道教と日本思想  著者 福永光司  徳間書店

初刷1985430 三刷1990131日 装幀 熊沢正人 ISBN4-19-223062-3

道教と日本思想カバー画像

Ⅰ 空海と中国-日本密教と道教東漸    Ⅱ 鬼道と神道-中国古代の宗教思想と日本古代
Ⅲ 天皇と真人-天皇概念の来た道     Ⅳ 天皇と道教-研究方法と基礎資料について
Ⅴ 老荘の思想                  Ⅵ 記紀と道教

まえがき

 日本思想が中国の道教とどのようなかかわりを持つのか、この問題を私が意識しはじめたのは、今にして思えば、九州の片田舎に生まれ育って、意味もよく分らぬままに浄土真宗の教典を誦読し、何としても強くなりたいと、不器用な体つきで柔道の練習に励んでいた旧制の中学校生徒の頃からではあるまいか。
 旧制の中学校で、私の教えられた柔道は嘉納治五郎の講道館柔道であったが、最初に自然本体と右自然体および左自然体の基本姿勢、ついで臍下丹田に力をこめることの重要性などを習い、しばらくしてのち柔道の真髄とは"柔克(よ)く剛を制する"ことであり、柔道がこれまでの柔術と違う点は、たんなる技の修得だけでなく、技の修得によって心(精神)を鍛えることにあるのだと教えられた。
 "柔克く剛を制する"が、『老子』の哲学の"柔は剛に勝つ"に基づくこともその時に教えられたが、柔道の自然本体、右自然体などの「自然」というのが、同じく『老子』の哲学用語(「無為自然」)であり、「臍下丹田」がまた道教の根本教典『黄庭経(こうていきょう)』などに見える服気(呼吸調整)の道術の専門用語であることを知り、さらにまた柔道の基本姿勢の「本体」とか「左右の体」とかいうのが、道教の教典『霊書肘後鈔』などに解説する「禹歩(うほ)」に基づくのではないかと考えるようになったのは、ずっと後年のことである。
 私が生まれ育った九州の郷里の農家は、父祖以来、西本願寺の門徒であり、家の仏壇の前の経机(きょうつくえ)の引き出しには、総ルビつきの『仏説 無量寿経』などの教典が蔵(しま)われていた。旧制の中学校に入学し、漢文の授業を受けはじめていた頃の私は、何とかしてこの教典の漢文の意味を理解したいと思ったが、中学生の漢文読解力ぐらいでは歯の立つようなしろものではなかった。ただしかし、この教典のなかに、柔道の「柔」の思想と共通する「軟調伏」とか「身心軟」とかの文字、また柔道の「自然本体」を容易に想起させる「道之自然」や、「自然虚無之身、無極之体」などという文字の見えているのが、なぜそうなのか、私にはまことに不思議に思えた。
 中国の三国魏の時代、西暦三世紀の半ばに漢訳されているこの『仏説 無量寿経』の教説が、この当時の道教(天師道教)の天神信仰ないし功過の思想と密接な関連を持ち、仏教そのものがまたこの教典では「道教」と漢訳されていること、さらにはまた、この漢訳経典のなかで数十回にわたって用いられている「自然」-とくに「無為自然」、「天道自然」など-の漢語が、明確に『老子』もしくは道教の「無為自然」の哲学を根底基盤に持つことを知ったのは、はるか後年のことであるが、私がまだ学校の生徒学生であった当時(昭和十年代前半)のわが国読書界においては、浄土真宗の開祖親鸞上人の主として『無量寿経』に依拠する"自然法爾(じねんほうに)の教説は、最も日本的な正覚の論理とされ、それ故に、日本思想を宗教哲学として最も典型的に代表するという評価が広く行なわれていた。一方、また国技としての柔道も、その"武器なき格闘"の故をもって日本古来の武道の精神を最も典型的に代表するものとされ、その""なる道の心は、浄土真宗の柔軟なる心と共に日本思想(精神)の中核部分を形成するもの、世界に誇る日本文化の栄華精髄である、と讃揚されていた。
 私が、日本思想と道教とのかかわりを念頭に置き意識するようになったのは、漠然とした予感程度のものでしかなかったにせよ、上述のように旧制の中学校生徒の頃からである。主として、講道館柔道と浄土真宗の教典によってであったが、その後、大学を卒業し、兵役に徴集され、大陸の戦場での絶望的な彷往からも漸く解放されて、故国に復員、大学に復学してからも、私は自己の専攻している老荘の思想ないし道教の宗教哲学を、日本思想もしくは日本文化とのかかわりという視座から考察しなおしてみようという心身の余裕はほとんど持ち得なかった。
 私がそのことに多少の積極的な関心を持ちはじめたのは、研究の場所を京都から東京に移した、昭和50年前後の頃からであるが、当時、私の学問研究者としての関心の焦点は、やはり老荘の思想と道教の神学教理、ないし本書の末尾に付録した「道教思想史研究覚書」に記すような、主として思想史研究上の諸問題であった。
 国立大学を定年退職した昭和57年の春には、その定年退職を記念して、それまで書き散らしていた日本文化に関連する雑文集を、心ならずも『道教と日本文化』と題して刊行している。しかし、これは本来、東京のある出版社からすでに刊行が予定されていた私の本命の学術書『中国宗教思想史研究』が、病気入院その他の事情から刊行延期となったための、窮余の代替処置であった。したがって、そののち、何とか健康を回復することのできた研究者としての目下の私は、ここで当然、道教の神学教理ないしは中国宗教思想史の研究に専念し、本命の学術書の刊行に全精力を集中しなければならないであろう。
 しかし、-理由の第三は、上述のように日本思想と道教のかかわりの問題は、素朴幼稚な思考であるとはいえ、私の旧制中学校生徒時代からの久しい関心事であり、現在の道教思想史の研究がそのうち一段落すれば、道教の神学教理と対比させて、いずれは新しい視座からの日本思想の検討考察に着手したいと思いはじめていること(本書の末尾に収載する「記紀と道教」の小文は、その初歩的な試論)、しかし、おのれの健康に対する以前のような自信を喪失してきている現在の私としては、自己の目ざす研究の青写真もしくは研究の足取りを、この機会に覚書風に書きとめておくことも全く無意味ではなかろうと考えるに至ったことなどである。
 本書の未熟児として世に送軌出される事情は、あらまし右のごとくである。読者さいわいに諒とせられんことを。
 なお、本書の巻頭に置かれた講演筆録「空海と中国」に関して最後に付記しておきたいのは、そのかみの空海・弘法大師と同じく、私もまた中国は福建沖合いの島々の間を、魔風ならぬ米軍の潜水艦に追いまわされて逃げまどったという悲劇の体験を持つことである。その時、私たちの輸送船団は上海の港を出て広東の汕頭(スワトウ)に向かっていた。太平洋戦争も末期の昭和20(1945)年の春3月のことである。
1985年3月20日   福永光司

 Ⅰ 空海と中国-日本密教と道教東漸

空海の思想と漢文
 西暦前一世紀、漢の司馬遷の書いた『史記』という書物によりますと、老子は唐の皇室と同じ李という姓になっていますので、そこで老子が唐の王朝の遠祖とされると共に、老子を開祖とする民族宗教としての道教が唐の王朝の国教とされることになります。
 そういう時代に空海さんは中国に留学しておられますので、いやでも道教というものとかかわりを持たざるを得ない。空海さんが中国で会う知識人や文化人、いやしくも文字が書けて文章の読み書きができるほどの中国人であるならば、国の教としての道教に何らかの知識と関心を持たざるを得ない。とくにこの当時には、唐の皇帝たちが熱烈な道教の信奉者であります。そして老子は神格化されて唐の皇室の遠祖とされていますから、日本の天皇家が天照大神に対して篤い信仰の念を持たれるのとちょうど同じ関係であります。
 そうすると、この唐の時代に中国で行なわれている仏教も、インドから来た異国の宗教ではあっても、土着の民族宗教であり、王朝の国教とされている道教とさまざまな形で深いかかわりを持たざるを得ない。そういったこの時代の仏教の現状を空海さんがどのように受け取っておられたのか、といったような問題、この問題は空海さんの思想を考えるうえでもかなり重要な意味を持つと思われます。
 漢訳された仏教-仏教の中国化
 梵本は中国に入ってきますと、これは中国から日本に仏教が朝鮮を伝わって入ってきたときとは全くといってよいほど様子が違うわけです。何となれば、仏教がインドから中国に入りましたのは、西暦紀元前後、キリストの誕生したころですけれども、そのころの中国はたいへんに高度の学術文化が発達している。
 要するにインド西域から中国に仏教が入ってきますと、仏典は全部漢訳される、つまり中国語に変えられてしまうということになるわけです。日本にやって来たのは、もちろんその中国語に翻訳された仏教文献、漢訳仏典です。
 ところで中国語に翻訳されるということは単に言葉が変えられるだけでなく、考え方、思想、哲学、こういったものまで、かなり大幅に変わっていくということになる。つまりインドの仏教が中国で翻訳され、漢文に変えられていくということは、単に言語、文字、文章表現の問題だけに止まらず、インドの仏教が中国的に内容を変えられるということにもなるわけです。
 第一に中国語に翻訳される場合の翻訳語の問題です。
 -仏教の教理の主な言葉が、中国の古典哲学ですでに使われていた言葉によって翻訳されていく。そして、この場合に重要なことは、菩提が老荘の哲学の「道」、現代の中国語で発音しますとタオですね、このタオという言葉で翻訳されますと、仏教というのは菩提の教、つまりタオの教、道の教ですから、そこで仏教は中国で道教と呼ぼれることになります。
 いま普通に私たちは中国の伝統的な土着の民族宗教を道教と呼んでいますけれども、この道教という中国語は、いわゆる中国の民族宗教を呼ぶ言葉としての道教よりも二百年ほど前に、漢訳された仏教すなわち中国仏教を呼ぶ言葉としてすでに用いられていたわけです。
密教における「真言」の語のルーツ
 この唐の王朝の時代にインドから中国に伝えられた『大日経』だとか『金剛頂経』だとかいう真言密教の根本経典が中国語に翻訳されて、しかもその道教の熱烈な信者である玄宗皇帝の前で真言密教の経典が講義される。
 その講義の筆録が、たとえば『大日経』の場合であれば『大日経疏』と呼ばれる。これを中国に留学した空海さんが日本に持って帰って、その空海さんが日本密教の開祖になられると同時に、わが国の真言密教の教理も、その漢文『大日経疏』などを中心に形成されていく。ですから中国にやって来た最初の段階からインドの密教は「真言」の宗教として中国の「真人の言」の教、すなわち道教と相互に重なりあい、まじりあうという状況になるわけです。
 仏教経典の翻訳・注釈と教理の体系化
-中国語に翻訳されたもの、すなわち漢訳仏典を注釈し解釈していかなければ、翻訳だけでは意味が十分に分らない。そこで第二の段階として注釈書、解釈書のたぐいがたくさん作られていきますが、その作り方は中国に以前からあった儒教の経典に注釈書、解釈書を作っていくやり方、すなわち儒教の経典解釈学と全く同じやり方で漢訳仏教経典の注釈書、解釈書を大量に作っていくわけです。この第二の段階でまた仏教はインド的なものから中国的なものに大きく性格が変えられるということになります。
-第三の段階では、仏教の教理の総合的な体系化。 -前の第二の段階でたくさんの仏教経典に注釈、解釈を行なっていきますと、インドから来た仏教の経典には内容的に一致しないもののあることに気づく。教理内容の不一致ですね。というのは初期の教理と後の教理、普通に小乗仏教と大乗仏教に分けていますが、その小乗と大乗との間では同じインドでの仏教思想に歴史的な展開と変化が見られます。その展開と変化の見られるインドの仏教が西暦紀元前後に一挙に中国に持って来られる。-インドのサンスクリット語のスートラを中国語で経と訳しますと、中国では経といえば聖人の言行を記録した文献ですから、聖人の言葉を記録した文献に矛盾することなど書いてあるはずがないと考えられる。しかし実際上は小乗仏教と大乗仏教とでは説いている教理に違いがある。経典のなかに矛盾したことが書いてある。
 そうするとスートラを聖人の言行を記録した経であると中国で受け止める以上、スートラのなかの矛盾した記述を何とか調和させ矛盾のないように処理しなければならない。
 それでは、どのようにしてその矛盾を調和させるのかといいますと、これもまた仏教が伝えられる以前の中国ですでに学問研究の方法として成立していたものが用いられる。つまり儒教の経典のなかにいろいろと矛盾している記述がある場合には、それを地域差と時間差で解釈し処理する。すなわち東の斉の国ではこうであるが西の秦の国ではこうである、昔の股の時代にはこうであったが今の周の時代はこうであるというふうにして、その違いを調和させていく学問研究の仕方がすでに成立していて、その調和の仕方をそのまま今度は漢訳された仏教経典の記述に適用していく。この第三の段階でも仏教の教理学は中国的に大きく性格を変えられてくる。
 そして仏教の教理の部分的な矛盾を解消し、その全体を総合的に整理し体系化していく場合には、どれか一つの経典を体系化の基準とするわけです。たとえば『法華経』ですね。『法華経』を中心にして他のたくさんの経典を体系的に整理していく。そうしますと、それが天台学派を形成し、さらに天台宗という宗派を作っていく。日本では京都の比叡山の天台宗です。同様にして『華巌経』を体系化の基準に置きますと、華厳宗となっていく。これは日本では奈良の東大寺がそれです。
 そういうふうにして、いろいろな仏教の学派、宗派というものが成立してくる、これが第四の段階です。ここでまたインドの仏教は中国的に大きく性格が変えられる。四つの段階で次々に大きく変えられるわけです。
 その中国的に大きく性格を変えられた仏教が実は朝鮮を経て、あるいは海を渡って直接日本にやって来て、そこで日本の仏教もしくは仏教学がスタートするということになります。我々の祖先は仏教というものを先ず最初に漢字で書かれた文献、つまり漢訳仏典で学習し始めたのです。それはインドの仏教思想そのままではなくて、中国で体質を中国的に変えられた仏典で仏教学の勉強をし、仏教の教理を理解している。わが空海さんの場合も勿論その漢訳された、つまり中国的に体質を変えられている仏教、いわば漢文仏教とも呼ぶべきものから仏教学の勉強を始めている。この事実はやはり空海さんの思想を研究し理解するうえで重要な意味を持つと私は思います。
空海という名と「即身成仏」の語の由来
 その一つは空海というお名前の由来についてですね。漢字で空と海と書きますけれども、この空海というお名前がもともとどういう意味であるのか、わかったようでいて実はまだ決定的にはわかっていないわけです。これまでに行なわれている主な解釈としては二つありまして、一つは空(そら)と海(うみ)という意味に取るわけです。それからもう一つは空(くう)の海というふうに読んで空を哲学的・思弁的に解釈します。
 -この当時の中国すなわち南北朝晴唐の時代の中国で一応の学問教養を持つ知識人たちの言語感覚から見て、空海を空(くう)の海と読んで哲学的・思弁的に解釈するのは無理ではなかろうか、また、そういった用語例も、この時代の中国にはおそらく無いのではなかろうか、-
 もう一点。これは空海さんの真言密教において重要な思想的、教理的な意味を持ちますが、「即身成仏」という漢語、すなわち中国語ですね。この即身成仏という中国語および中国語の持っている思想、それがやはり伝統的な中国人の物の考え方、それを宗教としていえば道教の教理思想と密接な関連を持っているということ、これが第二点です。
 「空海」の語義について
『三教指帰』執筆時の参考文献
 中国に留学されてからは『大日経』だとか『金剛頂経』だとか、そういった密教関係のものが圧倒的に多くなるわけですけれども、留学される以前の時期には、当時の日本の仏教学習者に一般的でありました『法華経』、それから『華厳経』、とくに『華厳経』の場合には善財童子と呼ばれる少年が主人公になっております「入法界品」という文章、そこの記述をご自身を善財童子になぞらえるお気持もあったと見えて、よくお引きになっておられます。
「空海」-空と海のヒント
 -空と海もしくは虚空と大海をセットにした文章表現が多く見られます。ちなみに、この虚空という言葉も漢語すなわち古典中国語でありますが、この漢語を中国で最初に用いている古代文献は、やはり『荘子』(徐無鬼篇)であります。この言葉が仏典の漢訳される段階で翻訳語に使われたわけですが、この虚空という言葉はもちろん天空、大空を意味します。
 大空のようであり、大海のようであるというように空と海がセットにされて『華厳経』や『大智度論』などの仏典で広く用いられている。そのほか空海さんの『三教指帰』のなかに踏まえられている漢訳仏典のなかにも類似の用例が多く見られます。
 -玄宗のちょっと前に高宗という天子がおられますが、この高宗もまた熱烈な道教の信者です。そして高宗も玄宗と同じくインドから来た仏教にたいへん強い関心を持たれた皇帝でありますが、その頃に作られた道教の経典が『海空智蔵経』と呼ばれる仏教の影響を全面的に受けている経典です。ここで海と空「空海」が引っくり返ってはおりますが、「海空」が経典の名前とされております。それから「智蔵」という中国語は、智恵の貯蔵庫を意味して漢訳された仏教経典に初めて見える言葉であり、仏教の中国に入る以前には漢語としてなかった言葉です。ですから、この経典が仏教の影響をいかに強く受けた経典であるかということは、その内容を読んでみてもすぐ分ります。
道教とは何か-とくに仏教との関係
 仁という文字は先ほども申しましたように孔子を開祖とする儒教のシンボルマーク。これに対して「真」が道教のシンボルマークです。この真宗皇帝の治世、西暦11世紀の初めに『雲笈七籤』と呼ばれる道教の教理百科全書120巻が編纂されて、これは現在ほぼ原形のままで伝えられてきていますが、この『雲笈七籤』という道教全書が道教というものをどのようなものとして考えているかを具体的に検討する、学問的に検討する。
 第一層 鬼道の教-巫術
 四つの重なりの層の一番下は鬼道と呼ばれている巫術的な宗教思想信仰。日本古代の卑弥呼の宗教も鬼道であるというふうに中国の文献『魏志』(倭人伝)では説明されていますが、この鬼道というのは、今の宗教学の言葉でいえば、だいたいシャーマニズムにあたると見てよい。
 そして、この鬼道の具体的な内容は、まじない信仰とお札信仰と神おろし、すなわち禁呪と呪符、霊媒術などが中心となっており、巫術とも呼ぼれています。この巫術は多くの場合、女性によって行なわれる。これは日本の神社などに形をかなり変えてはいますが今も残っているわけで、神社、神宮、祝詞、斎宮、祓除など中国古代の宗教用語を全面的に日本に持ちこんで来たことから、必然的に巫女さんが緋の袴を着けて手に鈴を持つことになる。
 これらはみな中国の巫術としての鬼道の教を日本に持って来たものと見ていいわけです。中国における鬼道としての禁呪は、日本では修験道などで行なわれています。中国では「祝」の字は「呪」の字と共通に用います。日本では「祝」の字を祝うと読んでいますが、それはこの字の一面を翻訳しただけであって、神の前で言葉を述べること、誓いやまじないの言葉を述べることが「祝」なのです。
 -こういった呪術祈薦が道教の一番古い層としてあって、それが鬼道とよばれる。
 ところが、そのシャーマニズム、巫術、鬼道の教としての道教が時間の経過と共に何らかの神学を必要とし、哲学思想をその上部に導入するようになります。これは巫術が宗教として発展するための必然的な措置です。そこで鬼道は鬼道としてお札信仰やまじない信仰もそのままに残しながら、同時にその上部に哲学思想を乗せていく。-この場合に鬼道が上に乗せる哲学思想は、『老子』の「玄」の哲学と『易経』の「神道」と呼ばれる陰陽の思想がその中心をなします。
第二層 神道の教としての道教
 「神道」という言葉が中国の思想史で最初に見えているのは『易経』(観の卦の彖伝)のなかです。ただし、ここで第二層として挙げられている神道は『易経』の神道そのままではなく、西暦2世紀、後漢の順帝の頃からさらに神秘化され、宗教化された中国の「神(かん)ながらの道」としての神道です。そして、この神ながらの道としての神道が言葉として日本で最初に用いられているのは、8世紀の初め、西暦720年に成った『日本書紀』においてであり、『古事記』ではまだ用いられておりません。
 鬼道という道教の第一層の言葉は古代の日本では全く使われていませんが、神道という道教の第二層の言葉が日本古来の土着的な呪術信仰を総括する神ながらの道を指すものとして最初に用いられているのは『日本書紀』からです。
 それはともかく第一層の鬼道に『易』と『老子』の哲学を上乗せして、天神、大神の道、天皇、上皇の教を説く神道としての道教が第二層として成立するのは後漢の時代の中頃、西暦2世紀の半ばであり、文献でいいますと、山東瑯邪の道士干吉が天神から授与されたという『太平清領書』170巻などです。-
第三層 真道の教としての道教
 中国古代の『荘子』の哲学では、「真は天より受くる所以なり。自然にして易(か)うべからず」と説き、「故に聖人は天に法(のつと)り真を貴び」、「俗に拘(とら)われず」などと説いて、「真」の道を「俗」の道と対比させます。そして「俗の道」を捨てて「真の道」に反(かえ)り、宇宙と人生の根源的な真理である「道(タオ)」を友として囚われなく遊ぶことを「全真」の教として説きますから、このような『荘子』の「真」の哲学が道教の神学のなかに大きく取り入れられますと真道の教と呼ばれてきます。
 しかもこの真道の教は、伝統的な儒教の政治倫理の道の教を俗道と呼んで、みずからの教の儒教に対する優位を主張します。
 そして、インドから中国に伝えられた仏教がまた、みずからの教を道教と同じく真道の教と呼ぶようになり、とくに浄土と禅の系統の中国仏教が真道の教として『荘子』の「真」の哲学を大幅に導入することになります。
 そして逆にまた真道の教としての道教も、同じく真道の教としての中国仏教から、その教理と宗教哲学をさまざまな形で大きく取り入れていくという、往復運動が始まっていくわけです。
 後の真言密教の「真言」の思想にしてもまた、このような真道の教としての道教、もしくは道教と中国仏教の思想的共通性を根底基盤として展開するということになっていきます。
第四層 聖道の教としての道教
 インドから中国に伝えられた仏教は、西暦3~4世紀、魏晋の頃まではみずからを真道の教とも呼び、道教と同じく反俗の立場を取って儒教の俗道と対立しました。
 しかし、5~6世紀、宋斉梁の頃になると、その仏教はこれも真道としての道教を「天下を以て事とすることのない」独善自利の宗教として批判攻撃し、それまで俗道として退けていた儒教とむしろ手を握ることになります。
 仏教の衆生済度の教えは儒教の治国平天下の教えと同じく、利他兼済を理想とする聖人の道の教すなわち聖道の教である。この衆生済度こそ宗教としての仏教の本質であり、儒教にはこの本質と共通するものがあるが、道教には全くそれが見られないと激しく批判攻撃するわけです。
 そうなると道教のほうも負けてはおられません。道教にも衆生済度すなわち「度人」の教えは本来的にあるのだと主張し、衆生の済度、救苦を説く道教経典、いわゆる『度人経』、『救苦経』のたぐいが大量に製作されることになります。そして、みずからの教を儒教、仏教と同じく聖道の教、聖教であると主張するようにもなるのです。
 さて、このようなわけで中国土着の民族宗教である道教は、インドから来た外来の宗教である仏教とかなり早い時期から-四つの重なりの層でいえば、第三の層の真道の教の頃から-相互に折衷習合する傾向、趨勢を強めていきます。道教の文献なのか、仏教の文献なのか、レッテルの張り方ではどちらにでもなりうるといった雑種的、雑家的な教典著作が大量に作り出されるということになって、わが空海さんが中国に留学された唐の徳宗ないし憲宗の治世こそは、まさにそのような道仏折衷習合の典型的な時期であったわけです。
 四神獣というのは、最も道教的な性格を顕著にもつ中国古来の土着的な宗教思想信仰を代表します。つまり、その道教的な青龍という名の仏教寺院で空海さんが真言密教を学んでおられたということが、この当時の中国仏教の性格とあり方を何よりも良く示しているといえましょう。
 道教の四重構造
道の教-A.D.6C以後
 南北朝時代の中国仏教が自利と利他-儒教の独善と兼済-の聖道を強調して真道の教を自利のみの「小乗」と貶(けな)すのに対して、道教がまた「度人」(衆生済度)「救苦」(苦海からの救出)を説く教典類を大量に整備し、儒教・仏教と同じく聖道の教であることを強調するに至ったもの。みずからの教を聖道として強調するこの時期において道教の教学体系は一応確立される。
真道の教-A.D.3C以後
 神道の教がさらに」荘子』の「真」-「真と信天より受くる所以なり。自然にして易(か)うべからず」-の哲学とこの「真」の哲学をふまえて展開する初期中国仏教の「清浄」の哲学などを導入し、儒教を俗道の教として批判すると共にみずからの教を真道とよぶに至ったもの。なお、この時期においては中国仏教もまたみずからの教を真道とよんでいる。
神道の教-A.D.2C以後
 鬼道の教の上部構造として『易経』の「神」-「陰陽の測られざる、これを神という」-の哲学と『老子』の「道」-「道は万物の奥、自然に法る」-の哲学を上乗せしたもの。後漢時代の瑯邪地区で出現した神書『太平清領書』(P太平経』)に説く「神道」がこの教を代表し、古代日本では8世紀の初めに成った『日本書紀』が最初にこの語を用いている。
鬼道の教-B.C,14以後
 殷周の最古代から行なわれている呪術的な宗教=巫術。本来は「鬼」すなわち死霊の信仰を中心とする巫術であったが23世紀、後漢末期に鬼道とよばれている張角の太平道、張魯の五斗米道などの教法は、「符呪」(お札とまじない)、「請禱」(誓いと祈禱),「首過」(懺悔)などを主要行事としている。日本古代の卑弥呼の宗教もまた中国の史書(『魏志』倭人伝など)では鬼道とよばれている。
 「空海」という漢語は空と海の意
「遊心」の哲学から「遊目」の哲学へ
 -まず中国の学界、思想界で伝統的な哲学ということになりますと、やはり老荘の哲学が中心となるのですが、これはだいたい3世紀の終り、魏・西晋の頃までは感覚・知覚的な世界を軽視して、むしろ内面的な精神の世界を重視します。いわゆる精神の自由を重視するわけですが、それを『荘子』の哲学用語で表現すれば「遊心」すなわち心を遊ばせる、囚われない自由な心を持つということになります。つまり「遊心」の哲学がその主流をなすわけです。
 ところが西暦4世紀、東晋の時代になって中国で貴族社会が確立してきますと、貴族は欲望の充足において一般の人々よりもはるかに有利な立場にあります。そこで、それまでとは欲望に対する考え方が変わってきて感覚・知覚的なものをも重視するようになり、いわゆる「遊目」の哲学が知識人たちの関心を集めるようになるわけです。
 「遊目」すなわち「目を遊ばせる」というのは、「目」すなわち視覚が代表する人間の感覚・知覚的な能力のすべてを媒介として、根源的な真理の世界、「道」の世界に参入し、悟りの境地に遊ぼうとするもので、-山水自然の哲学が展開し、-六朝の山水の文学を生みだし、さらに絵画芸術のほうでは宗柄の「山水を画くの序」によって代表される山水画の芸術理論を確立することになります。
 いずれも即物的、感覚的なものを重視し、それを媒介にして根源的な真実在すなわち「道(タオ)」の世界に迫っていこうとする、「遊心」の哲学から「遊目」の哲学への転換を示すものといえましょう。
 -このような具象の世界-形体や色彩をもつ存在、視覚的ないし感覚的な認識の対象となりうるものを重視するという時代風潮が、さらに中国における真言密教、その曼茶羅の思想信仰とも連接していきます。すなわち曼茶羅もまた密教の根源的な真理を視覚化し、具象化し、図形化したものであり、これの尊重は中国における上述のような「遊心」の哲学から「遊目」の哲学への展開の大きな流れのなかに位置づけることができるというわけです。
 曼茶羅はもちろんサンスクリット語のmandalaの音訳であり、インド西域から伝えられたものであって、本来的には中国のものではありません。しかしながら中国に伝えられますと、六朝随唐期における遊心の哲学から遊目の哲学への展開の流れのなかで、帝王を中心とする宮廷社会の上層部に愛重され、宗教的真理の図形化ということでは道教の五岳真形図や九宮貴神壇図などと原理的に共通する面もあって、唐代には鎮護国家仏教のシンボルマーク的存在になってもいます。そしてその曼茶羅をまた、中国に留学された空海さんが真言密教と共に日本に持ち帰っておられます。
 密教の「即身成仏」と道教の「即身不死」
 次に第二の即身成仏という言葉と思想の問題です。
 即身という言葉が中国で用いられるようになる事情と、この言葉自体のもつ思想も、これまで申してきましたような中国六朝随唐時代における遊心の哲学から遊目の哲学への展開の大きな流れと密接な関連を持ちます。
 すなわち4世紀、東晋時代の半ば頃から、遊目の哲学が六朝貴族の知識社会で拾頭してきますと、この「目を遊ばせる」感性的な生活文化の思想と関連して、単に観念的、抽象的、思弁的なものよりも、具体的、個別的、現実的なものを重視する風潮が高まり、「即事」、「即物」すなわち「事に即して」、「物に即して」という発想と文字表現が、詩文の著作のなかで目だつようになります。-そして「即物」すなわち「物に即する」の「物」という言葉は漢訳仏典では多くの場合、「色」と言い換えられていますから、この時期の仏教僧侶の著作では「即物」の語に換えて「即色」が用いられるようになってきます。
 ところで、この「即事」ないし「即色」の言葉と思想ですが、それは六朝時代の半ば以後、さらに「即身」という言葉と思想へと展開していきます。悟りの境地をただ単に心の問題として観念的、思弁的に考えるのではなくして、生身の肉体、現実・現世の生活に即して実現していくのだという考え方が、斉梁の時代以後、次第に有力になって、上に述べたような「即事」、「即物」、「即色」の思想が、さらに肉体を持ったままの永遠の生命の実現を究極的な理想とする道教の神仙信仰と結合して、「即身地仙」もしくは「即身不死」を標榜するところの宗教哲学となります。
 では「即身地仙」の「地仙」というのは何なのか。
 不老不死の神仙となることができても昇天せずに、なお地上の世界に止まっている道教の得道者をいいます。また「即身不死」の「不死」というのも、これまた道教の不老不死の神仙を意味します。仏教でいえば羅漢に相当しましょうが、いわばこの「即身地仙」、「即身不死」という言葉には、生身のままで、もしくは現世に住んだままでという道教の即物的、現実的な考え方が、最も端的に示されております。
 そして、このような即物的、現実主義的な道教の考え方の源流をなすものは、やはり遠く古代に遡って孔子(『論語』先進篇)に代表される中国民族の現世第一主義、「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」にあるといえましょう。ここで「いまだ生を知らず」の「生」とは、生身の体を意味し、もしくは現世の生活を意味します。そして「即身」という言葉こそ使っていませんが、ここにははっきりと「即身」の思想の源流が指摘されます。
 それと今一つは『荘子』の「神人」の哲学ですね。超越的な神としての性格を持ちながら人として現実の地上の世界に住みつづけており、生身の人間でありながら同時に超越的な神でもある。いわゆる明神(あきつかみ)の思想であり、わが日本国の天皇を明神と呼んだのも(『日本書紀』)、この『荘子』の神人の哲学を根底に持つと私は考えますが、このような「神人」の哲学もまた一種の即身の思想であると見ることができ、道教の「即身地仙」もしくは「即身不死」の宗教哲学の思想的源流をなすと考えることができましょう。
  -この頓悟(とんご)論争の経緯と、詳細な内容を記録しているのは上記謝霊運の『弁宗論』と呼ばれる著作ですが、ここにはインド仏教の漸悟すなわち気の遠くなるような永い時間をかけて、たくさんの修行の段階を経て、やっと最終的な悟りの境地に到達すると説く仏教の教義が、インド民族に対する中国民族の文化的優越の主張と共に手きびしく批判されていて、頓悟すなわち一挙に悟りを得て成仏することができるという一種の即身的な成仏論が展開されています。
 そしてこのような頓悟の主張は、六朝宋斉の頃から中国仏教がそれまでの『般若経』などの説く「空」の哲学から、『涅槃経』などの説く「常楽我浄」の「妙有」(不空)の哲学へと教理学の重点を移向させる動きとも対応していますが、
 これを要するに中国仏教におけるこのような頓悟の主張は、この民族に伝統的な現実的、現世肯定的な思想傾向を根底基盤に踏まえて、後の唐代の真言密教的な即身成仏論へと展開していく、宗教思想史的土壌を準備したものと見ることができるだろうということです。
 空海さんが中国に留学して学ばれた真言密教の即身成仏の教義も、私はインド西域における即身成仏の思想が、中国伝統の生身のままで神となることができ、神仙不死者となることができるという思想信仰、ないしは陶弘景の『真誥』などにいわゆる道教の即身地仙もしくは即身不死の宗教哲学と重ね合わされ、一体化されたものと理解しますが、同様に、空海さんが日本に持ち帰られた即身成仏の教義も、即身成仏が中国語であり漢語である以上、中国語、漢語の用語例、造語法に従ってその意味もしくは意味の歴史を先ず検討していくことが必要ではないかと考えます。

Ⅱ 鬼道と神道-中国古代の宗教思想と日本古代

中国古代宗教思想史の研究はなぜ必要か
 中国古代においては、政治思想(律令制)と宗教思想(神仙道教)とは一体不離の関係をもつもの、いわゆる「天人相関」もしくは「合一」として展開しております。そのことは、『詩経』や『書経』に見えます「天」の思想、あるいは天の「上帝」、さらには「昊天上帝」「皇天上帝」「皇皇后帝」といったような言い方もしますが、要するに『詩経』や『書経』に見える天の思想や上帝の信仰がそのことを示しております。「天」や「上帝」は宗教的な概念であると同時に、政治的な概念でもあるわけです。
 『礼典』も、やはり、単なる政治制度や行政組織に関する文献に止まるものではなく、天神地祇の祭祀を中心とする宗教儀礼や思想などと一緒に組みあわされたものです。
 ですから、中国古代において、天人相関、祭政一致として、一体不離の関係にあった政治と宗教との思想が、日本の古代においては、政治思想だけ、もしくは律令制だけが一方的に取り入れられて、宗教思想のほうはたいした影響がなかった、あるいは影響を与えていないというのは、まことに納得のいかない話であり、中国の思想史とくに中国古代宗教思想史の研究に強い関心を持つ私としては、早くからそのことに疑問をいだいていたわけです。
 ご覧になっていただいた方もあるかと思いますが、この論文のなかで私は、日本古代の天皇が中国古代の宗教思想(道教)における「天皇」=天皇大帝と密接な関連をもつであろうということを論じてみました。そして、そのことを論証するために「天皇」と関連する「真人」、また天皇の住む宮殿である紫宮(しきゅう-むらさきのみや)、それからまた、天皇の権威の絶対性を象徴するとされる二種の神器の鏡と剣、さらにまた日本の国号として使われる「大和」(たいわ-やまと)の漢字。こういったものが一連のものとして、中国古代の宗教思想、具体的にいえば道教もしくは原道教の思想ですが、その宗教思想と密接な影響関係を持つであろうことをも併せ論じてみました。
 道教において宇宙の最高神である天皇=天皇大帝は、天上の神仙世界にある紫宮、「むらさきのみや」に住んでいて、地上の世界の官僚組織と同じように多くの官僚をかかえ、その官僚組織の高級官僚が「真人」とよぼれ、下級官僚が「仙人」とよばれる。
 真人は仙人よりも上位に置かれ、この真人と仙人が天皇大帝(上帝)の命を受けて地上の世界の人間の行為の善悪、つまり功過を監察している。その行為の善悪、功と過に対して賞()あるいは罰()が与えられる。
 そういう神仙世界の最高の支配者である天皇(天皇大帝)の権威をシンボライズするもの、これが鏡と剣であって、そういった天皇もしくは天皇大帝の宗教的支配によって実現する地上の世界の平和、これが「大和(たいわ)」であり、「太平」である。こういった考え方や信仰は、西暦後2世紀から3~4世紀にかけての初期道教の教理学で、その原型的なものはできあがっているわけです。ですから、日本の天皇が中国の道教における天皇と密接な関連を持つとするならば、こういった一連の事実がセットになった宗教思想として古代の日本に持ち込まれていたと考えていいのではないか。これが私の「天皇と真人」と題する論文の要旨であります。
中国の神仙道教と「天皇」
 日本の古代史を見てみますと、7世紀の後半、天武、持統の頃からですけれども、中国の道教の「真人」という言葉が用いられている。『日本書紀』に載せる天武天皇のおくり名「天渟中原オキ真人」(あめのぬなはらおきのまひと)の「真人」がそれです。また同じく天武天皇の即位一年目に、それまでの古い豪族たちを中央集権的な支配組織のなかに組み込むために、「八色の姓(やくさのかばね)」(八種の家格を示す称号)が制定されますが、その「八色の姓」の最高位に置かれているのが、やはり「真人」であって、それは皇族だけに与えられる姓であるとされています。それからまた、紫という色が、天皇ないし皇室とたいへん強く結びつけられて重んじられており、さらに鏡と剣も、『日本書紀』を見てみますと、天皇の位の授受の場合には、二種の神器として重んぜられている。のちには三種の神器になりますが、『日本書紀』のなかでは、鏡と剣の二種の神器です。
 それからまた、日本の国号の「やまと」に「大和」という二字の漢字をあてるのも、その結びつきを考えてみると、なぜなのかと首をかしげたくなる。
 -中国の思想史では、この「大和」という言葉は、「天皇」「紫宮」「真人」などと一連の思想概念として、2~3世紀ごろにすでに神仙道教的な文献に多く見えているわけです。
伊勢神宮の御神体はなぜ鏡か
 なぜ鏡が御神体になっているのかといえば、私は中国の神仙道教の思想に源流を持つと思います。といいますのは、鏡を製作する技術そのものが中国から来たものです。このことは現在の考古学や科学技術史でも反論の余地のないほど確実なこととされており、ましてやその鏡が神秘的な霊力をもつとする思想、あるいは御神体としておまつりするという宗教哲学は、さきほど申しました中国の神仙道教の宗教思想史で、非常に古くから-西暦以前の頃から、成立しておりますから、それが日本において、古代のある時期に渡って来たものであるということは、先ずまちがいない。
 -それ以前の日本では、御神体は鏡ではなかった。たとえば近畿の三輪神社に行きますと、今でも御神体は鏡ではなくして、山そのものが御神体になっています。
 つまり、これらのことからも知られるように、本来の日本の神社は必ずしも鏡を御神体にしていなかった。伊勢神宮の場合も本来は、伊勢の地方で、豊年豊漁を祈る土着的な祭祀が行なわれていて、それが古代日本国家の成立と共に国家祭祀として格上げされ、政治的性格をもつようになって、神宮とよばれるようになったと考えられる。「神宮」という言葉自体も、中国の道教で古くから使われていたものです。ついでにいえば、伊勢の「斎宮」という言葉、「内宮」や「外宮」、さらには「神社」という言葉もまた、すでに古代中国の道教的な文献に見えているものです。
 日本古代研究の再検討を
 明治以後の日本古代史学、文化史学、宗教史学、文芸学、民俗学などの研究者たちの日本古代の宗教思想に関する学説というものも、もし私のように考えるならば、大きく検討しなおす必要があるのではないか。
 なぜかといえば、それらはほとんどの場合に、中国古代の宗教思想との関連を学問的に究明するという配慮を欠いている。日本の古代に影響があるにせよないにせよ、とにかく、海をへだててすぐ隣り、もしくは朝鮮を経由してすぐ隣りにつながっている中国古代の宗教思想史というものを、無視するということは許されない。
中国古代宗教思想史の四重構造
 一番底辺部にあるのは、殷代・周代以来の、中国土着の呪術・宗教的な信仰儀礼、これが底辺部にある。土着的といってもいいし、土俗的といってもいいと思いますが、それが底辺部にあって、これが第一です(三七ページの表参照)
 第二は、西暦前3~2世紀、秦、漢の統一国家というものが中国で出現してきますが、その統一国家の出現をピークとして、第一の、土着的、土俗的な呪術・宗教的信仰儀礼というものが、-、政治的、社会的に秩序づけられ、さらに儒家の礼典として整理、体系化され、そしてそういった宗教儀礼を執行する最高の責任者(司祭者)に帝王が当てられる。その意味でこれは、国家宗教もしくは国家的な性格を強くもつ宗教といってよいだろうと思いますが、そういう、政治的、社会的秩序づけが行なわれて、現在、我々が見ることのできる儒家ないしは儒教の礼典が成立します。
 ここで儒家ないし儒教といったのは、学説としては儒家ですが、その学説が現実の政治権力者によって政治教化として行なわれてゆけば儒教とよばれるということです。
 第三層として、西暦紀元前後、インド西域から伝来して中国の漢字文化のなかに組み込まれた中国仏教がそのうえに乗っかります。
 つまり、最底辺部の土着的呪術宗教、第二層の政治的・社会的に秩序づけられた国家宗教、具体的には儒教の礼典のなかの宗教部門ですが、そのうえに第三層として中国仏教が乗っかる。そして、仏教を布教し教理形成を展開していく。
 ところで、この場合、注目されるのは、中国という風土的・歴史的な限定をもつ地域でインドの仏陀の真理を布教しようとするわけですから、どうしても中国もしくは中国人に合った教理形成というものが必要になってきますし、インド仏教が中国仏教として大きく体質を変えられることになるという事実であります。
 すなわち先ず第一にインド西域から中国に伝えられた仏教文献は、少数の例外を除いて全部漢訳され、漢訳されることによって、すでに中国的な変更が大きく加えられる。具体的に申しますと、仏教それ自体が道の教、道教と訳されて中国人に理解され解釈される。
 ともかくそういうふうにして、中国仏教が第一層の土着的な呪術信仰、第二層の礼典的な国家宗教のうえに第三層として乗っかってくるわけです。しかも、単に乗っかってくるだけではなくて、それが第一の層、第二の層の宗教思想と複雑に入り組み、からみあっている。言語的にも、思想的にも、教義や儀礼の面でも相互に入り組んだ関係になって、第三層がある。
 そして、そのうえにこんどは第四層として、民族宗教としての教理と儀礼と教団組織を整えた道教が乗っかることになるわけです。
 ここでの道教は、底辺部の土俗・土着的な呪術・宗教的信仰儀礼を、自らの教理に基盤的に大きく取りこんでそれをベースに置きながら、第二層の儒教の礼典におけるさまざまの祭祀儀礼とその理論づけも吸収して、そういったものとも折衷的に調和させ適合させていく。
 たとえば、八節祭の宗教行事の規定がそれです。そしてこれは一例を挙げただけですけれども、そういった儒教の礼典における祭祀儀礼、さらには広く宗教的な習俗・行事の規定などと、当時の道教は調和折衷をはかっている。それからまた、第三層の中国仏教-中国的に体質改善されたインド仏教-1からも、教理、儀礼、教団組織などにわたって多くのものを取り入れながら、西暦4~5世紀、中国南北朝の中頃、南朝のほうでいえば東晋の時代、北朝のほうでいえば北魏の時代あたりから、民族宗教としての教理と儀礼を形づくり、たとえば三世輪廻・因縁業報の思想、大劫小劫の劫運説、道観つまり道教の寺院のあり方、道士の生活の仕方・修業の規律戒律など-、それから教団や信者の組織というものを整備確立してきます。
 ちなみに、中国の思想史で道教と呼ばれているものには、道教という言葉に即して考えるかぎり、広い意味と狭い意味とがあって、狭い意味というのは、上に述べたような特定の教理と儀礼と教団組織を確立した中国の民族宗教としての道教です。しかしまた一方、広い意味での道教という言葉は、いにしえの聖天子の道の教えを意味して、古く『墨子』の頃から使われており、儒教や中国仏教もみずからの教えを道教とよぶことがあります。つまりこれが広い意味の道教なのですが、とはいえ狭い意味の道教もまた、広い意味の道教と思想的には密接不可分の関係を持ち、全く別個のものとして切り離すことはできません。
シャーマニズムとしての鬼道
 神道と鬼道は底辺部ではもちろん重なり合う部分を多く持ちますけれども、その上辺部に哲学-主として『易経』と『老子』の哲学ですが、それを導入しているか否かによって区別される。もともと神道という言葉は、『易経』の観卦の彖伝(たんでん)に初めて見えるわけですから、儒教の哲学でも、仏教・道教の教理学でも同じようにこの言葉を使います。とくに鬼道を低俗なシャーマニズムとして攻撃し、それに対する自己の宗教の優位性を強調するような場合には、鬼道ではなく神道という言葉が多く使われる。たとえば、我々の説く宗教的な真理は神道であって鬼道とはちがうというふうに道教的な文献では2世紀ぐらいから、神道としての教えをシャーマニズムとしての鬼道の上位に置く主張が目立ってくる。
 ですから、いま四つの層を鬼道と神道ということで対応させるとすれば、第一の層が鬼道にあたり、第二の層以上が神道にあたると見ることができる。
 もっとも、狭い意味の道教が成立する第四の層では、神道としての道教が儒教を俗道として批判し、みずからをとくに真道-「真」を「俗」に対比させる思考は中国の思想史で『荘子』に始まります-と呼ぶことがありますが、やはりその場合でも、道教が神道であることを積極的に否定する議論は全く見られません。むしろ随唐時代の道教の教理学は、『易経』の哲学を大幅に取り入れることから、再び神道としての道教を強調する傾向を顕著にしてきます。
 教理学としての神道
 中国仏教が仏陀の教えを神道として理解し強調するのは、中国の伝統思想と融和をはかるためということもありますが、それよりもむしろ、中国出身の沙門たちの学問的な教養が何といっても儒学と老荘の学を主要な基盤としていた、という事情が考えられます。
 たとえば、東晋の慧遠の有名な『沙門不敬王者論』のなかに、「神道」はたいへん精微であり、「理をもって」すなわち理論的にその宗教的な真理をつきつめていくということは不可能であるというふうな議論があって、その場合、仏教をストレートに神道と見ているわけではありませんが、前後のコンテキストからいえば、ここで彼のいわゆる神道は、仏教の宗教的な真理をも当然含み得ます。それからまた、同じく慧遠の場合、仏教の因果応報を論じて、「神道」というものには霊妙な一つの働きがあり、悪いことをした者、つまり悪行(罪業)のある者には、悪いむくいを与える。善いことをした者にはいい応報を与える。その道理というものは、寸分の狂いもない。それが神道なんだというふうな説明をして、仏教の因果応報の道理を根底から支える宗教的な真理、もしくは真理の世界を、神道という言葉で理解している。
 それからまた、僧肇の『肇論』の場合でも、たとえば、仏教の経典に有余涅槃(うよねはん)、無余涅槃(むよねはん)というようなことが説かれているけれども、その無余涅槃というのは、「神道の妙称」であるというふうに言って、やはり、仏教の究極的な真理を神道という言葉で理解している。こういった例は、魏晋の頃、あるいは六朝期の全体を通じて中国仏教教理書のなかに少なからず見られます。
 「鬼道」という言葉の意味変遷
 鬼道という言葉は人道と対立するものとして用いられており、鬼神の世界の道理・理法を意味します。またつぎに出てくるのは西暦前1世紀、司馬遷の書いた『史記』封禅書のなかです。封禅書と申しますのは、中国における秦漢時代の一種の宗教思想史概説、もしくは、宗教思想概論といった性格を持つ文献ですが、そのなかに、鬼道という言葉が二ヵ所使われています。-この鬼道という言葉が使われている前後のコンテキストは、天神のなかで一番尊い神、すなわち太一神の祭祀と関連しています。
 日本でも、太一神というのは、室町期に伊勢の天照皇大神は太一神と同じであるというような議論が行なわれ、中江藤樹などもそういうことを言っておりますが、もともとは中国の神さまで、宇宙の最高神を太一と考える信仰が秦漢の時代からあるわけです。そして、この太一神は、さきほど申しました道教の最高神の天皇大帝よりも先んじて文獣のなかに見えてきます。
 -ちなみに、その太一神の祭りは『漢書』の郊祀志によりますと八角形の壇を築いて行なうことになっており、これは日本の古代、7世紀の後半に造られた天武、持統などの天皇陵である八角古墳の「八角」と密接な関連を持つと思われますが、それはともかく、この八角の形の祭壇に「八通の鬼道」が開かれたと『史記』や『漢書』は記しております。もちろんこの場合の鬼道というのは、鬼神の道、鬼神の往来出入する道路という意味です。
 さて、封禅書のなかに見える鬼道という言葉は鬼神の往来出入する道路を意味しておりましたが、この言葉はさらに後漢の時代になりますと、少し用法が変わってきます。
 すなわち鬼神の往来する道路というよりも、鬼神そのものを祀り、もしくは、鬼神を駆使する-その道術はしばしば「使鬼」という言葉で表現されますが-そういう呪術ないし宗教的な信仰儀礼そのものを鬼道とよぶようになる。つまりシャーマニズムです。
 つまり、鬼道という言葉は、以上申しましたような、呪術宗教的な概念として一般知識人が歴史書を書く場合にもこの言葉を使い、仏教の僧侶たちも自分たちの宗教よりも次元の低い、低俗なシャーマニズムを意味するものとしてこの言葉を使っているわけで、しかしやがてひとたびその用法が定着すると、それからあとは余り大きな意味内容の変化をもたずに、ずっと使われてゆく。そして仏教側から鬼道であると攻撃される道教のほうでもまた、鬼道という言葉をこの意味で使い、鬼道を剋服した神道の教としての道教を強調するようになる。たとえば南北朝期の後半に成立したと推定される『度人上品妙経』といった道教の経典のなかなどでも、鬼道と神道とを比較して、神道としての道教は常におのずから吉であるけれども、鬼道は常におのずから凶であるといい、鬼道と神道とを凶と吉に振り分けるというふうなことをしております。
 ただ、それでも仏教のほうではまた、みずからを鬼道よりも高級な宗教だと主張する道教をさらに攻撃して、道教は鬼道でしかない、仏教に比べて低俗なシャーマニズムだとやっつける、というのが南北朝期の中国宗教界に見られる一般的な現象でありまして、-
「神道」という言葉の意味変遷
 『易経』の観の卦の彖伝というのは、六十四卦の一つである観の卦のもつ意味を全体として説明する言葉ですが、そこのところで神道という言葉が使われています。「天の神道に見て四時たがわず、聖人、神道をもって教を設けて、天下服(したがう)う」という文章です。
 ところで、『易経』のなかで使われているこの神道という言葉ですが、わが国の江戸末期の国学者、平田篤胤は、ここでの神道は哲学的・抽象的な概念であって、人格的な生きた神を対象とする日本の神道とは異なるといっております。
 確かに篤胤のいうように、『易経』のなかで使われている神道という言葉は、陰陽の自然哲学的な思考を顕著にもちこんでいる概念といってもいいかと思います。
 四重構造の例で言いますと、第一の段階から第二の段階への展開で、簡単にいえば宗教から哲学への発展であります。つまり今まで宇宙の最高神とされていた上帝もしくは昊天上帝が、こんどは「天」という原理的な言葉に置きかえられていく。そして、その原理化がさらに進められ徹底化すると、老荘道家の「道」という形而上的な概念を生んでくる。上帝や天よりもさらに根源的であり、上帝を上帝たらしめ、天を天たらしめる究極根源の真実在としての「道」であります。
 『易経』のなかに見える神道という言葉は、篤胤もいうように、一応は陰陽の自然哲学的な概念であり、観念的抽象的な性格を強くもつ概念だと見ることができますものの、しかしながらまた一方、この神道という言葉は、この言葉を含む『易経』の哲学そのものがもともと第一の段階の宗教から展開してきてもいるわけですから、篤胤が一方的に極めつけるように、全く宗教と関係のない哲学的な概念だというように突き放してしまうこともできないわけです。
 なぜかといえば、『易経』のこの部分の前後の文章をよく読んでみますと、「神道」という哲学的な概念としての言葉と関連して宗教的な記述も現に見えており、神を祀るということも説かれているからです。すなわち「盥(てあらい)いて薦(すす)めず、孚(まこと)有りて顒若(うやうや)し」とあるのがそれで、神を祀る場合には先ず手を洗う、そして手を洗ってから供物を神の前に供えるが、供える直前のまごころがこもって恭うやしい時が一番純粋な形で宗教的な帰依の感情の現れる時である。そしてその純粋な宗教的感情さながらに政治教化を行なっていけば、「天下は服す」-つまり天下は治まらないことはない、というふうに書かれている。
 結局、篤胤は、神道という言葉の使われている前後のコソテキストは無視してしまって、これは『易経』の陰陽の哲学をふまえた中国の神道であって、日本古来の神道とは別のものであると極めつけているわけです。とくに篤胤の著書である『赤県太古伝』などのなかの議論です-
 -「神道」という言葉は今述べたような形で周代の『易経』に出てくるわけですけれども、しかし、さきほどの「鬼道」と同じように、「神道」の「道」を道路という意味に取る解釈も漢の時代には見られます。神道を神への道と解釈するわけです。そして、この場合の神は鬼神を意味し、鬼神は同時に死者死霊をも含みますから死者に通ずる道、つまり墓道の意味に使われる。
 -それからまた、祠堂-神明(かみ)を祠ったお宮に通ずる道路、といった使い方も出てきます。神社への参道という意味です。
 そういうふうにして、陵墓への道や神社への道などを神道と呼ぶことが行なわれるようになってきますけれども、さらにまた西暦三世紀、魏晋の頃になりますと、そういった神道の言葉の用法から転じ、宗教的な世界の真理一般、もしくは超越的・神秘的な世界に関する教説、それ自体が神道と呼ばれるようになる。
 そしてこれはさきほど申しました、中国仏教が神道の教として意識される、あるいはまた、道教が鬼道よりも優越した宗教として神道の教と称する場合の神道とだいたい同類の概念でありますけれども、そういうふうにして、神道の概念というものが中国宗教思想史のなかで少しずつ内容的に変化していくわけです。
神道と「三玄(易・老・荘)」の学
 神道の概念が変化していくというのは主として中国仏教と、その教理を大幅にとりいれていく道教においてですけれども、魏晋の時代の中国仏教のうち、いわゆる義解(ぎげ)仏教、つまり一種のアカデミズム仏教学ですが、この義解仏教の教理解釈の根底にあるのは、「二玄の学」すなわち『易経』と『老子』の哲学であります。のちには『荘子』の哲学が加わって、三玄の学となりますけれども、
 この三玄の学は漢訳仏典にもとづく仏教教理の理解、解釈、教理形成を行なっていく場合のテコの役割を果たしています。
 道教はもちろんですけれども、仏教の教理解釈においても『易経』と老荘の哲学がベースに置かれ、『易経』の「神道」という概念が宗教的な真理の世界一般を意味して仏教でも使われるようになる。ちなみに17世紀以後、キリスト教が中国に入ってくると、キリスト教でもまたみずからの教えを神道と呼んでいます。
 このことは魏晋仏教だけにかぎらず、のちの随唐仏教でも事情は同じです。そこでは易と老子と荘子、いわゆる三玄の学が中国仏教の教理解釈学の根底におかれています-
 しかし、ここで最後に注意しなければならないのは、中国古代の神道として、『易経』もしくは『易経』と『老子』の哲学をその教理・教義の根底にもつ第二層の儒教礼典の国家的な宗教、あるいは、中国民族宗教としての教理と対比するとき、その後の儀礼と教団組織を整えた第四層の道教も、みずからを神道であって鬼道ではないとしばしば強調しながらも、そのように主張する教義や儒教礼典の国家的な宗教の底辺部に、依然として、根強く鬼道をかかえこんでいるという歴史的な事実であります。
 それからまた、中国仏教でさえも、時々みずからを神道として強調しているにもかかわらず、やはりその底辺部に鬼道をかかえこまざるを得なかったという歴史的な事実であります。すなわち、中国という歴史的、風土的な限定をもつ社会で仏陀の真理を説き、信者を獲得しようとすれば、どうしてもその底辺部には、道教や儒教礼典の国家的な宗教ほどではないにしても、また、その仕方も違っていますが、土着的な鬼道をだきこまざるを得なかったという事情が考えられることです。
 つまり、中国仏教も、高僧伝だとか名僧伝だとかに記されている仏教のあり方は別として、現実の庶民社会に行なわれている中国仏教の底辺部は、鬼道すなわち土着的な呪術宗教と密接に結びついている。また儒教礼典の国家的な宗教も、民族宗教としての道教も、インドから伝来してきてその体質を変えた中国仏教も、それぞれに神道としての宗教哲学的な性格と、鬼道としての呪術信仰的な性格を上下の重なりの層としてもっている。ですから私たち研究者としても、そのことを見落としてはいけないのではないかということです。
 仏教一辺倒の日本古代宗教思想の研究
 とかくこれまでの日本古代の宗教思想史研究というのは、先ほども申しましたように、国学の系統の皇国史観の立場から抜けきらぬものが多かった。もしくは仏教一辺倒の宗教思想史研究であり、日本古代の宗教思想を仏教だけで理解し解釈しようとする傾向が強かった。そして、日本に朝鮮から渡ってきた仏教が、実は漢訳された中国仏教であり、中国的に体質を変えられたインドの仏教であることの認識もきわめて薄弱であった。また同じくもとは中国の仏教であっても、朝鮮や日本に伝えられた仏教が、中国の高僧伝や名僧伝のたぐいに載せられているような純粋度の高い仏教ばかりでは必ずしもなく、大部分は、中国土着の呪術宗教的な思想信仰と習合された、多分に道教的臭味をもつ中国の底辺部もしくは辺境部の仏教であった事情も、十分に考慮されなければならない。

Ⅲ 天皇と真人-天皇概念の来た道

はじめに
宇宙の最高神「天皇」
 中国古代の天皇(てんこう)でありますが、この天皇は中国の秦・漢のころから梁・陳のころまで、日本で申しますと、だいたい弥生期から古墳期、西暦紀元前300年ごろから紀元後600年ごろまでの間、宇宙の最高神とされていた天上世界の神さまの名前であります。宇宙の最高支配者という意味で天皇大帝とよばれることもあります。
「真人」の意味
 西暦前4世紀ごろに活躍した荘周という哲学者がいまして、この哲学者の言行を記した『荘子』という書物が現在も伝えられています。この書物のなかに人生と世界の根源的な真理、それを荘周の哲学では"道(タオ)"とよぶわけですが、この""の根源的な真理を体得した人を「真人」とよんでいます。この真人は、荘周の哲学のなかで「神人」とよばれていることもあります。また「至人」とよばれることもあります。
 神人というのは、現実には人間でありながら神のような境地にある人、つまりアキッカミ(明神)です。至人というのは、最高の人間、絶対的な人格をもつ人という意味ですが、このような「神人」「至人」とセットにされて、西暦前4世紀のころ、日本でいえば、縄文期の終りから弥生期の初めのころにかけて、真人という言葉が中国の古代で使われています。
 真人は最初のころは、このように中国古代の哲学で使われた哲学的な概念・用語だったわけですが、西暦後2世紀ごろの後漢の時代、つまり日本の弥生期の後半あたりから、宗教的な意味で使われ始めました。現存する文献で確かめられるのは、だいたい、紀元後140年代ぐらい、後漢の王朝の半ば、順帝のころからです。どういう意味で宗教的に使われるようになるかと言いますと、先ほど申しました天上世界の最高神、天皇の宮廷に側近として仕える神の世界の高級官僚というふうに変わってゆきます。
 ちなみに中国の古代で、文献資料のうえでは西暦前4世紀のころから、全宇宙空間を三つの世界、つまり天上の神々の世界と現実のわれわれの住んでいる地上の世界、および死者の世界という三つに分ける考え方が確立されてきます。その三つの世界のなかの天上世界の最高神がやがて天皇大帝とよばれるようになるわけですが、この天皇大帝すなわち天皇は、地上の世界の帝王と同じように天上世界に宮殿をもち、地上の世界、死者の世界をも支配すると考えられるようになります。
 中国人の宗教思想では、天上世界はすべて地上の人間世界の相似形として考えますから、地上の人間世界に帝王がいて、その帝王が立派な宮殿に住んでいるように、天上世界にも立派な宮殿があって、金銀珠玉で飾られ、天皇大帝はそこに住んでいると考えられる。その宮殿に高級官僚として仕えているのが真人であるというわけです。
 それからまた天上世界で天皇大帝に仕える官僚となるために修行している人、つまり仙道の修行者ということになりますが、その修行者をもまた真人とよぶことになってきます。
「天皇大帝」の変遷
 天皇大帝と申しますのは、もともと北辰の星、すなわち北極星を神格化したものです。だいたい、紀元前3世紀、中国の戦国時代の終りごろから発達してくる星占術的な天文学のなかで、天体観測の最高基準になる北極星が神格化されて天皇大帝が出現してきます。そして紀元6世紀の後半-日本の古代の古墳期の終りごろ-までは、宇宙の最高神としての座を占めますが、道教の最高神として元始天尊が出現しますと、その地位を新しい最高神である元始天尊に譲るようになります。
 道教の最高神としての元始天尊は、もともと老子もしくは老子の説く"道(タオ)"の真理を後に神格化したものです。老子は本来は哲学者なんですね。現在、私たちが読むことのできる『老子』という書物には、老子を神さまに見たてたり、神さまとして祀るといったような記述は全く見あたりません。あくまで人生哲学、処世の知恵を説いた一種の哲学書です。-宗教書としての性格は本来は全くもっていないわけです。
 ところが、この老子が紀元後2世紀、後漢の桓帝の時代になりますと、神さまとして祀られるようになってくる。そして神さまとして祀られる老子は「老君」とよばれます。さらにこの老君は格上げされて「太上老君」、「元始天王」、「元始天尊」とよばれるようになる。
 「元始天王」というのは、世界を始めた王さま、世界の始まりからいた帝王という意味であり、「元始天尊」というのは、仏教の「世尊」「釈尊」「天尊」を真似た言い方です。元始天尊とよぼれる道教の最高神が出現するのは、私の考証によれば、だいたい6世紀の後半あたりからです。この元始天尊は一名を玉皇、玉皇大帝とも言いますが、以後、1949年の社会主義革命の前まで、歴代の中国人によってもっとも信仰された道教の最高神であったわけです。
 元始天尊が6世紀の後半ごろ道教の最高神として出現しますと、それまでの最高神「天皇大帝」は格下げになります。
 ついでに申しますと、天皇大帝が宇宙の最高神として中国社会で一般的に公認されるまでには、つぎのような事情がありました。中国の古代文献で最初に出てくる最高神は、昊天上帝(皇天上帝)で、中国最古の詩集である『詩経』(『書経』)などに見えます。
 ところが先ほど申しましたように、戦国時代から漢代にかけて星占術的な天文学のなかから北極星を神格化した宇宙の最高神「天皇大帝」が出てきますと、もともと生まれの違う二種の最高神「昊天上帝」と「天皇大帝」を一体化しようとする動きがでてくる。
 最高神が二つもあるのはおかしいというのが主な理由でしょうが、しかし儒教の経典である『詩経』などにれっきとした記載のある昊天上帝の存在を抹殺するわけにはゆかず、さりとて現実の社会に強い勢力をもつ天皇大帝の信仰を無視するわけにもゆかない。そこで昊天上帝は天皇大帝とイコールだという解釈が儒教の学問をする学者から出てくる。紀元後2世紀の後半の学者鄭玄がそれです。
 中国の国家を統治する帝王の政治は、漢代以後、儒教を統治の原理とし、その儒教の経典には宇宙の最高神として昊天上帝が記載されており、その昊天上帝を帝王が祀るということは国家祭祀の礼の規定(『周礼』)にも記載されている。そこで鄭玄によって天皇大帝は儒教の昊天上帝と同じ神格であると解釈されるわけですが、この解釈は宇宙の最高神としての天皇大帝の地位を公認することにもなるわけです。
 このようにして天皇大帝は昊天上帝と並んで、宗教的な信仰の対象としては天皇大帝、帝王の行なう国家祭祀(儒教の礼典)の対象としては昊天上帝、時には帝王もまた、天皇大帝を祀って6世紀の半ばごろまでくるわけです。そして六世紀の後半に、上に述べたような元始天尊が出現しますと、天皇大帝は格下げされて、元始天尊の下位におかれることになります。そうなりますと天皇大帝というのは、世界の全部ではなくて、東のほう、つまり日本の方向ですが、その地域を部分的に支配する神さまであるというような解釈も行なわれるようになる(この解釈は元始天尊の出現と関連して、もう少し古く遡ることも考えられます)。また7世紀、唐の時代には、生身の天子が生前に天皇(死後は諡として天皇大帝)の称号を用いるという事態も起こってきます。もちろんその天子(唐の高宗)は熱烈な道教の信仰者でありました。
日本古代史における「天皇」
 日本の古代史で、天皇という二字の漢字が使われ始めるのは、すでに述べましたように法隆寺金堂の薬師像の光背の銘文、つまり推古天皇のころからではないかと言われていますが、真人という言葉も、この天皇という称号と密接な関係をもって日本の古代史のなかでやや遅れて用いられてきます。
 たとえば、『古事記』、『日本書紀』の編纂の基礎を作ったといわれる天武天皇の諡(おくりな)のなかに見られる真人(まひと)がそれです。諡というのがもともと中国風のもので、日本でそれを真似たわけですが、天武天皇の場合も中国風の諡がおくられています。『日本書紀』によりますと、「天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)」というのがそれであり、真人(しんじん)をマヒトと読ませています。そしてこの真人が中国からきたものであることは、その上の字の瀛(おき)ではっきりします。
 濠という字は司馬遷の『史記』始皇本紀によりますと、西暦前三世紀の終りごろから仙人の住む海中の三神山の一つとされています。三神山というのは蓬莱(ほうらい)と方丈と瀛(えい)州ですが、この三つの仙人の住む海中の山は、中国からいって東のほう、つまり日本の方向の大海原のなかにあるとされています。徐市(じょふつ)という人が秦の始皇帝の命を受けて童男女数千人を引きつれ、この海中の三神山に仙人を探し求めたという話は、徐市の墓が日本にあるという話とともに有名ですが、この三神山の一つである濠州に住む真人という意味で、天武天皇の死後に「瀛真人」という諡がおくられているのです。
-即位されて13年目に、これまでの豪族を中央集権的な支配組織のなかに組み込むために「八色の姓(やくさかばね)」というものを制定されますが、その最上位におかれているのが「真人」です。「八色の姓」とは、真人、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)ですが、真人はその最上位におかれて、しかもこの姓(かばね)を与えられるのは皇族です。
-この「八色の姓」の最上位を占める真人も、-中国の神仙道教における真人-天上の神仙世界の元首である天皇の宮廷で最上位を占める真人からきていることは確実だと思われます。
 それからまた、『日本書紀』の天武紀に見える伊勢神宮の祭りの「神宮」とか、「斎宮」とかいう言葉も、中国では古く道教的な文献に見えているものです。また、神宮を内宮と外宮に分けることも陶弘景の茅山(ぼうざん)道教などで古くから行なわれています。
中国古代の「神道」概念
 「天皇と真人」を中心とする天上の神仙世界を理想として説く道教のことを、中国で古くから神道とよびます。神道というと、日本だけのもののように考える方が多いと思いますが、実は中国のほうがはるかに古いのです。中国の神道もまた日本のいわゆる神道と同じように、仏教が伝わる以前の中国固有の民族信仰、土俗的な呪術、宗教などを教理・儀礼の主軸としたものです。外来の宗教である仏教を強く意識しながら、それに対抗する民族固有のものとして強調される点も日本の神道と共通した性格をもっています。この中国の神道が、神道という言葉を用いて、はっきりした主張を神の教えとしてととのえてくるのが、真人の概念の宗教化と同じく2世紀の中ごろから3世紀の前半-日本の弥生期の終りごろ-です。
皇位の璽(しるし)、鏡・剣をめぐって
 鏡もしくは剣を、物を写すとか人を斬るとかいった実際的な用途以上に神秘なもの、宗教的な霊力をもつものとする考え方は、中国で非常に古くから成立しています。文献資料で確認されるものだけでも前4世紀ぐらいまでは遡ります。そして鏡それ自体を神秘なものとし、それを帝王権力のシンボルとする考え方も、また剣を同じように帝王権力のシンボルとする考え方も、前2世紀の前漢のころから顕著になってきます。ただし、こういった資料や記述は、儒教の経典のなかには、ほとんど見られません。むしろ儒教が抹殺していった神秘な思想、宗教的な世界に関する文献資料のなかに多く見えるわけです。
 鏡と剣は天上の帝王の権威権力のシンボルであると同時に地上の帝王の権威権力のシンボルでもある。地上の帝王は天上の帝王の命令委託を受けて地上の世界の支配者となっているのであるから、天上の帝王の権威権力を象徴する鏡と剣は、同時に地上の帝王の権威権力の象徴でもあるというのがその論理で、唐の王朝の帝王の権力の神聖性を、道教の宗教哲学で根拠づけるという役割をも果たしているわけです。
紫という色
 日本では古くから紫色が尊重され、紫色が現在に至るまで皇室の色とされています。古いところでは、たとえば『日本書紀』の孝徳天皇の大化3年(647)のところを見ますと、この年、七色十三階の冠位を定め、上位の官吏は深紫色の服を着るというように規定されています。
 つまり紫色を天皇と結びつけることも、もとはといえば中国からきたものであり、中国古代の神仙道教的な宗教思想と密接な関連をもっていると考えられます。
 と言いますのは、中国の正統的な思想である儒教では、たとえば『論語』のなかに「紫の朱を奪うを悪(にく)む」という孔子の言葉が見えていますように、間色である紫を反価値的な色と見るわけです。したがって本来的な儒家の価値観では、紫は賎しい色であり、紫衣は卑俗な服であり、非礼の服であるとされます。
 これに対して、中国の古代で紫色を好んだのは、神仙道教と風土的にも密接な関係をもつ斉(せい)の国すなわち今の山東省の地域であり、紫色を宗教的な神秘性をもつ色として重んじたのは、黄老道家の学者たちや神仙讖緯(しんい)の思想家たちなのです。
 なお、地上の帝王の宮殿をも、また紫宮・紫微宮になぞらえることは前漢の終りごろから文学作品などに多く見られるようになり、5世紀、北魏の時代には、現実に地上の帝王の宮殿を紫宮とよんでいます。その北魏の帝王たちは、熱烈な道教の信者であり、道教の国家的な保護者でありました。要するに天皇を紫と結びつける信仰もしくは思想も、中国にそのオリジンがあり、ないしは中国から伝わってきたものと見ることができると思います。
「大和」について
 私が「大和(やまと)」という日本の国号が、中国の神仙道教と関係をもつのではないかと考えるようになったのは、「大和」という二字の漢字がきっかけです。大和という二字の漢字があてられている「ヤマト」は、ヤマのト、すなわち山の入口の意味だろうと思いますが、その意味とおそらくまったく関係のないと思われる二字の漢字、大和があてられているわけです。そして「大和」という漢語は、中国の古代では、「神道」という漢語、「天皇」「真人」という漢語などと一連のものとして、神仙道教の宗教哲学のなかできわめて重要な意味をもつ言葉です。
 すなわち、中国古代の神仙道教の宗教哲学では、先ほどから申し上げてきましたように、宇宙の最高神である天皇、天皇大帝が、高級官僚である真人を側近におき、天上世界の紫の宮に住んでいる。その天上世界は、地上の人間の世界のような争いや乱れや苦しみや悲しみが超克されていて永遠に平和な世界である、「大和」の世界であると説きます。と同時に、そこは清く明らかである、清明であると強調します。
 また『老子』のなかでは"道(タオ)"を和として捉え、「沖気以て和を為す」とか、「和を知るを常という」などと言っている。また『荘子』のなかでも「道」は「四時を調和し、万物を大和す」と言い、宇宙次元でのバラソスを「大和」として考えている。
 「大和」という言葉と思想は、中国古代の文献資料では、このように確実なんですが、日本でヤマトに「大和」という二字の漢字をあてる場合はどうかという問題が残ります。中国の古代文献で日本国もしくは日本人をよぶ場合には、すべて「倭」という漢字を使っている。「倭」というのは醜いとかせむしとかいう意味で、かなり軽蔑の念の含まれている言葉です。
 日本だって中国から頭をなでられてうれしがっている時期もやがて過ぎ、次第に民族的なプライドもでき国内事情も安定してくると、今までの「倭」を新しく「和」にあらため、しかも単なる和ではなく偉大な和であるということで、「大和」という漢字を用いるようになったのではないでしょうか。はじめは、ヤマト朝廷を中心とする部分的な地名として用いられていたものが、やがてヤマト朝廷の勢力の拡大にしたがって、日本国ぜんたいをよぶ言葉になったという事情も考えられます。
 『古事記』序文の「混元」
 『古事記』の序文は、元明天皇の和銅5年(712)に書かれていますが、元正天皇の養老4年(720)に成ったという『日本書紀』の書き初めの部分とともに、これまでの学者もすでに指摘していることですが、まったく中国の神仙道教の哲学を下敷きにして書かれています。
 たとえば『古事記』の序文を見ますと、「それ混元すでに凝(こ)り」と、しょっぱなからこういう記述が出てくる。「混元」という言葉は、「天皇」「真人」「紫宮」と関連して、2世紀、後漢の中ごろの天文学者であり、思想家であり、文学者でもある張衡という人の文章のなかにすでに見えています(「混元という言葉と同じ意味である「渾元」という言葉は、もう少し早く、2世紀初めの班固の文章あたりから見えています)
 ところが、この「混元」という言葉の神仙道教の哲学における重要性についてさえ、今まではほとんど注目されていません。近ごろの『古事記』の注釈書などを見ても、通り一遍の説明しか加えられていません。しかし、この言葉は、中国の思想史ではたいへん重要な意味をもつのです。本来は『老子』の宇宙生成論から出たもので、それが西暦紀元前後の段階では『易』の宇宙生成論とも結びつけられて、『老子』の哲学と『易』の哲学とのコンバインされた、後の道教の宗教哲学の基礎理論をなす形而上学を生み、その形而上学の基軸をなす言葉が、この「混元」なのです。
 ちなみに道教の宗教哲学では、「混元」とは、「事を混沌の前に記すなり」、「道は混然として是れ元気を生ず。元気成りて然る後に太極有り。太極は則ち天地の父母、道の奥なり」「(陶弘景『真譜』)などというように使われています。『古事記』の序の文章が、道教のこの「混元」という言葉をふまえていることは、まったく疑いの余地がありません。
 神仙道教と書紀・祝詞
 『日本書紀』の場合も同じです。そこで使われているのは、前2世紀に書かれた道家の文献『淮南子(えなんじ)』です。
 儒家の文献『論語』や『孟子』と違って、『淮南子』は最初からこの世界がどうしてできたのか、天地の開闢はどのようにして行なわれたのか、といったようなことを問題にし、また説明しています。この世界が初めに何であったのか、この世界はいったいどうして始まったのかというようなことを初めて問題として提起したのは、中国の思想史では、老荘道家の哲学です。それをうけて『潅南子』もまた、この世界の始まりを問題にしているわけです。-そういった書物の記述を下敷きにして、重要なところでは、たとえば「元気」という言葉を「混元」と言いかえるとか、そういう作業で、『古事記』の序文や『日本書紀』の神代の巻が書かれていることは間違いないし、おそらくそれを書いたのは、当時帰化人とよばれていた一群のインテリであったと推測されます。そして、初めにも申しました、天武天皇の神仙道教に対する関心と、記紀のこのような記述との間にも密接な関連を考えていいように思います。
 つぎに記紀と関連して、日本古代の「祝詞」のなかにも、なまなましい形で中国古代の神仙道教の痕跡が見られます。これはおそらくではなく、確実な事実として、渡来人によって日本に持ちこまれてきて、宮廷の儀式のなかで呪術宗教的な役割を果たしています。すなわち『延喜式』に載せる「東西(やまとかわち)の文(ふみ)の忌寸部(いみきべ)の横刀(たち)を献(たてまつ)る時の呪(じゅ)」がそれです。
 「謹みて皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方の諸神、司命と司籍、左は東王父、右は西王母、五方の五帝、四時の四気を請い、捧ぐるに禄人を以てし、禍災を除かんことを請う。捧ぐるに金刀を以てし、帝祚を延ばさんことを請う。呪して曰く、東は扶桑に至り・西は虞淵に至り、南は炎光に至り、北は弱水に至る。千の城、百の国、精(よ)く治まること萬歳、萬歳萬歳なれ」
 全文をかかげました『延喜式』の祝詞の文章は、完全に中国の神仙道教です。朝鮮からもってこられた道教の呪文の言葉を、6月と12月の大祓の儀式のときに、東西文部の渡来人たちがやるというのが面白いと思います。そして、このことは、中国古代の神仙道教的なものが、どういうコースで日本へはいってきたかということを、具体的に示しているものと見られますが、天皇と真人の問題を考える場合にも重要な意味をもつものです。
 神道-中国と日本
 神道を日本の専売特許のように強調したのは、江戸末期の平田篤胤です。篤胤という人は、中国古代の神道について実によく研究している。その目的は、先にも申しました記紀の神代の巻における日本の神道をもっと深く学問的に研究したいということでスタートしたものだと思います。ところが、八世紀の段階で、文字化された記紀の内容を文字を媒介にして学問的に研究しようということになれば、どうしても中国のもとのものを学ばなければ研究にならないわけです。
-しかし、篤胤の神道についての結論は逆だちしている。日本の神道が中国に行ったというのが彼の結論なんです。
道教研究の欠落部分
 近江朝廷で大陸の学問文化を全面的に日本にもち込むという時、つまり7世紀の後半ですが、他の点ではすべて唐の制度を真似したのに、老荘道家の哲学および道教だけは厳しく切って捨てられています。
 しかも、その切って捨てられた理由は、「玄」すなわち老荘の思想および道教が、「独善を以て宗と為し、愛敬の心無く、父を棄て君に背くもの」(『経国集』に載せる葛井広成の対策文)だからというのです。律令体制の基軸は、家族道徳を中心にした国家の統治組織、つまり儒教の忠孝の教えですから、家では父、国では君の絶対的な権威が保証されないような学術思想は困る、そこで全面的に切って捨てられた。
 そういう事情もあって、それ以後の日本で重んじられた中国学は、儒教経学の学問、律令体制の路線に乗る学術だけが、主流を占めてきたわけです。
もう一つの中国思想史
 -この墨子の考え方が、先ほどから説明してきました中国古代の神道の思想の一番基軸をなすものです。墨子の思想こそ中国における"神(かん)ながらの道"であり、"神ながらの道"の教、すなわち「道教」という言葉を中国の古代文献で一番最初に使っているのも墨子です。
 しかも墨子は、-上帝をトップにおいて、墨子の""の実践の指導者「鉅子(きょし)」を網の目の結び目に配する「尚同(しょうどう)」の理想社会を構想するわけです。
 そして全宇宙を天の上帝の世界と現実の人間世界とその中間の鬼神の世界との三つに分ける、いわゆる三部世界構造-後の道教の世界観の原型をなすもの-を説いたのも、この墨子です。
 墨子のこのような宗教思想は、漢の武帝の思想的ブレーンとなった董仲舒の天人感応(災異祥瑞)の思想に採り入れられ、さらにそれを「神道」「神呪」として呪術宗教化した『太平経』の思想として展開し、その教えにもとつく張角の太平道の宗教一揆が後漢の末期に起きてくる(本書の巻末に戴せる「略年表」を参照)
 それからすぐ引きつづいて張角の太平道の教法と類似する張陵、張衡、張魯のいわゆる三張道教、5世紀における寇謙之を天師とする北魏の道教、六世紀における陶弘景を天師とす
 茅山(現在の南京市の遠郊)の道教と、大きく括れば、中国古代の神道が、神を肯定する思想の流れとして展開し、唐代における道教の黄金時代へと注ぎ込んでゆくわけです。

 Ⅳ 天皇と道教-研究方法と基本資料について

道教はなぜ軽視されたか
 それともう一つの事情は、わが国で陰陽道と呼ぼれている宗教思想と道教との関連です。
 中国の道教の宗教思想の一番中核をなすものは、老子の哲学と易の哲学です。3~4世紀、魏、晋のころからは荘子の哲学がもう一つ加わって、「三玄の学」と呼ぼれますことは、私、これまでにもたびたび申してきております。そのなかでも、とくに易の陰陽五行の哲学が、道教の教理学の非常に重要な部分を占めます。
 そして日本で大化の改新以後、大陸の学術を積極的に受け入れてゆくときには、易の哲学は儒学の一部門として非常に重要視されますので、この易の哲学と道教の教理学の結びついたものを、日本ではとくに「陰陽道(おんみようどう)」とよんで、道教とは別個のもののごとく考えてやってきました。しかし日本で「陰陽道」とよばれているものの具体的な思想内容を検討してみますと、中国の道教教理書のなかにそのほとんどが見えているものです。つまり、道教の教理学の一ブランチを日本では「陰陽道」という名前でよんできたと理解してよかろうかと思います。
 そういう事情で道教は陰陽道とは別個のものとされて、日本の古代から中世・近世にかけて余り注目されなかった-
津田左右吉、幸田露伴の道教論
 津田左右吉さんは、『天皇考』という論文を大正の中ごろに若くしてお書きになっておられます。そしてこの「天皇」という称号が中国大陸の思想文献と関連を持っているということをすでに指摘されておられるのであります。ただし道教の天皇信仰というのは一種の星辰信仰であるが、そういった星辰信仰は古い時代の日本にはなかった、『古事記』や『日本書紀』などのなかにも星辰信仰のことはほとんど書かれていない。したがって天皇の称号は、中国の宗教思想とは関係があるけれども、道教の天皇とは余り関係がないとおっしゃっております。
 一般的に道教の思想に対して津田博士は否定的、批判的で、宗教としての道教は日本に入ってこなかった、宗教思想として日本に影響を与えたのは仏教だけであって、道教は単なる知識文献として入った程度にとどまっている、それに-道教には仏教のような宗教哲学とか、教理学とか、そういったものはもともとないんだ-おっしゃっておられます。
 -道教の思想哲学の研究に関しては注目すべき成果を挙げておられる幸田露伴さんが、一方では道教の原典(道教の一切経すなわち『道蔵』)については、そのコンストラクションがでたらめだといっているわけです。
 津田左右吉さんのように道教の思想は浅薄であり、ほとんど顧慮に値しないようなものであるとは必ずしもいえないように思います。また幸田露伴さんのように『道蔵』をただ混乱があるばかりで、雑然としていると決めてかかる必要もないと考えます。あとで申します道教の基本的な教理書を仔細に読み、『道蔵』の分類原理を思想史的に検討考察していくと、必ずしもそうはいえないのではないかというのが最近の私の考えなんです。
道教百科全書の神学と日本神話の類似
 6世紀(570年代)の北中国に、日本の古代とも高句麗を通じてたいへん密接な関係を持つ北周という王朝がありました。この王朝の武帝という天子のときに、勅撰の形で道教の教理百科全書が百巻つくられ、それが『無上秘要』と呼ばれています。
 この『無上秘要』を読んでいくと、『古事記』のなかでこれまで日本独自の神話であるといわれているのと、全く同じような話が出てくるわけです。
神仙世界の最高神は天皇
宮廷儀礼にも道教のあと
日本文化のなかに定着
 中国の都城制は、地上の帝王が神(上帝)と天人相関の哲学によって結びつけられ神聖化されている限り、必ずその根底基盤を、道教の宗教哲学によって支えられているといっても決して過言ではありません。
 そして古代日本の藤原京にせよ、聖武帝の難波宮にせよ、そのころは明確に天皇という称号が日本の王権者を呼ぶ言葉として使われているわけですから、そうである限りは日本においてもまた、天皇の住む紫宮を中心にして道教の宗教哲学を踏まえた紫震大極の都城制が構想されるということも必然の成り行きであろうと思います。

Ⅴ 老荘の思想

儒教思想との折衷融合
 儒教は簡単にいえば、政治倫理の思想を説く一種の支配の哲学、あるいは、国家社会の秩序の確立を主要な目的とする「公」的な思想、もしくは「表」の思想、ということができるだろうと思います。
 それに対して、老荘のほうは、政治倫理の思想としての性格をまったく持たないわけではありませんが、どちらかといえば、個人の生き方を主要な関心事とし、儒教の「公」に対してこちらのほうは、むしろ「私」の思想、もしくは、「裏」の思想という性格を強く持っております。
 儒教が徹頭徹尾、政治倫理の思想であり、天下国家を問題とする公的な思想であるのに対して、老荘は、いま申しましたように、私つまり個人的な性格を強く持つ在野の思想でありますから、どうしても中国の思想の歴史のなかで、宗教や芸術などとたいへん密接な関係を持ちます。
<第一期-戦国末・秦漢期の折衷融合>
 その第一の時期は、西暦前三世紀から二世紀、中国の歴史で申しますと、戦国時代の末期から、秦、漢のはじめにかけてで、この時期になると、両方の思想、つまり儒教の思想と老荘の思想が、ミックスされて、そこから一つの新しい思想の動きが出てきます。
 その動きを現在伝わっている文献で跡づけますと、いまは儒教の経典のなかに入れられておりますが、『易経』のなかに「繋辞伝」とよばれる文章があります。これは一種の自然哲学-大地の道-を説いたものですが、同じく天地の道を説く老荘の自然哲学と共通した性格を多分にもっています。
 『中庸』の哲学も、老荘の天地の道の哲学とたいへん密接な関係を持っております。それからまた、『中庸』よりはその成立がすこし遅れますが、現在、『中庸』と同じく『礼記』という儒教の経典のなかに一篇として収められています『楽記』、この『楽記』という書物は、音楽というものが儒教の説く政治や倫理の教えにどのような寄与をするかということを明らかにするとともに、音楽のいちばん根源にあるもの-これは中国人の考えによりますと、宇宙の秩序、天地大自然のリズムでありますが、この秩序とリズムを音楽によって表現する、また、そういう表現を持つ音楽が音楽としていちばんすぐれていることなどを論じたものです。いわば、中国古代における音楽の哲学を説いた書物が『楽記』でありますが、ここでも、やはり『易経』の「繋辞伝」や『中庸』と同じく、天地の道の哲学が説かれているわけです。
 そして、いずれもこれらの論述は、儒教と老荘の思想が接触した結果、生まれてきたものであり、これが第一次の儒教と老荘の思想との折衷融合です。
〈第二期-魏晋期の折衷融合、日本に影響〉
 つぎに、第二の時期は、西暦後3世紀から4世紀、中国の歴史で申しますと、魏、晋の時代。この魏、晋の時代には、たいへん老荘の思想がさかんになります。
 それは前の漢の大帝国が滅びて、それまで儒教の経典をさえ勉強していたら完全に就職ができる、官吏になれて生活できるという状況が崩れてきて、いままでは就職のための勉強といいますか、官吏になるための勉強をさえしておればよかったのが、ここにきて、そういった勉強よりも、自分自身のための勉強、おのれの心の支えになる学問をしようという動きが強く出てきます。と同時に、このころから、仏教が中国の社会で次第に勢力を培ってくるわけでありますが、その仏教の哲学とも関連して、この時代には老荘の思想がたいへん盛んになる。
 たいへん盛んになりますけれども、前の漢の時代には儒教の学問が盛んであったわけですから、その儒教の学問を新しく老荘の思想によって解釈するという風潮が、同時に当時の思想界で盛んになり、かくて儒教と老荘の思想との折衷融合が顕著に行なわれる、ということになるわけです。
 『万葉集』の歌人のなかで、いちばん特徴的な老荘思想の持主といえば、大伴旅人でありましょうが、彼の作品のなかに盛られている老荘思想も、だいたいこの時期の中国の老荘思想です。
〈第三期-新儒教における折衷融合〉
 第三の時期は、11世紀以後、中国の歴史で申しますと、宋から明に至る時代です。
 第二期の折衷されたものをふまえて、7世紀以後、晴、唐の時代には中国の仏教が大幅に思想界に力を得てきます。
 そこで、それに対する批判と反省が11世紀、王朝の名前で申しますと北宋、この北宋時代から批判と反省が起きて、"中国の思想界は全く仏教にいかれてしまっているではないか、中国民族の思想的な主体性は、いったいどこにあるんだ"という反省から、新しい儒教、"新儒教"=この言葉はヨーロッパの学者が好んで使うものですが、従来の呼び方にしたがえば、道学もしくは理学、もしくは性理学、宋学-が起こってきます。
 あるいは、その代表的な思想家の名前をとって「二程朱子の学」、略して「程朱学」とも呼ばれていますが、二程というのは程明道、程伊川という二人の兄弟。朱はいうまでもなく朱烹。そして、この程朱学、道学、性理学というもののなかにも、やはり老荘の思想が大きく持ちこまれています。
 程朱学、理学、道学、性理の学などとよばれるこれら"新儒教"の形而上学が、主な拠りどころとする儒教の経典は『易経』の「繋辞伝」、『中庸』『楽記』などですが、-これらの経典は第一の時期の儒教と老荘の思想の折衷融合によって成立した書物でありますから、したがって、そのなかに老荘的な思想がかなり含まれている。
 老荘思想の日本への影響
 この新儒教、宋学は、北宋・南宋の時代から元・明の時代へと継承されて、その間に南宋の陸象山、明の王陽明の哲学を生むわけですが、
 明代も末期、16世紀の後半になると、そのなかに内包されていた老荘仏教の学問が表面に出るようになって、結局はその原点に帰るというか、道学が文字通り道の学問、つまり老荘の道と仏教の道を総合した三教一致的な哲学となってゆきます。
 日本にはじめて伝えられた老荘思想は、第二期に儒教と折衷された魏、晋の老荘の思想であると、先ほど申しましたが、その後、
第三期に儒教と折衷された老荘思想が日本に伝えられるのは、鎌倉室町の時代以後であり、
 とくに明末の三教一致的な老荘思想が日本に伝えられ、学界に影響をもつようになるのは、明の遺民、朱舜水や陳元賛らが日本に亡命してくる江戸時代からです。前にも申しましたように、11世紀、程朱学は表面的には仏教、老荘を排撃しますが、しかし、中国で明の末期、16世紀後半ごろになりますと、そのなかに内包されていた仏教や老荘の思想が頭をもたげてきて、儒教の説く聖人の道と老荘、仏教の説く道とは、究極的には同じ真理であるといったような考え方が有力になってきて、その考え方が日本にも伝えられてきます。
 江戸期でも、はじめは朱子学が官学として力を持つわけですけれども、中期以後は、次第に明末の思想界と同じような様相を呈してきて、陽明学や古学とともに、老荘や仏教の思想も学界で頭をもたげてくる。とくに、民間人の学問教養としては、その傾向が顕著となってくるわけであります。
 老荘の思想が思想としてはっきり形成されてくるのは、儒教の思想に対する批判としてです。もちろん、老荘の思想の根底にある考え方は、それ以前の古い中国にもあったと考えられますか、それが思想として成立してくるのは、儒教の成立よりも遅れると考えられます。
 ふつうには、儒教の教祖といわれる孔子は、老子を訪ねて教えを乞うたという伝説が行なわれていますが、近ごろの研究では、歴史的にいろいろ検討してみて、それはどうも無理である。少なくとも、現在伝えられている老荘の基本的な文献、『老子』や『荘子』の内容を思想的に研究してみると、どうしても儒教の批判としてあとから出てきたと解釈せざるを得ない。
 無為は有為の否定として出てきた、老荘の思想は儒教の思想の批判として成立した、と考えるほうが思想の歴史としても自然である。
 儒教思想のあらまし
 儒教の思想は、先ほど申しましたように、政治倫理の思想を根本に置く治国平天下の術、つまり一種の支配の哲学である、と私は理解しますが、その支配の哲学としての儒教がめざしているものは、やはり、"この世界のすべての人間の、安らかで楽しい生活"であります。その生活を実現するための社会の秩序と倫理の規範、それを儒教は説くわけです-
 孔子の時代には、すでにかなり崩れかけてはいましたが、一応周王朝の制度として、現実の社会の政治的な秩序があったわけです。
 その秩序といいますのは、いちばん上に天子がいて、その下に諸侯がいる。それから、天子、諸侯を助けて実際に政治を行なっていく官僚階級、それが卿大夫、つまり高級官僚と、士つまり下級官僚です。これをいっしょにして臣と呼びます。天子と諸侯はいっしょにして、これを君といいます。この君と臣とがだいたい支配層です。
 それに対して支配される層が民で、内訳は農工商となるわけです。この下に半自由民・奴隷などがつきますが、主なるものは農工商の民です。
 つまり、社会の階層を大きくわけると、君と臣と民の三つとなる。そして、このような社会の階層は孔子の時代、つまり西暦前6世紀の春秋時代に周王朝の社会組織として、一応現実に存在していたわけです。
 孔子はこの現実をふまえたうえで、すべての人々がそれぞれに道徳的に自覚を持つ社会、天子諸侯は天子諸侯として、卿大夫士は卿大夫子として、それぞれに人格的な価値をもつ社会を究極的な理想として、天子には、完全な人格としての「聖人」を、大夫や、士の官僚階級に対しては、理想的な人間像としての「君子」を、説くわけです。それに対して、民のほうは、道徳的な自覚は持つに越したことはないけれども、現実にはなかなか持てないものである。だから、これは「小人」とよばれる。
 聖人たるべき天子をヒエラルキーのトップに置いて、その政治を助ける官僚階級は君子たるべし、民は小人であるというふうにして、現実の社会的な階層と道徳的な自覚の高下、人格的な価値の大小をそれぞれに対応させ、そこに一つの理想的な社会の秩序を考える。しかし、それは力関係にもとつく秩序ではなくて、あくまで道徳的な自覚の高下を秩序の原理とするものです。
 これが、いわゆる孔子の道徳階級社会であります-ついでに申しますと、孔子の君子、小人といった考え方は、孟子に受け継がれて、支配する者と支配される者との関係が、肉体労働者と精神労働者の関係に置きかえられる。これはたいへん有名な言葉で、よく問題になる言葉ですが、「心を労する者は、人を治める」すなわち、精神労働に従事す者は、支配階級になる。「力を労する者は、人に治められる」。肉体労働者は精神労働者に治めてもらう(『孟子』縢文公篇上)
 孔子や孟子は、そういう社会的な階層というものを考えるわけですが、その階層に、いま言ったような道徳的自覚を持たせるために、こんどは倫理的な規範を定める。その倫埋的な規範で最も重要視するのは人倫、人間関係。人間がこの世に生活するかぎり一人では住めないから、多数者といっしょに住む。その場合には、必ず人間関係が生ずる。たとえば、支配する者と支配される者、君と民。また親と子、兄と弟、姉と妹だとか、あるいは年長者と年少者、あるいは夫と妻というような、いろんな人間関係が生ずるわけです。
 孔子の場合には、いちばん重点を置いた人間関係は親子兄弟の家族関係であって、孔子は主として孝悌の道徳、親子兄弟の間の倫理を重んじ強調したわけですが、孟子になりますと、人間関係を五つに整理して、親とか義、別、序、信といったような倫理道徳を立てている。
 ともかく、そういった倫理の規範、つまり人倫の道を設けて、それによって社会の秩序を内面的、道徳的に充実させて、全体として安定した社会を実現していく、そういった政治理想を高くかかげるわけです。
 たとえば『易経』の『繋辞伝』では、親子の間に尊卑の関係があるのは、ちょうど天が高く地が低いのと同じで、それは天地自然のあり方にのっとったものであるというように、天地の道、大自然の秩序で人倫の道を根拠づけていく。孔子にも、そういった考え方は全くないわけではなく、「天」だとか、「命」だとか、人間の力を越えたものの働きを説いてはいますが、孔子の場合には、「天」という言葉を用いていて、「天地の道」といったような表現は用いていず、「天地の道」という言い方は、もともと老荘的な表現であると見ていいだろうと思います。
 ここに明確に、人間の倫理というものが、その根拠は天地、大自然の理法にあるのだという考え方が示されています。これは、言葉としては、孔子は説いていないことです。
 ただ、孟子の場合には、人間の本性ということについては、ご承知のように「性善説」というものを主張し、人間はだれから教えられなくても、生まれつきとして先天的に善を行なう本性を持っておるのだ、と説く。
 -政治と倫理の秩序と規範、これはずっと大むかしの聖王たちが、それを苦心して作りあげ、実践してきたものであるというように説明して、それを「先王の道」とよぶ。その秩序や規範を理論的に体系づけるというよりも、むしろ、具体的な過去の帝王に託し、かつて古代においては、事実として実現していたのだというように、過去の歴史のなかに理想化する。 それが、需教のいわゆる「先王の道」です。
 儒教の理想主義は偽善を生む
 このような儒教の思想は、当時の時点としては、かなり進んだものであったといってよいと思います。ただ、この儒教の思想の特徴は、次に説明します老荘の思想との対比で申しますと、あまりにも人間性の善美に信頼しすぎている。あるがままの人間よりも、あるべき人間を強調しすぎて、そこに無理な背のびが感じられる。
-人間のこのあるがままの姿、下限を見落とし、もしくは無視して、上限の善美さばかりを強調すると、みかけはたいへん立派だけれども、しかし、内実はそれについていけない。- お題目をとなえるけれども、裏側ではごまかすということになる。つまり、偽善です。
老荘思想は儒教批判から出発
 ここで『老子』や『荘子』の言おうとしていることは、ある規範、"ねばならない"をあまり強調しすぎると、ごまかし、偽善が出てくる。だから、人間が本来なんであるのかということをよく見つめたうえで、それから、"ねばならない"ということを考えてゆくことが大切である。"である""ねばならない"との問の対応関係に絶えず注意していないと、-逆に自由な生を束縛して、人問の社会は生々澄刺としたあり方を失ってしまう。その点を、老荘は批判するわけです。
現実の常識的な「為」や「言」や「用」を批判し、否定しながら、批判し、否定することによって、真の「為」や「言」や「用」を肯定する。このロジックの構造は老荘思想に独特のものです。のちには、中国仏教もまたこのロジックと表現を使いますが、このようにして老荘の思想は、人間にとってのほんとうの行為を追求し、よけいなもの、不必要なものをできるだけ切り捨ててゆく。切り捨ててしまったところから、ほんとうに必要なものを肯定してゆく。人間の行為についても、言葉についても、それから、知識だとか財貨だとか、有用性とかについても、すべて老荘では同じように考えるわけです。
 老荘思想の成立基盤
 司馬遷の『史記』によると、老子の生地は楚の国の苦県(こけん)、いまの地図では、河南省の鹿邑(ろくゆう)県ということになっています。一方、荘子の生地は、やはりその付近で、古い地名でいえば宋の国の蒙、現在の地図では河南省の商邸市。いまの商業とか商売の商という行為は、だいたいこの地方から発生したというように言われていますが、この商邸とか、鹿邑とかいうのは、歴史的、風土的にどんなところかといいますと、この地域は、周の王朝に滅ぼされた殷民族の末裔が集団的に集められて住んだところ、それから商邸とは商の丘の意味で、商すなわち股の王朝の都の跡です。
 商ともよばれた殷の王朝が滅びますと、政権をにぎっているのは、征服者としての周の王朝であって、この地域の人々は、現実の政治の舞台で活躍することにはハンディがある。そこで、政治的に道を閉ざされていた彼らは、経済の世界に活路を求めて商業に従事する。そういうことで、あきないの行為を商とよぶようになったという説があります。
老荘と儒教思想との異同
 ですから、老荘の思想は、そういうようなきびしい歴史的な現実をふまえて、いたずらに〃ねばならない"を絶叫するよりも、"である"こと、現実になんであるかということ、人間が本来なんであるのかということを深くつきつめる。と同時に、人間にとって、いったい、ねちのあること、価値とはどういうことなのか、儒教の説くような価値観は、すべてそのまま肯定してもいいものなのか、どうか。いったい根源的な価値とはいかなるものなのか。-人間という存在はいったい、本来的にはなんなのか、といったような問題をつきつめていく。儒教のめざすところとは、ですから、大きく方向を異にするわけです。
 もちろん、同じ中国古代の思想ですから、共通する点も少なくない。たとえば、老荘の思想では自然にまかせよという。自然にまかせれば、すべてはうまくゆくのだ。鳥や魚だって、自然にうまくやっているではないか。まして人間の場合には、人為のさかしらを捨てるならば、万事うまくやれるのだ。ただ、よけいな干渉を加え、作為を弄するから、うまくいかないだけだ、というふうに考える。そういう考え方は、やはり人間の本性が善であるということを暗黙のうちに認めているわけであって、これは儒教と共通した考え方であると思います。
 乱世の思想
 ここで乱世というのは、狭い意味で戦乱の世ということだけではなしに、表面は一応、治世のように見えても、秩序のゆがめられた社会、固定化し形骸化し、偽善の満ち満ちた社会を含みます。たとえば、わが国の江戸の後半期では、武士の階級社会、幕藩体制が固定化するとともに、形骸化してきて、表面は平和のように見えても、ゆがめられた社会、偽善の横行する社会であるという、一種の乱世の意識が芽生えてきます。
否定の精神と論理
 現実の社会のあり方はゆがんでいる、おかしい。人間の本来のあり方がごまかされているぞという、今あるものを批判し否定する考え方、これも中国の思想の歴史では、老荘ではじめて出てくる思想です。
 もちろん、儒教の経典のなかにも、否定的な表現は用いられています。しかし、それはあくまで儒教という土俵のなかで、こうこうしてはいけないという禁止的な教訓にとどまる。
真と俗を問う
 真、仮ということは、のちに中国に仏教が入ってきますと、むしろ仏教の言葉として有名になりますが、「真」を追求する生き方を第一義とするものに対して、「利」を追求する生き方を第一義とするもの、それをこの「真」に対する「俗」と呼びます。
 「真」は老荘では「道」と同義ですから、「真」と「俗」はまた、「道」と「俗」ということにもなりますが、真と俗との対比、もしくは道と俗との対比を最初に言葉として、また思想として打ち出してきたのも老荘です。人生の根源的な真理にめざめを持つ者と、そうではなくて、ただ目前の利益を追求している者との違い、それが、道と俗との違いです。道と俗の対比も、のちには、中国の仏教でよく用いられる言葉になります。
「私」の思想と「憂愁の病」
 はじめにも申しましたように、儒教の思想を「公」とすれば、老荘の思想は「私」の思想であるということです。もともと、公という漢字はどういう文字の構造になっているかと申しますと、ハとムに分解されます。ムというのは私という文字の古い形です。それに対して、ハは背反、反対の意を示します。ムすなわち私の反対という意味で公です。
 公は私の反対、私は公の反対、公と私は相互に対立する概念です。儒教の「公」に対する老荘の「私」の思想というのは、どういうことか。一言で言えば、老荘の思想は、国家というものを絶対的な前提としない。
 儒教は国家とか、君主とかいう存在を一応肯定して、そこで人倫を説き、国を治め、天下を平らかにすることを説く。国家というものを軸にして家族、個人の倫理を説くわけです。個人といっても、いまのわれわれの言う個人とは、必ずしも同じ意味ではない。
 ちなみに中国で厳密な意味での個人という考え方が出てくるのは、仏教が入ってきて、「業報」の思想が正確に理解されるようになってからだと言われます。
 もちろん、いかなる時代でも思想と感情の主体は個人ですから、その意味では、近代の個人の概念と重なるものをもつわけですが、ただ、中国人の場合には、いつでも複数になりうる個人、つまり、家族をその背後にもつ個人です。中国ではたとえ隠遁者の場合でも、だいたい家族ぐるみで隠遁するというケースが多い。とくに仏教の入るまでは、「出離」といっても、世俗すなわち政治的な秩序の世界をすてることを出離と考えています。ですから、儒教で考える個人も同じことで、-個人から家族、家族から国家、国家から天下すなわち世界へいく。そして、個人、家族が国家の秩序に対して従う場合、これが「公」です。個人、家族に対して、国家は公の価値です。
 ところが、ここで老荘の思想では、国家を通り越して、一挙に個が普遍につながる。個人が「道」すなわち根源的な真理の前に国家を媒介とすることなしに、ただ一人、その前に立つ。
 それが、老荘の「私」です。これは、老荘の思想の非常に大きな特徴だと思います。ですから、国家という媒介項を抜く傾向をもつこの思想が世の中に広まると、国家を第一とし、その強盛をはかるというような考え方にとっては、それは無用であるばかりか、害毒を流すとされる。
 私の例からすぐに一般化してしまうのは危険ですけれども、この思想に興味を持つ人間は、『荘子』のいわゆる"幽憂の病"を持つものだろうと思います。幽憂とは別の言葉でいえば、憂愁です。よくいえば、一種の非常に鋭くて繊細な感受性、悪くいえば、小心で、ひっこみ思案な臆病さ、ということにもなるだろうと思いますが、そういった幽憂の病、なぜとも知らぬ憂愁を心にいだく人間たちです。
 生命の価値を優先
 第五の特徴として挙げられますのは、人間が生きているということ、人間の生命を最高の価値として、人間や、人間の社会のあり方を考えていく思想であるということです。儒教の場合には、「大義は親を滅す」とか、「身を殺して仁を成す」とか、国家の危機に臨んでは命を投げ捨てるとかいうような倫理道徳をいろいろと説く。それはそれでいいわけでしょうが、ごまかされる場合もある。仁が為政者のための仁であったり、倫理が権力者のために利用されていたりするというように。ですから、思いきって角度をかえて、人間の定めた倫理や規範よりも、人間の生命そのものがいちばん値うちがあるのだ、もしくは、はじめに倫理規範があるのではなくて、はじめに人間の生命があるのだというように考えてみる。つまり、人間の生命を至高の価値として、現実の社会の倫理だとか、道徳だとか、社会の成立ち、組立てなどを考えなおしてみたら、いったいどういうことになるかという、そういった考え方、思想です。
 さきほどの「公」と「私」の問題、すなわち儒教の思想が「公」の価値を説くのに、老荘の思想は「私」の価値を説くという問題とも関連して、この点もまた、儒教からきびしく批判されるところですが、老荘はすべて人間の作為したものよりも、自然であるものを根源的と見るわけです。
 人間が安らかに生きるためには、国家社会に秩序や規範が必要である。けれども、秩序や規範は、人間の生を安らかにするとともに、人間の生を束縛する桎梏となる。かくて、生きているということを重視するかぎり、人は時として二者択一を迫られる。生きている無秩序をえらぶか、秩序ある屍をえらぶかという、二者択一です。秩序というものは、ある意味で規範的な要素をもちますから、固定化し、形式化する。そうすると、自由にまた創造的に生きようとすれば、どうしても既成の秩序にすっぽりとはまり込んでしまえない。秩序で割り切れないものが残る。それを『荘子』の言葉でいえば、「両行」、ふたつながら行なわれる、矛盾の同時存在ということになる。生きているということは、矛盾が同時に存在するということです。
 江戸期の老荘思想
-江戸期の老荘思想でとりわけ注目を引くのは、芭蕉と、良寛と、賀茂真淵です。良寛は諸国を行脚していたとき、僧侶でありながら仏典はまったくたずさえず、『荘子』二巻だけを持ち歩いていたという記録があります。
 質疑応答と「資料」
仏教の「空」と老荘の「無」
 老荘の「道」というのは、別の言葉でいいかえると、「真」ということになります。それからまた、「無」ともいいかえられ、さらにはまた「無名」、「無為」、「自然」あるいはいっしょにして「無為自然」などともよばれます。これらはいずれも「道」のあり方を説明する言葉であり、また道の同義語として使われます。その場合に、「無」という言葉は、ちょっとみると、仏教の「空」とたいへん似ているように思われますけれども、これは違うんです。少なくとも、仏教が中国に入ってくるまでは違うんです。どこが違うかというと、中国人にはもともと仏教のように、ものの実体性、ものそれ自体の存在性を否定するという考え方はないわけです。
 中国人には、仏教が入ってくるまでは、ものの自性、すなわち物それ自体の存在性を否定するという考え方はないわけで、だからこそ、仏教が入ってきてから、「空」の解釈をめぐって、たいへんな論争が展開されるわけです。『老子』の「無」というのは、そもそも「道」の同義語ですが、道は人間の感覚、知覚では、その存在を確認することができない。しかし、全くの非存在ではなく超越的な何物かは存在しているのです。
天地造化のはたらき、「無」と「道」と「空」
-「道」である、ということになります。しかし、その道は形もなく、声もなく、色もなく、ないという否定形でしか表現できない。それが、老荘の「無」ということなんです。ところが、仏教が中国に入ってきますと、仏教を布教するために、老荘の「無」が仏教の「空」と結びつけられる。また、これは先ほどもちょっと申しましたが、仏典が漢訳される場合に、老荘の「無」が訳語として用いられる。そうすると、そこに混同が起きてくる。そして、仏教の「空」は老荘の「無」と同じだというような解釈が生まれてくる。いわゆる「本無説」などがそれです。4世紀、5世紀ごろのことです。-それからあとは、仏教の「空」と「無」とをほとんど同じものとみるような解釈がかなり有力になってきて、とくに禅教でそれが目立ち、それがまた、日本にも伝えられてくるわけです。日本の禅坊主が好んで「無」の一字を揮毫するのもこのためです。

 Ⅵ 記紀と道教

中国学の資料を置き去り
 私の見るところ、未解決の問題の最大のものは、やはり、記紀の神話伝説と中国古代の宗教思想信仰、とくに記紀が文献として成立する8世紀初めに至るまでの中国古代のそれを集大成するところの、道教の神学教理、もしくは宗教哲学と記紀との比較検討、綿密な文献学的照合などです。
道教の神学との類似
 いわゆる天地開闢(この世界の始まり)を説く文章であります。-『日本書紀』の漢文が『書紀集解』でも注記しているように、西暦前2世紀、前漢の武帝の時代に成立が確認される『淮南子』の椒真訓、天文訓の文章、および西暦後3世紀、三国鼎立の呉の時代に成立している徐整の『三五暦記』の文章などをもふまえて書かれているのに対し、一方の『古事記』のほうは、記紀の成立年代とは逆に、『淮南子』『三五暦記』などより遙かに新しい、中国南北朝後半期に成立したと推定される道教の神学教理書の類をふまえて書かれている事実がとくに注目されます。
記紀冒頭の錬金術
『日本書紀』の天地開閣神話における「三→八」すなわち三神から八神への展開は、中国の古典哲学書『老子』第42章の「三は万物を生ず」および『易経』繋辞伝の「太極は両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」の「八卦を生ず」をふまえたものと解されるのに反し-、『古事記』の「三→五→七」の展開は、まさに6世紀後半に成立した上記『無上秘要』に収載する中国南北朝期の道教神学書に説く三気から五気(五行の気)へ、五気から七気(陰陽の二気と五行の五気の和)への展開を神格化し、神話化したものと見てよいであろうと思います。
〔補論〕『古事記』神話と道教の神学

道教思想史研究覚書-みずから学習する人のために-

道教の思想史的概観
-西暦2世紀の半ば(後漢の順帝の治世)、張陵(張道陵)による五斗米道(ごとべいどう-天師道)の教としての道教の創始から11世紀の初め(北宋の真宗の治世)、道教の神学教理百科全書『雲笈七籤』120巻の成立に至るまで-
 中国における民族宗教としての道教は、その源流と成立基盤とを中国古代の巫術(鬼道)および墨家が『詩経』・『書経』などを典拠として強調する上帝鬼神の思想信仰、さらには秦漢時代の災異祥瑞の思想信仰、神仙不死の信仰と各種の道術およびそれらと密接な関連を持つ医学薬学の理論と現実的実践などに持ち、2世紀の半ば、後漢の順帝(125144在位)時代、熱烈な神仙不死の信仰者でもあった漢の高祖劉邦と同郷の道術老・張陵(張道陵)によって五斗米道の教として創始された。
 五斗米道とは信者となった人々が五斗の米穀を供出するので、この名があるといわれるが、教の中核をなすものは殷周以来の伝統的な巫術(鬼道)であり、この教は順帝の漢安元年(142)、太上老君すなわち神格化された哲人の老子(老タン)が蜀の成都(四川省)の近くの鵠鳴山-『道蔵』洞神部に収載する『正一法文天師教戒科経』によれば、同じく臨卭の赤石城-のうえで張陵に垂訓した教誠(「正一盟威の道」の教)に基づくといわれる(「正一」の語は『老子』の「一を得て天下の貞〈正〉と為る」に、また「盟威」の語は儒教の経典『尚書』の「天の明威」に基づく)
  張陵が五斗米道の教を創めたのと同じ後漢の順帝の頃、瑯邪(ろうや・山東省)の道術者宮崇は、師の干吉が海州(江蘇省東海県)の曲陽泉で得たという神書(『太平清領書』)170巻を朝廷に献上したが、
 この神書に説く道術に基づいて後漢の末期、霊帝(167189在位)の時代に黄巾の乱の首謀者となった鉅鹿(きょろく・河北省)出身の張角は太平道の教を説き、この教は後に上記の張陵から子の張衡、孫の張魯に受けつがれた五斗米道の教と合流して天師道の教とよばれた(張陵、張衡、張魯を「三張」とよび、初期の天師道の教をまた「三張の道教」ともいう)
 「天師」とは、天のごとく偉大な宗師を意味して『荘子』(徐無鬼篇)に見えている語である。干吉の神書『太平清領書』(『太平経』)にも多く用いられているが、張陵もまた教団の最高指導者としてこの「天師」の称号を用いていたといわれる。なお干吉の神書には「天師」の語と共に「神」もしくは宗教の真理を意味する「神道」の語もまた多く用いられており、この語は『易』の観卦に初めて見える言葉であるが、
 ただ干吉の神書に多く見えている「神道」の語は、『易』のそれが自然哲学的傾斜を強くもつのに対して呪術宗教的傾斜を顕著にもつ。ちなみに、五斗米道(天師道)の張魯の教団で幹部教育用に用いたとされている『老子想爾注』の内容もまた干吉の神書の影響を強く受けており、その呪術宗教的傾斜を『老子道徳経』の解釈のなかに大幅に持ちこんでいる。
 張陵の五斗米道の教や張角の太平道の教が興った後漢の時代にはまた『史記』(封禅書)にいわゆる「丹沙は化して黄金と為すべし」という錬金術(黄白の術)が、益寿延年の神仙信仰もしくは医療薬術と関連して理論と実験の面で新しい展開を見せた。理論書としては呉(江蘇省)の魏伯陽の『周易参同契』が書かれている。この書は中国古代の錬金術を『易』(『周易』)と『老子』の形而上学で理論化したものであるが、その錬金術理論を基盤的に継承し、広く戦国以来の神仙方術の思想信仰、科学技術を整理解説して、道教の神学教理ないし思想哲学の基礎を確立したのは句容(江蘇省)の葛玄の従孫、西晋末期の葛洪・抱朴子(283343)である。
 葛玄および葛洪が思想的に密接な関連をもつ洞玄霊宝の道教神学については、ここであまりくわしく触れる余裕がないが、葛洪が『老子』の「玄」の哲学を最大限に重んじながら『荘子』の「斉物」の哲学に対しては厳しい批判の態度をとっていること、また仏教に対して積極的な受容の姿勢を見せていないことなど、次の陶弘景とは大きく異なる点であり、この時期の江南の道教思想を考えるうえで注目される。
 いわゆる「二葛」すなわち葛玄とその従孫の葛洪とは江南(江蘇省句容)の出身者であり、葛洪の晩年には中国全土は政治的に二分されて南朝と北朝との対立となり、そのなかで道教も変わっていく。
 南朝では盧山の道士・陸修静(406477)が、上述の「三張」・「二葛」の道教を祖述敷衍(ふえん)して南天師道の道教を確立、当時、現存の道教文献のすべてを「三洞」に整理分類すると共に新しく道教の神学教理、宗教儀礼(斎醮儀範)などを整備、南朝の皇帝貴戚の篤い信奉をも受けるに至っている。
 陸修静が確立した南天師道の道教は南斉の道士・顧歓(420483)らを経て梁の陶弘景(456536)に引き継がれる。江南の茅山(ぼうざん・江蘇省)に拠点を置いた陶弘景は、とくに道教の神学教理の面における整備と強化とに努めた。彼の編著に成る道教の神学奥義書『真誥』7篇がよくその成果を代表するが、それを読むと『荘子』の「真」の哲学と共に『妙法蓮華経』をはじめ、漢訳仏典に基づく中国仏教の教理学を積極的に採り入れている点が彼の道教神学の大きな特色であり、この『真誥』の著作が洞真部を輔ける太玄部の代表的道教文献とされているのもこのためにほかならない。
 陸修静から陶弘景に至る南天師道の道教に対して北朝における北天師道の道教を確立するのは、北魏の道士寇謙之(こうけんし・365?-448)である。彼は北魏の明元帝の神瑞2年(415)、嵩山の頂上で太上老君から「吾が新科の誠を宣べて道教を清め整え、三張の偽法を除去せよ……」という神勅を受け、太武帝(423451在位)の支持のもと、老君の神勅の実現に努め、ついに道教を北魏の国教とすることに成功している。彼の道教は、神学教理の哲学的な面よりも宗教儀礼、とくに国家的宗教儀礼の実践的な面を重視し、太武帝の太平真君3年(442)には帝みずから道壇に至り、親しく符籙を受くるに至らしめている。
 北魏の王朝は5世紀の前半、東魏と西魏に分裂し、東魏は北斉に、西魏は北周に交替していくが、北周の武帝(561578在位)の時、勅命によって編纂されたという(『続高僧伝』釈彦琮伝)『無上秘要』(100巻。ただし原欠32)は、現存する最古の道教教理百科全書であり、また6世紀後半の頃の北朝における道教学の実態を知る具体的な資料として貴重である(『無上秘要』に引用されている経典の延総数は708首であるが、そのうち8割近くの536首に三洞の区分が明記されている点がとくに重要である)
 これに対する南朝では、梁の阮孝緒(479536)の『七録』仙道録に当時の道教文献を経戒、服餌、房中、符図の四部に分類し、それぞれの巻数82816738103、合計1136巻を載せている。そして『晴書』経籍志「道経」章では「服餌」を「餌服」に、「符図」を「符録」に改めて『七録』とほぼ同じく四部の巻数90816738103、合計1216巻を載せているが、それに続く「道経」の教理内容を解説する「元始天尊は太元の先に生まれ、自然の気を稟(う)く云々」以下約1400字の文章は、7世紀の初め、随唐初の時代における道教の神学教理を教団外部の一般知識人が解説しているものとして注目される。
  随の文帝が皇帝として正式に即位してから僅か30年たらずで滅亡した楊氏の随王朝に代って李氏の唐王朝が成立すると、道教の開祖とされる老子の姓が『史記』で同じく李とされていることもあって、道教の熱烈な信奉者である高宗(649683在位)の時には、老子(太上老君)は唐の皇室の遠祖とされ、太上玄元皇帝の尊号をおくられることになり、これ以後、皇帝としてさらに熱烈な道教の信奉者である玄宗(712756在位)を経て、10世紀の初め、王朝の滅亡に至るまで道教は北魏と同じく国教の地位を占め、その黄金時代を迎えることになる。
 天下の士庶の家ごとに『老子』(『道徳真経』)一本を蔵させ、国立の道教大学ともいうべき崇玄学を設置し、その生徒に老子、荘子、列子、文子を習わせ、毎年、科挙の明経に准じて考試を行なわせたのは玄宗であるが、この皇帝の時にはまた道教の一切経目録である『瓊綱(けいこう)経目』7300巻が作られ、この経目に『玉緯別目』を加えると収載の道教文献は九千余巻になったという(杜光庭刪『太上黄籙斎儀』巻52)。しかも、玄宗皇帝自身が『道徳真経』(『老子』)に『御注』を書くくらいであるから、道教の神学教理もしくは思想哲学の整備研究は最高度に達し、同じく黄金時代を迎えていた仏教のそれとも十分に競合しえて、孫思邈、史崇玄、呉筠、司馬承禎、張万福、杜光庭など多くのすぐれた道教学者を輩出している。
 このような道教黄金時代の唐代およびそれを承ける五代の時代の道教の学術思想研究の成果は、11世紀、北宋の初め、この宗教の熱烈な信奉者であり護持者でもあった真宗皇帝の天禧3年(1019)、一種の道教「神学大全」-思想百科全書として勅撰された『雲笈七籤』120巻=その編集実務担当者は科挙の合格者で、当時第一級の学者・知識人である道士の張君房=の具体的な内容を詳細に検討考察することにより、道教がこの時代、みずからをどのような宗教として理解し自覚し、もしくは解釈し規定しているかを如実に知ることができる。つまり、道教とは何かに対する教団内部者の立場からの解答が、最もまとまった形で最も適切に提示されているわけである。
 すなわち、その全120巻の冒頭第1巻には、道教の宗教哲学の根本概念である「道(タオ)」とは何かを考えるための基礎文献資料を列挙し、ついで第2巻以下に道教の神学教理の基本的な概念、各種経典の成立の歴史とそれの整理分類の原則、歴代の天師すなわち教団の最高指導者たちの伝記などに関する解説資料を整然と排列し、第6巻から第20巻までの14巻に代表的な道教の神学教理書約60種の解題もしくは本文を収載している。また第21巻から末尾の第120巻に至る100巻の内容は、6世紀に北周で編纂された上記の道教教理百科全書『無上秘要』100巻のそれとあらまし対応し、引用経典も古い時代のものは『無上秘要』のそれをほとんどそのまま引き継いでいるが、『無上秘要』の編纂が儀礼儀式に重点を置いて金丹部門に粗略であるのに対し、『雲笈七籤』のそれは、『周易参同契』、『抱朴子』内篇などを基底におく金丹部門にも力を注ぎ、全般的に道教の神学教理ないし思想哲学に関心の重点を置いている。
 なお、この『雲笈七籤』120巻の具体的な記述内容によって道教の何たるかを検討考察するとき、道教の神学教理が中国宗教思想史として四つの層の重なり、すなわち最底部の鬼道の教としての道教、その上部に神道の教としての道教、さらにその上部に真道の教としての道教、最上部に聖道の教としての道教が四重構造として検出されるということ、またこの四重構造をもつ「道の教」を総合総括して、その重なりの全体を中国伝統の民族宗教「道教」と考えるほかないであろうことについては、本書のⅠ「空海と中国」31ページ以下の記述を参照されたい(「四重構造」については37ぺージに載せる別表を参照)

初出一覧

空海と中国  1984年5月12日 善通寺市民会館ホール(IBMシンポジウム)にて講演
鬼道と神道  1979年3月1日 駒沢大学大学会館にて講演(同大学『宗教学論集』第10輯掲載)
天皇と真人 『道教と古代の天皇制』(徳間書店刊)所収 1978年5月
天皇と道教  泊園 1984年6月 第23
老荘の思想  週刊朝日ゼミナール 1972年3月1日 82A4
記紀と道教  国文学 1984年9月号
『古事記』神話と道教の神学 朝日新聞 1984年7月19日夕刊

 〔略年表〕

『道蔵』中の唐(五代)人著作一覧