豊田佐吉

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豊田 佐吉
豊田佐吉
生誕 慶応3年2月14日1867年3月19日
日本の旗 日本 遠江国敷知郡山口村 (現在の静岡県湖西市
死没 (1930-10-30) 1930年10月30日(63歳没)
名古屋市覚王山自邸
墓地

名古屋市覚王山日泰寺

湖西市妙立寺 (湖西市)
職業 発明家実業家
配偶者
  • 先妻 豊田たみ(佐原たみ)
  • 後妻 豊田浅子(林あさ)
子供
  • 豊田喜一郎(実業家・発明家)
  • 豊田愛子(利三郎の妻)
家族
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豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日慶応3年2月14日) - 1930年昭和5年)10月30日)は、日本発明家実業家トヨタグループの創始者[1]

豊田式木鉄混製力織機(豊田式汽力織機)、無停止杼換式自動織機(G型自動織機)をはじめとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件を発明した[2]。豊田紡織(現 トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現 豊田自動織機)を創業した。

経歴[編集]

父の豊田伊助

幼少期[編集]

慶応3年2月14日(1867年3月19日)、遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市山口)に生まれた[3]。父は豊田伊吉、母はゑいであり、佐吉は3男1女の長男だった[4]。山口村は三河吉田藩領であり、豊田家は伊吉が百姓のかたわら大工で生計を立てていた。

豊田家は裕福ではなかったが、とても貧しいということはなかった。幼い頃には坊瀬の妙源寺の寺子屋に通い、1875年(明治8年)には寺子屋から代わった川尻学校に入学した。佐吉は身体がやや弱かったが、在学中の1878年(明治11年)春、愛知県額田郡岡崎町岩津天満宮に徒歩で参拝した[5]。まだ学校に行けない子供の方が多い時代だったが、佐吉の弟たちも小学校に通っている。豊田家では一人の子供も奉公に出ず、山口村ではやや生活に余裕のある家庭であった[6]

青年期[編集]

1878年(明治11年)12月には吉津村川尻小学校を卒業し、父のもとで大工の修業を始めた。だが18歳のころ、「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、手近な手機織機の改良を始めた[7]。1885年(明治18年)には二俣紡績(遠州紡績会社)への就職を希望したが、父の反対で断念した。1886年(明治19年)2月からは山口観音堂で青年らによる山口夜学会を主導した[8]

  • 1886年(明治19年)春 - 佐吉は朋輩の佐原五郎作と無断で東京方面へ出奔。
  • 1887年(明治20年)春 - 徴兵検査を受けるが、抽選のがれで入隊できず。
  • 1887年(明治20年)暮 - 豊橋中八丁の大工・岡田波平のもとで修行。
  • 1889年(明治22年)正月 - 再度家を出る。神奈川県横須賀の佐原谷蔵宅に寄寓。
  • 1889年(明治22年)春 - 愛知県知多郡岡田村へ織機の研究。
  • 1890年(明治23年)4月 - 東京上野で開催の第3回内国勧業博覧会を見る。
  • 1890年(明治23年)11月11日 - 豊田式木製人力織機を発明、特許申請。
  • 1891年(明治24年)5月14日 - 豊田式木製人力織機の特許を得る。
  • 1891年(明治24年)頃 - 織機研究のため盛んに尾張各地を訪れる。
  • 1892年(明治25年)10月 - 東京浅草千束に住む。
  • 1892年(明治25年) - 織機研究のため埼玉県北足立郡蕨町在住の高橋新五郎を訪ねる。
  • 1893年(明治26年)3月26日 - 佐原豊作の三女たみと結婚(初婚)、東京で暮す。
  • 1893年(明治26年)年末 - 東京を引き揚げ、妻たみと山口村へ帰る。
  • 1894年(明治27年)正月 - 家出。豊橋曲尺手町の叔父・森重治郎宅へ。妻は取り残される。
  • 1894年(明治27年) - 「豊田代理店伊藤商店」で糸繰返機の販売(名古屋市東区朝日町)。
  • 1894年(明治27年)6月11日 - 長男・喜一郎誕生(母たみ)。
  • 1895年(明治28年)2月14日 - 糸繰返機の特許を取得。
  • 1895年(明治28年) - 豊田式木鉄混製力織機設計完成(名古屋市東区宝町、豊田商店)。
  • 1895年(明治28年) - 7代目石川藤八の援助により、愛知県知多郡乙川村(現 半田市乙川高良町)にて力織機の試験運転。
  • 1896年(明治29年)11月15日 - 豊田式木鉄混製力織機の発明・完成。
  • 1897年(明治30年)2月25日 - 豊田式木鉄混製力織機の特許出願。
  • 1897年(明治30年)7月9日 - 同郷の林政吉の長女・浅子と郷里で結婚式を挙げる(再婚)。
  • 1897年(明治30年) - 名古屋市東区武平町の工場にて力織機を製作。
  • 1897年(明治30年)秋 - 7代目石川藤八と豊田佐吉が共同で乙川綿布合資会社を設立。
  • 1898年(明治31年)春 - 乙川綿布合資会社工場操業開始、初出荷。
  • 1898年(明治31年)8月1日 - 「豊田式木鉄混製力織機」の特許を取得。
  • 1899年(明治32年)4月13日 - 長女・愛子誕生。
  • 1899年(明治32年) - 大隈重信井上馨ら明治の顕官が武平町工場を訪れる。
  • 1899年(明治32年)12月 - 三井物産が井桁商会設立、佐吉は技師長。
  • 1901年(明治34年)10月 - たて糸送り出し装置を発明。
  • 1902年(明治35年) - 井桁商会の技師長を辞任。
  • 1902年(明治35年) - 豊田商会を設立(名古屋市東区武平町)。
  • 1904年(明治37年)11月 - 管換え式自動織機を発明。
  • 1905年(明治38年)7月 - 島崎町工場設立。
  • 1906年(明治39年)12月 - 豊田式織機株式会社(現 豊和工業)が設立される。佐吉は常務取締役。
  • 1908年(明治41年)豊田織布工場設立(菊井町)。
  • 1909年(明治42年)6月、自動杼換装置を発明。
  • 1910年(明治43年)4月5日、豊田式織機株式会社の常務取締役を解任。
  • 1910年(明治43年)5月8日、日本郵船の因幡丸で、西川秋次を伴い渡米する。
  • 1910年(明治43年)10月1日、高峰譲吉博士にニューヨークで会う。
  • 1911年(明治44年)1月1日、欧州を回った後、下関へ帰国。
  • 1912年(明治45年)5月18日、藍綬褒章を受章。
  • 1912年(大正元年)10月、豊田自働織布工場を設立(現、名古屋市西区則武新町)。
  • 1913年(大正2年)11月、大正天皇御駐輩所名古屋離宮に御召出し(陸軍特別大演習)。
  • 1914年(大正3年)1月、7代目石川藤八の葬儀に参列[9]
  • 1915年(大正4年)10月8日、児玉利三郎、長女愛子の婿養子となる。11月18日入籍。
  • 1918年(大正7年)1月、豊田紡織株式会社に改組。
  • 1918年(大正7年)10月、単身、上海に渡航。
  • 1919年(大正8年)2月、西川秋次を伴い中国に渡航、上海に滞在。
  • 1920年(大正9年)三井物産の支援で上海に建坪約1万の紡織工場完成。
  • 1920年(大正 9年)佐吉、上海に私邸(旧ドイツ人住宅)を購入。
  • 1921年(大正10年)11月、豊田紡織廠に改組
  • 1922年(大正11年)12月4日、長男喜一郎、(飯田)二十子と結婚。
  • 1923年(大正12年)愛知県碧海郡刈谷町に豊田自動織機試験工場設置
  • 1924年(大正13年)2月、2度目の藍綬褒章(飾版)を受章。
  • 1925年(大正14年)8月10日、「無停止杼換式自動織機G型」を完成・特許取得[10]
  • 1925年(大正14年)10月、佐吉、帝国発明協会へ蓄電池の発明懸賞金100万円を寄附。
  • 1926年(大正15年)11月、株式会社豊田自動織機製作所を設立。
  • 1926年(大正15年)帝国発明協会から恩賜記念賞を受賞。
  • 1927年(昭和2年)11月12日 勳三等瑞宝章を受章。
  • 1927年(昭和2年)11月、陸軍特別大演習の折に、名古屋離宮で昭和天皇に単独拝謁。
  • 1929年(昭和4年)12月、豊田・プラット協定(自動織機の特許権譲渡契約締結10万ポンド[11]
  • 1930年(昭和5年)10月30日、覚王山の自邸にて死去、満63歳。死因は脳溢血からの急性肺炎
  • 1930年(昭和5年)11月4日、従五位に叙せられる。
  • 1935年(昭和10年)10月30日、佐吉の六回忌の命日に、豊田綱領を発表。
  • 1985年(昭和60年)4月18日、工業所有権制度100周年を記念し、「日本の偉大なる発明者10人」に選ばれ、政府から特別顕彰される。

人物[編集]

放浪と発明[編集]

佐吉は生涯、発明という夢を追い続けた。そして、青年時代は放浪と出奔を繰り返した。19歳の時、佐吉は同じ大工見習いの佐原五郎作を誘い、家出をした。2人は徒歩で東京まで行った。しかし観光ではなく、佐吉は工場ばかりを見て回った[12]。23歳の時は上野で開催されていた第3回内国勧業博覧会を見るために上京した[13]。目的は外国製の機械と臥雲辰致の発明品を見たかったからである。この2回の家出をはじめ、青年期の佐吉は一ヶ所に長く留まることがなかった。彼はひたすら各地を回り続けた。

家を飛び出した若い佐吉が頼りにしたのが、豊橋の母方の叔父・森重治郎であった。その家には同年代の従弟・米治郎もいた。また、佐吉はふらっと尾張の企業地へ出掛けることもあった。木曽川町玉ノ井で1889年(明治22年)、佐吉が1年間ほど、艶嘉と田上の有力機屋に寄寓し、研究したことが町史に記載されている。また稲沢市下津おりづにおいては野村織工場に滞在して、バッタン機[※ 1]の改良装置を試作したと伝えられている[14]。また、東京浅草千束に住んでいた時は、埼玉県の企業地のまで足を伸ばし、高橋新五郎を訪ねた。

知多郡乙川村の7代目石川藤八に巡り合うまでは、佐吉は発明のヒントを探すために全国各地どこへでも出かけていった。

納屋へとじこもってもっぱら織機の改良に集中した佐吉の発明生活は、きわめてけわしいものであった[15]。佐吉自身の語るところによると、それは次のようなものであった[15]

愈々いよいよ織機の改良と云うことに目的を極めたが、然らば是を如何に改良するか、今日でこそ織機と云えば動力で動かすものと極まって居るが、明治の初年に於ては動力など云うことを考える人は、余程“はいから”の部類の人であった[15]
左様な雰囲気の中に於て考えるのであるから、其苦心懊悩は一通りではなかった[16]。…人の手ばかり借りて居っては、仕事が思う様に運ばぬ[16]。自分にも大工の真似事もやる[16]。朝から晩まで毎日毎日こつこつと何か拵えて見ては壊す、造っては又造り直す[16]。それを後から考えて見ると、随分へまな事もやった[16]。まるで狂人じみたやり方さ[16]。傍人が眺めて狂人扱いにし、変り者扱いにしたのも、尤も至極の事さ[16]。弟を連れて東京に出掛けた事もある[16]
…東京で折角仕事を進めかけると、ひどい脚気症に罹った[16]。命辛がらで遠州の我家に帰って来た[16]。失意どころか旗揚げもせずに帰ったのだから、周囲の空気は冷たい[16]。唯一人労わってくれる者もない[16]。労るどころか、謗る者ばかりである[16]。それもその筈じゃ[16]。田舎の小百姓と言いながら、田畑の少しはあったものを、ぼつぼつと売り減らして、あてどもない発明に皆つぎこむのだから、とても周囲の人達が良く言うてくれそうな筈がない[16]
豊田式木製人力織機(豊田佐吉記念館)
  1. ^ 紐を引いて杼箱ひばこからを飛ばす装置。1733年にイギリスジョン・ケイが発明した。チャンカラとも呼ばれる。英語ではフライング・シャトル。

特許[編集]

日本では専売特許条例が1885年(明治18年)4月18日に公布、7月1日に施行された。それまでは発明されたものが保護されることはなかった。1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会において、臥雲辰致は手回し式紡機の発明で最高の賞である鳳紋賞牌を受けた。しかしその発明品は真似され、臥雲にはまったく利益がもたらされなかった。このことを機に、日本でも特許の必要性が認識された[17]

佐吉に関する書物や研究で、この専売特許条例を説明する際に、ほとんどの本で登場するのが「佐田先生」である。しかし、この「佐田先生」は與良松三郎が「発明物語豊田織機王」の中で特許条例の説明のために作り出した人物である。このフィクションが巧みであったため、その後、研究者までが実在の人物のように扱うようになった。「佐田先生」はまったくの架空の人物である。そのため、重要であるにもかかわらずフルネームではなく、下の名前がない。[18]

特許の恩恵を最も受けた発明家が、豊田佐吉だと言われる[19]。それまでの日本では、技術や知識は門外不出、一子相伝であった。佐吉はそのような古い考え方を改めなければならないと考えた。彼は発明した技術を広く知らせて、誰でも使うことができるようにするのが特許であると理解したのである。

家族[編集]

佐吉の甥・豊田英二の『私の履歴書』によると

おやじの兄弟、つまり豊田佐吉、平吉、佐助は異常に仲が良かった。みんな酒好きだが、末っ子の佐助が一番強かった。うちのおやじも好きだが一番弱い。長男の佐吉は真ん中ぐらいだろう。おじいさんの伊吉は大工だった。大工は毎日仕事があるわけではないから、農業もやる。大工の仕事があると、それをやって現金収入を得ていたのであろう。佐吉も見よう見まねで大工仕事をやっていた。初めは伊吉が教えていたのだろうが、親はなかなか教えにくい。だから豊橋の大工の棟梁に弟子入りさせた。
佐吉が最初につくった“かせ繰り機”は、機械といっても、要は大工仕事の延長であったわけだ。私がものごころついたころ、豊田の織機は御木本真珠鈴木ヴァイオリンとともに有名になっており、佐吉は名声をはせていた。しかし、小さいころから佐吉を身近にみてきたせいか、生前、佐吉を“伯父さん”としてみたことはあっても“発明家佐吉”としてみたことはなかった。

という。

息子喜一郎[編集]

佐吉と喜一郎の研究スタイルはかなり違っていた。佐吉は職人的な勘と努力で、喜一郎は科学的な分析から発明にたどり着こうとした。だが、この親子は発明という目的の前では、全く他のことは目に入らず、モノを作り出すことに最上の喜びを感じる人間であった。研究スタイルは違っていても、息子喜一郎は佐吉の遺伝子を色濃く受け継いだのである[20]

喜一郎の小学生時代は全く目立たない子供であった。成績も良くなかった。佐吉はそのような息子を心配したり、将来を考えることもなく、妻の浅子に任せていた。実際、佐吉は息子が学校を下りたら、家の工場の仕事でもすれば良いと思っていた。喜一郎自身は父の佐吉をどのように思っていたかはわからないが、表面的には互いに無関心な親子のように見えたことは間違いないであろう[21]

佐吉は数多くの織機を発明した。最後の最大の発明となったのが無停止杼換式自動織機である。通常G型織機と呼ばれているものである。この織機の最後の研究をし、完成させたのは喜一郎であった。また特許の申請も喜一郎が行った。それでは自動織機の発明者は喜一郎であるかというと、それは違う。佐吉が職人的な勘と努力で造り上げてきた自動織機の最後の問題点を、喜一郎が科学的な知識を使い完成させたのである。自動織機の発明者はやはり父の佐吉であろう。大きな研究はチームで行わなければ進まない。喜一郎は佐吉と違いチームで研究する知識と才能を持っていた。

佐吉が喜一郎に「俺は織機をやったから、お前は自動車をやれ」と言ったという話を聞くことがある。しかし、そのようなことを言ったという確かな資料はどこにも見当たらない。これは多額の資金とリスクを持つ自動車部門への進出において、社内を押さえるための喜一郎の智恵であろう[22]

2人の妻[編集]

[23]豊田佐吉は2度結婚をしている。1度目は佐原豊作の三女・たみ、2度目が林政吉の長女・浅子である。2人とも、佐吉の生家からわずかの距離にある集落に実家があった。

最初のたみとの結婚は、1893年(明治26年)3月であった。たみは佐吉と一緒に大工の修行をしていた佐原五郎作の妹でもあった。たみの実家の佐原家は、佐吉の家よりは裕福であったようである。たみの姉たちはそれぞれ、地元の有力な家へ嫁いでいた。佐吉とたみとの実質的な結婚生活は非常に短かった。一緒に住んだのは、東京でのわずか10ヶ月にも満たない期間であった。

たみは1894年(明治27年)6月11日に豊田家で、長男・喜一郎を産んだ。佐吉はその半年も前に出奔し、たみが出産した時は家には居なかった。佐吉はどこからかともなく戻って来たが、生まれた子供の名前をつけると、再びどこへともなく家を出て行った。たみは2ヵ月後の8月に、乳飲み子の喜一郎を置いて豊田家を去った。育児放棄をした悪い母親のように言われることもあるが、豊田家と佐原家双方の話し合いの結果であったと思われる。

その後、たみは地元の有力な家である土屋家の高吉と再婚した。高吉とは何年かの結婚生活を過ごした後に別れている。ちなみに土屋高吉の息子・高次郎は1945年(昭和20年)12月から1947年(昭和22年)3月まで、鷲津町長を務めている。たみは土屋高吉との離婚後は、横浜神戸の外国人家庭の家政婦として働いた。晩年は湖西市へ戻ってきた[24]

佐吉と浅子は1897年(明治30年)7月9日に、故郷で結婚式を挙げた[25]。だが、この結婚の経緯には不明な点が多い。どの資料にも、佐吉と林政吉の長女浅子が見合いをして結婚したと書かれている。しかし、浅子はこれ以前に名古屋市宝町の豊田商店ですでに働いていたし、すでに一緒に住み始めていた。豊田家、林家双方に、正式に見合いという手順を踏んだ後に祝言を挙げたいという思いがあったと推測される。

浅子は働き者で、また経理も得意であった。一方、佐吉は発明しか頭にない男であった。だが、浅子はそんな佐吉の足らない面を充分に補った。彼女は小さな工場の奥さんとして振舞うことも出来たし、大会社の社長夫人としても振舞うこともできた聡明な女性であった[26]

浅子は佐吉没後、夫の偉大さを伝えることに心血を注いだ。現在、各所に残る佐吉の胸像レリーフの多くが、浅子の手づくりである[27]。また、浅子は佐吉の事績をまとめた「豊田佐吉傳」を與良松三郎の協力を得て、社内の田中忠治に執筆させて出版をした。

関係者[編集]

石川藤八[編集]

生家を用いた豊田佐吉記念館(静岡県湖西市)

愛知県 知多郡乙川村の石川藤八家は代々続く庄屋であった。藤八家は年貢米だけではなく、海産物や綿織物も扱っていた。7代目石川藤八数え年15歳で藤八家に養子に入り、直ちに家督を継いだ。同時に石川藤八を名乗ったが、本名の松本市松は終生変えなかった。佐吉が乙川村の藤八家を訪れたのはこの7代目が当主であった1895年(明治28年)であった[28]

佐吉と藤八の最初の出会いは、知多郡岡田村であった。1889年(明治22年)春、佐吉は先進の織機と竹内虎王の技術を知ろうと岡田までやって来た。佐吉は大工見習いとして、地元の大工の元締めである岡田屋に住み込んだ。岡田屋から派遣されたのが、買継問屋とともに織布工場を営む中島七右衛門家であった。彼の真の目的は技術を盗むことであった。この時代、技術を真似して盗むことは決して悪いことではなかったのである。一方、藤八は出機織布によって織られた布を岡田の買継問屋竹之内源助家まで納めに来ていた。2人の出会いを証明する確かな資料は見つかっていないが、可能性は大きいと言える[29][30]

また、藤八は佐吉が発明した糸繰返機のお得意様でもあった。藤八が商用で名古屋宝町の豊田商店を訪れることもあった。藤八は佐吉だけではなく、従業員の利喜松とも顔なじみであった。

佐吉は気風の良い藤八を、頼りがいのある旦那さんだと見込んだ。一方、藤八は佐吉の熱意を気に入った。藤八は屋敷の2階の6畳間に佐吉を居候させ、研究の援助をした。佐吉はすでに力織機の設計は完成させていた。だが、力織機の試作、動力の購入、そして試運転をするための資金がなかった。

藤八邸と試験工場は少し離れていた。昼夜を問わず佐吉は、研究室として使っていた佐吉の部屋と試験工場を日に何度も往復した。佐吉は、藤八家の家族や使用人のいる部屋を通らなければならなかった。そこで、藤八は2階の佐吉の部屋へ、玄関横から直接行くことができる専用階段を作った。藤八は佐吉が家族や使用人に遠慮することなく、昼夜出入りできるようにと配慮したのである[31]

藤八は力織機の発明が完成するための資金と土地、建物を提供した。豊田式木鉄混製力織機は1896年(明治29年)11月15日に完成した。この木鉄混製の力織機を使った工場をつく ることになった。翌1897年(明治30年)秋、藤八の全面的な援助の元、資本金6,000円、織機60台分2,400円を投じて、佐吉と共同で乙川綿布合資会社が設立された[32]

この工場から、その翌年の春、綿布が出荷された。乙川綿布で織られた製品を検査した三井物産東京本社の検査係はその優秀さを認めた。この時から、豊田と三井が強く結びついた。三井は豊田をパートナーとして支援し、補完する関係が始まった[33]

藤八はこの後も、佐吉を側面から援助し続けた。佐吉と藤八の2人の友情は深まり、やがて義兄弟の契りを結ぶ。そしてもう一人、佐吉に惚れ込み支援し続ける人物が現れた。後に興和紡績となる服部商店の服部兼三郎である。この3人の仲の良さを称して、立派な床の間に並んで飾られる三幅の掛軸のように「三幅対の仲」と譬えられた。名古屋の料亭「花月」で毎晩のように飲み明かす3人の姿があったという話が伝わっている[34]

佐吉は藤八が亡くなった後もその恩を忘れず、藤八家との親交は続いた。佐吉夫婦は藤八の法要には必ず出席をした。その際には、乗って来た人力車一丁ほど前で降りて、歩いて藤八邸の門まで来たと言い伝えられている[35]

服部兼三郎[編集]

服部兼三郎は服部兼三郎商店(現興和)を創業し、佐吉の織機を大量購入し、また融資も行った。その後1920年の戦後恐慌の折に自殺した[36][37]

藤野亀之助[編集]

藤野亀之助は、佐吉の才能を高く評価し、融資などの支援を行った。また資金面を強化するため、事業の株式会社化を提案した。これを受け、谷口房蔵田中市太郎志方勢七山辺丈夫藤本清兵衛岡谷惣助伊藤伝七斎藤恒らが発起人となり1906年に豊田式織機が設立された[38][39][40]。その後も支援を続け、1918年の豊田紡織設立時には、保有比率30%弱の大株主となった[41]

西川秋次[編集]

トヨタ(豊田)は大番頭というべき優秀な人物を多く輩出した。岡本藤次郎石田退三神谷正太郎そして奥田碩らである。だが、彼らより以前に佐吉を支え、佐吉の夢の実現に努力した大番頭と呼ぶにふさわしい人物がいた。それが西川秋次である。西川は1881年(明治14年)12月2日、愛知県渥美郡二川町三ツ家で西川重吉の二男として生まれた。浅子とは縁戚であった[42]

秋次は師範学校卒業後2年間、奉公の教師生活を務めた。その後、佐吉の要望で蔵前にあった東京工業学校(現 東京工業大学)紡織科へ入学した。卒業後、佐吉に仕えた。だが、その直後から佐吉におとずれた大きなに試練に、秋次も一緒に巻き込まれた。佐吉は豊田式織機株式会社(現 豊和工業)の常務取締役を、事実上解任された。失意の中、佐吉はアメリカで永住する意思を持って渡米することになった。この渡米に唯一同行したのが秋次であった[43]

佐吉はアメリカ滞在中、アメリカの織機より自分のつくった織機の方が優れていると確信した。また、ニューヨーク高峰譲吉博士に会い、アドバイスを貰うとより自信を深めた。彼は翻意し、帰国することにした。佐吉は帰路ヨーロッパを回り、8ヶ月程の外国滞在で下関へ船で帰ってきた。しかし、秋次はアメリカに残った。佐吉に特許や織機そして経済環境を調査するように言われ、2年5ヶ月にも及ぶアメリカ滞在となった。

秋次が帰国するや、佐吉と藤八で結婚話を決めた。相手は藤八の隣家、石川又四郎の娘・田津であった。秋次と田津の新婚生活は、佐吉の家族と同じ工場の中であった[44]。佐吉は田津を呼ぶ時、親しみを込めて「おたつさ」と呼んだ。その後、佐吉と秋次の活躍の舞台は上海へと移って行く。

秋次は国内での仕事が中心である佐吉に代わり、上海の豊田紡織廠での実質的な経営者として佐吉を支え続けた。1930年(昭和5年)に佐吉が亡くなった後は、佐吉の夢の実現を成功させようと、ひたすら頑張った。秋次は喜一郎が自動車製造に乗り出した時、「喜一郎さん、上海から出来る限りの支援をします」と言ったと伝えられている。彼は大大将・佐吉の夢、息子・喜一郎の夢を支え続けた[45]

佐吉と上海[編集]

1918年(大正7年)に佐吉は上海へ渡った。海外への進出は彼の長年の夢であった。すでに上海紡績内外綿という大手の会社は上海で工場を操業させていた。しかし、社内からは強い反対があった。この年の1月に豊田紡織を株式会社に改組したばかりで、海外へ力を注ぐことを心配したのである。だが、佐吉は三井物産の支援もあり、進出を決断した。この時進出を渋る親族を説得する際に「障子を開けてみよ、外は広いぞ」と語った。翌1919年(大正8年)には秋次を伴い再び中国に渡航し、上海に滞在した。三井物産の古市勉の尽力もあり、上海での工場建設にこぎ着けた[46]

1921年(大正10年)には豊田紡織廠として本格的に稼動を始めた。ようやく日本から進出した企業群、在華紡の一員となった。佐吉は中国での私邸として、ドイツ人の住宅を購入した。個人の家というより、城のような威容を誇る大邸宅であった。それは従業員を住まわせるという目的もあったが、立派な企業の社長であることを示す必要もあったからでもある。

しかし、順調な豊田紡織廠の操業に反し、上海では1924年(大正13年)に入ると反日運動や日貨排斥運動が激しくなった。一部、暴動にまで発展する工場も出てきた。ストライキを主導するグループと警察の間で衝突が起こり、死傷者も出た。在華紡最大の内外綿をはじめ、ほとんどの工場が休業に追い込まれた。唯一正常な操業を続けていた豊田紡織廠にも暴動が起こり、1名の死者と多数の負傷者を出した。この時、日本国内で軽い中風発作で静養していた佐吉は周囲の反対を押し切り、上海へ駆けつけた。

佐吉は1930年(昭和5年)に亡くなるが、中国での事業はその後も、利三郎、喜一郎の手により発展し、豊田紡織廠の第2工場、青島工場の建設をして増産を行った。また、国内で生産するようになった自動車の販売のために華中豊田自動車を設立した。海外への進出という佐吉の夢は、後継者によって着実に受け継がれた[47]

佐吉は「日本人もまた中国人の心持ちの真相を理解することじゃ、その相互の理解が一致して提携となり、親善となり、唇歯輔車の関係が此処に出来上がるのじゃ」と述べたとされ、文化財に指定されている上海豊田紡織廠記念館は日中友好のシンボルとなってる[48]

思想[編集]

豊田佐吉の墓(覚王山日泰寺

二宮尊徳が実践したことを、継承者が広めたものが報徳思想である。報徳思想は明治期になり、報徳社が各地に組織されて大きく広まった。特に静岡県では岡田良一郎により、報徳社が県下に多く開設された。

佐吉が生まれた湖西地区や湖北地区おいても、石原貞藏袴田孫兵衛という有力者によって報徳社がつくられた。報徳思想では、至誠・勤労・分度・推譲を行うことが重要とされた。これは経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説く考え方であった。豊田家においても父の伊吉は熱心に報徳思想を信じて実践した。佐吉自身も自らの規範として報徳思想を行動の原点としていた[49]。 佐吉がもうひとつの心の拠り所としたのが日蓮宗である。代々の豊田家の菩提寺は日蓮宗日什門流八別格本山のひとつである妙立寺であった。そのため、小さい頃から日蓮宗は身近な存在であった。妙立寺には父の伊吉が寄附したことを記した大きな寄進板が掲げられている。日蓮宗の持っている現世救済の精神、あるいは国家主義的な教えを佐吉は常に心の中に持っていたと考えられる。

豊田利三郎豊田喜一郎らが佐吉の遺訓としてまとめ、没後6年目の命日に発表されたのが「豊田綱領」である[50]

豊田綱領
一 上下一致、至誠業務ニ服シ産業報國ノ實ヲ擧グベシ
一 研究ト創造ニ心ヲ致シ常ニ時流ニ先ンズベシ
一 華美ヲ戒メ質實剛健タルベシ
一 温情友愛ノ精神ヲ發揮シ家庭的美風ヲ作興スベシ
一 神佛ヲ尊崇シ報恩感謝ノ生活ヲ爲スベシ

1992年に「豊田綱領」に替わって「トヨタ基本理念」が発表された。これは現代に合った言葉に改められたものであるが、「豊田綱領」の精神を受け継いだものである。

家族・親族[編集]

家族[編集]

  • 豊田伊吉 - 佐原佐平の次男、佐原姓を豊田姓に変えた。農業。腕の良い大工。
  • 母 豊田ゑい - 白須賀宿出身、森次太郎の長女。
  • 先妻 豊田たみ - 佐原豊作の三女。喜一郎を置いて豊田家を去る。後、土屋氏と結婚・離婚。
  • 後妻 豊田浅子 - 林政吉の娘。本名あさ。愛子の母。佐吉没後、佐吉の胸像を制作。
  • 長男 豊田喜一郎 - トヨタ自動車創業者、トヨタ自動車工業第2代社長。
  • 長男妻 豊田二十子はたこ - 京都髙島屋4代目飯田新七の三女。
  • 長女 豊田愛子 - 兄・喜一郎と夫・利三郎の間をうまく調整する。
  • 娘婿 豊田利三郎 - 児玉一造(東洋棉花=後のトーメン会長)の弟。トヨタ自動車工業初代社長。
  • 豊田章一郎 - 喜一郎の長男、佐吉の孫。元トヨタ自動車社長、元日本経済団体連合会会長。
  • 孫妻 豊田博子 - 章一郎の妻。三井財閥伊皿子家三井高長の三女。
  • 豊田達郎 - 喜一郎の二男、佐吉の孫。元トヨタ自動車社長。
  • 孫妻 豊田絢子 - 達郎の妻。清水組(現 清水建設)社長清水康雄の娘。
  • 曽孫 豊田章男 - 章一郎の長男、佐吉の曽孫。現トヨタ自動車社長。
  • 曽孫妻 豊田裕子 - 章男の妻。元三井物産副社長田淵守の娘。

親族[編集]

  • 弟 豊田平吉 - 初期の糸繰返機販売時から兄の佐吉を補佐、家族、従業員のまとめ役。
  • 豊田佐助 - 豊田発展において経営の才を生かす。旧豊田佐助邸は名古屋市主税町に現存。長男にアイシン精機(現:アイシン)社長などを務めた豊田稔[51]
  • 豊田英二 - 喜一郎の下で活躍、工販合併に尽力。日本自動車工業会会長。
  • 甥妻 豊田寿子 - 英二の妻。鈴木商店取締役の高橋半助の娘。
  • 姪夫 伊奈輝三 - INAX中興の祖。元日本セラミックス協会会長[52]

閨閥[編集]

豊田家は皇室や有力政治家と結びつくような閨閥づくりはしてこなかった。佐吉は兄弟、子供たちの結婚はすべて妻の浅子にまかせていた[53]。そのため、初めの頃は佐吉と浅子の故郷の湖西地区から結婚相手が選ばれることが多かった。次第に会社が大きくなるにしたがい、企業同士の付き合いの中から決まることが多くなった。

佐吉の長女・愛子の夫の利三郎は、伊藤忠商事マニラ支店に勤めていたエリートサラリーマンであった。兄児玉一造と佐吉の個人的な親交から結婚話が決まった。当初、利三郎は乗り気でなかったが、愛子と見合いした際にその美貌に魅せられて成立したといわれる[54]

佐吉の長男・喜一郎の妻は、京都髙島屋4代目飯田新七の三女・二十子はたこである。この縁談をまとめたのも、自ら見合いが趣味と言う児玉一造である。両家とも企業家として発展途上にあり、縁談話としては釣り合っていた。ちなみに、二十子という名前は20世紀に入った1901年1月に生まれたので、父の新七が新しい時代にちなみ名付けた[55]

佐吉の孫・章一郎の妻の博子は三井財閥三井十一家のひとつ、伊皿子家の三井高長の三女である。財閥と結び付くというより、トヨタと三井物産三井銀行との強い関係から考えられた婚姻と思われる。もう一人の佐吉の孫・達郎の妻の絢子は清水組(現 清水建設)社長の清水康雄の娘である。現社長、章男の妻の裕子の父は元三井物産副社長の田淵守である。

その他、豊田英二の妻・寿子や佐助の子供たちも鈴木商店安藤証券INAXという企業間の付き合いの中で決まった結婚が目立つ。トヨタの社風と同じく、あまり目立った派手な閨閥づくりは避けているようである[56]

叙勲・栄誉[編集]

  • 1912年(明治45年)5月18日 - 藍綬褒章受章[57]
  • 1913年(大正2年)11月 - 陸軍特別大演習において大正天皇御駐輩所名古屋離宮に御召出し
  • 1924年(大正13年)2月 - 藍綬褒章(飾版)受章
  • 1926年(大正15年) - 帝国発明協会恩賜記念賞受賞
  • 1927年(昭和2年)11月 - 陸軍特別大演習において昭和天皇に名古屋離宮にて単独拝謁
  • 1927年(昭和2年)11月12日 - 勲三等瑞宝章受章
  • 1930年(昭和5年)11月4日 - 従五位

系譜[編集]

豊田家
伊奈初之丞
 
伊奈長三郎
 
伊奈輝三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田佐助
 
節子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高橋半助
 
寿子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田幹司郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田英二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田鐵郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今井真三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田周平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田平吉
 
 
百子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なを
 
 
後藤正
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
静子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田芳年
 
豊田晋
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今井善衛
 
今井善一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山下亀三郎
 
山下太郎
 
 
節子
 
真理
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
恒子
 
愉倫子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北村七郎
 
 
北村初雄
 
河本敏夫
 
河本三郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田伊吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
児玉桂三
 
 
 
豊田幸吉郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゑい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
児玉貞次郎
 
 
児玉一造
 
 
 
豊田大吉郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田利三郎
 
 
 
豊田信吉郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浅子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
愛子
 
 
 
豊田禎吉郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田佐吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清水満昭
 
紋子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
清水康雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田大輝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
絢子
 
 
豊田達也
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田喜一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田達郎
 
 
由美子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉藤了英
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
たみ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉藤滋与史
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
二十子
 
 
 
 
 
 
 
 
古川康中
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飯田新七
 
 
 
 
 
 
 
 
和可子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飯田新太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
啓子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西田赫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
紀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
百合子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藤本進
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田章一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井高寛
 
三井高長
 
 
 
 
 
 
 
厚子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
博子
 
 
 
 
 
 
真由
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
興子
 
 
 
 
 
 
 
豊田章男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井高棟
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田大輔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三井高公
 
 
 
田淵守
 
裕子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田淵実
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注[編集]

  1. ^ 豊田佐吉 トヨタ産業技術記念館
  2. ^ 田中忠治 1933, p. 71.
  3. ^ 楫西光速 1962, p. 9.
  4. ^ 小栗照夫 2006, pp. 17–18.
  5. ^ 静岡県湖西市教育委員会 1990, pp. 89–90.
  6. ^ 毎日新聞社 1971, p. 10.
  7. ^ 社史編集委員会 1967, p. 21.
  8. ^ 静岡県湖西市教育委員会 1990, pp. 8–18.
  9. ^ はんだ郷土史研究会 2011, pp. 62–63.
  10. ^ 社史編集委員会 1967, pp. 79–84.
  11. ^ 和田一夫 & 由井常彦 2002, pp. 226–229.
  12. ^ 田中忠治 1933, pp. 66–67.
  13. ^ 田中忠治 1933, pp. 83–85.
  14. ^ 稲沢市郷土歴史文化研究会 2007.
  15. ^ a b c 楫西光速 1962, p. 29.
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 楫西光速 1962, p. 30.
  17. ^ 社史編集委員会 1967, pp. 8–9.
  18. ^ 與良松三郎 1931, p. 61-74.
  19. ^ 石井正 2008, pp. 49–78.
  20. ^ 伊東実成 1972, pp. 105–110.
  21. ^ 和田一夫 & 由井常彦 2002, pp. 27, 39–41.
  22. ^ 和田一夫 & 由井常彦 2002, pp. 280–282.
  23. ^ はんだ郷土史研究会 2010, pp. 56–68.
  24. ^ はんだ郷土史研究会 2010, pp. 69–79.
  25. ^ 小栗照夫 2006, pp. 158–164.
  26. ^ 毎日新聞社 1971, pp. 44–45.
  27. ^ 毎日新聞社 1971, pp. 76–78.
  28. ^ 小栗照夫 2006, pp. 55–61.
  29. ^ 「豊田佐吉と知多郡岡田」その1”. 郷土史の納屋. はんだ郷土史研究会. 2013年8月18日閲覧。
  30. ^ 「豊田佐吉と知多郡岡田」その2”. 郷土史の納屋. はんだ郷土史研究会. 2013年8月18日閲覧。
  31. ^ 豊田佐吉の階段”. はんだ郷土史研究会. 2012年4月5日閲覧。
  32. ^ 小栗照夫 2006, pp. 87–93.
  33. ^ 田中忠治 1933, pp. 98–99.
  34. ^ 興和紡績株式会社 & 興和株式会社 1994, pp. 5–6.
  35. ^ はんだ郷土史研究会 2011, pp. 70–72.
  36. ^ 鍋島高明. “糸成り金の最後、服部兼三郎氏”. 日本経済新 聞電子版. https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25977130S8A120C1000000/ 2019年11月13日閲覧。 (Paid subscription required要購読契約)
  37. ^ 興和紡績株式会社 & 興和株式会社 1994.
  38. ^ 温源知新 豊田佐吉生誕150周年記念」(pdf)『赤れんが便り』第76巻、トヨタ産業技術記念館、2017年6月、2019年11月13日閲覧 
  39. ^ 第1項 豊田式織機株式会社における挫折”. 文章で読む75年の歩み. トヨタ自動車. 2019年11月13日閲覧。
  40. ^ 木山実. “「世界のトヨタ」の源流をたどる研究” (pdf). 関西学院大学. 2020年3月25日閲覧。
  41. ^ 山崎広明. “豊田家紡織事業の経営史” (pdf). 2019年11月13日閲覧。
  42. ^ 西川田津 1964, pp. 4–6.
  43. ^ 宮地治夫 2003, pp. 102–120.
  44. ^ 毎日新聞社 1971, pp. 48–49.
  45. ^ 木本正次 2002, pp. 214–221.
  46. ^ 西川田津 1964, pp. 30–36.
  47. ^ 東和男 2009, pp. 78–128.
  48. ^ 佐吉が紡いだ日中友好 上海に世界のトヨタの礎」『中日新聞』、2017年11月24日。2017年11月24日閲覧。[リンク切れ]
  49. ^ 田中忠治 1933, pp. 1–6.
  50. ^ 社史編集委員会 1967, pp. 19–20.
  51. ^ トヨタ系幹部の豊田家御曹司、女子大生に内定と引き換えに肉体関係を強要…卑劣な手口」『ビジネス・ジャーナル』、2015年11月27日。2015年11月29日閲覧。
  52. ^ 『読売新聞』、2001年7月2日。
  53. ^ 水島愛一朗 2007, pp. 22–28.
  54. ^ 岡本藤次郎 & 石田退三 1958, pp. 3–6.
  55. ^ 和田一夫 & 由井常彦 2002, pp. 143–147.
  56. ^ 安保邦彦 2008, pp. 302–305.
  57. ^ 原田晃 1931, pp. 86–89.

参考文献[編集]

  • 原田晃『豊田佐吉翁に聴く』1931年1月。 
  • 與良松三郎『発明物語豊田織機王』興風書院、1931年8月15日。 
  • 田中忠治『豊田佐吉傳』豊田佐吉翁正傳編纂所、1933年5月24日。 
  • 野崎誠一『創立三十年記念誌』豊田式織機株式会社、1936年11月6日。 
  • 池田宜政『発明物語織機王豊田佐吉』大日本雄辯會講談社、1939年7月14日。 
  • 岡本藤次郎『豊田紡織株式会社史』日新通商株式会社、1953年4月1日。 
  • 岡本藤次郎、石田退三『豊田利三郎氏伝記』豊田利三郎伝記編纂会、1958年6月13日。 
  • 楫西光速『豊田佐吉』吉川弘文館、1962年6月15日。 
  • 西川田津『西川秋次の思い出』1964年9月13日。 
  • 日下部山『子ども伝記物語39 豊田佐吉』ポプラ社 1965年4月30日。 
  • 社史編集委員会 編『四十年史』豊田自動織機製作所、1967年11月18日。 
  • 毎日新聞社 編『生きる豊田佐吉』毎日新聞社、1971年12月25日。 
  • 伊東実成『豊田家の神話』大成出版社、1972年1月25日。 
  • 豊田英二『決断 私の履歴書』日本経済新聞社、1985年9月12日。ISBN 4532093791 
  • 橋本紀彰、吉原勇『トヨタ三代の決断』ビジネス社、1986年5月1日。ISBN 4828402772 
  • 邦光史郎『小説トヨタ王国 天馬無限上下』集英社、1987年6月25日。ISBN 4087726088 
  • 静岡県湖西市教育委員会 編『湖西の生んだ偉人豊田佐吉』1990年10月30日。 
  • 佐藤義信『トヨタ経営の源流』日本経済新聞社、1994年10月31日。ISBN 4532161444 
  • 興和紡績株式会社、興和株式会社『興和百年史』1994年11月28日。 NCID BN11982207https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=1730&query=&class=&d=all 
  • 財団法人西秋奨学会 編『40年の軌跡』2000年9月。 
  • 和田一夫由井常彦『豊田喜一郎伝』名古屋大学大学出版会、2002年3月。ISBN 978-4815804305 
  • 木本正次『豊田喜一郎夜明けへの挑戦』学陽書房、2002年10月21日。ISBN 978-4313751606 
  • 野口均『トヨタを創った男 豊田喜一郎』ワック、2002年11月18日。ISBN 4898310435 
  • 神一行『閨閥 改訂新版特権階級の盛衰の系譜』角川書店角川文庫〉、2002年3月、246-260頁。ISBN 4043533063 
  • 宮地治夫『小説 西川秋次の生涯』財団法人西秋奨学会、2003年1月8日。 NCID BA62977257 
  • 読売新聞特別取材班『豊田市 トヨタ町一番地』新潮社、2003年4月20日。ISBN 4103390069 
  • 佐藤正明『ザ・ハウス・オブ・トヨタ : 自動車王豊田一族の百五十年』文藝春秋、2005年5月15日。ISBN 4163670408 
  • 小栗照夫『豊田佐吉とトヨタ源流の男たち』新葉館出版、2006年8月8日。ISBN 978-4860442927 
  • 水島愛一朗『豊田家と松下家』グラフ社、2007年3月5日。ISBN 9784766210422 
  • 稲沢市郷土歴史文化研究会『下津に来た佐吉の研究』2007年11月。 
  • 石井正『トヨタの遺伝子―佐吉と喜一郎のイノベーション』光陽メディア、2008年3月29日。ISBN 9784883204243 
  • 安保邦彦『中部の産業―構造変化と起業家たち』精文堂出版、2008年11月30日。ISBN 9784792406646 
  • 東和男『創成期の豊田と上海 : その知られざる歴史』時事通信社、2009年7月1日。ISBN 9784788706767 
  • はんだ郷土史研究会 編『知多半島郷土史往来』 2巻、2010年11月22日。 
  • はんだ郷土史研究会 編『知多半島郷土史往来』 3巻、2011年12月30日。 
  • 北見昌朗『愛知千年企業 明治時代編』中日新聞出版部、2013年7月19日。ISBN 9784806206545 
  • 木本正次(原作), 新藤兼人(脚本), 佐藤純彌(監督)『遥かなる走路』松竹、1980年10月25日。 

外部リンク[編集]

先代
設立
豊田紡織社長
1918年 - 1930年
次代
豊田佐助