朝日広告賞受賞者の、受賞の頃のエピソードから現在の活躍までを紹介する『Now&Then』企画。第3回目は、第37回準グランプリを受賞した、クリエイティブディレクターでコピーライターの山本高史さん。「変われるって、ドキドキ」(トヨタ カローラ)、「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ」(オリンパス)、「未来は、希望と不安で、できている。」(三井住友海上)など数々の名作コピーを生み出している。
準グランプリを受賞した原稿を制作したのは、入社4年目の時。勤めていた電通では、若手クリエーターが広告賞に応募する慣例があって、新入社員の畑野憲一君に共作を頼まれて取り組みました。
僕自身は、その前年にTCC新人賞を受賞していました。受賞したのは小学館の文学全集の広告で、制作中は文学のことばかり考えていました。その経験が自分の中にたまっていたのでしょう。朝日広告賞への応募を決めてほどなく、ふとんの中でアイデアが浮かびました。
対象とした課題は、『ノルウェイの森』。朝起きると畑野君に電話して、レコードの準備とカメラマンの手配を指示しました。コピーライターとアートディレクターの住み分けがはっきりしていた時代ですが、当時から自分にはそうした意識はなかったですね。コピーライターがビジュアルを考えてもいいし、アートディレクターがコピーを考えてもいいと思っていました。
朝日広告賞の課題に取り組んだ80年代後半は、バブルの幕開け期で、文学不在の時代でした。文学というのは、突き詰めるとキズの話です。好景気に沸く人々にとって、キズの話よりも経済の話のほうが面白いわけです。しかし、一つの極端な現象が顕在化した時には、カウンターとなる何かが現れるものです。
キズの話を避ける風潮に不満を持っている人がいると想定すれば、「生きてりゃ、キズもつく。」というコピーが響くのではないかと考えました。そして、文学と言えば、ロック。相棒みたいなものではないでしょうか。ビジュアルのモチーフをレコード盤にしたのは自然の流れでした。
これまで様々な広告を手がける中で、一貫して意識してきたのは、「広告の役割は、ベネフィットの約束である」ということです。そして、ベネフィットの約束というのは、言葉にしか成し得ないものだと考えています。
言葉はプレゼントに似て、どんなに情熱をこめて手作りしたものでも、渡した時点で受け手のものになる。「うれしい」「ほしくない」といった評価を決めるのも受け手です。一度発した言葉は、寝言と独り言を除いては、否応なしに受け手に渡ります。「俺の好きな言葉を好きなように使わせてもらう」という態度で発してしまうと、どこかで誰かを傷つけかねない。無責任な発言が“炎上”を招いたり、政治家の舌禍が絶えなかったりするのは、そうした意識を欠いているからではないでしょうか。
「生きてりゃ、キズもつく。」というコピーに関しても、単なる独り言ではなく、「社会は好景気に浮かれているけれど、生きていればキズつくことだってありますよね」という思いを包んで贈ったメッセージでした。
言葉の印象は、すべて受け手が決めるという考え方は、受賞時から今日まで変わらない僕の基本的なコミュニケーション観です。
僕は、映画はあまり見ないし、本もあまり読みません。自分の頭の中でグルグルと考えている時間が圧倒的に多い。例えば、電車に乗ってつり革につかまりながら、「なぜつり輪と呼ばずにつり革と呼ぶのか? かつては革製だったのか?」「持ち手の直径は決まっているのか? 決まっているなら、誰の手に合わせているのか?」などと考える。
ハンカチをあてて握っている潔癖性らしき人を見つけた時は、「つり革の広告スペースに除菌剤の広告を掲示したらどうだろう?」などと考える。連なるつり革を眺めているうちに、「つり革にかけられる重量は何キロまでか? すべてのつり革にお相撲さんがぶら下がっている広告があったら、どんな反響を呼ぶだろう」などと思う。物事を観察し、考え、想像力をめぐらせる時間が、アイデアの源です。
最近手がけた三井住友海上のキャンペーンでは、新聞広告向けに長めのコピーを書きました。社会に対して重要なメッセージを発信する上で、新聞ほど適したメディアはないと、個人的には思っています。そもそも新聞メディアの価値は、記者の鋭い視点と取材力に基づく質の高い情報です。昨今、テレビメディアが伝える情報の質の低下が著しいですが、そうなってほしくないと、切に願います。
朝日広告賞の価値について言えば、何といっても60年以上も蓄積されたアーカイブだと思います。少し話はそれますが、以前、『宣伝会議』の「日本のベストコピー500選」の選定に携わったときのこと。「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」というコピーがやたらと気になったんです。1970年代に展開された丸大食品のCFです。なぜ食品メーカーが、他人の子をつかまえて、「たくましく育ってほしい」などと言うのか。
僕は1961年生まれなので、まさしくこのCFに「たくましく育って」と言われた世代です。振り返ると、地域の大人が他人の子を叱ったり面倒を見たりと、社会ぐるみで子どもを育てた時代でした。また、食料事情がだいぶ良くなったとはいえ、まだ油断できない時代でした。そうした時代に食品メーカーが表明した「良質なタンパクの提供」というベネフィットの約束と、「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」というメッセージが広く支持された。
翻って今の時代はどうでしょう。泣いている子どもに声をかけただけで、警察に通報されかねません。かつての広告を振り返ることで、社会がどれほど変わったのか理解できます。朝日広告賞のアーカイブは、時代の気分を代弁した表現の集積ですから、読み解きがいがある。今後もアーカイブを重ね、ぜひ100回を目指してほしいですね。
実は今、コピーライターのなり手が減っている現状があります。おそらくその理由は二つある。一つはメディア環境の変化です。ある時期から広告メディアの中心がテレビになり、CMプランナーの仕事が注目されるようになりました。さらにネットの登場により、クリエーターたちの興味はメディアの操作に移った。今では「コンテンツライティング」という言葉が「コミュニケーションデザイン」という意味合いで使われるようになっています。僕は、先ほども述べたように、広告の仕事はベネフィットを約束する仕事で、ベネフィットの約束というのは、言葉にしかなし得ないものだと思っています。しかし、メディア環境の変化によって、 言葉に対するクリエーターたちの興味が薄れつつある。
もう一つは、あまり語られていないことですが、言葉の怖さを知る人が増え、約束したくない人が増えている。言葉というのは、何かを肯定することで、他のすべてが否定されます。例えば、「赤である」と言った場合、赤以外の色はすべて否定される。そこまで言い切る勇気のない人は、「赤かもしれない」という表現で逃げる。ベネフィットを約束したいなら、「赤である」と言うべきなのに、あいまいにしたがる。この傾向は、コピーライターのなり手が減っていることと無関係ではないと思います。
ただ、言葉の恐さから逃げずに、言葉によってベネフィットを約束する仕事を続けることで、その経験値がデータベースとして着実に脳内にたまっていき、次なる言葉の創造につながっていく。自分が右肩上がりで成長していると実感し続けることができる。それがこの仕事の醍醐味かなと思います。
他人に対する興味を持ち続けることではないでしょうか。興味がなければ、人の気持ちを想像することなどできません。例えば、僕が教鞭をとる大学の学生たちに「学校に来るまでに何を見た?」と尋ねると、「覚えていない」という学生がとても多い。実際は無数の情報が転がっているはずで、覚えていないのは、興味を閉じて日常を送っているからです。
興味を閉じていると何も発見できず、発見がなければ心は動かず、心が動かなければ想像力は働きません。クリエーティビティーというと、コピーや映像について語られますが、それはアウトプットにすぎない。興味を持って想像力を働かせる作業そのものがクリエーティビティーなのです。
準グランプリの知らせを聞いた時は、前年にTCC新人賞を受賞していたこともあり、「やっぱり俺はできる」とますます鼻を高くした覚えがあります(笑)。ただ、広告賞で評価してもらったところで、現実の社会で反響を呼び、物が売れたわけではない。「賞を取ってもいい気になるな」という職場環境だったので、受賞後に大きく変わったことはなかったです。生意気だったので、心の中ではいい気になりましたけれど(笑)。
僕が新人の頃は、朝日広告賞に限らずどの広告賞も、会社から何らかの支援を受けておりましたが、製版代がとても高い時代だったので、会社の援助がない小さな制作会社のクリエーターに比べて恵まれていたと思います。ですから準グランプリを受賞した時は、人のふんどしで相撲を取って勝ったという意識が少なからずありました。
今の時代は、制作コストが安くすむので、大手広告会社に所属していない若いクリエーターでも気軽に応募できる。大きな仕事をしてみたいという人にとっては、朝日広告賞の受賞は自信となり、踏み台となると思うので、気軽にたくさん応募してみたらどうでしょうか。
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