【巨人の肩の上から #2】 -イエス、マイコーチ
「いちばん好きな漫画はなに?」と聞かれると返答に困ってしまうが、松本大洋の『ピンポン』はすくなくとも私がこれまででいちばん多く読み返した漫画だ。卓球を題材としたいわゆるスポーツ青春漫画だが、努力と才能、挫折、友情といった複雑に絡まり合うさまざまなテーマを、どこか神秘的に描いているところに、松本大洋ならではの文学的な要素を感じる作品である。
『ピンポン』の物語はおもに、卓球に打ち込む5人の高校生を中心に展開する。特に主人公となるのが、自信家で努力嫌いなペコ(星野裕)と、ペコの幼馴染で「笑わない」少年スマイル(月本誠)のふたりだ。スマイルは実は卓球の超・天才なのだが、勝利への執着がなく(「卓球も所詮死ぬまでの暇つぶし」とか言ってるタイプ)、友人であり憧れの存在でもあるペコと打つときはわざと手を抜いて負けていた。色々あって、ペコがそのことに気づいてしまい、挫折して、そこから再起して、再び二人はインター杯地区予選の決勝で再会する…というのがこの物語の展開。
さて、『ピンポン』の主要な登場人物として、中心となる5人の高校生の他に欠かせないのがオババ(田村 名前は不明)とバタフライジョー(小泉丈)という二人の「老人」である。若者たちの苦悩や葛藤の影で、実はこの作品のもう一つのテーマとして、「$${老人^2/少年^2}$$」(1巻のある章のタイトル)とでも呼ぶべき人間模様が表現されている。
オババは、駅前で古びた卓球道場を経営している人物で、幼少期からスマイルとペコを指導していたため二人の性格や才能を熟知している。物語では、ペコが挫折した後、彼の再起を支え、特訓に付き合ったペコの「コーチ」としての役割を果たす人物である。一方小泉は、ペコとスマイルが通う(ペコはおそらく不登校気味なのだが…)高校の英語教師で卓球部の顧問、そして実はかつてその華麗なプレーから「バタフライジョー」と称され日本代表の一歩手前まで活躍していた卓球選手だったという経歴を持つ人物である。スマイルが隠している才能に惚れ、物語では彼の「コーチ」として活躍するが、同時に、複雑かつ繊細で、自分の殻に籠りがちな彼との接し方に悩む様子も描かれる。
ある日、卓球の超名門校である海王学園がスマイルにスカウトをしにくる。小泉は老いた自分が一人で指導をするよりも海王のような優れた環境で練習をした方がスマイルにとって良いだろうとオファーを受け入れるが、スマイル本人はそのことに傷ついてしまう。そしてその後日の練習で、スマイルはランニングの際に小泉から走って逃げてしまう(スマイルが逃げた理由は他にも卓球部内での彼の孤立などさまざまに考察できるだろうが、メインの理由はこれだと思われる)。
小泉はスマイルがどこに行ったのか心当たりはないかと尋ねにオババの元へ行く(※オババと小泉も旧友)のだが、その時のオババと小泉との会話は、「指導する」ということの本質を表現しているように感じられる。
難しい性格のスマイルとの接し方に悩み、試行錯誤しながら色々と気を遣ってきたと言う小泉に対して、オババは「そんなことだから逃げられる」と一蹴。卓球の指導者として彼の才能に惚れたのならば、「下(しも)の世話をさせるぐらいの覚悟」がなければ彼からは手を引くべきだと説得する。
このセリフは、スマイルのような繊細な子どもは過剰に気を使われることにもストレスを感じてしまう、というアドバイスであるとも取れるし、より普遍的かつ本質的な、指導者としての心持ちを小泉に対して伝授したとも取れる。『ピンポン』も古い部類の漫画ではあると思うので、今時このような「指導者」像を突き詰めるとパワハラ問題に繋がってくるような(実際にコーチがスポーツ選手に「下の世話」を強要したら間違いなくパワハラ問題としてニュース沙汰になりそうな…)気もするが、「ただ技術を教えるだけではない。気を遣い合わなくてもよいほどの信頼関係を築いてこその選手とコーチだ」という考え方それ自体は問題ない、どこか美しいとさえ言える一つの理想を述べているように思える。
その前後の人間模様の描き方、キャラクターの個性、物語の中で果たす場面の役割なども含めて、コーチと選手の間の信頼関係というテーマの描き方として、私の知る中で最も秀逸な場面である。是非読んでほしい作品なのであまり核心的な内容には触れられないが、その後の小泉とスマイルの関係性の変化と、その変化の中でスマイルの性格が少しずつ変化していく様子、そして二人の関係の行く先が描かれるラストと、胸が熱くなる展開が続いていくということだけは述べておこう。
若い高校生たちが卓球を通じて繰り広げる青春という主題からはややそれるかもしれないが、老人二人と少年二人のそれぞれの関係性という視点からこの作品を読むことでも、多くのトリックに気付かされる。『ピンポン』という作品の深みが、ここにも現れているように感じられる。
2022/03/22
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