インターネットは人々を切り離しているのかもしれない

投稿者: | 2011年9月4日

ネットエイジア、Facebook などの SNS は国際平和に貢献しているのか? – japan.internet.com
という記事が少し前に出ていて、まあそのアンケート結果を知らせている記事の内容そのものはそれほど面白いものじゃないのだけれど、記事のタイトルそのものにはちょっと考えこまされた。

もっと若かった頃、それはつまり今のように日本中の大部分が光の高速ネット回線で繋がってもおらず、そこら中に無線ネットワークが張り巡らされてもいなかった頃ということでもあるが、インターネットの普及で世界は、少なくとも今よりも、平和になるのではないかと密かに期待していた。
発想そのものは単純なだった。
多少の好き嫌いはあるにせよ、毎朝顔をあわせて挨拶する隣近所の人間達に対して、普通は「民族対立」とか「敵」とかいうある意味抽象的な意識で戦争という虐殺を仕掛けるのはけっこう難しいだろう。隣の誰かさんが、自分もよく行く近所のスーパーで買い物していて、帰り道偶然一緒になったので「ほんとに暑いですね」程度によせ話をして、一緒にマンションのエレベーターを待ったりする、そういう人々をマシンガンでなぎ倒したり、砲弾を撃ち込んだりするのは、かなり心理的障壁が高いだろう。
だから、今までは見知らぬ遠くの国の全く付き合いのない人だったとしても、インターネットを通じてちょくちょく挨拶したり、同じ趣味の話をしたりしていれば、いわゆる戦争もいくらかは起こりにくくなるんじゃないか。
そんな風に、素朴に思っていた。

でも多分、そうはならなかったんだな。
そしてSNSが出てきたことによって、「そうはならなかった」ではなく、もっと事態は悪化したのかもしれないと思うようになった。
TwitterにせよFacebookにせよ、多少の仕組みの違いはあっても、結局は自分が好きだったり、自分の得になると思ったりする人々とネットワークを自分で作るわけだ。
裏を返すと、自分が少しでも嫌だなと感じる人はネットワークに入れなくていいし、入れてしまった後でもいくらでも排除出来る。ちょっとでもストレスを感じる人とは(少なくともネット上では)一切付き合わなくていいし、自分が目にしたくないニュースや知識を流すようなアカウントはどんどん削除すればいいわけだ。
ネガティブにとらえ過ぎかもしれないけれど 、SNSという素敵なしくみが発達したおかげで人々は自主的に「世間を狭くする」ことがある程度可能になったわけだ。

選択の自由は確かに非常に貴重なものだし、それを私だって今更手放したくはない。
しかし、昔は紙の新聞というお仕着せを読まざるを得ないために、自分では進んで知りたいと思わなかったことも、もっと言えば、出来るだけ目を背けていたかったことも、ある程度は強制的に知らされ、強制的に「世間が広く」なっていた。
今はネットで、こま切れのニュースの中から、自分が知りたいものをだけを見ればいい。自分が知りたいもの、興味あるものを「もっと沢山見たい・知りたい」というふうにとらえればもちろんこんないいことはないが、人間の一日は決まった長さしか無いから、それは同時に自分が知りたくないもの、興味を持たないものを「出来るだけ見ないように排除する」ことでもあるわけだ。
そこにさらにSNS的な「効率的な排除システム」が発達してきたので、事態はさらに進み始めた。
その行き着く先には、ネットワークのインフラはものすごく整備され、それを利用するための仕組みはこの上なく発達したのだけれど、みんな自分が安心できる少数の人々と「村」に閉じこもって暮らすだけ、という状態が実際に出来始めているんじゃないかと、そんなことを苦々しい気持ちで思っている。
残念ながらSNSは国際平和に貢献していなくて、ひょっとすると実際にはむしろ人々を切り離しているのかもしれないと、とても危惧している。