2017.10.13

山中伸弥教授が明かす、故・平尾誠二との「最後の一年」

「僕は、声を上げて泣いた」

告げられた余命はわずか3カ月。生還か、永遠の別れか――。

「自分の全力を懸けます。この僕のいうことを聞いてください」

「僕は山中先生を信じるって決めたんや」

2016年10月に永眠した、元ラグビー日本代表監督の平尾誠二さん。死の影が日々迫るなか、ノーベル賞受賞者の山中伸弥さんが彼を支え続けていたことはあまり知られていない。

40半ばを過ぎて出会った大人の男たちの間に生まれた、知られざる物語を綴ったのが『友情~平尾誠二と山中伸弥「最後の一年」』だ。

本書の中から、山中さんが平尾さんとの思い出を語ったパートを特別公開する。

思っていた通りの「男」だった

初めて平尾誠二さんとお話をしたのは、2008年だったと思います。

ある晩、神戸大学医学部の先輩と後輩、僕の三人で食事をしていました。先輩は僕より十歳ぐらい上で、当時は整形外科の教授でした。後輩は二、三歳下で、神戸大医学部のラグビー部でも一緒でした。今は教授になっています。

二人とも神戸製鋼ラグビー部(神戸製鋼コベルコスティーラーズ)のチームドクターをしている関係で、平尾さんと親交がありました。

僕は高校時代から平尾さんの大ファンです。伏見工業高校の試合をテレビでよく観ていましたし、自分も大学で三年間だけですがラグビーをやっていたので、「本当に素晴らしい選手や」と憧れていました。

そんな話をしたところ、ちょっとお酒が入っていたこともあり、先輩が「そんなら平尾さんに電話するわ」と言って、その場で平尾さんに電話をかけました。

先輩はしばらく平尾さんと話をすると、

「今、隣に山中先生がいてますねん。代わりますわ」

と、僕に携帯電話を渡してくれました。その時は挨拶程度の会話でしたが、平尾さんは、
「山中先生のことは前から存じ上げてます。ぜひ、お会いできたらいいですね」

と、おっしゃいました。社交辞令だったのかもしれませんが、「とても紳士的な方だな」という印象を受けました。

 

それから二年ほどして、「週刊現代」から平尾さんとの対談の依頼がありました。

京都大学iPS細胞研究所には国際広報室という部署があり、取材や対談などいろいろなリクエストを全部チェックしています。

まだノーベル賞をいただく前で、毎年、発表の前の時期になると、ものすごい数の取材依頼をいただいており、基本的にはすべてお断りしていたのですが、二週間に一度ぐらいの割合で、どういう依頼があったかを僕に教えてくれていました。

「週刊現代」の依頼があった時も、「こういうお話がありましたがお断りします、この依頼もお断りします、これもお断りします……」という報告を、僕は「はい、はい、はい」と聞いていました。その流れのなかにさりげなく、

「ラグビーの平尾誠二さんとの対談もお断りします」

という言葉が出てきたのです。僕は慌ててストップをかけました。

「えーっ! ちょっと待って、ちょっと待って。今、なんて言うたの?」

これでこの話は復活。2010年9月30日に京都で対談をすることになりました。

初めての対談で。話は尽きなかった Photo by 岡村啓嗣

実際にお会いしてみると、平尾さんは僕が思い描いていた通りの方でした。

平尾誠二は、僕のようにラグビーをやっていた人間だけでなく、男女を問わず同年代の人たちにとってヒーロー的な存在です。テレビでも、伏見工業高校ラグビー部を題材にしたドラマ『スクール・ウォーズ』が大人気で、平尾さんをモデルにしたキャプテンの「平山誠」は、女子生徒がファンクラブを作るほど格好いいエースとして描かれていました。

「その通りの人が、そのまま出てきたな」と、僕は思いました。

テレビなどで憧れていた人でも、実際に会ったら想像していたイメージと違ってガッカリした、という話はよくあります。僕もそう思われているかもしれません。でも、平尾さんは想像していたイメージそのまま、いや、それ以上に素敵な方でした。

彫りが深くて男前なだけでなく、とても心の優しい人なのです。話の端々に、いろいろな人に対する思いやりが滲みます。それが慇懃無礼な感じではまったくなく、むしろ口では結構辛辣なことも言うのですが、それでも優しさが自然に伝わってくるようでした。

対談後、編集者もまじえて京都で食事をしました。いちばん憧れていた人にお会いできた嬉しさから、いつもよりたくさんお酒を呑んでしまいました。

そこから、僕たちの付き合いが始まったのです。

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