作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

§281[国家の団結を守る君主]

2018年08月15日 | 国家論


§281[国家の団結を守る君主]

Beide Momente in ihrer ungetrennten Einheit, das letzte grundlose Selbst des Willens und die damit ebenso grundlose Existenz, als der Natur anheimgestellte Bestimmung, - diese Idee des von der Willkür Unbewegten macht die Majestät des Monarchen aus. In dieser Einheit liegt die wirklicheEinheit des Staats, welche nur durch diese ihre innere und äußereUnmittelbarkeit der Möglichkeit, in die Sphäre der Besonderheit, deren Willkür, Zwecke und Ansichten herabgezogen zu werden, dem Kampf der Faktionen gegen Faktionen um den Thron und der Schwächung und Zertrümmerung der Staatsgewalt entnommen ist.


不可分の統一のなかにある二つの要素、つまり意志の究極の何らの制約もないそれ自体と、そして、それでもって当然に、自由な規定にある自然として何らの制約もない現実の存在、⎯⎯(すなわち)恣意によっては動かされないこれらの理念(考え方)が君主の威厳を構成している。
この統一において、国家の現実の団結は存在するのであり、これらの国家の内部および外部の可能性の直接性を通してのみ、この団結こそが、恣意性や、目的や、見解などがさまざまに導き出される特殊性の領域において、王座をめぐる派閥と派閥との闘いや、国家権力の弱体化や崩壊から免れさせるのである。




君主制の意義についてのヘーゲルの評価は上述にみるように的確であると思う。それに対して共産主義者のマルクスなどは、君主制の否定的側面のみをみて、肝心のその意義を正しく理解できなかった。またマルクス主義の影響を強く受けた日本の多くの戦前戦後の知識人も、憲法学者樋口陽一氏や故奥平康弘氏などの憲法学に見られるように、戦前の国体主義者たちによって歪められた「天皇制」という現象に囚われて、「君主制」の意義を正しく理解できず、「たらいの水と一緒に赤子も流してしまう」ことになった。在野であれアカデミズムであれ、日本の憲法学者たちも今一度ヘーゲルの「法の哲学」を再検証されて、折しも今上陛下の御譲位をお迎えしようとしている時に当たって、君主制の意義を、日本の「皇室」についての正しい理解を深められることを期待したいものです。


ヘーゲル「立憲君主制について」(「夕暮れのフクロウ」記事一覧20180808〜20181026)                         - 夕暮れのフクロウ  https://is.gd/jTKrbq

 

 

 


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