
メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
「 王 様 は 、 人 を 殺 し ま す 。 」
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
「なぜ殺すのだ。」
 
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」
 
「たくさんの人を殺したのか。」
 
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」
 
「おどろいた。国王は乱心か。」
 
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺 さ れ ま す。きょうは、六人殺されました。
 
 
 
 聞いて、メロスは激怒した「呆れた王だ。生かして置けぬ。」
 
 
 メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。
 
調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
 
 
 
 
 
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君は静かに、けれども威厳を以て問いつめた。
 
その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「市を暴君の手から救うのだ。」メロスは悪びれずに答えた。
 
 
 
「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
 
 
 
 
 
 
「 言 う な ! 」 メロスいきり立って反駁した。
 
 
 
 
 
 
 
「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
 
 
 
 
 
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」
 
 
「だまれ、下賤の者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」
 
 
「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、
 
 
 
 

「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人のに、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ばかな。」と暴君は、嗄れた声で低く笑った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ
 
 
 
 
 
 
 
 
  せ
   
    っ
     来ないにきまっている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。
 
 
 
 
 
 
そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。
 
 
 
 
 
 
人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。
 
 
 
 
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。
 
 
 
 
「なに、何をおっしゃる。」
 
 
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 メロスは口惜しく、  団  踏  だ 。ものも言いたくなくなった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 竹馬の友、   セ   リ   ヌ   ン   テ   ィ   ウ   ス   は、深夜、王城に召された。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   セ   リ   ヌ   ン   テ   ィ   ウ   ス  は無言で首肯き、メロスをひしと抱きしめた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
友と友の間は、それでよかった。   セ   リ   ヌ   ン   テ   ィ   ウ   ス  は、縄打たれた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
 
 
 
 
 メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。

メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。
 
よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。
 
 
 
 
 
「なんでも無い。」
 
 
 
 
 
メロスは無理に笑おうと努めた。「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」
 
 
 
 妹 は 頬 を あ か ら め た 。
 
 
 
 
「うれしいか。綺麗な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」
 
 
 メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
 
 
 
 
 
 
 
 
メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。 そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。 婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、葡萄の季節まで待ってくれ、と答えた。 メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。
婿の牧人も頑強であった。 なかなか承諾してくれない。 夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。 結婚式は、真昼に行われた。
新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。 祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、 それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、 むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたい、
手を た。
メロス も、 満面に喜色を湛え、 しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。
 
 
メロスは、一 生 こ の ま ま こ こ に い た い、と思った。
 
 
 
この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。
 
 
 
メロスは、わが身に鞭打ち、
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついに出発を決意した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あすの日没までには、まだ十分の時が在る。
 
 
 
 
 
 
ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう
 
 
 
 
 
 
 
 
と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、
 
 
 
 
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」
 
 
 
 
 
 
 
 花  嫁   は    、     夢   見  心   地   で    首   肯     い  た  。 
 
 
メロスは、それから花婿の肩をたたいて、
 
 
 
 
「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」
 
 
 
 花婿は揉み手して、てれていた。
 
 
 
メロスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだうに深く眠った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 眼 が 覚 め た の は 翌 る 日 の 薄 明 の 頃 で あ る 。
 
 
 
 
 
 
 
 
メロスは跳ね起き、
 
 
                  南無三、
 
 
 
                              寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。
 
 
 
 
 
 
 
きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。







 
さて、メロスは、





 




 ぶ         る          ん 










と両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
 
 
 
 
 
 
 私は、今宵、殺される
 
 
 
 
 
 
 
殺される為に走るのだ。





身代りの友を救う為に走るのだ。









王の邪智を打ち破る為に走るのだ。













走らなければならぬ。





 
 
 


そうして、私は殺 さ れ る






 
若い時から名誉を守れ。


 
 
 



さ      ら    ば   、  ふ る さと。






若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった
 
 
 
 
 
 
えい、えい
 
 
 
 
 
 
大声挙げて自身を叱りながら走った
 
 
 
を出て、を横切り、をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、も止み、は高く昇って、そろそろ     暑 く な っ て 来 た 
 
 
 
 
 
メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫もはや故郷への未練は無い
 
 
 
 
妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう
 
 
 
 
 
私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、
 
 
 
 
 
 
持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。
 
 
 
 
ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難メロスは、はたと、とまった。
 
 
 
 
 
 
 
見よ、前方の川を。
 
 
 
 









 

 

 

 
 
 
きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。
 
 
 
 
 
 
と、立ちすくんだ。
 
 
 
 
 
あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、
 
 
 
 
 
繋舟は残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。
 
 
 
 
 
 
メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。
 
 
 
 
 
 
浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 


あ あ 、 神 々 も 照  覧 あ れ ! 











濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。
 
 
 
 
 
 







 
 
 
 
 
一刻といえども、むだには出来ない。
 
 
 
 
 
陽は既に西に傾きかけている。


ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「待て。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」
どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」
「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」
「その、いのちが欲しいのだ。」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」







 



 山賊たちは、ものも言わず一斉に    棍   棒    を振り挙げた。
 
 
 
メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかりその棍棒を奪い取って、
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「気の毒だが正義のためだ!」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。
 
 
 
 
 
 
 
一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、
 
        折から午後の灼熱の太陽がまともに、
 
            かっと照って来て、
 
                メロスは幾度となく眩暈を感じ
 
                      これではならぬ、
 
                           と気を取り直しては、
 
                               よろよろ二、三歩あるいて、
 
 
 
 
 
 
 
ついに、がくりと膝を折った。
 
 
 
 
 
立ち上る事が出来ぬのだ。
 
 
 
 
 
 
天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。
 
 
 
 
 
 
ああ、あ、
 
 
 
 
 
濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、
 
 
 
 
 
 
ここまで突破して来たメロスよ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
メ ロ ス よ 。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今、ここで、
 
 
 
 
愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。
 
 
 
 
 
おまえは、 稀 代 の 不 信 の 人 間 まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。
 
 
 
 
 
 
 
 
路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。
 
 
 
 
 
 
 もう、どうでもいい
 
 
 
 
 
 
という、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
私は、  これ  ほど努力したのだ。約束を破る心    、みじんも無かっ    。神    照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてや    たい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。   セ   リ   ヌ   ン   テ   ィ   ウ   ス  よ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿しことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、   セ   リ   ヌ   ン   テ   ィ   ウ   ス  。よく私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。   セ   リ   ヌ   ン   テ   ィ   ウ   ス  、私は走ったのだ。君を欺くつもは、みじんも無かっ。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みから、すると抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来のだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうで、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代を殺して、私を助けてくれると約束し。私は王の卑劣を憎んだ。けれど、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひと合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなっら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最、不名誉の人種だ。   セ   リ   ヌ   ン   テ   ィ   ウ   ス  よ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかっか。ああ、何もか、ばかばかしい。私は、醜い裏切者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。
 
 
 
 
 
 
 
 
――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
 
 
 
 
 
 
 ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。
 
 
 
 
そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。




すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。
 
 
 
 
 
その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
日 没 ま で に は 、 ま だ 間 が あ る 。
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
私を、待っている人があるのだ。
 
 
 
 
 
少しも疑わず、
         静
         か
         に
         期待して
             く
            れ
           て
          い
          る
          人
         
        
       る
      の
     だ。私は、信
             
              ら
               れ
                て
                い
               る
               。
               私の命なぞは、
                       問
                       題
                       で
                       は
                       な
                       い
                       。死んで
                           お詫び、
                              などと
                            気のいい
                      事は言って
                 居られぬ。
             私は、
 
 
 
 
信頼に報いなければならぬ。
いまはただその一事だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
走れ! メロス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 私は信頼されている。
 
 
 私は信頼されている。
 
 
 

 
 
 
先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。
 
 
 
 
 
 五 臓  が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ
 
 
 
 
 
メロスおまえの恥ではない。


 
やはり、おまえは真の勇者だ。
再び立って走れるようになったではないか。





  あ り が た い ! 






私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。


ああ、陽が沈む。


ずんずん沈む。



待ってくれ、ゼウスよ。

 



私は生れた時から正直な男であった。



正直な男のままにして死なせて下さい。
 
 
 路行く人を押しのけ、跳ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。
 
 
 
 
メロスは、いまは、ほとんど



全 裸 体




であった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
呼吸も出来ず、二度、三度、口から 血 が噴き出た。
 
 



見える。



はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。




 
 
塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。




「ああ、メロス様。」






うめくような声が、風と共に聞えた。
 
 
 
 
 
 
 
「誰だ。」
 
 
 
 
 
メロスは走りながら尋ねた。
 
 
 
 
 
 
フィロストラトスでございます。貴方のお友達   セ   リ   ヌ   ン   テ   ィ   ウ   ス  様の弟子でございます。」
 
 
 
 
 
 
その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。
 
「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」
 
 
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
 
 
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
 
 
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
 
 
メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
 
 
やめて下さい走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかって
も、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。
 間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。
 人の命も問題でないのだ。
 私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。


 ついて来い!


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」
 
 
 
 
 
 
 
 言うにや及ぶ。
まだ陽は沈まぬ。
最後の死力を尽して、
メロスは走った。
メロスの頭は、
からっぽだ。
何一つ考えていない。
ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。





陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

に  合

っ  た  。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」
 
 
 
 
 
と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれた   セ   リ   ヌ   ン   テ   ィ   ウ   ス  は、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。   セ   リ   ヌ   ン   テ   ィ   ウ   ス  の縄は、ほどかれたのである。
   セ   リ   ヌ   ン   テ   ィ   ウ   ス  。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
    セ   リ   ヌ   ン   テ   ィ   ウ   ス  は、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
 メロスは腕に唸りをつけて   セ   リ   ヌ   ン   テ   ィ   ウ   ス  の頬を殴った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「 ありがとう、友よ。 
 
 
 
 
 
 
二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。


 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君は、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。


「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」


 どっと群衆の間に、歓声が起った。




「万歳、王様万歳。」





 ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。




「メロス、君は、

 







じゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」














勇者は、
ひどく
赤面
した。









 
 
 
 

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戻れメロス

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