幸せを感じた先にあるもの。存在へのフォーカス。

自分のままで生きるようになると、
 
夕焼けが美しい、
ご飯がおいしい、
といった日常にある幸せを、めいっぱい感じられるようになる。
 
じんわり満たされる幸せが、ふえていく。
 
…というところまでを、12月の新刊で書き↓ 
 
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最近は、その先について考えをめぐらせている。
 
 
 
日常の幸せ先にあるものは、なんだろう?
 
たくさんの「いいもの」を感じとり、味わえるようになったとき、
 
その先にはなにがあるのだろう?
 
 
 
穏やかさ、
静けさ、
お花が咲いて「ありがたいなぁ」という気持ち、
生きとし生けるもの、
人間と、人間以外のもの
……。
 
 
めいっぱい感じるようになると
「これまで知覚外だったものごとを、感じられるようになる」
のかもしれない。
 
  
 
ルビンの壺の図を見たことがあるだろうか。(教科書にのっていた気がする)
 

 
 
白黒の図が、あるときは壺に見え、あるときは、向かい合っている人の顔に見える。
 
みえているほうが「図」、みえないほうが「地」。
 
1枚の絵なんだけど、壺が見えるのか、人が見えるのかが変わる。
 
図と地が、反転する。
 
 
 
このルビンの壺と似ているんだけど
 
感じる力が伸びて、感性を解き放てるようになると、
 
図と地が、反転する。
 
 
「人間」という「図」から意識が離れて、
 
これまで「地」だった植物や空間や地球などの存在が、「図」として浮かび上がってくる。
 
 
 
 
何に興味を持って生きているかは、人によって異なる。植物の人もいれば、人間の人もいれば、工学の人もいる。
 
興味関心は人によって異なるんだけれども、
 
人間であり、社会で生きていくために、多かれ少なかれ「人間」にフォーカスしている。
 
そのフォーカスが外れるのだ。
 
 
 
一つ前の記事で書いた写真家さんの写真では、「人」と「空間」が、同じくらいの強さをもっていた。
 
彼が認識している「図」は、一般の人が認識する「図」とは異なるように思う。
 
文字通り、「みえているものが違う」のではないだろうか。
 
ADRIAN GAUT
http://www.agaut.com/

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絵や写真や音楽は、感じとれるから、表現できる。
 
その「感じる」は絵空事ではなく、おそらく本当に感じたのだ。本当にそうみえたのだ。
 
ゴッホの絵も、これまで正直よくわからなかったんだけど、今は「彼はきっとそう感じ取ったんだろうな」と思う。
 

 

 
 
感じられるのは、受け止められる領域までだ。
 
心が育って受け止め可能な量が増えると、感じるられることが増える。
 
感じることが増えると、どこかで閾値値(しきいち)を越えて、図地が反転する。
 
 
 
今までフォーカスしていた存在が遠のき、
 
これまで意識していなかった、ともに世界に在るものたちの存在が、くっきりと匂い立つ。
 
 
 
ルビンの壺で、常に「壺」がみえているわけではないように、常に「存在」にフォーカスできるわけではないんだけれど、
 
私は以前、「存在」にフォーカスが移った時、
 
ぎょっとするほど植物の勢いを感じ、
空を見上げて宇宙を思った。
 
自分がこれまでいかに「人間の社会」に生きていたかを知った。
 
 
 
存在にフォーカスすると、植物も自分も「ただ生きている」感じがする。
 
いいも悪いもなく、ただ生きている。
 
植物と同じように、自分も、生まれては消えていく命のひとつ。
 
 
 
生まれて消えていくことを「然り」と思うと、
 
「好きに生きろ」と、先祖たちの声が遠くからこだまする。
 
 
原始の海の時代からつながって、いまここにいる。
 
命をつなぐなかで、人類の願いや意志のようなものが、目には見えなくても存在しているのだと思う。