泣きながら、撤退同盟

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臓器移植反対!は総意?(1

2009-08-23 | クリスチャンらしい話です
難しい話だけど、大事な話。


asahi.com(朝日新聞社):日本宗教連盟、臓器移植法改正に反発 現行法を支持

 臓器移植法の改正論議をめぐり、日本宗教連盟(岡野聖法理事長)は8日、参院議員会館で開かれた勉強会で、「臓器移植の場合にのみ脳死を人の死と規定すべきだ」として、現行法を支持する姿勢を表明した。

 衆院で可決されたA案について、「脳死を人の死」を前提にしている点や、本人意思がなくても臓器を摘出できると規定している点に強く反発している。「議論の進め方が性急過ぎる」として、第2次脳死臨調を設置して議論を深めるよう求めた。

 浄土宗、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、天台宗、日蓮宗、立正佼成会、大本、日本キリスト教協議会の代表者らが出席した。脳死を人の死とすることに対し、「社会的な合意が得られていない」という点で一致している。小児の脳死については、厳格な判定基準の導入や、虐待された子を対象としないためのシステムづくりを求めた。



先般国会を揺るがした、あの法案についての話なのですが、
はっきり言ってわたくしめは「脳死は人の死」と認めても良いと思っていますが、
↑上の記事の通り反対意見があるのも承知しています。

この中で、仏教や新宗教の団体と一緒になってNCC(日本キリスト教協議会)も反対意見を述べています。
しかし、そのことはわたくしめにとっては、まあ、アソコの団体にとっては、政治問題に首を突っ込むことは、年中行事だから。。。。という思いでしかないので、
事を荒立てず、何も言わず、静観していたのですが
ここに来て、ゆゆしき問題になっているなあ~と思ったので、
ちょっと堅い話ですが、付き合って下さいな。



NCCは長年「2.11行動」など、政治的運動も積極的に関与してきた団体なので、
まあ、こういう話題にも首を突っ込んでくるところなんぞ、さもありなん、と言う感じなのですが、
そうではなく、政治的にはリベラルであった福音派教会からのメッセージがあったというのは、
自らが所属しているだけあって静観できなくなったので、
ココに記すことにしました。


きっかけは、ココ。
命と性の日記~日々是命、日々是性 | クリスチャン新聞最新号に臓器法改正特集

 聖書信仰というのは、現実の社会事象を聖書を最優先の基準として考察し判断することでしょう。こう考える時、どうしても、脳死や脳死臓器移植については、消極的否定的にならざるを得ません。「では、キリスト教文化に立つ欧米ではなぜ、脳死が死とされ、移植が多いのか?」と疑問に思うでしょう。以前、大和昌平先生の見解をブログで紹介しましたが、そうした判断は、「非聖書的思想」に由来するようです。それは、霊肉二元論のギリシャ思想やデカルト以来の機械的人間観によるものです。ですから「欧米では脳死は死、脳死体からの移植を申し出るのは愛の行為」→「それは聖書的、あるいはキリスト教的思想によるものであり、クリスチャンは賛同すべき」という判断は、過ちであると私自身は判断しております。

 こうした生死観が法律的根拠を与えられてしまうと、「いのちとは脳」「人格は脳」「人間とは脳」という「唯脳論的生命観」(聖書に著しく反する)が宗教心を失った日本社会には、深く浸透するのではないかと危惧をしています。



ならば、臓器移植を推進する立場のクリスチャンとして
少々述べさせて頂きたい点がいくつか。

(2)「誰が一番弱い立場か?」という発想での判断。その場合の弱者とは移植を受けられず死に至るいのちだけではなく、脳が機能しないという理由で死体とみなされるいのちもまた、最弱者であるとの見解です。
 キリストが弱者の側に立ち、宣教し、生きられたことを思う時、こうした発想は大変聖書的だと思います。脳死移植があれば、生きる可能性のあるいのちと不可逆的に死に向いながら回復の可能性がゼロに極めて近いいのちとのどちらが「弱者」でしょうか?

 当事者を除外した倫理的判断には、聖書的な正論であっても、なお限界や欠けがあるかもしれません。しかし、この場合の当事者とは、脳死臓器移植を願う患者と家族たちだけではなく、脳死状態にある方とその家族でもあるのです。自分を両面の当事者に置いて考えることが大切でしょう。こうしたことを思いながら、いよいよ深く多面的な視点から本件を考えさせられました。


この著者は、臓器移植を待つ家族を、「ハゲタカ」かなにかと勘違いしてはいませんでしょうか?


このブログでは何回か、いわゆる「死ぬ死ぬ詐欺」について特集させて頂きました。
一時期流行った、例の「○○ちゃんを救う会」というものです。

薬物療法では手に負えない、臓器移植しか手が残されていない子供達に対して、親や周囲の方が「○○ちゃんを救う会」という組織を作り、億単位の寄付金を集めている組織のことです。
なぜ億単位のお金がいるかと言えば、日本国内で未成年の臓器移植が法律上許されないので、米国に渡るしかなく、
その病弱な子供を看護しながら海外に滞在する費用と、保険がきかないので多くの手術費用が掛かることが主な理由です。

ただ、その献金集めの方法には不透明な点も多くあり、その事を突いて「死ぬ死ぬ詐欺」とも揶揄されたのです。
事実、その中のひとつは、確実に救うべき子供がいない、「架空請求詐欺」でありました。
また、いくら必要だからって、そんなに簡単に億単位の金が集まるというのもおかしい気がして、そのことを何回かこのブログでは追求してきました。


ですが、
ほんとうに億単位のお金が必要だとすると、
・貧乏人には無理
・金集めが上手い人しか無理
な手術(措置)である、といえるでしょう。ですが、これがもし国内で手術を行うことが出来るのであれば、

・国内の手術なので、保険である程度はカバーしてくれる
・滞在費だって、そんなに掛からないかもしれない。ひょっとしたら夫が離職する必要もないかもしれない

わけですが、
なにより、「人身売買」と揶揄されることも多い臓器移植、これからは海外での手術は、不可能に近い形になると思われます。
15歳未満認める「A案」衆院で可決…臓器移植改正案 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 現行の臓器移植法は1997年6月に成立した。施行後3年の見直し規定があり、臓器提供条件の緩和や15歳未満の臓器提供を認めるよう、患者団体や日本移植学会が法改正を求めてきた。2006年にA、B両案が与党の有志議員によって国会に提出された。C案は両案の対案として、野党の有志議員によって07年に提出されたが、長らくたなざらしの状態が続いていた。

 昨年5月、国際移植学会が自国外での臓器移植自粛を求めた「イスタンブール宣言」を採択し、世界保健機関(WHO)も臓器移植の自国内完結を促す指針を取りまとめる方向となった。このため、15歳未満の臓器提供が禁止されている日本の小児患者は臓器移植を受ける道が閉ざされる可能性が出てきたことから、にわかに同法の改正論議が活発化した。
(2009年6月18日13時25分 読売新聞)




昔、「モントリオールのジーザス」という映画があって、仲々キリスト教会を小馬鹿にした作品だったんだけど、
ラストが、亡くなった主人公の角膜や臓器が他人に移植され、移植された人の目が見えたり、色々快方に向かうことが、「キリストの奇跡の現代版」みたいな扱いをされていて、
そこまでやるかなあ~と言う映画だったのですが、

それはともかく、
今のこのshareすることが当たり前になりつつある現代にこそ、
本当に必要で困っている人に渡りようにするシステムを作り上げていくことがどれだけ大事か、
また、それは弱い物の立場を知っているキリスト者であるならば、率先してすべき事ではないのか、
と思ってならないのです。



大体、日本で一元的に臓器移植を管理している「(社)日本臓器移植ネットワーク 」の移植に関するデータ | 臓器提供数/移植数を見ても、
実際に行われている臓器提供件数は、近年でも100件前後であり、しかもそのほとんどが「心臓停止後」のからだからの提供であるのは、
一目瞭然です。
対象年齢が下がったからと言って、すぐに件数が飛躍的に伸びるかと言えば、それはあまりにもあり得ない話。


また、可決されたA案と呼ばれた法案

 A案は脳死が「人の死」であることを前提として、臓器提供の条件について、書面による生前の意思表示と家族の同意を必要としている現行制度を大幅に緩和した。本人意思が不明でも生前の拒否がない限り家族の同意で臓器提供できるよう改める。現行では臓器提供の意思表示ができる年齢を15歳以上としているが、本人意思が不明でも臓器提供が可能になることで年齢制限は撤廃され、乳幼児からの臓器提供が可能となる。また親族への臓器の優先提供についても本人の意思表示ができると定めている。

 国会に提出された四つの改正案のうち、最も臓器移植の機会を拡大する可能性があり、患者団体や日本移植学会などが支持していた。

 残る3案は、臓器提供可能年齢を現在の「15歳以上」から「12歳以上」に引き下げるB案、脳死の定義を厳格化するC案、15歳未満について家族の同意と第三者による審査を条件に可能とするD案だったが、最初に採決されたA案が過半数の支持を得たため、採決されないまま廃案となった。
(2009年6月18日13時25分 読売新聞)

逆に、どんなにその臓器が必要であっても、家族の同意がなければ提供されることは無いわけです。


そんなもん、家族を無理矢理説き伏せて、泣き喚く家族を蹴っ飛ばしてでも臓器提供させれば何の問題もあらへんやろ!!

と、ちょっと昔のヤクザ映画みたいなことを言う方もいるかもしれませんが、
臓器移植を出来る設備を持っている病院というのは限られているので、そんなに簡単に手術を行えないし、
第一、医療倫理が厳しい昨今こんな事をした日にゃあ、マスコミや周囲からの総袋叩きに遭う上、医師免許も剥奪されかねない事態に陥るわけで。


そこまでして、誰が割に合わないことをやるの?

まあ、この「医療崩壊」が進みきったこの日本でも、未だに「白い巨塔」の神話を信じていらっしゃる方も多いですし、「医者が勝手に進めた!!」と思い込みたい人は多いのでしょうね。



まあ、かく言うわたくしめ、
その「クリスチャン新聞8月23日号の8,9面」というのをまだ見ていないので、その紙面が

「生きることを願うのは当然」という感情論や「いのちがすくわれるのだからいいのでは?」という功利主義的な発想ではなく、聖書を根拠に、現実の当事者に自らを置きながら、深く多面的に考えて

いるのかどうか(特にどの聖書箇所がそれを示しているのか)ということが分からないので、

今回は臓器移植反対!はクリスチャンの総意ではない!と言うことを述べて、次回に繋ぎたいと思います。
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