泣きながら、撤退同盟

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臓器移植反対!は総意?(2

2010-08-13 | クリスチャンらしい話です
前回、続きを書くと言いつつ、ほったらかしておいた
「臓器移植問題」について書くブログその2であります。


ほったらかしておいた理由の一つが、
前回主題に置いていた「クリスチャン新聞8月23日号の8,9面」というのが
それほど注目に値するほどの内容でなかった、ということもあったのですが。


さて、件の改正臓器移植法が7月17日に施行され、それに伴う初めてのケースが発表されましたね。

・家族承諾のみで初の脳死、臓器提供へ


患者5人への移植終了=家族承諾の脳死臓器提供

 改正臓器移植法に基づき、家族の承諾で脳死と判定された20代男性の提供臓器を5人の患者に移植する手術が10日、国立循環器病研究センター(大阪府吹田市)など5カ所の病院で行われ、同日夜までにすべて終了した。いずれも経過は順調という。
 心臓は同センターで、心筋症の20代男性に移植する手術が同日朝から始まり、午後6時18分に終了。両肺は岡山大病院でびまん性汎細気管支炎の20代男性に移植された。両施設は手術終了後に記者会見し、ドナー(臓器提供者)と家族に感謝する患者の声を伝えた。
 肝臓は東京大医学部付属病院でC型ウイルス性肝硬変の60代女性に、片方の腎臓は群馬大医学部付属病院で低形成腎の10代男性に、もう一つの腎臓と膵臓(すいぞう)は、藤田保健衛生大病院(愛知県豊明市)で1型糖尿病の50代女性にそれぞれ移植された。(2010/08/10-23:59)




さて、脳死を人間の死と認めるかどうか。

心臓が動いているのに脳が動いていない状態でいることには、
どのような意義や思いがあるのか。


たとえば、この方のブログ
はるにゃ~ママ時々ナース 新生児重症仮死~眠ったままの天使~

私は、2007年10月1日。出産中の「早期胎盤剥離」により、
このブログの主人公である次男(はるにゃ~)を緊急帝王切開にて出産しました。
結果、35分間の心肺停止状態で蘇生され、おなかの中で元気だったわが子は、
自分で呼吸することもできず、眠り王子になりました。
6か月の入院生活を得て、完全呼吸器管理のなか、在宅を始めました。

はるにゃ~と過ごせた11か月。
それは、苦悩もありながら、それでも幸せな時間でした。


とあります。
読んで下されば分かりますが、その一般で言うところの「脳死状態」であった我が子と一生懸命だったお母さんとのブログであります。



では、「死」というのは、一体なんなのか?誰にとって大切な物なのか?


残念ながら、「死」を迎えない人は、この世には存在しない。全ての人がいずれ「死」と直面することとなる。

古今東西どんな場所に置いても「殺人」が最も重篤な犯罪だとされている。それはなぜか。
自分が殺されないためには、他人も殺してはいけない、という「相互保証」が為されなければ、安心しておちおち外を歩けない、ということに他ならない。

そして「死を迎える」=「その人を喪失する」と言うことは、
その人本人に関する履歴や経験が喪失されてしまう、というよりも、
その人に係わる社会(家族、近所、職場・学校など)が、今までその人と繋がることによって得てきた色々なものを一瞬にして喪失してしまう、
その意味の方が重要だったりします。

たとえば先ほどの方を例に取ると、お子さんは「脳死状態」ではありますが、心肺は動いており、
それよりなによりお母さんにとっては紛れもなく大事な子供であり、
代わりの無い存在であります。


「亡くなる」というのは、亡くなった本人がどう考えるか、ということよりも、
亡くなった方の周りの方がどう考えるかということの方が大事なのではないでしょうか?



たとえば、病院で死亡した時に、検視をさせて欲しいと要望されることがあります。しかし、ご遺族によっては、
「もう充分手術などで切り刻んだ体を、亡くなった後にまで切り刻むとか、そんな酷いことはしないで欲しい!」と熱望され、
検視を断る例も多々有るように聞きます。


お葬式も、そうでしょう。

亡くなった方を弔う為にするのが葬式、ということにはなっていますが、
本当の意味は、周囲の方、特にご家族のために執り行うのが「お葬式」本来の意味だと思います。


さて、さすれば今回の「改正臓器移植法」はどのような意味を持っているのか。


↑↑今回の移殖例のように、「家族の判断で」移植を行うことが出来るようになった、という点が
大きく異なった点だと思います。

ここで間違えないで欲しいのは、
「家族の判断で」移植を行うことが出来るようになった、ということです。
出来るようになったということは、拒絶することも出来る、ということです。
医師の判断よりも、残された家族の判断が優先されると言うことです。


残念ながら、「死」を迎えない人は、この世には存在しない。全ての人がいずれ「死」と直面することとなる。
だからこそ、メメント・モリ!
全ての人が、普段から死を意識して生活することが大切なわけです。


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話はちょっとずれます
前回も紹介したこのブログから。
命と性の日記~日々是命、日々是性 | 母体保護法と改正臓器移植法で日本のいのちは「頭と尻尾をもがれた鯛焼き」となるのか?

 「頭の先から尻尾の先まであんこの詰まった鯛焼き」、それは人気の鯛焼き屋となるための秘訣の一つ。頭も尻尾もその先の3cm以内にあんこが入っていなければ、購買意欲もなくなります。そんな鯛焼きを買ったとしたら、中には、頭の先と尻尾の先を捨ててしまうお客さんもいるでしょう。そんなことを書くのも、今、日本の社会は、「いのち」がそのように「頭と尻尾なき鯛焼き状態」にされているのではないか?と危惧するからです。


この方は前回も紹介しましたが、「脳死」を人の死とは認めない方です。
別にそういう方が存在しても構わない、と言うことは前回も書きましたが、
この方の言い分はかなり乱暴です。

 さらに今回、改正臓器移植法の施行によって、脳死が普遍的に「人の死」として規定する法律が実質的な力を持ったのです。私自身は脳死状態とは「死に到達する前の一歩手前の状態(つまり死んでいない)」だと考えています。脳死者とは「生のゴールに至る一歩手前におり、逆走することはまずありえない生けるランナー」として位置づけられるべきだと思います。

 そうした生命観に立つなら、脳死を人の死と見なし、脳死者の生存権放棄の同意を求めることは、生命の最後のひと時を奪うことになるのではないかと危惧をするのです。それも、また、鯛焼きの尻尾の先にあんこが入っていないからという理由で、尻尾の先をちぎって捨てるようなものでしょう。


「そうした生命観」に立たないわたくしめには、なにを言っているのかさっぱり分かりません


人の死をどこで定義づけるのか?
心臓が止まることが死なのか?
ならば人工心臓はありなのか、無しなのか?
カラダをロボット状態にして、人工的に半永久的に生きられるようになった場合、その死はどこにあるのか?
そうでなくても、「スパゲッティー」と揶揄される、病床でグルグル色々なものを巻かれて延命治療を行うことは、その人にとっては本当に生きていることなのか?


神が人に「息」を吹き込んだと言うのはどういう状態であったのか?
脳死を認めないというならば、神によって生かされているというのはどういう状態を定義すべきなのか?
臓器移植を待ち望む家族は、本当にハゲタカなのか?

そういうことを語らずにいたずらに不安を煽るこの姿勢、
誠に頂けませんね


ひょっとしたら、ホメオパシー信者なのかしら?
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2 コメント

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はじめまして (絆の会)
2010-12-16 14:43:26
腎移植や肝移植についてブログをリサーチしていたところ、貴サイトへたどり着きました。
臓器移植に関して様々なブログを読み歩いて勉強をしています。
助かる命がそこにあるのなら、少しでもお役に立ちたいと日々考えています。
こちらのサイトにありました意見や情報は色々参考になりました。
ありがとうございました。
コメント感謝です (umiusi45)
2010-12-16 17:33:29
移殖コーディネーターの方でしょうか?

ただ言っておきますが、当方この前の(1)の時に書いたとおり、
現状の民間臓器移植コーディネーターを全面的に信頼しているわけではありません。
いままで色々な部分を不透明にしてきたことは間違いがありませんから。

今回の法改正が、あくまでも「今まで無理だったのが、出来るようになった」という点にあるわけで、
そのことについては賛成していますし、
この「A案」と呼ばれていた現行法については賛成をしているところです。

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