戸津井康之の銀幕裏の声

通信兵は真っ暗な地下壕で頭上に米軍戦車の轟音を聞きながら、ただひたすら本土からの無線を待った…硫黄島の真実、生還した通信兵の証言(上)

 「父親たちの星条旗」(2006年)は米軍の視点から、「硫黄島からの手紙」(同)は日本軍の視点から見た硫黄島の戦いをハリウッドの重鎮、クリント・イーストウッド監督が映画化。その苛烈さをスクリーンに甦らせ、現代人に平和と命の尊さを訴えた。「父親-」ではすり鉢山頂上に星条旗を立てた米海兵隊員ら、「硫黄島-」では日本陸軍の栗林忠道中将の人生が描かれる。死傷者の数は日米計約5万人。画面に写らない登場人物の中に生還した数少ない日本兵もいる。元通信兵、秋草鶴次さん(87)はその一人。戦闘を振り返って語る秋山さんは時折こらえきれず嗚咽した。死の淵から生還した通信兵の証言を3回シリーズで紹介したい。

行く先も知らずに着任した南洋の前線基地で

 食料も水もない過酷な南洋の孤島での戦いは凄惨さを極めた。日本兵約2万人のうち生存者はわずか4%。「人はどこまで生き延びることができるのだろう。これは自分に与えられた試練だ。自分は今、その耐久試験を受けているのだ。そう思って耐え続けていました」。通信兵、秋草さんは真っ暗な地下壕で、米軍の戦車のキャタピラの轟音を頭上に聞きながら、いつ届くともしれない本土からの無線を待っていた…。

 秋草さんは昭和2年、栃木県生まれ。17年に海軍の横須賀第二海兵団に入隊する。15歳だった。通信兵となるために連日、モールス信号の猛勉強に明け暮れたという。「まさに月・月・火・水・木・金・金。授業は厳しく身体で覚えました」

 19年7月28日、秋草さんは通信兵として硫黄島に上陸する。

 「実はどこへ着任するのかも、我々兵隊には知らされていませんでした。南洋の島を転々としながら向かった先が硫黄島だったんです。船から島へ上陸したとたん、いきなり米戦闘機からの銃撃を浴びました。いったい何が起こっているのかも分からない状況でした」と秋草さんは振り返る。

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